書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○更に分析。(しつこいね。)

2015年05月21日 19時49分16秒 | 意識論関連
もう少し分析すると、どこぞの病理医ちゃんみたいな承認欲求中毒患者というのは科学的議論で真理を追求しようとしているわけではなくて。予め自分が求めていた答えに同調してもらって気分的に満足したいだけなんだろうな。

だから予め求めていたストーリーなり仮説なりにとって都合の悪い、気分の悪くなる話に対しては短絡的に「クソリプ ワーイ」になっちゃんでしょうねぇ。

そんな気分感情と直結した言動で科学的議論が深まるわけがないんですけどね。

「ヤンデル」だとか自称しているのも、要するにマイケル:サンデルの講義を見て自分の頭が良くなったかのような勝手な妄想に陥っているからこそ、「ボクチン大人だから。」的な発言も出てくるんでしょう。

そもそもサンデルの講義というのは認知行動療法的にご機嫌取りしかしないんですけどね。そこには気がつかないんでしょうなぁ。医師免許持っているはずなのにね。内科医的な知識しかない証拠だね。

サンデルの講義っていうのは予め生徒の答えを予測して、それに対する評価なり疑問点を予め用意しておくという周到な準備によるもので。だからこそ生徒の議論に対して即答することで、あたかも「頭の回転が速い=頭が良い」という錯覚を促しているに過ぎないわけです。

速度とか容量だけで知能を語ることは出来ないのであって、速度だけを取り上げて短絡的に「頭がいいわぁ。」なんて思うのは認知科学的根拠の全くない大衆観念に過ぎません。



しかし何でしょうね、「もう話しかけなくて良いですよー。」って。

要するに自分の観念にとって気分の悪い話は聞きたくないからもう話かけるな。っていう意味でしょうから、こういう感情論を科学的議論に持ち出すこと自体が科学者としてはポンコツで。組織の閉鎖性の原因でもあります。

もし間違った指摘をしているのであれば、「いや、そういう意味ではないですよ。もうちょっとちゃんと理解してね。」で済む話なんですが。短絡的に「クソリプ ワーイ」になってしまうというのは拒絶反応でしかないですね。

なぜ拒絶反応を示したのかと言えば、もしかするとイタいとこ突かれたからかも知れません。そもそもどこぞの病理医ちゃんが「生存の上で○○が役に立ったのだろうと推測することは大切だ」という趣旨の話をしたら「○○は生存のために役に立つ能力だったと言うとまるで生存を目的として機能が生まれたみたいになるけどそれは間違いです」とつっこまれたんですが、これ、すりかえですから……あぁーもうめんどくさいって言ってたけど、めんどくさいのは主観だし。下手すりゃイタいとこ突かれたことをごまかすための言い逃れとか取り繕いの可能性もなくもないんだけどね。

じゃなきゃ議論の途中でブロックするってどうなのよ。聞きたくないっていう感情論が先に立っているからでしょうよ。そもそも進化生物学的なこじつけに「面白い」って同意してたじゃねぇか。(今思い出した。)

科学的議論に拒絶反応持ち込んでいたら、「ガリレオ火炙り」と同じことで、到底科学的議論として成立しないんですけどね。まぁ、公然と「病んでる」って言っているので医者というよか病人なんでしょうけどね。

こういう偏差値が高いだけの承認欲求中毒患者がSNS上で集まっても、彼らは同じ観念を共有して気分的に安心満足感を得ることを目的にしているだけであって、科学的議論が成立しているわけではないことを、彼らは認識出来ないんでしょう。哲学界なんていうのはそういう連中の巣窟だからこそ東大から排除されたんでしょうね。

科学的議論というのは承認欲求中毒患者の気分が良くなるお花畑じゃないんですが。何せ思考や行動の動機の全てが他者から与えられる脳への報酬しかないので、「めんどくさい」だの「リスペクトしてくれねぇ。」という主観的感情論が先に立っちゃうんでしょう。

でもこういうヒトって決してどこぞの病理医ちゃんに限ったことではなくて、あらゆる組織腐敗の根底に隠れている現象なんですよね。

子供のイジメのキッカケでもありますよね。イジメ集団とかヘイトスピーチ達の排除心理と同じものですね。

個人の主観的感情論が排除の理由になる。イジメの場合は脅迫的で声のデカイ子供の扇動に他の子供が無意識につられてイジメが暴走する。

承認欲求中毒患者が自分の気分が良くなる相手の話しか聞かなくなるからこそ、論理的話が通じなくなる。オウム真理教とかISILなんてその最も先鋭的な例じゃないんですかね。

「Intelligence」という言葉には「情報局」の意味も含まれています。あらゆる情報を妙なバイアスをかけずに公平に評価してはじめてインテリジェンスなんですけどね。偏差値が高いだけの承認欲求中毒患者にはそういう冷静さはないんですね。

そんな心の狭い奴だからカミさんに愛想つかされたりするんじゃ(ry

多分カンファレンスでもパワハラ的発言でばっかりしていて研修医に嫌われてんじゃないのかね。あそか、だからツイッタランドに逃げてんだ。なるほどね。

までも、こんなに特定個人ばっかり挙げて分析していると、下手に何か呟いたりしたら自分も地獄の底まで追い詰められて分析されるんじゃないかとみんな怯えちゃうかもしれませんね。いや相手が自称「大人」って言っているし、向いてないにせよ一応科学者面しているから分析対象にしているだけなので、誰彼構わず分析するわけではないですし、もともと個人攻撃が目的でもないですから。(今更信じてもらえないだろうなぁ。)




Ende;
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○ご感想を頂きました。

2015年05月21日 14時29分41秒 | 意識論関連
ある方から感想を頂いたので、ここでご返事的なものを書いてみたいと思います。

「自らの主張を裏付けるために出してきたの が(既に多くの学者に議論し尽くされた話題 でありながら)学術論文ではなく、自らのブ ログであり、話にならない。」

科学的検証というのは特定組織(学術界も含めて)の内部の多数決で決まるものではないのです。科学哲学者のカール:ライムンド:ポパーは、「白いスワンをどんなにたくさん集めてきても、この世のスワンの全てが白いことの科学的証拠にはならない。」と述べています。

彼がいうところの「話にならない。」というのは、要するに「にわかには信じ難い。」と述べているに過ぎず。少数派とか異端であるから排除しようとしているに過ぎないのではないでしょうか。

別に「信じる」とか学術内部での「多数派」ではないとかいう話はどうでも良いんですよ、議論ですから。科学的議論の問題提起の権利を否定する権利があなたにあるわけではありません。科学的議論の権利は誰にでも自由でなければならないのです。

「多くの学者によって議論されてきた」とのことですが、実際には進化生物学者の誰もこのことには触れたことはなく。全く議論なんかされてなどいません。(後述します。)

結果と目的を厳密に区別することというのは、進化生物学界では長い間放置されてきたものなのです。



「そもそも議論 (review)自体が検証のプロセスだと思うの ですが、それは置いといたとしても、他者に よる検証を経てもいないあなたのブログを証 拠として使おうなど論外だということです。」

これも同じですね。「他者による検証」に依存している時点であなたの自律的な論理検証を放棄していることになります。本当に科学的興味があるのであれば、ご自身でも検証してみてはいかがでしょうか。

科学的議論の過程ですから、意見が「証拠」として権威による認証がなければならない必要性はありません。既に学術界内部で認証された「証拠」しか信じないというのであれば、それは学術内部の間違った「証拠」も鵜呑みにしてしまい批判精神もすったくれもない、単なる学力成績中毒の学生レベルの話でしかありません。

「僕は高校3年生の時の偏差値が80ほどだった が、三年間ほとんど勉強していない。賢さと 承認欲求は常にセットではない。」

学習障害という症状が存在するのと同様、その逆に学習に異常に適した人というのがいてもおかしくはありません。そもそも「学力=賢さ」という基準自体を何らご自身では検証されていないから短絡的に偏差値をご自慢されているのだけなのではないでしょうか。

このように学生時代にどんなに偏差値が高くても、「学力=賢さ」といった基準には認知科学的な根拠がないといった知能論についての見識にも自発的興味も持たれなかったのでしょう。

学生時代の学力成績というものは認知科学的な本質的知能の論証にはなっていません。

例えば、通り魔とか銃乱射事件の犯人の多くは学生時代に学力が高かったケースが意外と多いんです。これらの無差別殺人犯達が「賢い」わけではないのは言うまでもないでしょう。

ISILとかオウム真理教の幹部達にも偏差値の高い人は多いそうです。

東京電力で原発の安全管理をしていた人達も、偏差値が高くなければなれない職業です。

ですから偏差値というものは何の自慢にもならないのです。

多分お若い方なので、あまりそういったことにも知見をお持ちでないのかも知れません。



「信じたい」とか「信じたくない」といった気分的バイアスは何の科学的検証による「証拠」にはなりません。

ほとんど私以外誰も言わないような突拍子もない話でもあるので、にわかには信じたくないというお気持ち(大脳辺縁系が促す思考バイアス)はわからないでもないですが。気分的なバイアスを短絡的に科学的証明か何かとすりかえるのは間違っています。

とは言うものの、承認欲求中毒と学力との相関がないという話は確かかも知れません。もちろん承認欲求中毒患者が必ずしも学力成績競争という土俵でしか発揮されないというものでもありません。

学力が低くて承認欲求が暴走するからこそ、暴力団や半グレなどの暴力集団内部での評価で承認欲求を満たそうとするからこそ、先天的本能習性としての「社会形成習性」を存分に発揮してしまうのです。

暴力団が暴力性を評価承認基準にヒエラルキーを作り、統率的に役割分担をすることは、イヌなどの動物の社会形成習性と良く似ています。これを生物学では長い間「社会性」と形容して、短絡的に人間性を伴った知能か何かとゴッチャにしてきました。

このように、先天的な本能としての社会形成習性というものが、人間性を伴った社会性とは異なるという話はほとんど誰も議論してこなかった領域なのです。

偏差値というものを短絡的に知能だと錯覚していれば、テストやクイズの点数を短絡的に知能とか人間としての優位性か何かと勘違いするのは当然でしょう。

教えられたこと以外何も自分では発想することも、検証することも出来ないのにどうして「知能」だと言えるのでしょうか。そこはもう少し深く考えて欲しいものです。

ですが反論する権利まで否定するつもりはありません。若い方であれば知らないことがあっても何ら問題はありません。質問や感想は歓迎します。

それこそ「恥ずかしい」なんていう気持ちで萎縮している方が良くありません。「気持ち」という思考バイアスこそが科学的論理思考の最大の障害でもあるからです。

出来れば私としては理論的な反証のようなものを頂ければと思っているのですが、なかなか難しいようですね。科学的議論というのはあまり焦らず、じっくり時間をかけて検証する必要性があります。純粋にご興味をお持ちであれば参考になさったり、ご自身で検証してみてはいかがでしょうか。

言っておきますけど、別に個人攻撃しているわけではないですからね。科学的議論の段階においては「まちがったっていいじゃないか にんげんだもの」(あいだみつを)ってことです。科学的議論というのは結論さえ間違えなければいいんです。



Ende;
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○科学的議論に向いてないタイプ。

2015年05月21日 11時52分40秒 | 意識論関連
海外での研究だったと思うけど、殺人犯の脳を医学的に分析すると連続殺人犯と衝動殺人犯に違いがあったそうです。

連続殺人型というのは大脳辺縁系の活動が活発で、いわゆる「熱しやすく、冷めやすい」タイプで。衝動殺人型というのはその逆で、「普段おとなしいのだけれど一旦感情的になると手がつけられなくなる」タイプになる。

燃料で例えるとメタノールタイプと備長炭タイプとでも言えるかな。こうした分類は殺人犯に関わらず、あらゆる人にスペクトラムとして存在する傾向で、個体の性格に大きく影響を及ぼす。

で、おいらは後者にあたる。

なので、他の人から較べると物凄い「根に持つ」タイプで、一つのことを徹底的に突き詰めないと気が済まない。

しつこいタイプなのね。

地獄の底まで追求しないといられないのよ。



それに対してどこぞの小型犬みたいに吠えまくる病理医ちゃんは前者、連続殺人型に分類される。

連続殺人型っていうのは大脳辺縁系の活動が活発なので、元々感情が行動に直結しやすい性質があって。こういうヒトが承認欲求中毒(いわゆる「甘え」)と組み合わさると自律的に論理検証することが出来ないヒトの出来上がり。

どっかの病理医ちゃんみたいなヒト(あくまで個人攻撃じゃないからね、そういうヒトって結構あちこちいて、普遍的で一般的な傾向でもあるから。)っていうのは、子供のイジメのキッカケみたいなことを平気でやっておいて、他人に「恥ずかしいからやめとけ」とか言い出す始末。

恥ずかしいのはどっちでしょうねぇ。

そこは考えが及ばないんでしょうねぇ。

そんなんでどうして「ヒトという種の生物の科学的分析」をするつもりでいるんでしょうねぇ。

「攻めすぎ」なんてのも、おかしな話で、科学的分析に攻めるも守るもありゃしないんですよ。科学的分析っていうのは徹底的に理論で詰めて真理に近づくものであって、どんなに時間や労力をかけてでも真理に近づくことに意味があるわけです。

ところが連続殺人型+承認欲求中毒タイプのヒト(以下、めんどくさいので「どこぞの病理医ちゃんタイプ」と略す。)というのは、論理的思考よかその場限りの感情が優先してしまうために、外見的な体裁ばっかり優先しちゃうので「守り」だとかいう概念で議論しようとする。

それが一番科学的検証にとって害になる。

承認欲求中毒というのは、学生時代に学力競争による優位性ばかりに意識を奪われ、「学力=知能=人間としての優位性」といった、大衆観念的価値観をまるまる鵜呑みにすることでも生ずる症状です。

承認欲求中毒というのは、そもそもが「甘え」ですから。他人からの評価という、いわば他人から与えられる脳への報酬に対して条件反射的無意識に他人目ばかりが優先してしまう。

子供が親大人から誉められることばかりを求め続けた結果、誉めてもらう相手が多数や権威に転移することで、目先の多数や権威に同調的で自律のないヒト全般に生ずるものなので、どこぞの病理医ちゃんのように高学歴だけに見られるタイプではありません。

先天的要因などで学校での学習が苦手な人の場合、学力という基準では「勝ち目」がないために、暴力などの他の基準で優位性を確保しようとする場合もあります。

なにが何でも「俺の方が上に立ちたい」という、本能的欲求に対して自律的なブレーキが効かないので、些細なケッカケでイジメとかヘイトスピーチなどに加わることで、目先の優越感を満足感させることばかりに意識が働いてしまう傾向が見られます。

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ただ、そもそも学校での学力競争だけが人間の価値を決めるようなものではないので、道徳教育のペーパーテストで「殺人は悪いことかどうか、○×で答なさい」という設問で○を書けば殺人をしなくなる的な安易で簡単なものではありません。

こうした短絡的評価基準というものは、学力試験全般に存在するものであって。諺の類の「量」なんぞで国語力を評価するような設問などは、日常親大人との会話や、会話している大人そのものによっても異なるものですので、こんな基準で子供を評価するのは実はかなりとんでもない話でもあります。

現在の学力基準というものの異常性というものは他にもたくさんありますが、それはまた別の機会に。

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目先の優位性ばかりを追求している人の場合。目先の多数派や権威からの評価を優先してしまうために、自発的で自律的な自分の考えというものが全く働きません。 そのためどこぞの病理医ちゃんみたいに「恥ずかしいからやめておけ」的な発言が出てくるわけです。

こういうヒトの場合、恥ずかしいかどうかの基準は多数派や権威に依存しているために。客観的に見ればとんでもなく恥ずかしいことであっても、自分の中にある価値観でしか物事を判断しないために。ISILとかヘイトスピーチに加わっても気分的には「平気」なんですね。

そこには客観性というものが存在しない。

だからどこぞの病理医ちゃんが小型犬のように吠えまくりながら他人に「恥ずかしいからやめとけ」なんていう支離滅裂なことも「恥ずかしく」はない。

その場限りの優越感ばかりを追求していて、考えに深みがない。物凄い薄っぺら。(多少は個人的怨念も入っているかもね。申し訳ない。衝動殺人型なので地獄の底まで追求しちゃうかもね。)

こういうヒトがどんなに科学的議論を真面目にしたつもりになっても、所詮は多数派や権威の顔色窺いからは逃れられないので、自由に物事を考えることが出来ないわけです。だから科学者には向いていない。

どっかの病理医ちゃんみたいにたかだか5000弱のフォロワ内部での賛同なんていうのは、世界人口からすればサンプル抽出としてはあまりに少なく、また偏りも激しく、科学的議論の査読なんぞには全く値しないことは、言うまでもないでしょう。そもそも「チンコ」ばっかり呟いて人気取りをしているようなアカウントのフォロワですしね。

にも関わらず、「恥ずかしい」とはなんでしょう。自己客観性が欠如しているにも甚だしい。

きっと、事故前の東電社内で原発の危険性を論ずることもさぞかし「恥ずかしい」ことだったに違いありません。

ナチス政権下のドイツにおいても、「ユダヤ人を差別するな。」なんて主張はさぞかし「恥ずかしい」ことだったでしょう。下手すりゃ差別対象です。ヴァルター:ベンヤミンのようにスイス山中で自害しなきゃならないかもしれません。

これらのことから言えるのは、自分が生活している世間の内部における「恥ずかしい」なんていう基準はアテにならないということです。環境に依存した価値観にしかならないですから。

環境依存的価値観が優先していれば、必然的に自律は失われます。

本論(意識論)に限らず、危険学においても最も重要なのは「個人が自律的に社会的責任判断を行う。」ことであり。自律が失われることというのが社会にとって最大の損失をも生み出すのです。



権威などに対し議論をふっかけると、大衆の多くは「勝ち目がないから、やめておけ。」的なことを言い出します。これも目先の勝ち負けを基準とした話でしかないため、科学的議論を深める上においても障害となる感情論(思考バイアス)に過ぎません。

このように、感情気分といった大脳辺縁系が促してくる行動バイアスは、科学的論理検証性に対して阻害するような働きをすることが少なくありません。

むしろ大衆的な固定観念に迎合しておいた方が、多数派同調バイアスを満足させることが出来るため。ヒトの多くは科学的議論がどんどん苦手になるわけです。

科学的議論というのは、真理を追求するためのものであって。他人からの承認欲求を満足させるためのものではありません。しかし学校教育で学力競争にばかり執着していれば、試験の点数という評価だけが学力追求の動機になってしまうために。学力評価という「エサ」に対する条件反射的情動行動としてでしか頭が働かなくなるのです。

承認欲求中毒患者にとっては、他人からの承認なしで物事を深く突き詰めることは厳しいことだと「感じる」ようですが。そうした「感覚」こそが中毒症状に他ならないのです。

主観的感覚が優先しておいて科学的客観性が出てくるわけがないんですよ。当たり前でしょ。

科学が厳しいというのは、実は承認欲求中毒患者にとっての主観的感想に過ぎないのであって。それがない者にとっては厳しいという感覚がありません。

なので、もしかすると私は研究者に向いているのかも知れませんけど。そもそも研究組織に限らず一般的に集団組織が持つ閉鎖性にこそ興味があるので組織に属するつもりも最初からなかったんですね。組織の中にいたら組織批判が難しくなることは最初からわかっていたことですから。



お腹がすいたのでペヤングタイム。




Ende;
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○サンデル中毒。

2015年05月21日 00時45分24秒 | 意識論関連
マイケル:サンデルなんてのも、結局は認知行動療法の手法を応用することで、あたかも学生が自分で何かを考えたような錯覚に陥れることで、生徒達のご機嫌取りによって人気を得ているだけなので。サンデルなんぞを信奉している時点で既に学生レベル。

学生達はサンデルの講義で気分的に満足感を得たことを、短絡的に「自分の頭が良くなった」と勘違い妄想しているだけであって、所詮はサンデルが用意した思考パターンに誘導されているだけで、自分から何か新しい考えが出てくるようになるわけでもない。

実際サンデルの講義受けたからといって、誰も思いつかなかったような新しい考えが思い付いた事例はきいたことない。

人気があるからといって、それが短絡的に教師として優秀であることの証明にはならない。 そもそも人気があれば「頭が良くなる」ことにどうしてなっちゃうのよ。

そういう検証性をすっ飛ばして人気と満足感だけで絶賛する短絡性というのは、気分が判断に直結してしまっているからなんですよね。



認証欲求中毒っていうのは、中毒ですから気分感情が行動や思考に直結してしまっている状態でもあるため。気分良く満足感を与えてくれる相手を短絡的に「頭が良い人だ」と思い込むことにも陥りがちです。

「がち」っつうよか、実際それしかないんですけどね。

それはイヌが服従欲求を満たしてくれる相手を盲目的に信頼し服従したがることと良く似ています。

サンデルとか池上彰は生徒が質問をすると、「それは良い質問ですね。」的に誉めます。サンデルの場合には講義の終わりに「今日はとても良い議論が出来ました。」などとも言いますね。これらは全て生徒のご機嫌取りに過ぎません。

サンデルは生徒達に特定条件下における答の出ない判断を求めます。その条件下から導き出される判断というのは限定されたものしかなく、所詮はサンデルの用意したパターンの中の判断しか出て来ることはなく。全く新しい考えが出てくるわけではないのです。それでも「促された思考」によって、あたかも生徒達は「自分の頭が良くなった。」或は「自分で何かを考えた。」かのような錯覚に陥って満足しているに過ぎないのです。

これは認知行動療法の手法の応用に過ぎません。

認知行動療法っていうのはうつ病患者の治療などに用いられるものですから、気分が改善するのも当然です。

ですからサンデルの講義をどんなにたくさん受けても、自分自身で自律的に物事を考えるようには構造的になりません。他者から考えを促されないと自分からは自発的には考えないようにもなってしまうからです。

実際サンデル信奉者達の多くは権威主義的で自律的判断を拒絶します。もう具体的に誰とは言いませんけどね。個人攻撃が目的じゃありませんから。

このように認証欲求中毒者というのは、気分的満足感で盲目的に信奉するのと同時に、気分的に嫌な話をする相手を猛烈に攻撃するようにもなるのです。それはあたかも小型犬が吠えまくる姿と良く似ています。

承認欲求中毒というのは、承認してくれる相手に依存した「甘え」でもあります。承認という他者から与えられる脳への報酬だけが判断基準になってしまうため、論理検証をすっ飛ばして気分感情が行動や思考に直結してしまうのです。



Ende;
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