社会安全性というものを考えた場合、最も重要なのは個人の自律的な社会的責任判断力である。
この自律的な社会的責任判断力というものは、単に規範意識を強要しておけば発揮されるというものではない。規範意識といったものは既に存在する規範に従うだけの機械手続き的な無意識(怖いからやらない/怖くないからやる)しか促さず。個人が自律的に責任判断を行うために対しては逆効果にしか働かない。
ナチスのユダヤ人絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンがユダヤ人虐殺計画書を作成した行為というのは、ナチス政権の規範には従っていたのである。
オウム真理教幹部達が毒ガステロを行ったのも、オウム真理教の規範に従ったからである。
東京電力福島第一原発における津波に対する危険性の放置などは、もはや「規範」どころか原子力保安院の「規制」さえもクリアしていた結果なのである。
「規範」というものは権力や多数による行動規制であり、機械的に服従することを意味するものであり。規範意識というものの範疇には自律的な社会的責任判断というものが機能する余地はない。
とは言っても、短絡的にあらゆる規範や規制に従わないことが自律というわけではない。規範や規制といったものの趣旨や社会的価値といったものを理解し、従うべき規範や規制には従うこともまた自律的な社会的責任でもあるからだ。
規範意識的にただひたすらに服従させるだけでは、自発的に何をしてはいけないのかまでは考えなくなるようになる。そこが問題の本質である。
規範意識の強要というのは、権力や多数派による行動抑圧でしかないため。要するに「規範に従わないと評価が下がることを怖れて従う」だけなので、評価する他者に依存した他律にしかならないため、自律が失われるのである。
さらに言えば、評価する他者にばれなければ「怖くない」ので。悪いことであっても平気で行うようにもなる。
「怖いから、やらない。」という行動原理は、同時に「怖くなければ、やる。」という短絡的条件反射行動しか促さない。
どんなに法律手続きを整備しても、個人が自律的に社会的責任を負わない限り。この世の全ての悪事を法手続きで抑制することは構造原理的に不可能である。
それこそストーカーや神のように一日中行動監視をしておく「誰か」が必要なのでは、もはや3歳児以下であろう。それは生物学的な「ヒトという種の生物」でこそあれ、社会的な人間とは言えないであろう。
法律などの規則や規範で社会を拘束したがる者というのは、そもそも縛ろうとしている本人に自律的な社会的責任判断能力が欠如しているため、はなから規則や規範で縛ることしか考えが働かないのである。
「法の支配」に異常執着する者とのは、言い換えれば「法手続き機械的制度依存症」とも言え。自分が権威や多数から抑圧されていないと何をしでかすかわからないからこそ、他人をも権力や多数によって抑圧しておかなければならないという考えに基づいているのである。
「自律」的な社会的責任判断というものは、その根底に「自発」的に社会の安全性や持続可能性を求めようという意思が不可欠であり。そのためには自発的に自分が社会の中で存在し続けることの意味を持っている必要性がある。
ここで勘違されては困るのは、「社会の中で存在し続ける意味」というものを、「社会多数から要求されること」とか、「世間的に成功すること」と短絡的に解釈されることである。ここで挙げている「社会の中で存在し続ける意味」とは、他者(社会)から必要とされるか否かに関わらず個人が主観的に純粋に楽しめることがあるかどうかであり。他者からの評価や報酬といった環境依存性に頼った存在価値のことではない。
東京電力社内においては、原発の危険性を論じるような社員は会社にとっては存在価値がなかった。
ナチス政権下のユダヤ人絶滅収容所においては、ユダヤ人の殺害をやめるよう提言する吏官は存在価値がなかった。
ことほど左様に、特定環境の価値観に依存した環境(社会)からの要求に応えるだけでは自律的な社会的責任判断力には結びつかないばかりか、むしろそれを蔑ろにする原因ですらあるのだ。
通り魔のように社会に対して無差別殺人を行う者の行動動機は社会に対する茫漠とした報復感情である。すなはち、多数他人が自分を認めてくれないとか、他人と比べて報酬が少ないといった。他者との比較における世間的な評価が「思ったほど」得られないことに不満を「感じ」て「感情的」な報復(懲罰)攻撃に走るのである。
ついでに述べておくが、ヘイトスピーチというものも言葉上では「差別」ではあるが、民族国籍という分類を根拠に無差別に差別することは、通り魔と同じで個人を全く区別しない無差別攻撃である。
ヒトという種の生物が無責任な行動を選択する原因というのは、論理的思考検証を気分や感情が阻害することで思考停止に陥ることで発生するものである。
ここで一応述べておきたいのは、「理性には利己的金儲けの側面もある」などという短絡的大衆観念を応用した嘘のことである。「金儲け」という欲望に基づいた断片的論理性を取り上げて「理性には利己的金儲けの側面もある。」などと言い張るのは、もはやただのバカとしか言いようがない。そんなもんが理性の本質なわけねぇだろ。
欲望に基づいている限り、それは欲望であって純粋理性ではない。カントの勘違いを鵜呑みにして純粋理性を批判するというのは、そもそも何も「考えて」いない証拠である。
理性が純粋な状態であれば、いわば大脳辺縁系が機能していない状態であり。あらゆる欲望が失われた状態であれば利己的欲望が働くわけがない。
そもそも「利己」とは、他者との利益の格差比較に過ぎず。個人の純然たる主観的利益(楽しみ)とは無関係な話であって。純粋に個人的に好きなことを追求することにおいては「利己」などという概念すら存在しないのである。
他人から何も奪わず、他人から何も受け取らず、ただ純粋に個人的に楽しんでいる事柄に「利己」などという概念が入り込む余地はない。
世間的、すなはち多数他者から見て価値がないと判定されていることであっても、個人が主観的に「楽しい」と感じることがあるからこそ、自発性というものが働くようになり。結果的に自律も可能になるのである。
科学的研究における業績捏造といった無責任行為であっても、結果の程度の差こそあれ自律的な社会的責任判断力の欠如に由来するものであって。どんなに学力成績が良くても研究内容に対しての純粋な興味がないからこそ捏造してまで評価を得ようとするのである。
自律とは自発の中にあり、他にはない。 これは定理である。
どんなに規範意識を植え付け、他者から恐怖心によって行動制限を刷り込み学習されても自律には結びつかないばかりか逆にむしろ、恐怖心によってこそ社会的責任を放棄するようになるのである。
恐怖や安心といった気分感情だけで行動が決定されているからこそ、自律が失われるのである。何せ自分で論理検証するという「自分の考え」が働いていないのであるからこれは必然的結果である。
自分の脳というものは自分で作ったものではない。自分の遺伝子を自分で選択していない以上、その遺伝子によって作りだされた自分の脳から湧いてくる気分感情を、短絡的に自分の意思や目的だと錯覚するのはバカの論理である。
ヒトの多くは自分の気分感情を短絡的に意識や目的だと勘違いしているフシがある。そのため気分的に優しい気持ちでありさえすれば人間性か何かだとも勝手に妄想しており、こうした大衆観念こそがヒトという種の生物が引き起こす様々な問題の本質を撹乱してしまうのである。
何せ気分感情が意識であると錯覚しているのであるから、そこに論理検証するという「考え」が働かないのは当たり前である。
気分感情というものは、環境によって左右されるものでもあり。そもそもが自分自身の意識的選択すらも介していないものでもある。そんな気分感情というものを短絡的に人間性だと思うのは、身勝手極まりない社会的に無責任なことである。
多数派のご機嫌取り、すなはちいわゆる「愛想が良い」ことを。短絡的に「良い人」だと形容するのも大衆観念である。東京電力社内において多数派に同調して原発の危険性を放置した原因も、いわば「愛想が良い」からこそ話を丸めてその場限りに社内多数派のご機嫌取りを優先した結果でもある。
金儲けなどの世間的な成功を得るためには、短絡的には愛想が良い方が「得」ではあろう。いうなれば多数派のバカを丸め込んで金を払わせておけば儲かるからである。
「金が儲かった」とか、「多数大衆から評価された」といった、現状世間的な成功が短絡的に人間性の基準にならないのも当たり前の話である。若者の労働力を安く買い叩くブラック企業が「株主の利益を最大化」出来たとしても、それは社会的には搾取略奪にしかならず、社会を破滅に導いてしまうのであれば、もはや詐欺師と何の違いもない。
企業というものに限らず、あらゆる個人も社会的存在であることに変わりはない。にも関わらず金儲けに成功しただとか多数派の評価を得たといった基準を短絡的に人間性か何かとすり替えることは、社会的には無責任な行為なのである。
具体的に犯罪や過失の再発防止に結びつかない現行の司法刑罰制度を野放しにしているのも、その場限りに「悪者」に懲罰さえ与えて「解決」だという短絡的発想で思考が停止しているからであり。こうした思考停止こそが犯罪や過失の本質的原因の論理的究明を妨げているのである。
犯罪や過失といったものの最も根源的原因とは、自律的な社会的責任判断力の欠如である。
過失(失敗)といったものは、ヒトという種の生物である以上避けることの出来ないものであり。再発防止にとっては失敗しずらいような環境の構築も重要な一つの「工夫」である。
「まちがえたっていいじゃないかにんげんだもの」とはあいだみつをであるが、間違えておいて「良い」ことはないのだが、間違えは誰でも起こり得るものであって、その誰にでも起こり得る間違いを糾弾して懲罰を与えて満足しても、間違いが起こるような環境を放置することになる。
具体的に誰かに被害が及ぶまで、「ヒヤリ、ハッと」事象を放置するのが司法刑罰制度である。被害が出るまで捜査もしないのは、警察というものが事件書類を検察庁に送るまでを「目的」としているからであり。犯罪や過失といったものを減らして被害者も減らすことにまで意識が働いていないからである。逆に被害も出ていないのに「飲食店の中で客が踊っていたから店長が逮捕される」などという、法律の趣旨を逸脱した適用が生じてしまう原因も同じである。
当然ながら社会的には税金の無駄遣いであり、迷惑にしかならない。
統合的な視点から、社会的な意味価値といったものに基づいて考えれば。制度上の評価基準とは無関係に「何をすべきか。」を検証することは可能である。
犯罪や過失を減らすための対策、すなはち被害者を減らすための対策という、予測可能な事柄でありながら放置するというのは、これは「人災」の構造と全く同じである。いうなれば現在の司法制度に関わる役人達は、制度上での評価だけを目的することで、社会的に本当に必要な対策を一切取らないことを正当化しているのである。
これこそが犯罪であるとは言えないだろうか。
司法に関わる役人達は、自分達の頭の悪さを棚上げにして犯罪者の頭の悪さを糾弾して大多数の無責任な大衆に迎合しているに過ぎないのである。
私は将来的には刑法は無用だと考えている。なぜなら犯罪者というものが発生する原因というものを突き詰めてゆけば、犯罪者の成育環境における社会の影響も必ず存在するはずであり。結果的に被害が起きた事象についてだけ懲罰で「解決」だと見なす刑法制度というものは、論理的に犯罪者を育てない社会の構築にも寄与しないからである。
ヒトという種の生物は先天的には危険性を伴うものである、その上突然変異的に危険性の高い個体が生じる可能性すらある。それなら先天的要因はどうにもならないのであって、どうにか出来るのは環境要因しかないからだ。
自分の先天的要因すらどうにもならないのに、どうして他人の先天的要因がコントロール出来るというのであろうか。
犯罪者が発生するというのは、いうなれば教育における「失敗」である。権威と恐怖心を煽って学力競争ばかりに意識を狭窄化させ、自発的に何も考えないよう育てた子供が自律的に社会的責任判断力を失うのは、教育関係者に限らずあらゆる大人達にも責任の一端が存在するはずである。
それを短絡的に被害者が出たから加害者を特定して懲罰を与えるだけの司法刑罰制度では問題の根源が放置されてしまい、社会的には税金の無駄遣いにしかならないからである。
人類は今まで長い間司法刑罰を「解決」であると見なし、その場限りの報復感情を満足させることだけしかして来なかった。そのため、それに馴れてしまい、その馴れからくる気分的安心満足から漫然と不毛な制度であっても温存維持し続けようとしてしまっている。
こうした安心満足というものも、結局は先天的な脳の構造に由来するものである。
つまり、先天的な安心満足というものこそが、論理的思考を拘束することで、具体的な社会安全性や持続可能性への論理的対策というものへの配慮を失わせているのである。
自分達の頭の悪さを次世代に継承する必要性はない。むしろ頭の悪さをどのようにして継承しないように出来るかこそが、本当の英知というものではなかろうか。
Ende;
この自律的な社会的責任判断力というものは、単に規範意識を強要しておけば発揮されるというものではない。規範意識といったものは既に存在する規範に従うだけの機械手続き的な無意識(怖いからやらない/怖くないからやる)しか促さず。個人が自律的に責任判断を行うために対しては逆効果にしか働かない。
ナチスのユダヤ人絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンがユダヤ人虐殺計画書を作成した行為というのは、ナチス政権の規範には従っていたのである。
オウム真理教幹部達が毒ガステロを行ったのも、オウム真理教の規範に従ったからである。
東京電力福島第一原発における津波に対する危険性の放置などは、もはや「規範」どころか原子力保安院の「規制」さえもクリアしていた結果なのである。
「規範」というものは権力や多数による行動規制であり、機械的に服従することを意味するものであり。規範意識というものの範疇には自律的な社会的責任判断というものが機能する余地はない。
とは言っても、短絡的にあらゆる規範や規制に従わないことが自律というわけではない。規範や規制といったものの趣旨や社会的価値といったものを理解し、従うべき規範や規制には従うこともまた自律的な社会的責任でもあるからだ。
規範意識的にただひたすらに服従させるだけでは、自発的に何をしてはいけないのかまでは考えなくなるようになる。そこが問題の本質である。
規範意識の強要というのは、権力や多数派による行動抑圧でしかないため。要するに「規範に従わないと評価が下がることを怖れて従う」だけなので、評価する他者に依存した他律にしかならないため、自律が失われるのである。
さらに言えば、評価する他者にばれなければ「怖くない」ので。悪いことであっても平気で行うようにもなる。
「怖いから、やらない。」という行動原理は、同時に「怖くなければ、やる。」という短絡的条件反射行動しか促さない。
どんなに法律手続きを整備しても、個人が自律的に社会的責任を負わない限り。この世の全ての悪事を法手続きで抑制することは構造原理的に不可能である。
それこそストーカーや神のように一日中行動監視をしておく「誰か」が必要なのでは、もはや3歳児以下であろう。それは生物学的な「ヒトという種の生物」でこそあれ、社会的な人間とは言えないであろう。
法律などの規則や規範で社会を拘束したがる者というのは、そもそも縛ろうとしている本人に自律的な社会的責任判断能力が欠如しているため、はなから規則や規範で縛ることしか考えが働かないのである。
「法の支配」に異常執着する者とのは、言い換えれば「法手続き機械的制度依存症」とも言え。自分が権威や多数から抑圧されていないと何をしでかすかわからないからこそ、他人をも権力や多数によって抑圧しておかなければならないという考えに基づいているのである。
「自律」的な社会的責任判断というものは、その根底に「自発」的に社会の安全性や持続可能性を求めようという意思が不可欠であり。そのためには自発的に自分が社会の中で存在し続けることの意味を持っている必要性がある。
ここで勘違されては困るのは、「社会の中で存在し続ける意味」というものを、「社会多数から要求されること」とか、「世間的に成功すること」と短絡的に解釈されることである。ここで挙げている「社会の中で存在し続ける意味」とは、他者(社会)から必要とされるか否かに関わらず個人が主観的に純粋に楽しめることがあるかどうかであり。他者からの評価や報酬といった環境依存性に頼った存在価値のことではない。
東京電力社内においては、原発の危険性を論じるような社員は会社にとっては存在価値がなかった。
ナチス政権下のユダヤ人絶滅収容所においては、ユダヤ人の殺害をやめるよう提言する吏官は存在価値がなかった。
ことほど左様に、特定環境の価値観に依存した環境(社会)からの要求に応えるだけでは自律的な社会的責任判断力には結びつかないばかりか、むしろそれを蔑ろにする原因ですらあるのだ。
通り魔のように社会に対して無差別殺人を行う者の行動動機は社会に対する茫漠とした報復感情である。すなはち、多数他人が自分を認めてくれないとか、他人と比べて報酬が少ないといった。他者との比較における世間的な評価が「思ったほど」得られないことに不満を「感じ」て「感情的」な報復(懲罰)攻撃に走るのである。
ついでに述べておくが、ヘイトスピーチというものも言葉上では「差別」ではあるが、民族国籍という分類を根拠に無差別に差別することは、通り魔と同じで個人を全く区別しない無差別攻撃である。
ヒトという種の生物が無責任な行動を選択する原因というのは、論理的思考検証を気分や感情が阻害することで思考停止に陥ることで発生するものである。
ここで一応述べておきたいのは、「理性には利己的金儲けの側面もある」などという短絡的大衆観念を応用した嘘のことである。「金儲け」という欲望に基づいた断片的論理性を取り上げて「理性には利己的金儲けの側面もある。」などと言い張るのは、もはやただのバカとしか言いようがない。そんなもんが理性の本質なわけねぇだろ。
欲望に基づいている限り、それは欲望であって純粋理性ではない。カントの勘違いを鵜呑みにして純粋理性を批判するというのは、そもそも何も「考えて」いない証拠である。
理性が純粋な状態であれば、いわば大脳辺縁系が機能していない状態であり。あらゆる欲望が失われた状態であれば利己的欲望が働くわけがない。
そもそも「利己」とは、他者との利益の格差比較に過ぎず。個人の純然たる主観的利益(楽しみ)とは無関係な話であって。純粋に個人的に好きなことを追求することにおいては「利己」などという概念すら存在しないのである。
他人から何も奪わず、他人から何も受け取らず、ただ純粋に個人的に楽しんでいる事柄に「利己」などという概念が入り込む余地はない。
世間的、すなはち多数他者から見て価値がないと判定されていることであっても、個人が主観的に「楽しい」と感じることがあるからこそ、自発性というものが働くようになり。結果的に自律も可能になるのである。
科学的研究における業績捏造といった無責任行為であっても、結果の程度の差こそあれ自律的な社会的責任判断力の欠如に由来するものであって。どんなに学力成績が良くても研究内容に対しての純粋な興味がないからこそ捏造してまで評価を得ようとするのである。
自律とは自発の中にあり、他にはない。 これは定理である。
どんなに規範意識を植え付け、他者から恐怖心によって行動制限を刷り込み学習されても自律には結びつかないばかりか逆にむしろ、恐怖心によってこそ社会的責任を放棄するようになるのである。
恐怖や安心といった気分感情だけで行動が決定されているからこそ、自律が失われるのである。何せ自分で論理検証するという「自分の考え」が働いていないのであるからこれは必然的結果である。
自分の脳というものは自分で作ったものではない。自分の遺伝子を自分で選択していない以上、その遺伝子によって作りだされた自分の脳から湧いてくる気分感情を、短絡的に自分の意思や目的だと錯覚するのはバカの論理である。
ヒトの多くは自分の気分感情を短絡的に意識や目的だと勘違いしているフシがある。そのため気分的に優しい気持ちでありさえすれば人間性か何かだとも勝手に妄想しており、こうした大衆観念こそがヒトという種の生物が引き起こす様々な問題の本質を撹乱してしまうのである。
何せ気分感情が意識であると錯覚しているのであるから、そこに論理検証するという「考え」が働かないのは当たり前である。
気分感情というものは、環境によって左右されるものでもあり。そもそもが自分自身の意識的選択すらも介していないものでもある。そんな気分感情というものを短絡的に人間性だと思うのは、身勝手極まりない社会的に無責任なことである。
多数派のご機嫌取り、すなはちいわゆる「愛想が良い」ことを。短絡的に「良い人」だと形容するのも大衆観念である。東京電力社内において多数派に同調して原発の危険性を放置した原因も、いわば「愛想が良い」からこそ話を丸めてその場限りに社内多数派のご機嫌取りを優先した結果でもある。
金儲けなどの世間的な成功を得るためには、短絡的には愛想が良い方が「得」ではあろう。いうなれば多数派のバカを丸め込んで金を払わせておけば儲かるからである。
「金が儲かった」とか、「多数大衆から評価された」といった、現状世間的な成功が短絡的に人間性の基準にならないのも当たり前の話である。若者の労働力を安く買い叩くブラック企業が「株主の利益を最大化」出来たとしても、それは社会的には搾取略奪にしかならず、社会を破滅に導いてしまうのであれば、もはや詐欺師と何の違いもない。
企業というものに限らず、あらゆる個人も社会的存在であることに変わりはない。にも関わらず金儲けに成功しただとか多数派の評価を得たといった基準を短絡的に人間性か何かとすり替えることは、社会的には無責任な行為なのである。
具体的に犯罪や過失の再発防止に結びつかない現行の司法刑罰制度を野放しにしているのも、その場限りに「悪者」に懲罰さえ与えて「解決」だという短絡的発想で思考が停止しているからであり。こうした思考停止こそが犯罪や過失の本質的原因の論理的究明を妨げているのである。
犯罪や過失といったものの最も根源的原因とは、自律的な社会的責任判断力の欠如である。
過失(失敗)といったものは、ヒトという種の生物である以上避けることの出来ないものであり。再発防止にとっては失敗しずらいような環境の構築も重要な一つの「工夫」である。
「まちがえたっていいじゃないかにんげんだもの」とはあいだみつをであるが、間違えておいて「良い」ことはないのだが、間違えは誰でも起こり得るものであって、その誰にでも起こり得る間違いを糾弾して懲罰を与えて満足しても、間違いが起こるような環境を放置することになる。
具体的に誰かに被害が及ぶまで、「ヒヤリ、ハッと」事象を放置するのが司法刑罰制度である。被害が出るまで捜査もしないのは、警察というものが事件書類を検察庁に送るまでを「目的」としているからであり。犯罪や過失といったものを減らして被害者も減らすことにまで意識が働いていないからである。逆に被害も出ていないのに「飲食店の中で客が踊っていたから店長が逮捕される」などという、法律の趣旨を逸脱した適用が生じてしまう原因も同じである。
当然ながら社会的には税金の無駄遣いであり、迷惑にしかならない。
統合的な視点から、社会的な意味価値といったものに基づいて考えれば。制度上の評価基準とは無関係に「何をすべきか。」を検証することは可能である。
犯罪や過失を減らすための対策、すなはち被害者を減らすための対策という、予測可能な事柄でありながら放置するというのは、これは「人災」の構造と全く同じである。いうなれば現在の司法制度に関わる役人達は、制度上での評価だけを目的することで、社会的に本当に必要な対策を一切取らないことを正当化しているのである。
これこそが犯罪であるとは言えないだろうか。
司法に関わる役人達は、自分達の頭の悪さを棚上げにして犯罪者の頭の悪さを糾弾して大多数の無責任な大衆に迎合しているに過ぎないのである。
私は将来的には刑法は無用だと考えている。なぜなら犯罪者というものが発生する原因というものを突き詰めてゆけば、犯罪者の成育環境における社会の影響も必ず存在するはずであり。結果的に被害が起きた事象についてだけ懲罰で「解決」だと見なす刑法制度というものは、論理的に犯罪者を育てない社会の構築にも寄与しないからである。
ヒトという種の生物は先天的には危険性を伴うものである、その上突然変異的に危険性の高い個体が生じる可能性すらある。それなら先天的要因はどうにもならないのであって、どうにか出来るのは環境要因しかないからだ。
自分の先天的要因すらどうにもならないのに、どうして他人の先天的要因がコントロール出来るというのであろうか。
犯罪者が発生するというのは、いうなれば教育における「失敗」である。権威と恐怖心を煽って学力競争ばかりに意識を狭窄化させ、自発的に何も考えないよう育てた子供が自律的に社会的責任判断力を失うのは、教育関係者に限らずあらゆる大人達にも責任の一端が存在するはずである。
それを短絡的に被害者が出たから加害者を特定して懲罰を与えるだけの司法刑罰制度では問題の根源が放置されてしまい、社会的には税金の無駄遣いにしかならないからである。
人類は今まで長い間司法刑罰を「解決」であると見なし、その場限りの報復感情を満足させることだけしかして来なかった。そのため、それに馴れてしまい、その馴れからくる気分的安心満足から漫然と不毛な制度であっても温存維持し続けようとしてしまっている。
こうした安心満足というものも、結局は先天的な脳の構造に由来するものである。
つまり、先天的な安心満足というものこそが、論理的思考を拘束することで、具体的な社会安全性や持続可能性への論理的対策というものへの配慮を失わせているのである。
自分達の頭の悪さを次世代に継承する必要性はない。むしろ頭の悪さをどのようにして継承しないように出来るかこそが、本当の英知というものではなかろうか。
Ende;