書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○もうちょっと小言。

2015年05月20日 20時52分56秒 | 意識論関連
「review(査読)つき論文でもないのに信じられない。」ってヤンデル先生言ってたけど、reviewが大量についていたとしても、そのreviewが正しいのかどうかも検証しないのであれば科学者としてはデクノボーですけどね。(また嫌な小言って申し訳ない。)医師だからい井の頭公園。

どんなに審査されていても、その審査自体が正しいのかどうかを審査をするのは読む人(専門の科学者である必要性はない。)に委ねられているのであって、権威者による査読がないから語るに足らないというのは自律的検証性が欠けており。権威主義丸出しです。

そもそも京都大学の有名な教授の間違いを指摘している内容を、理論的に正しいなんて言い出したら学会干されちゃいますから生物学者の誰も審査なんか手を出さないでしょうね。そうやって組織腐敗っていうのは放置されるんですよ。

「恥ずかしい」という感情の正体とは、多数派に迎合していないことに対する違和感や恐怖心に起因するものであって。その場限りの気分感情の話でしかなく、科学的な普遍性をも蔑ろにする原因でもあります。

ノーベル賞受賞者の山中伸弥教授が学界内部で「じゃまなか」よばわりされていれば、他人から見て「恥ずかしい」ことになるんでしょうけど、そんな外見的観念こそが科学的普遍性の追求を阻害する気分的バイアスでもあるのです。

ヒトという種の生物には、多数派同調バイアスというのがあって多数派の意見に気分的安心満足感を得てしまうことで自律的な論理検証をすっ飛ばしてしまう原因でもあります。

自分で判断しなけりゃ責任持たなくて良いしね。

東京電力福島第一原発の津波に対する危険性というのは、実は事故前から社内においても上がっていた話なんだそうですが、それに対して上司が「津波の危険性まで考慮に入れれば日本の何処にも原発なんて作れない。」という「作ることありき」の論理を持ち出して粛正したと言います。

こうした権威への服従性が組織腐敗への批判性を失わせる原因なのです。

批判精神というのは科学的考え方にとって、とても重要なものです。東京大学学長が「全てを疑え」と述べたのは、観念的猜疑心を勧めているわけではなくて、大多数への同調や思い込みを捨てる必要性があることを論じているのです。

科学者のはしくれであるなら多少なりとも論理的反証でもすりゃ良いのに、それをすっ飛ばして「俺の気分が悪い。」だとか「リスペクトしてくれねぇ。」的な発言は、ほとんど駄々っ子としか思えないですね。

予め用意したストーリーなり仮説にとって都合の良い現象だけを抽出してきて科学的立証か何かと勘違いしてるようでは科学者としての社会的役割を全く果たしていません。しかし、進化生物学界はそれだけで「立証」だと言い続けてきたんですよ。ですからこうした進化生物学的コンテキストを鵜呑みにして何かを立証したつもりに陥ることはダメなんですぅ。(ここ重要)主観的に面白いから科学だなんて話は要らないんですよ。そこの指摘は間違えてないでしょ。

どんなにツイッター上で多数派からの同意されようと、ファボられようと、それはその場限りの満足感に溺れているに過ぎません。ファボられて満足することと科学的検証をゴッチャにするのは間違いです。

科学的議論をする上では予め期待していた気分的満足感が得られないことも珍しいことではないですから。

承認欲求でしか思考や行動の動機が得られないのであれば、それは科学者に向いていないと言えるでしょう。たとえどんなに学力成績が高くてもです。知識の「量」ばっかり自慢して「お前は何も知らない素人だから黙っとけ」といった発言は学術界に限らずあらゆる組織集団の閉鎖性の大きな要因でもあります。

人体ピラミッド問題で有名な吉野よしろう教諭も、その承認欲求中毒だからこそ危険な人体ピラミッドに固執するのであって。科学者であるならそういった承認欲求からは自由である必要性があるのです。

さぞかしたくさん勉強なされて苦労して医師になったのかも知れませんけど、その努力が「他人から誉められる」という承認欲求だけを目当てに学力競争に駆り立てられていたからこそ承認中毒に陥り、論理検証性を喪失してイエスマンに囲まれることばっかり求めるようになれば、必然的に自分の観念にとって都合の悪い話に耳を貸さなくなるわけです。

あいや、別にヤンデル先生個人攻撃が目的ではなくて、一例としてヤンデル先生を挙げているに過ぎなくて。こうした性質はヒト全般に見られる普遍的性質(結果としてのね。)であって、その医学的な「正常性」は人間として正しい判断の論証にはならないよって話です。

ただ心理臨床的な観点からは認知行動療法的アプローチを用いて、あたかも自分から気付いたような錯覚を導き出して納得感によって理解させるような「手法」もあるんでしょうけれども。でも相手は一応医者なのでそういう気遣いみたいなものは患者扱いになって逆に失礼かなとも思ったり。 そういうリスペクトの形はあんまり理解されないのかな。

医者免許をお持ちであるなら研修期間に献体解剖もなされたと思いますから、社会のために心理分析の献体として扱わせて頂いても良いかなとも思うのです。 同意は得てませんけど、ツイッター上で公然と述べている以上分析されても文句は言えないでしょう。まがりなりにもつぶやいたのはヤンデル先生の「意思」なんですから。発言責任ってもんはあるはずでしょ。

そもそも私は心理臨床で食っているわけでもないですし、先生のご機嫌取りしたって金になるわけじゃないですからご機嫌取りは一切しませんよ。そんな義務ないですから。それとも誰かにご機嫌取りをしてもらうことを前提としてしか何も考えることが出来ないんでしょうかね。

ヤンデル先生がどういった家庭環境で育ったのかなんか知りませんけど、学力競争を強迫観念的に強制されて育ったから承認欲求中毒に陥っているんじゃないですか?。人体ピラミッド吉野よしろうの異常執着性も同じ承認欲求中毒が原因だと考えられる以上、そうならないようにどうしたら良いのかは自ずと答えが出てくるでしょう。

いや、勘違いされても困るのですが、別に気分的に凹んで欲しいわけじゃないんですよ。気分の話なんかじゃなくて、成育環境における普遍的失敗例であるなら社会的教訓にも出来る可能性があるわけであって、別に個人攻撃して優越感に浸って満足したいわけでもないんですよ。

そういう「上」とか「下」といった優劣順位序列に異常執着するのも承認欲求中毒患者に普遍的に見られる傾向です。そんなこたどうでも良いんです。そもそもヤンデル先生が何を述べているのかを正確に把握せずに指摘し始めたこちらの過失もあるわけですし。

私が知りたいことや分析したいことは、ヒトという種の生物に普遍的に見られる危険性なのです。それがこの文章(意識論)の「目的」であって、先生が気分的に満足することも機嫌を損ねることも、どうでも良いことなのです。ご機嫌取りをしてほしいのであればキャバクラにでも行って存分に誉めてもらえばいいんじゃないですか。読みたくない理解したくないというなら読まなくて結構です、あくまで普遍的で一般的な現象の例として挙げているだけですから。

ヒトの先天的な情動というものが、どのようにしてどう働いているのか。そのご自分の感情すら客観的に検証することも出来ないのに、どうしてヒトという種の生物についての科学的議論が成立すると言うのでしょうか。

だから科学的議論に向いてないって言っているんです。残念ながら。御愁傷さまです。

最近になって教育現場では、強迫観念的な詰め込み学習だけではなく自分自身で考える能力の重要性が取り沙汰されるようになりましたが、ヤンデル先生が学校に行っていた頃にはそういう対策はほとんどされていませんでしたから、無理からぬ事態だとも言えるでしょう。だからといって何も言ってはいけないわけではないでしょ。

「めんどくせぇ奴だな。」と主観的に思われることは、どうぞご自由に。めんどくさいことを考えずに科学もすったくれもないんですよ。安易に簡単に気分良く答えが出るなら科学的考えなんて最初から要らないんですから。ヒトの脳が先天的かつ自動的に科学的検証が出来るんだったら科学教育なんて要らないんですよ。

心理の専門家であっても「クリティカルシンキングとかロジカルシンキングとか嫌い。」なんて公言しているくらいですから、そういう人は掃いて棄てる程います。それでも医学的には「正常」と診断するんでしょうけど、そりゃ内科の基準でしかありません。そういった「普通の人の感覚」がナチズムを助長した原因でもあるのです。ヘイトスピーチで怒鳴り散らしている人達だって内科医学的には健康で正常なんですから。

子供のイジメのように主観的に「めんどくせぇ。」だとか「クソリプ」などと煽っておいて、一体何を科学的に分析するつもりなんでしょうか。科学者だったら少しは冷静に論理検証する余裕ってもんを持つべきなんじゃないですか。

私はあんまり他人から承認されることには興味がないので感覚的には「何でこの人こんなにキレてんだろ」としか思っていません。よくわからないんですよ、承認欲求中毒患者の心理なんて。

私の母親は私が何をやっても否定することで自分が優位に立って服従させようとする人でしたから、誉められて育った記憶が全然ありません。他人のご機嫌取りが下手くそなのもそこに原因があるのかも知れません。でも別に意図的に気分を悪くしようとするつもりがあるわけではなく、多分そういうのも苦手なだけなんだと思います。

それでも一応長い文章で説明したりするのは、それなりの尊敬なり期待なりがあるからであって、ISILの構成員とかヤクザとかネトウヨ相手にカウンターで説明する気にはならないです。そういうのは伊勢崎賢治さんにでもやって頂いた方が良い結果が得られると思うからです。




Ende;
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○ヒヤリ、ハッと。

2015年05月20日 14時14分46秒 | 意識論関連
進化生物学では長い間、「生存のために進化した。」といった言い回しが用いられてきましたが。生存そのものは結果であって目的ではなく、あくまで結果的に生き残ったものを「生物」と分類しているに過ぎず。生存自体を目的だと言うことは科学的ではないのです。

そもそも本能習性(行動や思考のバイアス)も含めて先天的性質を決定する遺伝子は、自分で変更や選択が出来るようなものではなくて、(生存や種の保存などの)目的のために進化「する」ことは構造原理的にできませんし。親の遺伝要素もランダムに遺伝するものであって、遺伝要素の「変化」は多様性を作ることはあっても特定の目的に適応するためだけに起こるわけではありません。

遺伝疾患などが発生するのも、こうした複雑系の結果でしかないからだと言えるでしょう。

進化生物学会は自分達がこのことに長い間気付かなかったという事実が広まることを恐れてフェードアウト的に「生物の目的は生存」を言わなくなってきているようです。 まあ、はぐらかしですね。

「ある特定の先天的な行動バイアスは何らかの目的のために存在する。」といった形式の、本能習性という結果に対する事後正当化的な「説明のための説明」は科学的には意味を為さないわけです。

以前は公然と虫の擬態なども「生存のために進化した。」なんて言ってましたけど、最近言わなくなったのもそのためです。擬態をちゃんと科学的に説明すれば、たまたま個体差の中から偶発的に見つかり難い個体が遺った結果ということになるのです。

こうした生物の先天的要素といったものには、目的が介在する余地が構造原理的に存在しないというのが理論的に正しい見方と言えるでしょう。

ところが、先天的な本能習性に対して何らかの理由説明をこじつけることで、気分的満足感のようなものが得られるというバイアスがヒトにはあるため。長い間進化生物学では結果と目的の区別を明確に出来なかった原因でもあります。

一種の「思考の罠」のようなものが先天的に存在するために、人の多くは固定観念から逃れることが出来ず、何となく「皆がそう言っているから。」的な多数派同調バイアスによって思考が制限されていることは誰でもあるんだと思います。

それは別に特定の人に限ったことではなくて、自分自身でも注意していないと危ないことでもあるので。逆にこれに触れないことの方が危険なのではないかと思います。その結果ヤンデル先生が機嫌を損ねて気分が悪くなったとしても、それは主観ですので何とも言いようがありません。科学的には意味がないからです。

ヘイトスピーチとかISIL、ナチズム、ポルポト、挙げるとキリがありませんが、これらの野蛮行為の原因を究明してゆくと、「気分が論理性を拒絶する性質」が脳にはあるために思考停止に陥り、結果的に行動だけが暴走するという事態に陥ると言えるのです。

ナチズムのような野蛮行為というのは特定の異常者が引き起こすものではなくて、むしろ「普通の人」の感覚こそが引き起こす惨劇であることはハンナ:アーレントも述べています。だからこそISILとかオウム真理教とか通り魔のような野蛮行為が現代社会でも簡単に起こるのでしょう。

こうした思考バイアスも含めて一般論としても「なぜそのような性質が存在するのか。」を進化生物学的な「説明」によって満足することは危険だと言えるのです。

先天的本能習性が存在することが、進化の過程において何らかの「原因」が存在するということは言えるんでしょうけれども、それらは全て結果でしかありませんので、主観的に面白いかどうかを判断基準にすると客観性が損なわれてしまいます。

危険性を持つ可能性を指摘することに「上から目線」もすったくれもありません、「危ないことはやめましょう。」と言っているだけなんですから。

それこそ自然界における野蛮な弱肉強食による淘汰に対して事後正当化のための「説明」をしてしまえば、特殊詐欺であっても「生存という目的のために騙す能力を身につけた。」なんて話も鵜呑みにしなければならなくなります。

生物学者の松沢哲郎らは生物進化の結果でしかない本能習性から倫理性を立証しようと試みていますが。たとえば彼らの研究結果からチンパンジーやボノボなどの猿の本能習性から倫理性が立証されたと述べたとしましょう。ではその研究結果からISILとか暴力団の構成員が特定環境下において、どのような行動習性が見られたらヒトの先天的倫理性を証明したと言えるでしょうか。それを証明したと言い張ったところでISILの野蛮行為に対して何の意味があると言えるでしょうか。それこそ単なる「お花畑」に過ぎないのです。

「ヒトという種の生物には先天的に倫理性や社会性が組み込まれている。」的な話をしておけば、大多数の人達の賛同を得ることも可能でしょう。実際松沢が「チンパンジーの行動習性から人間としての社会性が立証出来るかも知れない。」などと述べたことに対して、それが論理的に不可能であることを全く検証せずマスコミは取り上げ賞賛しました。

無論、大多数の人達もそれに対して何の批判もしませんでした。

しかし重要なのはむしろ大多数の人達(普通の人)の中に潜む危険性であって。こうした進化生物学に対する無批判性というのは、いわば「ヒヤリ、ハッと」事象であると言えるのです。

ハインリッヒの法則に基づけば、一つの重大事象が起こる原因には、無数の小さな事象が隠れていると考える必要性があります。ですから私の言っていることは「嫌な小言」に聞こえるかも知れませんけれども、言わないわけにはいかない話ではあるのです。

犯罪も含めて、あらゆる「人災」の最も根源的な部分には、気分感情が行動と直結してしまっていることが原因であると言えます。私は別にヤンデル先生のご機嫌を損ねようとしているつもりはありませんが、ご機嫌取りのために言うべきことを言わないわけにはいかないことはご理解して頂きたい。



「臨床は科学ではない」とも言われるくらいですので、医学に関しては素人が口をはさむことは難しいとは思うのですが、自然科学の分野においては誰でも発言する権利はあるので、権威主義的に「素人だから黙れ」的に封じ込めるのは間違いだと思います。(ヤンデル先生の場合はご機嫌を損ねてもちゃんと議論してくれる点において権威主義的ではないとは思うのですが。所詮ツイッタランドでのやりとりですからご機嫌損ねてブロックされることを咎めるつもりもないです。)

そういえばNHKの「ドクターG」とか見ていると、研修医に対して指導医が説明を求めるような場面が時折見受けられますが、これは一般人の感覚からはちょっと乖離しているので、何か高圧的というか権威主義的に見えてしまっているだけかも知れないですね。だとすればそれは単なる私の主観的で勝手な思い込みに過ぎないでしょう。



科学的な検証から導き出される答えというものは、必ずしも気分的に満足感や納得感が得られるわけではありません。人生の中で刷り込み学習的に組み込まれた価値観に対して都合の悪い事実が出てくることもないとは言えないでしょう。

人は誰も自分の意思でこの世に産まれてきたわけでもありませんし、遺伝子を自分で選択していない上に、そうした遺伝子から作られた自分の脳の先天的バイアスすらも自分では選択出来ないわけです。

更に言うと自分が育った社会や環境から刷り込み学習的に植え付けられた価値観も、必ずしも自分自身の選択を介さないことは少なくありません。

ですから科学論理的な検証に基づいた選択可能性を保つためには主観的感想と客観的知見は意識的に切り離しておく必要性があるのです。それを怠ることで論理的根拠のない実証不能の観念を振り回してしまう危険性があるからです。

繰り返しになりますけど、こうした危険性というのは誰にでもある「普通」で「平均」的な一般論なので、別にヤンデル先生の間違いだけを糾弾しようというわけではありません。医学では普通で平均的な状態を「健康」とか「正常」と見なすんでしょうけれども、多数派であれば常に正しい結果が得られるわけではないことは認識しておいて欲しいのです。

ツイッター上で賛同者をたくさん集めてきても、それが科学的に正しいことの証明にはならないことは言うまでもないことだとは思いますが。



◇追記:っていう記事を書いたんだけど、おいらがヤンデル先生の言っていることを誤解していたみたいです。

申し訳ない。

◇さらに追記:誤解なのかと思ったのだけれど、よく精査してみたら取り繕いの可能性がありました。 他の記事で分析しております。




Ende;
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