従来の進化生物学における結果と目的を混同したこじつけ論法は、ナチズムがユダヤ人虐殺の理由として挙げた優生学の否定を妨げて来ました。
進化生物学的なこじつけ論法が間違いであることは、最近になって浸透してきたようですが、それは単なる進化生物学上だけでの問題ではなく、倫理や人間性の問題や、社会性とは何かといった話までをも撹乱する大変危険な問題をも孕んでいるのです。
基礎医学だかクソ医学だか知りませんけど、特定個人が提起した命題に則った議論しか受け付けないなどという、身勝手で普遍性を持ち得ない議論は科学的議論ではありません。
なぜ、どこぞの病理医ちゃんのように普遍性を持ち得ない議論の殻の中だけで話を進めようするのかと言えば、それによって自分達の主観的満足感を得るための身勝手な動機であるため。都合の悪い話を拒絶するようにもなるわけです。
自然科学というのは専門家以外が議論してはいけないなどという排他的なものであってはなりません。物理的においてはこうした排他性は見られませんが、生物学や哲学などの多くでは専門家の内部だけで勝手に満足ばかりを追求し、優生学すら論理否定してこなかったなどというオカルトが平気まかり通っていたのです。
「気分感情というものには、何らかの意味だとか目的がある」といった身勝手な議論は、優生学をも肯定することになり。社会にとって害をなすことはあっても、科学的普遍性を一切持たないオカルトに過ぎないのです。
「学術界で充分に議論されている。」というのは、実際には議論をしたつもりとか、議論している風味を装っているだけであって。実際には未だに「ボノボの行動習性から先天的に倫理性を獲得したことを立証した。」などというトンデモ理論が提唱されているのです。
進化生物学界においては、「社会性」と称してイヌなどが統率的に役割分担を行うことを短絡的に目的論に基づいた知能であるかのように論じて来ました。しかし、そんなもので人間としての倫理(自律的な社会的責任判断)などというものが先天的に組み込まれていることの論証にならないことは明らかなのです。
どんなにイヌやサルの行動習性の中から、あたかも倫理性に「見える」行動結果を抽出してきても、それは目的意識的に選択された行動であることの論証にはなりません。
生物学的な社会性、すなはち先天的な社会形成習性というものは、シエラレオネの少年ゲリラやISILにも、ナチズムや暴力団などにも見られるものであり。特定集団組織の内部において、統率的に役割分担を行うためには必要不可欠なものでもあるのです。
凶悪な過激派組織の構成員の行動結果の中から、どんなに過激派組織の内部にとって倫理的に見える行動を抽出枚挙しても、それが過激派の狂暴性の反証にならないことは明らかであり。進化生物学的に先天的本能習性から倫理性を立証することは構造原理的に不可能なのです。
統率的に役割分担が出来さえすれば、これが短絡的に人間性を伴った社会性の論証になるわけではないことは既に自明であり。イヌやサルの行動習性の観測から都合主義的に本能習性という「結果」を抽出してきて「先天的に倫理性が獲得されている。」などという話はオカルト以外の何物でもありません。
ヒトという種の生物にも、イヌやサルに見られるような「社会形成習性」が見られます。先天的に組み込まれた様々な行動バイアスの「結果」として、権威に服従することや、多数派に同調することで集団組織的統率行動を採ることは可能ですが。こうした本能習性という「結果」が導く「結果」というのは、大部分において封建的で権威主義が蔓延した閉鎖的な集団組織の形成を促し、個々の個人が自律的な社会的責任判断を行うことの出来ない危険な組織形成の原因でもあるのです。
時折、イタズラをした子供を叱ると、叱られた子供が喜ぶという事例が見られます。これは、自分自身で自分の行動を抑制することを放棄し、「叱ってくれる大人」への服従する本能が満足させられたことから喜んでいるわけです。
暴走族も警察に逮捕されると、その場限りに大人しくなります。凶悪犯も刑務所の中では刑務官という権力者に対してだけは従順さを発揮するからこそ、凶悪性を内部に保ったまま釈放されて再犯を繰り返すのです。
ヒトという種の生物は、権威とみなした相手に服従することが安心なように先天的に出来ており。この気分的安心は、同時に権威に対する盲目性をも作り出し、結果的に個人が自律的な社会的責任判断を放棄する原因でもあるのです。
権威服従性の危険性については、スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験、通称「アイヒマン実験」において立証されていますが。ミルグラムの論文にもあるように、「サイバネティクスの観点から」という、従来の進化生物学的こじつけ論法に基づいた考察もされており、これが間違いであることは既に述べました。
権威服従性の危険性については、失敗学や危険学においても危険性の原因として何度も採り挙げられているものであり。個人の自律的な社会的責任判断を蔑ろにする重大な要因でもあるのです。
「査読がついた論文でありさえすれば論理的に正しいものである。」という考え方は、審査を行った権威に対する批判精神を欠いた盲目性の原因でもあり。自律判断の放棄に他なりません。科学的考え方が苦手で判断出来ないというのであれば致し方ありませんが、頭ごなしに権威を盲信しておいて自分では何も検証しないという態度は科学者としてポンコツにも程があります。
権威に対して盲目的に「信頼」しておけば、ヒトという種の生物は先天的本能習性として気分的安心満足感を得ることができます。そのため、権威という「多数派の承認を得た相手の言っていること」に対して何の疑問も持たないようになるという思考停止バイアスが働くことで、自律的判断を放棄するようになるのです。
ヒトという種の生物の先天的な権威服従性の源は「甘え」に由来します。「甘え」とは子供が親に対して盲目的に信頼することであり、自律的に判断することの出来ない幼児の行動抑制に用いられる服従性の応用です。
ポーランドアウシュビッツ絶滅収容所の吏官がなぜユダヤ人殺害計画書の作成に邁進したのか、その動機はナチス政権からの「承認」欲しさに依るものです。
人体ピラミッドで悪名高い吉野義郎教諭が危険な組み体操に異常執着することも、結局は保護者達などの多数派からの「承認」を動機としているからです。
そもそも「権威」とは、多数派による承認に過ぎず、「権威」性自体には科学的根拠があるわけではありません。どんなに科学者達の多数決によって承認された権威であろうとも、その権威性自体には科学的根拠など存在しないのです。
ですから、学術権威が権威として相応しいのかどうかは、特定学術組織の内部だけで決め付けずに、外部からの監査を必要とすることは珍しいことではありません。
自律的に論理検証をしないバカが、どんなにたくさん集まって権威だと言い張っても、そこに科学的価値が存在することの論理証明には一切ならないのです。
Ende;
進化生物学的なこじつけ論法が間違いであることは、最近になって浸透してきたようですが、それは単なる進化生物学上だけでの問題ではなく、倫理や人間性の問題や、社会性とは何かといった話までをも撹乱する大変危険な問題をも孕んでいるのです。
基礎医学だかクソ医学だか知りませんけど、特定個人が提起した命題に則った議論しか受け付けないなどという、身勝手で普遍性を持ち得ない議論は科学的議論ではありません。
なぜ、どこぞの病理医ちゃんのように普遍性を持ち得ない議論の殻の中だけで話を進めようするのかと言えば、それによって自分達の主観的満足感を得るための身勝手な動機であるため。都合の悪い話を拒絶するようにもなるわけです。
自然科学というのは専門家以外が議論してはいけないなどという排他的なものであってはなりません。物理的においてはこうした排他性は見られませんが、生物学や哲学などの多くでは専門家の内部だけで勝手に満足ばかりを追求し、優生学すら論理否定してこなかったなどというオカルトが平気まかり通っていたのです。
「気分感情というものには、何らかの意味だとか目的がある」といった身勝手な議論は、優生学をも肯定することになり。社会にとって害をなすことはあっても、科学的普遍性を一切持たないオカルトに過ぎないのです。
「学術界で充分に議論されている。」というのは、実際には議論をしたつもりとか、議論している風味を装っているだけであって。実際には未だに「ボノボの行動習性から先天的に倫理性を獲得したことを立証した。」などというトンデモ理論が提唱されているのです。
進化生物学界においては、「社会性」と称してイヌなどが統率的に役割分担を行うことを短絡的に目的論に基づいた知能であるかのように論じて来ました。しかし、そんなもので人間としての倫理(自律的な社会的責任判断)などというものが先天的に組み込まれていることの論証にならないことは明らかなのです。
どんなにイヌやサルの行動習性の中から、あたかも倫理性に「見える」行動結果を抽出してきても、それは目的意識的に選択された行動であることの論証にはなりません。
生物学的な社会性、すなはち先天的な社会形成習性というものは、シエラレオネの少年ゲリラやISILにも、ナチズムや暴力団などにも見られるものであり。特定集団組織の内部において、統率的に役割分担を行うためには必要不可欠なものでもあるのです。
凶悪な過激派組織の構成員の行動結果の中から、どんなに過激派組織の内部にとって倫理的に見える行動を抽出枚挙しても、それが過激派の狂暴性の反証にならないことは明らかであり。進化生物学的に先天的本能習性から倫理性を立証することは構造原理的に不可能なのです。
統率的に役割分担が出来さえすれば、これが短絡的に人間性を伴った社会性の論証になるわけではないことは既に自明であり。イヌやサルの行動習性の観測から都合主義的に本能習性という「結果」を抽出してきて「先天的に倫理性が獲得されている。」などという話はオカルト以外の何物でもありません。
ヒトという種の生物にも、イヌやサルに見られるような「社会形成習性」が見られます。先天的に組み込まれた様々な行動バイアスの「結果」として、権威に服従することや、多数派に同調することで集団組織的統率行動を採ることは可能ですが。こうした本能習性という「結果」が導く「結果」というのは、大部分において封建的で権威主義が蔓延した閉鎖的な集団組織の形成を促し、個々の個人が自律的な社会的責任判断を行うことの出来ない危険な組織形成の原因でもあるのです。
時折、イタズラをした子供を叱ると、叱られた子供が喜ぶという事例が見られます。これは、自分自身で自分の行動を抑制することを放棄し、「叱ってくれる大人」への服従する本能が満足させられたことから喜んでいるわけです。
暴走族も警察に逮捕されると、その場限りに大人しくなります。凶悪犯も刑務所の中では刑務官という権力者に対してだけは従順さを発揮するからこそ、凶悪性を内部に保ったまま釈放されて再犯を繰り返すのです。
ヒトという種の生物は、権威とみなした相手に服従することが安心なように先天的に出来ており。この気分的安心は、同時に権威に対する盲目性をも作り出し、結果的に個人が自律的な社会的責任判断を放棄する原因でもあるのです。
権威服従性の危険性については、スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験、通称「アイヒマン実験」において立証されていますが。ミルグラムの論文にもあるように、「サイバネティクスの観点から」という、従来の進化生物学的こじつけ論法に基づいた考察もされており、これが間違いであることは既に述べました。
権威服従性の危険性については、失敗学や危険学においても危険性の原因として何度も採り挙げられているものであり。個人の自律的な社会的責任判断を蔑ろにする重大な要因でもあるのです。
「査読がついた論文でありさえすれば論理的に正しいものである。」という考え方は、審査を行った権威に対する批判精神を欠いた盲目性の原因でもあり。自律判断の放棄に他なりません。科学的考え方が苦手で判断出来ないというのであれば致し方ありませんが、頭ごなしに権威を盲信しておいて自分では何も検証しないという態度は科学者としてポンコツにも程があります。
権威に対して盲目的に「信頼」しておけば、ヒトという種の生物は先天的本能習性として気分的安心満足感を得ることができます。そのため、権威という「多数派の承認を得た相手の言っていること」に対して何の疑問も持たないようになるという思考停止バイアスが働くことで、自律的判断を放棄するようになるのです。
ヒトという種の生物の先天的な権威服従性の源は「甘え」に由来します。「甘え」とは子供が親に対して盲目的に信頼することであり、自律的に判断することの出来ない幼児の行動抑制に用いられる服従性の応用です。
ポーランドアウシュビッツ絶滅収容所の吏官がなぜユダヤ人殺害計画書の作成に邁進したのか、その動機はナチス政権からの「承認」欲しさに依るものです。
人体ピラミッドで悪名高い吉野義郎教諭が危険な組み体操に異常執着することも、結局は保護者達などの多数派からの「承認」を動機としているからです。
そもそも「権威」とは、多数派による承認に過ぎず、「権威」性自体には科学的根拠があるわけではありません。どんなに科学者達の多数決によって承認された権威であろうとも、その権威性自体には科学的根拠など存在しないのです。
ですから、学術権威が権威として相応しいのかどうかは、特定学術組織の内部だけで決め付けずに、外部からの監査を必要とすることは珍しいことではありません。
自律的に論理検証をしないバカが、どんなにたくさん集まって権威だと言い張っても、そこに科学的価値が存在することの論理証明には一切ならないのです。
Ende;