スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

透明の棋士&倫理学と政治学

2022-06-25 19:14:34 | 将棋トピック
 2002年に報知新聞に入社し,2010年ごろから同社で将棋を担当する記者として仕事をしていた北野新太が,今年の3月31日に報知新聞を退社するということをTwitterで告げたのは,僕にとっては残念な出来事でした。「報知新聞の北野です」というのは,たとえば棋士の記者会見などで必ずといっていいほど耳にするフレーズで,それに続く質問は優れたものが多いと感じていたからです。優秀な記者が将棋の取材から離れることは,将棋界にとっての損失だと僕は思うのです。ですから翌日の,朝日新聞に入社したというTwitterでの告知は,驚きであると同時に喜びでもありました。報知新聞はスポーツ新聞の中では将棋の記事は手厚いですが,一般紙である朝日新聞とは比べるべくもなく,むしろ北野の記事を目にする機会は増えると思えたからです。
                                        
 その北野が2015年に出版したのが『透明の棋士』です。17編の短編のエッセーからなるもので,この本のために書き下ろされたのは最後の17編目だけです。ただ,北野が書いたものをまとめて読めるという点では,価値ある1冊といえるだろうと思います。
 コーヒーと一冊,というシリーズのひとつです。コーヒーと一冊というのは,文字通りにコーヒーを飲みながら読むということであって,コーヒーを飲んでいる間に読み終えることができるという意味でもあります。前述したように17編の短編ですから,実際に1杯のコーヒーを飲んでいる間に読了できるというものではありませんが,分量は多くありません。北野自身があとがきに該当する部分で,とても薄い本であって,何かを伝えることができたとは思わないという意味のことをいっています。とはいえ,分量があれば何かは確実に伝わり,少なければ伝わらないというものではありません。読めば少なくともどこかしらで伝わる何かが必ず含まれているといっておきましょう。

 先述しておいた『スピノザ『神学政治論』を読む』の中では,スピノザの哲学で目指すものとスピノザの政治的実践との間の乖離の理由が,次のように説明されています。上野によれば,スピノザはエチカすなわち倫理学とポリチカすなわち政治学を異質なままにしておくのです。国家Civitasの論理からすれば,市民Civesは自己の権利jusの下にあるのではなくて,国家の権利の下にあります。しかし現実的に存在する人間は,理性ratioに従っている限りでは,たとえ国家の法に服していたとしても,判断においては自由libertasであって,自己の権利の下にあるのです。ここには明らかな乖離があるようにみえますが,スピノザは弁証法的に綜合しようとしないのです。要するに上野は,スピノザにとって倫理学と政治学は異質なもので,綜合する必要がないものだとみているのです。ただし,綜合する必要がないというのは,そのままにしておいて相反するわけではないという意味でもあるでしょう。
 僕は以前はこの路線でスピノザの倫理学と政治学,あるいは倫理的目標と政治的目標の乖離を考えていました。現在でも上野がここでいわんとしていることは理解できますし,間違っているとは思いませんが,少し違った視点で考えています。それは,スピノザの倫理的目標と政治的目標の間には,実際にはここでみられているほどの乖離はないのではないかという視点です。
 まず,倫理学と政治学との間に明確な関係があるということは前提としなければなりません。スピノザの『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』は,匿名とはいえ実際に出版された書物です。『エチカ』は未出版ですし,おそらく『神学・政治論』が発行された時点では,『エチカ』は現行の形態にはなっていませんでした。他面からいえば,現在の『エチカ』が完成形であるとすれば,『神学・政治論』が出版されたときには『エチカ』は未完成でした。なので『神学・政治論』の本文の中で,『エチカ』の文章に直接的に訴えるということは不可能だったのです。
 これに対して『国家論Tractatus Politicus』は未完です。それはスピノザが書き終える前に死んでしまったからです。ということはその時点では『エチカ』は現在の形であったことになります。
コメント
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