スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

規範&集団的ニーチェ主義

2022-06-21 19:16:56 | 哲学
 『人間における自由Man for Himself』でのフロムErich Seligmann Frommのスピノザに対する言及について,フロムが働きと目標というとき,それをスピノザの哲学における徳virtusと置き換えて構わないと僕が解するのは,フロム自身がその直後でスピノザの哲学における徳の概念notioに言及しているからです。そこでフロムは,スピノザが到達した徳の概念は,一般的な規範を人間に対して適用したものであるといっています。
                                        
 スピノザの哲学における徳の基礎は,現実的本性actualis essentiaにあるのでした。現実的本性とは第三部定理七により,各々の事物のコナトゥスConatusを意味します。この定理Propositioは現実的に存在する人間にだけ適用される定理であるわけではなく,現実的に存在するすべての事物に適用されなければなりません。このことから,スピノザが到達した徳の概念が,一般的な規範を人間に対して適用したものであるというフロムの解釈は,それを規範といっていいのかという部分を別にすれば,妥当であるといっていいでしょう。規範といえばそれは遵守するべき暗黙の規則のようなものをイメージさせますが,第三部定理七は別に規範的なことをいっているわけではありません。ただし,徳というのは第四部定義八でいわれているように,人間が十全な原因causa adaequataとなる力potentiaを有する限りにおいての現実的本性をいうのであって,第三部定理七でいわれている現実的本性のすべてというわけではありません。いい換えるなら,現実的に存在する人間は十全な原因となるときも部分的原因causa partialisであることもあるわけで,そのうち十全な原因となるときだけが徳といわれ,部分的原因である場合には徳といわれないのであれば,徳自体に何らかの規範性を見出すことは可能です。なので僕はこの部分ではフロムがスピノザの哲学を誤解しているというようには考えません。
 もっとも,スピノザの哲学の徳が,一般的規範を人間に対して適用したものであるということを示すとき,フロムは第三部定理七にも言及している,直接的ではなくとも間違いなく言及しているといえるのですが,重点的に依拠しようとしているのは第四部定理二四です。なのでそちらの定理に依拠することの妥当性の検証も必要になります。

 浅野はこのネグリAntonio Negriの政治的立場の中には,集団的なニーチェ主義というべき思想が含まれていると指摘しています。要するに浅野もこの立場については,共産主義とか民主主義というより,別のいい方をするべきと考えているのだろうと僕は推測します。ただ,それを説明するのにニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの名前を出すのも僕には適切といえるかどうかは分からないので,僕はこのいい方もここではせず,単にネグリの政治的立場といっておきます。
 浅野がなぜこの立場を集団化されたニーチェ主義といっているのかというと,ネグリの政治的立場は,人間が自身の内的な力だけに依拠した自己決定あるいは自己肯定をなし得る筈であるということが前提になっているからです。これはスピノザの哲学で説明すれば,人間が十全な原因causa adaequataとなって何事をもなすことができる存在者になることができる筈だという意味に解してよいだろうと思います。浅野がそれをスピノザの名前ではなくニーチェの名前で説明しているのは,人間がそのような存在者になれる筈であるという点に関して,スピノザは否定的であるのに対してニーチェは肯定的であるという点に由来しているのだろうと僕は思います。ただし,だからニーチェの思想とネグリの政治的立場の間に,ある親和性があるのかといえば,必ずしもそうとはいえません。確かにスピノザの哲学とネグリの政治的立場との関係と比べれば,親和性があるといえるのですが,ニーチェはあくまでも現実的に存在するある人間について,つまり個人についてそれをいっているのに対して,ネグリの政治的な立場はそうではないからです。生産的協働の回路が総体としての労働力を統治の場で自己構成することができるようにすることがネグリの実践的な目標なのであって,それは個人の能動actioに帰することができるわけではなく,それが集団として,つまり集団がひとつの個物res singularisとみなされる限りにおいて達成されなければならないからです。だから浅野はそれを単にニーチェ主義とはいわずに集団化されたニーチェ主義といっているのであって,このような発想はニーチェの思想から出てくるものではありません。むしろニーチェはその可能性を否定するでしょう。
コメント
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