淡路島で指された昨日の第93期棋聖戦五番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太棋聖が7勝,永瀬拓矢王座が3勝。
振駒で藤井棋聖が先手となって相掛り。この将棋は千日手になりました。
永瀬王座が先手となった指し直し局は角換わり相腰掛銀に。この将棋も千日手になりました。
藤井棋聖が先手に戻っての再指し直し局は角換わり相腰掛銀に。この将棋は後手の研究が上回ることになりました。

この局面で☖7一飛と寄ったのが先手の意表を衝いたようです。実戦は☗7四歩☖8六歩☗同銀☖6六角☗7八王☖7四飛と進みましたが,これで一気に差が開きました。

第1図から第2図は一直線というわけでなく,先手にも変化の余地が大きいので,第1図がもう実戦に出現しないということはないかもしれません。ただ後手がこれで悪くはならないという前提で飛車を寄っている筈ですから,第1図が出現しにくい図になったのは確かだと思います。最近の藤井棋聖の戦型選択から察して,角換わりの先手番での準備が不足していたのは何となく分かる気がします。
永瀬王座が先勝。第二局は15日に指される予定です。
第四部定理二二系からは当然の疑問が生じてくるわけですが,この疑問を解決していく前に,この系Corollarium自体が有している意義,つまり徳virtusの基礎を諸個人のコナトゥスconatusに求めることの意義について,僕の見解opinioを表明しておきます。
第三部定理七は,ある人間が現実的に存在しているときに,その人間にだけ特有に成立する定理Propositioではありません。これはこの定理の文言から明白で,このことは現実的に存在するすべての個物res singularisに妥当するのであって,現実的に存在するひとりの人間というのは,まさにそうした個物のひとつであるがゆえに,人間にも適用することが可能な定理となっているのです。そしてこのとき,個物といわれているのは第二部定義七でいわれているように,複数の個物から形成されている場合もあり得ます。僕は基本的に個物の複合の無限連鎖が成立するという立場を採用していますので,実際にある個物が現実的に存在するといわれる場合には,そうした複合的な個物である場合が大多数であると考えています。
仮にAという人間が現実的に存在し,またBという人間も現実的に存在するとして,AとBとが協力してひとつの結果effectusに対する原因causaとなるのであれば,Aという人間とBという人間の組み合わせ自体をひとつの個物とみなさなければなりません。先述した第二部定義七がいっているのはまさにそういうことだと解するべきであるからです。するとこのことはさらに拡張していくことが,それが現実的であるとはいえないかもしれませんが,論理的には可能になります。つまり現実的に存在するすべての人間が協同することによって,ひとつの結果に対する原因となるということは,論理上は可能になります。するとこの場合は,現実的に存在するすべての人間が,集団としてひとつの個物を形成しているということになるでしょう。そして第三部定理七は,すべての個物に適用されるのですから,そういった人間の集団にも適用されることになります。つまり一般的にいえば,複数の人間が協力してひとつの結果に対して原因となるようなある作用をなすとき,その複数の人間はひとつの個物であり,かつひとつの個物としてのコナトゥスを有するのです。
振駒で藤井棋聖が先手となって相掛り。この将棋は千日手になりました。
永瀬王座が先手となった指し直し局は角換わり相腰掛銀に。この将棋も千日手になりました。
藤井棋聖が先手に戻っての再指し直し局は角換わり相腰掛銀に。この将棋は後手の研究が上回ることになりました。

この局面で☖7一飛と寄ったのが先手の意表を衝いたようです。実戦は☗7四歩☖8六歩☗同銀☖6六角☗7八王☖7四飛と進みましたが,これで一気に差が開きました。

第1図から第2図は一直線というわけでなく,先手にも変化の余地が大きいので,第1図がもう実戦に出現しないということはないかもしれません。ただ後手がこれで悪くはならないという前提で飛車を寄っている筈ですから,第1図が出現しにくい図になったのは確かだと思います。最近の藤井棋聖の戦型選択から察して,角換わりの先手番での準備が不足していたのは何となく分かる気がします。
永瀬王座が先勝。第二局は15日に指される予定です。
第四部定理二二系からは当然の疑問が生じてくるわけですが,この疑問を解決していく前に,この系Corollarium自体が有している意義,つまり徳virtusの基礎を諸個人のコナトゥスconatusに求めることの意義について,僕の見解opinioを表明しておきます。
第三部定理七は,ある人間が現実的に存在しているときに,その人間にだけ特有に成立する定理Propositioではありません。これはこの定理の文言から明白で,このことは現実的に存在するすべての個物res singularisに妥当するのであって,現実的に存在するひとりの人間というのは,まさにそうした個物のひとつであるがゆえに,人間にも適用することが可能な定理となっているのです。そしてこのとき,個物といわれているのは第二部定義七でいわれているように,複数の個物から形成されている場合もあり得ます。僕は基本的に個物の複合の無限連鎖が成立するという立場を採用していますので,実際にある個物が現実的に存在するといわれる場合には,そうした複合的な個物である場合が大多数であると考えています。
仮にAという人間が現実的に存在し,またBという人間も現実的に存在するとして,AとBとが協力してひとつの結果effectusに対する原因causaとなるのであれば,Aという人間とBという人間の組み合わせ自体をひとつの個物とみなさなければなりません。先述した第二部定義七がいっているのはまさにそういうことだと解するべきであるからです。するとこのことはさらに拡張していくことが,それが現実的であるとはいえないかもしれませんが,論理的には可能になります。つまり現実的に存在するすべての人間が協同することによって,ひとつの結果に対する原因となるということは,論理上は可能になります。するとこの場合は,現実的に存在するすべての人間が,集団としてひとつの個物を形成しているということになるでしょう。そして第三部定理七は,すべての個物に適用されるのですから,そういった人間の集団にも適用されることになります。つまり一般的にいえば,複数の人間が協力してひとつの結果に対して原因となるようなある作用をなすとき,その複数の人間はひとつの個物であり,かつひとつの個物としてのコナトゥスを有するのです。