スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&第一部定理一七

2013-05-16 19:14:20 | 将棋
 第54期王位戦挑戦者決定リーグの紅組は,行方尚史八段が4連勝,対戦相手の松尾歩七段が3勝1敗で,行方八段が勝てば挑戦者決定戦に進出,松尾七段が勝てば両者によるプレーオフという状況で13日の対局を迎えました。対戦成績は行方八段が5勝,松尾七段が3勝。
 松尾七段の先手で力戦相居飛車。先手だけが飛車先を交換できましたので,その分の得があったと思うのですが,中盤で6筋に飛車を回ったら飛車交換を挑まれ,それを拒絶せざるを得なくなり,ややまずくしたようです。
                         
 先手が角を打った局面。後手は無視して△5四飛と出ていきました。▲6一角成は負けてもこうするところでしょう。△5八角に▲6八玉と逃げ,△4九角成に▲5五歩△同飛としてから▲5九金と受けました。玉の堅さが頼りの後手は△4八馬▲同金△3九銀と追撃。▲2六飛と逃げたので△4八銀不成で金を入手。ここから▲5六歩△4五飛▲4六歩に△6五飛の王手。必然的に▲同金△同桂と進みました。
                         
 第1図で飛車が飛び出してからはずっと後手が攻めきれるのか先手が受けきれるのかという戦いだったのですが,この桂馬が使えたのが大きく,ここでは後手の攻めが繋がったようです。先手はここから反撃に転じましたが届かず,最後は即詰みで討ち取り後手が勝ちました。
 行方八段が挑戦者決定戦に進出。全勝同士の挑戦者決定戦は29日です。

 それでは第一部定理一七系二でスピノザが自由原因というとき,それがどんな意味であるのかということが問題となってきます。これに関しては,この系の論証の過程と合わせて説明します。第一部定理一七系二ですから,それは第一部定理一七から帰結するということになります。
 「神は単に自己の本性の諸法則のみによって働き,何ものにも強制されて働くことがない」。
 この定理は背理法によって証明されます。まず前提となるのは,もしも神が何かによって強制されることによって働くということがあるとしたら,神を強制する何かが存在するということになります。そしてそれは神のうちに存在するか,そうでなければ神の外に存在するかのどちらかでしょう。
 まず第一部定理一六は,神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で,神のうちに生じることを示しています。よって神は神自身のうちにあるものに対しては本性の上で「先立つ」といわれる存在です。第一部公理三によれば,原因が与えられなければ結果は生じない,いい換えれば,原因は結果に対して本性の上で「先立つ」存在でなければなりません。よって神のうちには神を強制するような何かが存在するということはありません。
 次に,第一部定理一五というのは,あらゆるものはあるとするなら神のうちにあるということを示しています。いい換えれば神の外に何かがあるということはありません。したがって当然ながら神を強制するような何かが神の外にあるということもありません。
 つまり,神を強制するような何かは,神のうちにあることはできないし,神の外にあるということもできません。いい換えれば神を強制するようなものは存在することができません。したがって,神は働くとするなら,それは神自身の本性の必然性,あるいは同じことですが神の本性の法則のみによって働くということになるのです。
 なお,僕は今はこの定理を名目的な定理であるかのように証明しましたが,実際にはこれは実在的定理です。神が働くということは名目的な事柄ではなく,実際に働くのです。ただ,定理の証明とすればこれで十分だと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デイリー盃大井記念&第一部定理一七系二

2013-05-15 20:48:42 | 地方競馬
 南関東重賞では最も長い距離となる第58回大井記念。三村展久騎手は病気でトーセンアーチャーは内田利雄騎手に,坂井英光騎手は怪我でトーセンルーチェは本橋孝太騎手に騎手変更。
 好発はスマートインパルスでしたがすぐに控え,ビービーガザリアスが先頭も,外から追い抜いたマイネルファルケの逃げに。最初はこの2頭が後ろを離していましたが,隊列が決まるとペースが落ち,1周目の正面では差が詰まりました。クリーンとウインペンタゴンが続き,上昇していったのがフォーティファイド。テラザクラウドはその後ろになり,控えたスマートインパルス。その後ろの馬群にトーセンルーチェ。最初の1000mが65秒0という超スローペース。
 マイネルファルケは2周目の向正面で一杯。3コーナーではフォーティファイドが早くも先頭に立ち,外から追い掛けたのがテラザクラウドで最内から盛り返そうとビービーガザリアス。しかし直線ではフォーティファイドが2頭を置き去りにし,差をどんどん広げ最後は10馬身もの差をつけて圧勝。テラザクラウドの外からトーセンルーチェも伸び,2着争いは熾烈でしたが,展開の利もあった伏兵のビービーガザリアスがぎりぎりで残し,頭差の3着がテラザクラウド。トーセンルーチェはハナ差及ばず4着。
 優勝したフォーティファイドはJRA準オープンから昨年夏に転入。東京大賞典以外はいずれも3着以内で,A級戦で2勝。南関東重賞にすぐ手が届くところまで来ていましたが,ここで達成。取り口がかなり安定していますし,大きな差をつけて勝ちましたので,この路線の南関東の最強の座に就いたといえそう。重賞はまだ難しそうな気がしますが,南関東重賞は今後も勝っていくものと思います。母は2000年のNARグランプリ特別表彰馬のファストフレンド。その父は1989年のJRA賞最優秀3歳牡馬,1990年の同賞最優秀4歳牡馬のアイネスフウジン。Fortifiedは強化された。
 騎乗した御神本訓史騎手は羽田盃以来の南関東重賞制覇。大井記念は初勝利。管理している藤田輝信調教師は開業およそ3年で南関東重賞初勝利。

 第一部定理一八は,神Deusが内在的原因causa immanensであるということ,すなわち働きと作用の関係でいえば,神は働くagereものであるということを示しています。しかしこのことのうちに,第一部定理二六後半部分と,第一部定理二七に関して,それがものにとっての否定negatioや限定determinatioではないという根拠となる要素が含まれているかといえば,必ずしもそうはいえないように思います。また,「スピノザのマテリアリスム」でも,これに関して第一部定理一八が根拠となっているというようには読解することができません。
                         
 繰り返しになりますが,桜井の論文の該当箇所は,あくまでも神の原因性に関わる論考です。ですから桜井は僕が提出しているような問題には関心があるというわけではありません。よってそれに対するはっきりとした解答を与えているということもないです。ただ,桜井自身は触れてはいないものの,この論考において,もしもその根拠となるような部分を『エチカ』のうちに見出すとすれば,それは第一部定理一七系二になるように僕には思えます。それは次のような系Corollariumです。
 「第二に,ひとり神のみが自由原因であることになる」。
 冒頭で第二にといわれているのは,これが系二であるからで,それ以上の意味は何もありません。
 ここではひとつ注意しなければならないことがあります。自由原因causa liberaというのもまた,アリストテレスAristotelēsの哲学で用いられている用語のひとつです。その場合,自由原因というのは自然的原因ないしは必然的原因という用語と対語の関係にあります。このとき,自然的原因というのは,精神mensの決意decretumとは無関係に,あるいはそれには従わずに働くような,いい換えれば自然Naturaの必然性necessitasに則して働くような原因というのを意味します。これに対して自由原因というのは,精神の決意あるいは精神の判断に従って働くような原因を意味することになります。
 しかしスピノザは,この場合にはこの用語の意味に従って自由原因といっているのではありません。これは神が自由原因であるといわれていることから明白です。第一部定理三二系一にあるように,スピノザは神に意志voluntasの自由を帰してはいないからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

別府八湯ゆけむりカップ&第一部定理二七

2013-05-14 18:31:54 | 競輪
 12日に決勝が争われた別府記念。並びは新田-成田の福島,浅井に鈴木,稲毛-岩津で西日本,菅原ー大塚ー大竹の大分。
 外枠でしたが浅井が出ていって前受け。3番手に新田,5番手に菅原,8番手に稲毛で周回。残り2周を迎えるところで稲毛が上昇。これに菅原が続くと,新田が早めに引きました。バックで稲毛が浅井を叩くと菅原が外から発進。一時的に先行争いのような形になりましたが,ホームでは菅原が前に。先に引いていた新田がうまく4番手を確保し,下げさせられた稲毛が6番手,立ち遅れた浅井が8番手に。バックから新田が成田を連れて発進。大塚も牽制しましたが,勢いが違い過ぎ,捲りきった両者の優勝争い。成田は半車身差までしか詰められず,新田が快勝。成田が2着で福島のワンツー。稲毛を捨てて自力のようなレースになった岩津に乗る形となった浅井が大外から差し,3車身差で3着。
 優勝した福島の新田祐大選手は2月の四日市記念以来の記念競輪2勝目。この開催は出来の良さが非常に目立っていましたので,浅井よりもいい位置を確保できればチャンス十分だろうと思っていました。成田にほとんど詰めさせなかったのは,その出来の良さの賜物だったと思います。ときに強引と思えるようなレースをして着を悪くすることがあるなど,安定感に欠くきらいがあるのですが,力だけでいえばまたビッグを獲得してもおかしくない選手だと思います。

 第一部定理二六の後半部分をこのように読解することは,『エチカ』の定理のスピノザによる配置の意図の観点からも妥当であるといえます。というのも後続の第一部定理二七では,次のようにいわれているからです。
 「神からある作用をするように決定された物は自己自身を決定されないようにすることができない」。
 これは要するに,ものは神からある作用をなすように決定されたならば,その決定から免れることはできないということです。つまり,このことのうちにもある積極的な要素が含まれているのでなければならず,いい換えれば,決定されるものに関する否定ないしは限定であってはならないと僕が解する言明です。スピノザはこちらの定理では積極性については何も触れてはいませんが,第一部定理二六からの一連の流れとしてこの定理が出てきているのであり,僕の解釈は誤ったものではないだろうと思います。これが第一部定理二六とは別に記述されているのは,単に訴訟過程が異なるからではないでしょうか。この定理に関してはスピノザは第一部公理三から帰結するとだけ述べていて,確かにそれだけでこちらの定理は証明されていると思います。
 しかし,一般的に理解するならば,あるものに関して,何らかの決定を受けなければ一切の作用をすることはできないとか,そうした決定を受けてしまえばそこから逃れることはできないということは,そのものに対する全面的な否定であるか,そうでなくとも部分的な限定であるとしか考えられないのではないでしょうか。そしてもしもその通りであるのだとしたら,スピノザは明らかに矛盾したことを主張しているということになります。それは逆に考えれば,スピノザがそのように主張したとしても,実際には何の矛盾もないのであると考えていたことの証明であるといえます。したがって,スピノザは,決定されなければものが作用をなすことが不可能であることも,決定されればその決定された作用をなさざるを得ないことも,ものにとっての否定でも限定でもないと考えるために,何らかの根拠を有していたと理解しなければなりません。その根拠は何であったのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王位戦&後半部分

2013-05-13 19:59:51 | 将棋
 第54期王位戦挑戦者決定リーグ。白組は4連勝の佐藤康光九段と澤田真吾五段が最終戦で直接対決。勝った方が挑戦者決定戦に進出することになりました。公式戦初対局。
 先手は佐藤九段で澤田五段の一手損角換り2。後手のダイレクト向飛車から先手が▲6五角と打ち,△7四角に交換して▲7五歩とし,後手が袖飛車に戻す戦型に。押し引きの中盤から序盤に戻ったような駒組を経て第二次の戦いに。
                         
 ここで先手は▲5四歩。後手玉が上がった瞬間を狙った仕掛けといえそう。△同歩に▲5五歩と継歩をしました。後手は△4五歩と反発。これに対して▲3五銀と捨て,△同銀に▲7一角の両取り。防ぐには△6二飛しかありませんが,あっさり▲同角成と取ってしまい,△同金に▲7一飛と打ち込みました。
                         
 第2図自体はまだ先手の銀損に等しいのですが,桂馬を取り返しながら龍を作る手が約束されていて,玉の堅さで優る先手に分があるよう。つまりこれは先手の技が決まった図のようです。将棋はこの後,先手の攻めに対して後手がじり貧模様となってしまい,最後はわりと大きな差で先手の勝ちになっています。
                         
 勝った佐藤九段が白組からの挑戦者決定戦進出を決めました。

 論考の中で,桜井自身は第一部定理二六の証明は行っていません。しかし,ここまでに説明してきたことから,少なくとも桜井が第一部定理二六証明の②の部分に関して,どのような考え方をもっているのかということは,類推することができます。すなわち,もしもあるものが作用に決定されるということがあるのだとしたら,そこにはある働きが介在していなければならないということです。つまりこのことをスピノザは自明であると主張していると,桜井は解していると考えていいだろうと思います。
                         
 このことについてはその是非を問うべきでしょうが,その前に,もうひとつ,ここまでのことからこの定理の理解について重要な内容が帰結しています。ものが作用に決定されるなら,そこに,たとえ神のという限定をしなくても何らかの働きが介在していなければならないのだとしたら,そのことが積極的といわれる要素を構成しなければこの定理が成立しません。すると,ほかから決定されてものが作用するということ自体のうちに,そうした要素がなければならないことになります。いい換えれば,そのような決定なしにはものがある作用をなすことができないのだとしても,それはここでいわれている積極性を否定することではないと解する必要があります。すなわち第一部定理二六の後半部分でいわれていることもまた,実はある積極的な事柄を構成するのだと理解しなければならないのです。
 したがって,まず第一に,神の決定なしにものが自身を作用に決定することができないという言明は,そのものに関してのある否定的な言明ではないということになります。それが否定的な言明であれば,あるいは全面的な否定ではないとしても,仮にそのものを限定するような内容を含む言明であるとしたら,それは積極的な内容を構成することができなくなってしまうからです。
 するとこのことから,第二の意味が帰結する筈です。仮に神からある作用をするように決定されたものが,その決定を覆すことができないのだとしても,このことは同じように,そのものに関するある否定ないしは限定を含んでいるわけではないと解さなければならないということになるからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴィクトリアマイル&働きと作用

2013-05-12 18:50:50 | 中央競馬
 春の古馬女王決定戦,第8回ヴィクトリアマイル
 ヴィルシーナが好発。そのまま逃げることもできそうでしたが内からアイムユアーズが上昇してくると,こちらに行かせて2番手。マイネイサベルとメーデイアが続き,ドナウブルーとサウンドオブハートまでが先行集団。オールザットジャズ,ザッハトルテ,アドマイヤセプターが好位に続き,ハナズゴール,ホエールキャプチャ,イチオクノホシが中団から。最初の800mが46秒3で,スローペースといっていいでしょう。
 ペースもあったでしょうし,どうも東京競馬場の馬場は内側から乾くという傾向があるようで,外に出した馬は上位争いには加われず。まずアイムユアーズとヴィルシーナの間を突いたマイネイサベルが先頭に立ちましたが,ヴィルシーナが再び交わして先頭に。襲い掛かったのは馬群を割って差してきたホエールキャプチャでこの2頭はほとんど並んで入線。写真判定となりましたが,ハナ差で凌いだヴィルシーナの優勝。ホエールキャプチャが2着。マイネイサベルは半馬身遅れて3着。
 優勝したヴィルシーナは昨年2月のクイーンカップ以来の4勝目。重賞は2勝目で大レースは初勝利。とはいっても牝馬三冠とエリザベス女王杯はいずれも2着でしたから,実績的には上位。きわどくなりましたが,並んでからしぶといのはこの馬の特徴で,今日はそれが生きました。本番前の一叩きとして大阪杯を選んだのもこの馬にとってはよかったのではないかと思います。牡馬の一線級が相手だと苦しそうですが,牝馬同士の戦いでは大きく崩れるようなことはないでしょう。父はディープインパクト。叔父に一昨年のラジオNIKKEI賞を勝っている現役のフレールジャック。Verxinaはロシア語表記でВершинаとなり,頂上。
 騎乗した内田博幸騎手は昨年の有馬記念以来の大レース制覇でヴィクトリアマイル初勝利。管理している友道康夫調教師は2009年の皐月賞以来の大レース制覇でヴィクトリアマイル初勝利。

 第一部定理二六証明は,神Deusによる決定についての言及です。第一部定理一八は,神が内在的原因causa immanensであるということを示しています。働くagereということが内在的原因と関連し,作用するということが超越的原因と関連するのであれば,神は作用するのではなく働くものであるということが帰結します。したがって第一部定理二六証明の神による決定というのも,神の働きactioであると理解しなければなりません。つまり,ものは神の働きの結果として,ある作用をなすということになります。
 実際にはこれは,神がものが作用するということの原因であるということが,どのような意味であるのかということについての考察なのであって,そこで積極的ということばが用いられることについての考察とは関係ないかもしれません。ただ,定理の配置という側面から考慮するならば,第一部定理二五備考において,神が自己原因causa suiであるということと,神は万物の原因であるということは同一の意味を有するということが示された直後に,神がものが作用することの原因であるということが証明されているのですから,この点はこの点でやはり重要な要素であるとはいえるでしょう。
 さらにこの主張は,ここでの考察では簡略化して証明した,第一部定理二六の後半部分の意義というのも浮き彫りにさせているといえます。つまりこの部分は,この観点の下に理解するならば,もしも神による働きが介在しないのであれば,ものは作用するということはないという意味に解釈できるようになるからです。つまり,ものが作用するといわれる場合にも,そこには必ず神の働きがあるのであって,いってみるならものが作用するということ自体が,神による働きそのもの,あるいはそのひとつの側面であるということになります。
 このことは,神がものの原因,起成原因causa efficiensであるということ,とくにものが作用するということの起成原因であるということの具体的な意味というものをよく示していると思います。そして今回の考察との関連でも,重要な点が含まれていると思えます。決定されなければものは作用できないということが,何らかの欠陥を示すような言及ではないということになるからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘレンサーフ&ふたつの決定

2013-05-11 19:14:40 | 血統
 NHKマイルカップを勝ったマイネルホウオウの輸入基礎繁殖牝馬はヘレンサーフ。1903年にイギリスで産まれた馬で,明治から続き現在まで残る小岩井血統のひとつです。ファミリーナンバーアグサンとサトルチェンジと同じで16-c
                         
 1911年に第四ヘレンサーフという牝馬を産んでいて,現在まで続いているのはすべてこの末裔だと思われます。クラシックを勝った馬や大レースの勝ち馬も出ていますが,どれがこの一族を代表する産駒というかはやや悩ましいところ。
 僕の競馬キャリアが始まって以降,この牝系から最初の大レースの勝ち馬になったのは1990年に宝塚記念を勝ったオサイチジョージ。そして2頭目が2002年に菊花賞,2003年には天皇賞(春)と宝塚記念を勝ち,この年のJRA賞で最優秀父内国産馬に選出されたサッカーボーイ産駒のヒシミラクル。ヒシミラクルは大レースを勝った数でいえば,この系統の代表馬といってもいい存在かもしれません。マイネルホウオウはこの2頭に続き,3頭目となります。
 このようにぽつりぽつりと大物を出すことによって続いてきたという一面があります。このブログは2006年の3月に開設されていますが,それ以降で重賞を勝った馬というのも1頭しかおらず,それが一昨年のオーバルスプリントを勝ったダイショウジェット。マイネルホウオウがようやく2頭目の重賞勝ち馬ということになるのですが,幅広く分枝していますから,何年か経った後に,またどこかで大物が出たとしても,不思議ではないでしょう。

 積極的ということばによる被修飾語が神である可能性を視野に入れると,今度は別の観点が課題として生じてくることになります。それは,第一部定理二六証明で,作用に決定されるといわれているときに,そもそもこの作用というのが,『エチカ』の中で何を意味すると考えるべきなのかということです。すでに,この決定をする主体というのは神であるとスピノザが認識しているということは確定的なわけですから,神があるものを作用に決定するということが,いかなる事象として考えられるべきであるのかということは,積極的ということが何を意味するのかということを具体的に探究する場合には,必須の課題であるとさえいえるでしょう。
 マシュレは,ものが神から決定されるといわれる場合に,ふたつの様式があるということに注目しました。ひとつはもちろん作用に決定されるという場合です。しかしもうひとつ,これとは別に,ものが働くように神から決定されるといわれる場合があるのです。このとき,作用するといわれる場合と,働くといわれる場合では意味に相違があるというのがマシュレの考え方ですが,このマシュレの論考というのは,神がものの原因であるということ,すなわち第一部定理一六が,どういった性質を有しているかを探求したもので,ここでの僕の考察とは主題が異なります。ただし,関係してくる部分というのが明らかにありますので,ここではこのマシュレのこの点に関する論考をまとめた,桜井直文の「スピノザのマテリアリスム」という論文を参考にします。
                         
 桜井による分析では,まず作用すると働くの相違は,超越的原因と内在的原因の差異に帰着します。すなわち『エチカ』でこれと関係しているのは第一部定理一八であるということになります。超越的原因とは結果を自己の外に産出する原因を意味し,内在的原因は結果を自己のうちに産出する原因を意味します。桜井も,また岩波文庫版の『エチカ』の訳者である畠中尚志も,これをアリストテレスの哲学における分類としています。僕はアリストテレスはほとんど読んでいないのでよく分かりませんが,スピノザがここでその分類に従っているということは,間違いないものと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スズカフェニックス&被修飾語

2013-05-10 19:18:56 | 名馬
 日曜日のNHKマイルカップを勝ったマイネルホウオウの父はスズカフェニックスです。
 母の兄にイギリスダービーなどGⅠ4勝のドクターデヴィアスと1997年の高松宮杯を勝ったシンコウキングがいる良血馬。デビューは2004年10月。最初の3戦はダートを使い,2005年の2月に3戦目で初勝利。ここから休養に入り,夏の北海道で復帰。芝2000mという,これまでとは一変した条件でしたが快勝。これ以降は格上挑戦の重賞も含めてずっと入着を続け,2006年の10月にオープン入りしました。
                         
 2007年,1月の東京新聞杯で重賞初制覇。続く阪急杯は3着だったものの,高松宮記念に出走すると,芝1200mはこれが初出走だったものの優勝。大レース制覇の勲章を手に入れました。この年はこの後,安田記念ダイワメジャーの5着,スプリンターズステークスは9着,マイルチャンピオンシップもダイワメジャーの3着と大レースばかりを使い,暮れに阪神カップを勝ちました。
 翌年も現役続行。阪急杯2着をステップに高松宮記念連覇に挑むも3着。京王杯スプリングカップ3着を挟んで安田記念は5着。秋はセントウルステークスを叩いてスプリンターズステークスを使うも4着。スワンステークスを挟んで引退レースのマイルチャンピオンシップに向いましたがこれは8着でした。
 結果的に大レースは1勝で,重賞も計3勝ですが,大きく崩れてしまったというレースは少なく,残した実績よりは能力は高かった馬だと思います。種牡馬としては苦戦すると考えていましたが,産駒の初重賞獲得が大レースで達成されたというのは,個人的には驚きです。

 ここまで考察してきますと,第一部定理二六証明の③の部分では,ある意味において決定的な事柄がいわれているということに気付きます。
 ここでスピノザは,①と②から③を導き出しています。そしてそのために第一部定理一六と,第一部定理二五を援用しています。そこで,もしも①と②から③が帰結するとすれば,スピノザは,あるものが何かを作用に決定するときに,その作用が積極的なものであるとみなされるのであれば,その決定をなすものは神なのであって,神以外のものではあり得ないと認識していることになります。そして第一部定理一六および第一部定理二五というのが,積極的といわれるような決定を具体的に示していると認識していると判断してもよいように思われます。
 してみると,今度は積極的であるということについて,何が積極的であるといわれているのかということの判断を,変える必要性が生じているようにも思えます。これまでは,諸々の文法の規制から免れるために,積極的ということを,副詞としての要素として理解し,作用に決定するということが,積極的な営みであるというように判断してきました。逆に,積極的ということを,形容詞として用いるためには,この決定をなす主体に限定するとしていたのです。しかし第一部定理二六証明の①の作用への決定をなすものが神だけであって,神以外の何ものでもないのであるとすれば,それは神による決定であるから積極的であるといわれているというようにも考えられるわけです。だとすれば,それは神があるものを作用に決定するから積極的であるといわれているのであって,この場合にはどのような決定をするのかということに関係なく,神による決定のすべてが積極的なものであるとみなされなければならないということになります。いい換えれば積極的という語句は,神を修飾するために用いられる形容詞なのであって,作用に決定するという動詞を修飾するような副詞ではないということになります。
 ただし,現時点ではこれはあくまでも可能性であって,軽々と結論を出すべきものではないともいえます。しかし,重要な点を含んでいるのは間違いありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女流王位戦&真理の獲得方法

2013-05-09 19:41:09 | 将棋
 苫小牧での対局となった第24期女流王位戦五番勝負第二局。
 甲斐智美女流四段が先手。戦型は里見香奈女流王位次第であったと思いますが,ここは振飛車を選択。相三間飛車になりました。後手が端から仕掛けて戦いに。
                         
 午前中に1度アクセスしたとき,この局面で,この仕掛けには驚きました。▲同歩に△3六歩▲同歩として△5五角。そこで▲3七銀と受けました。これは駒得が確定的になるので,受けきれるのならば最善手でしょう。△1五香▲同香と香車も捨ててから△3七角成▲同銀△3六飛。対して▲2八玉と受けたのは力強い手。△4四銀と援軍を送りにいったのに対して▲2五角と打ったのは,苦心したという感じもしますが,なかなかの手だったのではないでしょうか。△3二飛に▲6五歩と突きました。
                         
 危うくも見えますが,どうやらこれで受けきれているよう。となれば第2図では先手が優勢と判断してよさそうです。実戦はこの後,後手も猛烈に追い込んだのですが,先手がリードを維持したまま勝っています。
 甲斐四段の勝利で1勝1敗に。第三局は22日です。

 ここでは自明と真理の間には不可分な関係があるということが,とりあえずは重要です。その真理の唯一性を,各々の精神がどのように獲得するのかは,今は深く探求する必要はないでしょう。したがってある精神が,何事かを第二種の認識で獲得したとしても,あるいは第三種の認識で獲得したとしても,それらは同じような意味において自明であるとみなすことができる可能性を有するというように結論付けておきます。というのも,当座の課題となっている第一部定理二六証明においては,そこで自明であるといわれている事柄,すなわち,もしもあるものが作用に決定されるなら,それは必然的に積極的なものであるということを,人間が理性によって認識するのか,それとも直観によって認識するのかは,明らかになっているとはいえないからです。
 むしろこのこととの関係で重要なのは,その獲得方法であるというよりも,第二部定理四三でいわれている事柄です。自明であるということが真理とのみ関係し,虚偽とは一切の関係をもたないのであるとすれば,どのような方法である自明な事柄を認識するにしても,それは疑うことができないようなものとして認識されるということになるでしょう。
 したがって第一部定理二六証明の②の部分は,次のような内容も有していると理解しなければなりません。AがBを何らかの作用に決定するなら,この決定は積極的なものであり,この限りにおいてAは積極的であるといい得るということはすでに説明した通りです。このとき,このこと自体は,人間に限定していうならば,人間の精神によって認識され得るものです。そして実際にこれを人間の精神が認識するとき,それは疑い得ないような真理として認識されるのです。要するにこの論証の①の過程と②の過程は,この条件を満たすような内容を有するものとして解釈されなければなりません。
 ではこの条件を満たすためにこれをどう解すればよいのかという問いが出てくるのですが,これは第一部定理二六証明への疑問をより具体的な仕方で提出したものであるといえます。したがってここでもまた僕は解答を与えることにはまだ禁欲という態度で臨まなければなりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日刊スポーツ賞東京湾カップ&真理の唯一性

2013-05-08 19:16:58 | 地方競馬
 2着までに入ると東京ダービーの優先出走権が得られる第27回東京湾カップ
 逃げたのはリアライズリンクス。フルーツサンデーが2番手でマークし,トーセンギネスオーが続きました。その後ろはかなりごちゃごちゃしましたが,向正面に入ってオベロンホワイト,ヴェリイブライト,アメイジアという順に落ち着きました。ミドルペースとハイペースが区分されるくらいのペース。
 3コーナーを回って外に出てきたアメイジアが捲るように進出。前にいた3頭も合わせ,4頭が雁行で直線に入りましたが,内の3頭は力尽き,アメイジアが抜け出す形。後方に控えていたイヴアルブとキタサンオーゴンがこれに乗じて並んで追ってきて,3頭はそれほどの差がなく入線。自ら前を掃除したアメイジアがハナ差で粘って優勝。2着は大外のキタサンオーゴン。その内にいたイヴアルブはクビ差で3着。
 優勝したアメイジアクラウンカップからの連勝で南関東重賞2勝目。前半は揉まれる形で苦しそうでしたが,何とか抜け出すことに成功。自分で動いていったために最後は苦しくなりましたが,追撃を凌ぎぎったのはこの馬の強さと考えていいでしょう。ただ,今日の内容ですと,主流街道を歩んでいる上位の馬たちとはまだ差があるのではないかと思えました。父はイーグルカフェ。4代母の半弟に1992年のきさらぎ賞,毎日杯,京都4歳特別を勝ったヒシマサル。Amasiaはアメリカ+アジア。
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手はクラウンカップ以来の南関東重賞2勝目。管理している船橋の坂本昇調教師は東京湾カップ初勝利。

 自明と真理との間に不可分な関係があるということは,もしもある事柄が異なって認識され得るとすれば,それは自明であるとはみなせないという点に注意するならば,第一部公理六から明らかにすることもできます。なぜなら,もしもその観念の対象ideatumに一致する観念があるなら,観念の対象ideatumがひとつの同一のものである限り,観念もまた同一のひとつのものでなければならないからです。つまりAの真の観念というのは,それがどんな精神のうちに実在するとしても,ひとつの同一の観念です。いい換えればそれは,神の無限知性のうちにあるAの観念と同一であるということです。
 真の観念と誤った観念の関係に注目するなら,もしもある観念が真の観念でないとしたら,それは必然的に誤った観念であるということになります。再び第一部公理六に注目するなら,それは観念の対象ideatumに一致しない観念であるということになるでしょう。要するにそれは,一致していないという条件を満たせばいいわけですから,そのあり方はいくらでもあり得ます。したがってAの誤った観念というのは,同一のあり方をする必要はなく,むしろ多くのあり方をすることになるでしょう。よってそれは自明であるための条件を満たせません。したがって,自明な事柄は真の観念とだけ関係し,誤った観念とは関係しないということが出てきます。いい換えれば,ある事柄が自明であると認識されるなら,それは真理なのであって,虚偽ではないのです。
 ところで,このことから,自明であるという事柄は,必ずしも精神が理性によって事物を認識するという場合にのみ,そのうちにあることができるというわけではないということが分かります。なぜなら,どんな知性のうちにあっても真の観念は同一であるとするなら,あるひとつの事物ないしは事柄に関して,真理はただひとつであるということになります。したがって,もしも知性がある真理を認識するならば,それは自明であり得るわけです。第二部定理四一は,第三種の認識も必然的に真の認識であることを示しています。よって知性が何かを直観的に認識する場合にも,それは自明であり得るということになるからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

湘南ダービー&自明と真理

2013-05-07 18:39:30 | 競輪
 ゴールデンウィークの最終日の昨日に決勝という関係で,ビッグから中2日というやや強行日程となった平塚記念。並びは牛山ー武田-小林ー岡の関東,根田ー高木の南関東,井上ー吉村で西日本,三谷は単騎。
 スタートを取ったのは根田でそのまま前受け。3番手に牛山,7番手に井上,最後尾に三谷で周回。残り2周半となるバックから井上が上昇,根田を叩きにいきましたが,根田はそれを許さず,井上は再び引いて3番手を牛山と並走。内に包まれるのを嫌った牛山が下げ,3番手に井上,三谷を挟んで6番手に牛山。打鐘あたりから牛山が発進。しかし前の根田はここでも突っ張り,牛山はホームで力尽きました。武田はバックから自力。これに先んじて井上が捲りを放つと,前をあっさりと捕まえ,追撃も凌いで優勝。半車身差の2着は写真判定でしたが,井上と吉村の中を割った小林。微差で吉村は3着。
 優勝した長崎の井上昌己選手は昨年9月の防府記念以来となる記念競輪7勝目。当地は2008年の競輪グランプリを優勝したバンク。力量的には安定していて,記念競輪ならばいつ優勝してもおかしくないクラスの選手ですが,落車が多くて苦しんでいるという印象。仕方がない面もあるでしょうが,それを減らすことができれば,もっと活躍ができるのではないかと思います。

 スピノザがconceptusとnotioあるいはnotionesを使い分けていることの理由や意義に関しては,朝倉友海が『概念と個別性』の中で,観念ideaというタームとの関係も照らし合わせた上で考察しています。この部分は朝倉の主題とはいえないかもしれませんが,参考になる探求だと思います。また同時に朝倉は,日本語の訳として,なぜこのような問題が発生するようになったのかについても説明しています。それを読みますと,どうもこの問題というのは,スピノザの哲学の日本語訳に固有の問題であるとは僕には思えませんでした。ただ,すべての哲学者が意図的にconceptusuとnotioを使い分けているのかどうかは僕には分かりませんから,この点についてはこれ以上の言及は控えます。スピノザの場合も意図的であるかどうか,はっきりしない面もあるのですが,少なくとも共通概念といわれるときの概念が,conceptusではないということは,よく脳裏に焼き付けておくべきことだと思います。
                         
 それでは主題の方に戻ります。第二部定理四一は,第二種の認識,すなわち人間の精神だけに関していえば,人間の理性による認識が,必然的に真であるということを示しています。そして自明であるということが,理性による認識のような,人間の精神の本性が一致する限りでの認識のうちにしかあることができないのであれば,自明であるということは真なる認識のうちにしかあり得ないということになります。スピノザの哲学における真理というのは,こうした個々の真の観念の総体のことです。つまり,自明であるということは,真理だけに関係するのだし,もしも人間の精神がある事柄を自明なものとして認識することがあるならば,その認識された内容は真理であるということになります。
 僕はスピノザの哲学では虚偽と誤謬は分けて考えます。そしてスピノザは第二部定理一七備考において,人間の精神が虚偽を認識することに関して,条件さえ整えばそれは力とみなせるといっています。しかし自明である事柄は,ここでいわれている条件が成立した上であったとしても,虚偽のうちに見出すことはできないと考えなければなりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農林水産大臣賞典かしわ記念&共通概念

2013-05-06 19:12:12 | 地方競馬
 ゴールデンウィーク中にということで,開催初日の施行となった第25回かしわ記念
 ピエールタイガーの機先を制して最内からエスポワールシチーの逃げ。控えたピエールタイガーが2番手で3番手にはナイキマドリード。ホッコータルマエ,テスタマッタ,ローマンレジェンドと続きました。前半の800mは48秒2のミドルペース。
 力量差ははっきりしていて,ピエールタイガーは向正面,ナイキマドリードは3コーナー過ぎで一杯。ホッコータルマエが自然と2番手に上がり,逃げるエスポワールシチーを追いました。直線でもエスポワールシチーはよく粘りましたが,ホッコータルマエの差し脚が優り,最後は1馬身半の差をつけて快勝。逃げ粘ったエスポワールシチーが2着。外から早めに3番手に上がったローマンレジェンドも迫りはしましたが,1馬身差の3着まで。
 優勝したホッコータルマエは先月のアンタレスステークスを勝っていてこれで4連勝。重賞は5勝目で待望の大レース制覇。近況から大レース制覇は時間の問題と思え,どこで達成されるのかが注目でしたが,それが今日であったということ。少しレースを使い過ぎているという印象は否めず,その点がやや心配なのですが,4歳馬ですから,普通に考えれば今後もかなり活躍が見込める筈です。父はキングカメハメハ
 騎乗した幸英明騎手は2008年の南部杯以来の大レース制覇。第19回以来6年ぶりのかしわ記念2勝目。管理している西浦勝一調教師は2006年の秋華賞以来の大レース制覇。かしわ記念は初勝利。

 理性ratioによる認識cognitioの基盤となる共通概念については,補足しておきたいことがあります。これは,今回の考察に関係するというよりも,このブログの考察全般に関わります。実は最近になってようやく気が付いたことなので,局所的には過去の考察に影響を及ぼしてしまうような内容を含みます。
 僕は『エチカ』において,概念というタームが用いられる最重要箇所というのを,観念ideaを精神mensの概念と定義している,第二部定義三だと思っています。さらに直後の第二部定義三説明で,スピノザはなぜ観念の定義Definitioに概念というタームを用いるかを説明しています。ここで概念と知覚とが区分されることになります。
 このとき,スピノザが概念といっているのは,ラテン語ではconceptusです。つまり観念とは,あるconceptusなのであって,知覚perceptioではないといわれています。一方,理性的認識の基礎としての共通概念をスピノザが説明するとき,これはnotiones communesというラテン語を用いています。communesが共通ですから,共通概念といわれるときの概念はnotionesであることになります。
 僕はラテン語に深い造詣があるわけではありません。というよりも,まったくないといった方が正確なくらいです。ただ活用を無視するなら,conceptus communesといういい方がラテン語では成立しないからnotiones communesとスピノザはいったのではないと思うのです。むしろここでは意図的にconceptusではなくてnotionesといっているのではないかと思うのです。
 それがなぜなのかということについて,僕は何となくは分かるのです。簡単にいえば,共通概念というのは,観念が概念と定義されるのと同じ意味で概念であるとはいえないような思惟の様態cogitandi modiであると考えることが可能だからです。ただ,気付いたのが最近ですから,しっかりまとまった考えがあるわけではありませんので,これ以上の説明は現時点では断念せざるを得ません。
 いずれにせよ,『エチカ』にはふたつの概念,すなわちconceptusとnotionesあるいは単にnotioがあるという点は,把握しておくべき事柄だと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHKマイルカップ&第二部定理四一

2013-05-05 18:48:02 | 中央競馬
 3歳のマイル王者決定戦,第18回NHKマイルカップ
 レッドアリオンが出遅れ。ゴットフリートはダッシュがつきませんでした。逃げたのはコパノリチャードでこれは予想通り。単独の2番手にガイヤースヴェルト。やや掛かったように思えるフラムドグロワールと人気のエーシントップが続き,マイネルエテルネル,ローガンサファイア,サトノネプチューンの3頭。アットウィルがいて,ストーミングスター,カシノピカチュウ,モグモグパクパクの3頭という隊列。前半の800mは46秒1のミドルペース。
 さほどのペースにならなかったため,先行勢に脚を残している馬が多く,馬場の内目に密集しての叩き合いに。これらをまとめて抜き去ったのは前半は後ろから4頭目に控えていたインパルスヒーロー。さらにその外に,道中はその直後に控えていたマイネルホウオウが追ってきて,フィニッシュ前に差し切り,クビ差で優勝。インパルスヒーローが2着。一旦は控えるような形となったものの,密集した馬群から抜け出たフラムドグロワールがさらにクビ差の3着。
 優勝したマイネルホウオウはこれが重賞初勝利。ただし1月にオープンを勝っていて,皐月賞トライアルのスプリングステークスでも3着でしたから,能力的には勝つ力はあるとみていました。距離適性を考慮して,出走権を得た皐月賞は回避し,トライアルのニュージーランドトロフィーからこちらに回ってきたものですが,その陣営の判断が的確であったということになります。したがって,今後も活躍の舞台はこの距離ということになるでしょう。父は2007年の高松宮記念を勝ったスズカフェニックス。祖母の半兄に1993年の京成杯を勝ったオースミポイント
 騎乗した柴田大知騎手は昨春の中山グランドジャンプ以来の大レース制覇で,平地の大レースは初勝利。管理している畠山吉宏調教師はこれが大レース初勝利。

 考えておきたいのは,『エチカ』において人間の精神mens humanaが理性ratioによって事物を認識するcognoscereとはどういうことを意味するのかということの確認がひとつ,そしてもうひとつはその特徴です。
 『エチカ』で理性が説明されているのは第二部定理四〇備考二です。そこでは,人間の精神が事物の特質proprietasについての共通概念notiones communes,あるいは十全な観念idea adaequataを有することによる認識cognitioであると説明され,第二種の認識cognitio secundi generisということばと等置されています。この認識の内容に関しては,第二部定理三八,第二部定理三九,そして第二部定理四〇で説明されているといえます。また,第二部定理三八系は,こうした共通概念が,現実的に存在する人間の知性intellectusの一部を必然的にnecessario構成しなければならないということを示していますから,スピノザの哲学における認識論の結論からして,理性による認識が,現実的に存在するすべての人間の精神のうちで,必然的に生じなければならないということもまた明らかになっているといえます。
 そこで,次の第二部定理四一が出てきます。
 「第一種の認識は虚偽[誤謬]の唯一の原因である。これに反して第二種および第三種の認識は必然的に真である」。
 この定理Propositioは実は証明Demonstratioのしようがありません。というのはそもそもスピノザは,虚偽falsitas,すなわち混乱した観念idea inadaequataをそれに帰すために第一種の認識cognitio primi generisを定義し,第二種の認識と第三種の認識cognitio tertii generisについては,そこに十全な観念を帰すような定義Definitioをしているからです。
 ただ,現在の考察との関連においていえば,第二種の認識すなわち理性による認識は,共通概念を基礎とするような,必然的に真verumである,あるいは十全adaequatumであるような認識であるという点は見逃せません。というのも,自明であるといい得るような事柄は,理性による認識のうちにはあることができるのですが,ここではそれが必然的に真である,あるいは十全であるといわれていることになるからです。
 僕が現在の考察との関連で,自明であるということについて注意を促しておきたいもうひとつの点が,実はこのことなのです。あることが自明であるという認識は,必然的に十全な観念なのであって,混乱した観念ではあり得ないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マイナビ女子オープン&本性の一致

2013-05-04 18:54:54 | 将棋
 1日に対局があった第6期マイナビ女子オープン五番勝負第三局。
 先手の里見香奈女流名人は3手目に▲2六歩と突いて居飛車。上田初美女王の得意とする四間飛車穴熊に銀冠で対抗。先手が積極的に戦いにいく将棋に。中盤戦で差がついた将棋だったようです。
                         
 後手が戦いに打って出るチャンスを逃したため,すでに指しにくくなっているそうですが,ここで△5一飛と寄って受けたのがさらに悪化を招いた一手で,結果的には敗着になってしまいました。先手は▲6四歩と伸ばし,後手は当然△5四飛。そこで▲6五桂と跳ねていきました。△7ニ金引は当然。そこで▲5六歩と打ち,角が移動した後の飛車成りを受けておいたのは渋い好手。対して△3三銀と引いたのは,先手が▲2四飛としたら飛車で取れるようにした手で,かなり辛そうですが,この局面では最善であったとのこと。しかし▲8四歩△同歩の突き捨てを入れてから▲6三歩成△同金▲3一角成で,先手は馬を作ることに成功しました。
                         
 この馬はよく働き,先手の勝利を引き寄せることになりました。後手は最後は粘るだけのような将棋となってしまい,寄せきった先手が勝っています。
 里見女流名人が3連勝で女王を奪取。これで五つ目のタイトル獲得。マイナビ女子オープンは初の出場でしたので,女王は初獲得。女流棋士の呼称に合わせ,今後は原則的に里見香奈女王・女流名人と表記することにします。

 ここまで考察してくれば,次に探求するべき事柄も明らかになります。すなわち,認識内容の不一致が,認識する精神の本性の不一致に帰せられるのであるなら,各個人の間で,また同一の人間の異なった時間において,精神の本性が一致するといえる場合というのが,どういう場合であるのかということです。少なくとも自明であると断言できるような認識作用というのは,そうした場合の作用のうちにしかあることができないからです。
 それを示しているのが第四部定理三五であるといえます。すなわち人間は理性に従って事物を認識する限り,本性の上で一致します。いい換えるなら,人間の精神が理性によってある事物を認識する限り,その認識される内容は,必然的に一致することになるでしょう。
 ただし,ここでは気を付けておかなければならないことがふたつあります。まず第一に,この定理というのは,理性に従うなら人間の本性は一致するということを示しているのであって,人間の本性が一致するのは人間が理性に従う場合のみであるということを示しているわけではありません。したがって,理性によって認識することのうちには,自明とみなすことができる事柄があり得るという結論は得ることが可能ですが,自明であるとみなし得る事柄は,理性による認識のうちにだけあるという結論を得ることは必ずしもできません。
 第二に,理性による認識のうちには,自明である事柄が含まれ得るという結論はここから導き出せますが,このことは,理性による認識のすべてが自明であるという意味ではありません。自明とみなし得るような事柄は本性が一致するといわれる認識のうちにしかあることはできず,理性による認識はその本性が一致するといわれる認識であるということは確かです。しかし,本性が一致する認識のすべてが自明であるとみなせる認識であるという結論を得ているわけではありません。したがって理性による認識のすべてを自明であるとみなすこともできないのです。
 では理性による認識のうち,どのような認識を自明とみなせるのかということが次の課題として出てきますが,その前に考えておきたいことがあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

共同通信社杯&第四部定理三三

2013-05-03 19:02:08 | 競輪
 4月26日から29日まで,福井競輪場で開催されていた共同通信社杯の決勝。並びは神山拓哉ー神山雄一郎の栃木,深谷に三宅,村上の後ろが長塚-岡田の関東と安東で競り,飯野は単騎。
 迷わずに深谷が飛び出して前受け。3番手が村上,この後ろは最終的には安東-長塚-岡田で,岡田の後ろに神山拓哉。最後尾から飯野で周回。残り2周のホームから神山拓哉が動いていき,飯野まで続いてバックで深谷を叩くと,打鐘から村上が発進してかまし先行。この踏み込みで番手は長塚に。岡田もどうにか続いて,4番手に深谷が入りました。後方から動きはなく,一列棒状でバックに入ると,長塚が車間を開けて後ろの動きを警戒。コーナーから深谷が捲り追い込んでいくと,これに併せて長塚も発進。深谷もよく迫りましたが余裕の走行になった長塚が半車輪差で優勝。2着が深谷。長塚マークの岡田が4分の3車身差で3着。4着の村上まで,S級S班の4人で上位独占。
 優勝した茨城の長塚智広選手は昨年暮れの伊東温泉記念以来のグレードレース優勝。ビッグは一昨年12月の競輪祭以来となる2勝目。ここは栃木と分かれ,さらに飯野でもなく競りでも村上の後ろを選択した作戦の勝利。競る相手との力量差から,番手は奪えるだろうと思っていましたが,実質的な競りなしに,踏み出しだけで番手を確保できたのが大きかったです。僕は競輪レーサーはとくにラインにこだわらず,自分の勝利に最も近いと考える位置を追求するべきであると考えていますが,その姿勢で臨んでの優勝といえるでしょう。また,そういった選択をさせる村上も立派な選手だと思います。

 最初に押さえておくべきことは,もしも諸個人によって異なった観念ideaの連結が生じる場合には,その認識作用を自明なものとみなすことはできないという点です。そしてそのことを,第四部定理三二から導いたということです。いい換えればそれは,各々の人間の本性humana natura,natura humana,ここでは各々の人間の精神mensの本性に限定しても構いませんが,それが一致するのでない場合には,その認識cognitioは必然的に自明であるとはいわれ得ないのです。したがってこれを逆に考えれば,少なくとも諸個人の精神の本性が一致するような認識の中にしか,自明であるといわれ得るような事柄はあることができないということになります。
 さらにいえば,実はこのことは,各々の人間の精神の間における異なった認識に注目しなくとも帰結するのです。それを示しているのは第四部定理三三です。
 「人間は受動という感情に捉われる限りにおいて本性上たがいに相違しうるし,またその限りにおいては同一の人間でさえ変りやすくかつ不安定である」。
 ここではスピノザの主張を把握することが重要ですから,証明Demonstratioは省略します。そしてこの定理Propositioの前半の部分というのは,各々の人間の本性の相違について説明していますが,後半部分はそうではなく,あるひとりの人間について説明されています。したがってこのことはひとりの人間の精神についても妥当しなければなりません。現在の考察に引き寄せていうなら,この後半部分というのは,同一の人間の精神が,あるときにはAからXを知覚し,しかしそれとは別のときには同じAからYを知覚することがあり得るという意味に理解できます。なのでその各々の認識作用に関してそれを自明であるというならば,同じ人間にとって,Aに関してあるときはXが,しかし別のときにはYが自明であるということになるでしょう。これが不条理な主張であるということもまた,とくに説明するまでもないでしょう。
 したがって,自明であるということは,諸個人の精神の本性が一致する限りでの認識作用のうちにしかないのですが,このことは,人間のAの精神と人間Bの精神の本性とを比較した上で,その本性が一致するといわれるような意味であるというより,同じ人間の精神が,必然的にnecessario同一の認識作用をなすという意味において,本性が一致するのであり,そのことが万人の精神に該当すると理解するべきかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農林水産大臣賞典兵庫チャンピオンシップ&含意されている内容

2013-05-02 19:04:31 | 地方競馬
 3歳馬にとっては初のダート重賞となる第14回兵庫チャンピオンシップ
 押して逃げようとしたのがマインダンサー。楽に内から抜いていったのがイチノバースト。さらに外からコパノリッキーが追い抜き,この馬の逃げに。1周目の正面に入ると,ノウレッジが外から3番手に押し上げ,その外にソロル,最内にベストウォーリアという隊列になりました。
 ノウレッジは3コーナーで一杯。代わって2番手にベストウォーリアが上がってコパノリッキーを追い掛けにいきましたが,コパノリッキーは余裕があり,直線はむしろ突き放して6馬身差の楽勝。ベストウォーリアが2着。ずっと外を回ったソロルは9馬身差で3着。
 優勝したコパノリッキーは前走でオープンを勝っていてこれが4勝目となる重賞初制覇。地方から有力馬の出走はなく,JRA勢の争いになることが濃厚でしたが,中でもこの馬の実績が上位でしたから,優勝自体は順当といえます。ただ,2着馬もこれまでの相手関係から考えるとそれなりの力量はある筈で,それにこれだけの差をつけましたから,今後が楽しみな逸材だと思います。今日は逃げましたが,逃げなくてもレースができることはすでに証明済みです。父はゴールドアリュール。祖母の従弟に2002年に大阪杯,2005年に大阪杯と毎日王冠を勝ったサンライズペガサス
 騎乗したのは福永祐一騎手で管理しているのは村山明調教師。兵庫チャンピオンシップは共に初勝利。

 異なる人間の精神mens humanaの間では,同じ観念ideaを原因causaとして,別の観念が発生する場合があるということを認めながら,こうした人間の精神による事物の認識cognitioのすべてを自明的な事柄であるとみなすとすれば,こんな不条理はありません。なぜなら,もしもそのように主張するなら,たとえば人間Aにとって自明である事柄と,人間Bにとって自明である事柄は,異なった事柄であり得るということを認めなければならないからです。しかし,自明であるということは,万人にとって,あるいは人間の精神にこだわらないのであれば,スピノザの哲学におけるあらゆる精神にとって,同じような内容として自明であるのでなければなりません。いい換えれば,自明であるという言明のうちに,そのことが含意されていると理解しなければならないでしょう。
 このことは,第一部定理二六証明の②の部分を検証すれば明白です。すなわちスピノザはここで,事物がある作用に決定されるとすれば,それは積極的なもののためでなければならないということについて,それを自明であるといっているのです。要するにこれは,このことをどんな精神であっても,あるいは限定的にいうならどんな人間も,そのように把握するということです。したがって,もしも各々の人間が,異なって認識するcognoscereようなある事柄があるのだとすれば,それを自明な事柄とみなすことはできません。そして少なくとも人間の精神については,そうしたことが生じ得るということが明らかなのですから,人間の精神による事物の認識のすべてを,自明な事柄とみなすことはできないのです。
 したがって部分的には以下のような結論がさしあたっては帰結します。人間に関していうのであれば,自明であるということは,人間の精神による事物の認識という営みのうちにしかあることができません。しかしそれは人間の精神による事物の認識のすべてのうちにあるということもできません。つまり人間にとって自明であるとみなすことが可能であるような事柄というのは,人間の精神による事物の認識の一部のうちにのみあることができるということになります。
 では,その一部の認識とはどんな認識なのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする