書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○病理医のリツィート。

2015年05月23日 23時08分15秒 | 意識論関連
病理医がリツィートしたツィート

個々が勝手に自己の存続を願うことは、全体の多様性、環境の変化に適応する上で有利になる冗長性の確保につながるのではないでしょうか。自己肯定欲求は、「己を集団の利益に対し最適化したい」という欲求から出ているのではないかと。必ずしも合理的に働いてはいませんが。

このツィートは進化生物学的こじつけに基づいた論証なんじゃないの? 違う? おいらの理解力が足りてない? 少なくとも進化生物学的こじつけに基づいた論証の可能性があるツィートである以上、それに同意しているというのは、おいら的には傍観放置出来ないのよね。

病理医は以前にも進化生物学的こじつけに基づいた論証をしていた記憶があって、以前から気になっていたのです。

あんまり一般人を巻き込みたくはないんだけど、でも一般人が間違えている分には仕方ないとも言えるので、一応載せておきます。



いろいろ言ってくる法学部4年生さんにしてみたら、自律的な社会的責任判断の重要性なんて意識の上にはないんだろうなぁ。

全能感覚全開みたいだし。



Ende;
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○回答その5。

2015年05月23日 21時47分34秒 | 意識論関連
病理医の求めていた議論が「なぜこのような結果をみているのに過程がこれなのか」という命題を議論しているからといって、その議論の中身が進化生物的こじつけを前提としたものであることに対し、私は進化生物学的こじつけを前提とした議論の根本的間違いそのもの(議論内容の土台)を指摘しているのですから、別に相手が提示した命題に則る必要性はありません。

間違った土台の上で行われている議論に対し、土台そのものが間違いであることを指摘しているのであって、議論の階層とか議論内容が違っても、それは問題にはなりません。

そもそも科学的議論において、「特定個人が提案した命題」以外を排除するなどという閉鎖性があってはならないはずです。 一体病理医は何様なんですか。

「○○を読んだらすりかえだと言っていた→すりかえだ。」といった短絡的な決め付けしかしておらず。論理的思考過程の説明が全くないのが残念です。こちらが説明をしている内容は全く検証せずに反対論証もしていない以上、「主観的にそう思っただけ」ではないことの証明がなく、何を取っ掛かりに議論を進めれば良いのかすらわかりません。これでは議論は成立しません。

学生さんですから間違えがあっても仕方ないのですが、間違えを認識しないまま社会に出て法律の専門家になられたら大変危険な気がします。

学生さんだったら学校の先生とか同級生とも議論したり検証してもらってみてはいかがでしょうか。

それとも法学部では「その場限りの勝ち負けを追求するディベートのようなもの」しかしていないから、深く論理検証することに慣れていないとか、そういうことなんじゃないでしょうか。

話の理解が非常に上っ面で、浅い認識しかしていないように思えます。もっと精密な検証を行うようにしないと科学的議論にはなりませんよ。

病理医は私のブログを読み、その理論を「恥ずかしいからやめておけ」と否定しているのであって、世界中に知れ渡っていたからといって病理医が知っていた証明にはならず、否定している段階で「初めて聞いた」ことの論証になります。

「知れ渡っていた。」といいますけど、そもそもあなただって知らなかったじゃありませんか。ネット上の情報というのはググらないと出てこないものなので、病理診断医が知らないことがあってもおかしくはありません。


Ende;
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○危険な考え。

2015年05月23日 17時11分06秒 | 意識論関連
他人からの評価承認に依らずに自律的に社会的責任判断をして初めて一人前の「大人」とか「人間性」だと言えるわけですから。自分がいる組織集団の利益や個人的保身や承認評価を優先してしまうことは人間として間違いです。

もしかすると、今の法学部においては危険学とか失敗学の考え方は教えていないのかしら。だとしたら法学部のカリキュラムに問題があると思うなぁ。

刑法懲罰などを「目的」とした法律という道具や手段の使い方だけ覚えて、それを何にどう使うべきなのかを何も考えていないのであれば、冤罪だろうが法律の拡大解釈だろうが気にしなくなってしまう。それではナチスの絶滅収容所の吏官と同じ過ちに陥ることになってしまいます。

組織内部での評価承認基準だけしか意識が働いていないからこそ、アドルフ:アイヒマンは残虐な殺害計画書を作成することに邁進したわけで。こうした組織内部の評価基準に迎合してしまうことこそが、福島第一原発の津波に対する危険性放置の原因にもなったわけです。

法学部に限らず、それこそ大学に限らず中学生とか小学生レベルからでも危険学や失敗学の考え方に基づいた人間性の形成が必要なはずで。特定の技術者だけの倫理として扱うというのも間違いなんじゃないかと思う。

その辺、畑村洋太郎さんはどう考えているんだろうなぁ。


Ende;
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○回答その4。

2015年05月23日 16時37分55秒 | 意識論関連
ヤンデル先生がすり替えだと仰る前の議論を初めて見てきました。 最初のヤンデル先生のツイートに対するあなたの反論はすり替えでした。これは既にヤンデル先生が述べられた通りです。そして、その後あくまでも元の流れ(すり替えられる前の本筋)で議論しようとしているヤンデル先生。

それに対し、すり替えた筋でしか話そうとしないあなた。 こんなものは議論とは呼べません。 実際にヤンデル先生が最後の方に 「というか思考のレベル的におなじ階層の話になっていません」 と仰っているのはこういうことです。誤謬から発生して訂正もされない議論は議論ではない。


進化生物学的なこじつけ論法の間違いに基づいていなければ、結果と目的の区別は出来ませんから。その区別に基づいた議論を最初からしていたという病理医の言い逃れは嘘ということになります。

病理医は私の書いたブログを読む前には進化生物学的こじつけ論法に基づいた議論しかしていません。その上しかも一蹴無視した理論に基づいた考えを最初からしていたというのは論理整合性がない嘘だということです。

もう少し論理的に順序立てて検証する必要があると思いますよ。

そもそも進化生物学的こじつけ論法をきちんと理解していないまま検証されてはいませんか。

「同じ階層の話」という病理医の主張にも論理的根拠はありません。

「訂正もされない議論」だというのも病理医の主張の鵜呑みに過ぎません。そもそも論理整合性もない話に「訂正」も「階層」もすったくれもあったもんじゃないんですから。

そもそも「恥ずかしいからやめとけ」とか「もう話かけなくていい」と言い出し議論を放棄したのは病理医の方です。

私の主張を全く理解しないまま病理医の主張ばかりを鵜呑みにするというのは、何かの正解ありきというバイアスに基づいた検証としか思えません。それこそ議論になっていませんよ。


Ende;
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○亀山郁夫について。

2015年05月23日 11時23分09秒 | 意識論関連
亀山郁夫がドストエフスキーの「罪と罰」を読んで感動したという意味の話を放送大学で陳列しても、ドストエフスキーの「罪と罰」に何らかの科学的価値が存在する証明には一切なりません。

亀山は「現代の社会を予言した。」などと、脂汗かきながら必死になって感情的に主張していますけど。こんなんノストラダムスの大予言と同じ形式に後から予言風味にこじつけただけなんですよ。

科学的な予測や推理であるならば、予め科学的な予言として何らかのの対策にも応用可能になるのですが。亀山が主張する「予言」というのは、「雰囲気的に現代社会を予言したような感じがする。」と述べているに過ぎないのです。

放送大学で亀山の講義が垂れ流されていますけど、あれってオバケ学長が電子工学が専門なので「よくわかっていない」からなんだと思います。

ですから亀山郁夫が生徒に点数評価や単位を与える権限を持っているなんてのは論外なんですよ。普遍的価値が何もないんですから。 (敵だらけなのよね。おいら。)

哲学などの文系学部の多くも組織閉鎖性が凄くて、議論を公開せずにやたらと金を要求してきます。(やたらと高価な持論の書籍を買って読め的な。)

科学的議論であれば、物理学のように公然と議論が開かれてなければならないのに、随分とおかしな話なんですよ。本当は亀山のように主観的感想の羅列でしかなく、それこそ病理医みたいに「面白い」なんて基準で議論を進めている場合がほとんどなので、科学理論的には全く価値がないんです。

それでも一応東京大学から文系学部が一掃されましたから、まあ良いかなと思ってます。


Ende;
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○回答その3。

2015年05月23日 10時19分31秒 | 意識論関連
あらら、「進化に対する誤解」が広まっていたなんてしらなかった。 (情報弱者 (T-T)

でも、そうなるとますます病理医達の議論は論理整合性がなくなることになるのです。進化の結果に何らかの意味をこじつける形式の議論を、病理医は私のブログを読むまで知らなかったからこそ、進化生物学的こじつけに同意していたんですから。墓穴を掘っているのは病理医の方なんですよ。

予め進化生物学的こじつけが間違いであることを知らないにも関わらず、「生存の上で○○が役に立ったのだろうと推測することは大切だ」という趣旨の話「○○は生存 のために役に立つ能力だったと言うとまるで生存を目的として機能が生まれた」という趣旨の区別は出来ないのですから。病理医の主張には論理整合性がなく、いきあたりばったりに取り繕ったに過ぎないことが推理できるわけです。

そもそも病理医が知っていたとするのであれば、どうして「査読がない」ことを理由に一蹴破棄できるんでしょうか。病理医は予め進化生物学的こじつけの間違いのことは知らず、初耳だったとか最初から理解するつもりが全くなかった証拠でもあるのです。

「攻めすぎ」と形容していることからも、病理医はしらかなったことが証明されているのです。

養老孟司(東京大学名誉教授)などもそうなんですが、自分の観念の中に閉じこもっている者にとっては、むしろ論理整合性の方を開こうとする性質があります。 (敵が多過ぎるんだよ。めんどくせぇ。)

これこそがヒトという種の生物が「実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかける原因。」なのです。

論理整合性を後回しにしていて、どうして科学的議論が出来るというのでしょうか。それこそオカルト集団内部でのオカルト理論の共鳴で満足している証明になるのです。

こうした論理整合性をすっ飛ばした観念を共鳴する集団の心理には、「評価承認とセットで教えられたことは短絡的に鵜呑みにし、同時に評価承認になりそうにない(攻めた)内容には拒絶反応しか示さない」という共通のパタンがあるのです。

でも、「仮説」と「証明」の区別がつかないというのは、法学部4年生としてはちょっと自律的論理検証性に問題がありますね。私のブログを読んでも点数とか単位がもらえないからテキトーに読んでいるのではないかと邪推してしまいます。


Ende;
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○回答その2。

2015年05月23日 02時59分02秒 | 意識論関連
ここ数回のブログの意図が不明なの で、あなたの思考手順を僕なりに推察してみ ました。違っていたらすみません。 あいつ科学的議論から逃げた!(実際はすり 替え論法に嫌気がさしただけ)→周りの奴ら の賛同を得てやがる!承認欲求中毒に違いな い!→((続く


「すり替え論法に嫌気がさしただけ」というのは病理医の主張の鵜呑みですが、それが本当かどうかは何の確証もありません。すり替えというよりは実際には単なる間違いに過ぎないですから、科学的議論であれば「いやそれ、間違えているよ」で済む話のはずなんですが。病理医は明らかな拒絶反応(ブロックなど)を示していることから何らかの不都合を指摘されたことが推測できるわけです。

さらに病理医達のやり取りを追えば、進化生物学的こじつけに賛同し、「面白い」とも同意していることは明らかで、進化生物学的なこじつけについて何ら認識していなかったことは明白であるにも関わらず。

「生存の上で○○が役に立ったのだろうと推測することは大切だ」という趣旨の話をしたら「○○は生存 のために役に立つ能力だったと言うとまるで生存を目的として機能が生まれたみたいになるけどそれは間違いです」 とつっこまれたんですが、これ、すりかえですから……あぁーもうめんどくさい

という病理医の主張には論理整合性はないことになり、言い逃れや取り繕いに過ぎないことが推理できるのです。

進化生物学的なこじつけ論法の間違いを頭から否定しており、論理的反証すら最初からしていません。

それなら進化生物的こじつけの間違いを私のブログを読んで初めて認識したことになるのです。

この私のツッコミに対して論理的反論が出来ないために、そもそも曖昧な議論に対し、後から「生存の上で○○が役に立ったのだろうと推測することは大切だ」という趣旨の話をしたことに後から取り繕ったと考えられるのです。

たった一言でも進化生物学的こじつけに対して同意している以上、彼らは進化生物学的こじつけが科学的に間違いであったことを、それまで全く認識していなかった証拠になります。

進化生物学的こじつけを認識していない時点で、どうして結果と目的を区別した上での話が可能なのでしょうか。そもそも「査読がない」ことを根拠に頭から否定している理論に沿った考えが予め成立しているわけがないのです。



そもそも科学的議論に拒絶するなんていう話は科学者として論外です。個人的気分で嫌な話を拒絶していたのでは到底科学的議論は成立しないからです。

「めんどくさい」なんて話も科学的議論の途中では論外です。もちろん主観的感想を挟むのは自由ではありますが、感情的になって拒絶する時点で最初から本気で科学的議論をするつもりはなかった証拠になります。科学的議論なんつううのはそもそもがめんどくさいものだからです。


本当に科学的議論をするのに「攻め過ぎ」だの「自分を大事に」といった話が出てくるわけがありません。そうなると彼らは既存の業績知識をなぞることで、進化生物学的こじつけを共有して満足したかったとしか考えられないわけです。

彼らに見られる権威主義性の源は一体なんでしょう。教えられたことを鵜呑みにして満足感を得るだけの科学的には意味のない議論(のつもり)で同じ観念を共有するのはなぜでしょう。その理由として承認欲求中毒の症状が考えられるのです。



ブログの「意図」としては、普遍的に見られる組織集団の閉鎖性や差別排除の心理的構造を明らかにすることや、自律的に論理検証することも出来ずに科学的議論をしたつもりになっているという支離滅裂さの原因として、承認欲求中毒(甘え)がもたらす思考や行動のパタンを一般化することです。病理医はサンプルに過ぎません。



医師だし、承認欲求中毒の原因は、偏 差値だけを追い求めたからに違いない!→ 「偏差値が高い=賢い」ではない!→じゃあ バカだ!!New!! ってな感じですかね。。。少なくとも僕の見 た範囲での解釈はこんな感じです。すり替え と、自分の仮説を前提として確定させている のがマズイです

私は別に偏差値が高いことが直接バカであるとは述べたつもりはありません、ただ、偏差値が高いからといって賢いとはかぎらないとは言うことは出来るわけです。学力偏差値が高い方全てをバカだと言っているわけではなくて、むしろバカの原因が承認欲求中毒に由来するものであるという趣旨です。

承認欲求中毒というものが、学力偏差値の追求だけで生ずるものではないことは、良く読んで頂ければわかるのではないかと思いますが。親の多くも「学力=知能」という大衆的観念を鵜呑みにして子供に学力競争を強いることは非常に多いことからも、学力偏差値の追求の動機が、当人が本当は主体的には望んでいないにも関わらず、努力辛抱根性で親の期待に応えようとした結果である場合には、結果的に承認欲求中毒に由来する頭の悪さ(自律的論理思考や発想力の欠如)を生ずることになると考えられるわけです。

「考えられる。」と述べましたが、それ以外に(学力偏差値が高いにも関わらず)自律的論理検証性や発想力の欠如を招くような要因が存在する可能性があるのであれば、是非聞かせて頂きたい。

進化生物学的こじつけが間違いであるという証明は、教えられれば誰でも理解可能な簡単な論理証明です。ですから自発的に考えが及んでいれば中学生にでも言うことのできるものに過ぎません。にも関わらず私以外誰も主張していないのはどういうことでしょうか。私より遥かに学力偏差値が高い方は無数にいるはずにも関わらず、どうして誰も気付くことが出来ないのでしょうか。それは、その事柄についての自発的疑問とか認識が働いていないことが原因です。

学力偏差値に関わらず、承認欲求中毒というのは気分感情と思考や行動が直結することで自律的な論理検証性が失われます。学力偏差値というのは知識の「量」とか促された思考の「速度」といった特定の能力の高さによっても高くなるものであるため、学力偏差値が高くても「評価承認とセットで教えられていないことには何も自発的には気付くことが出来ない」という決定的な頭の悪さを発揮しているのです。

前述のように「すりかえ」というのは病理医の主張であって、実際には単なる「間違い」とか「意思疎通不足に由来する勘違い」であって。むしろ取り繕いによって論点をすりかえているのは前述のように病理医の方です。

それから進化生物学のこじつけ論法の間違いというのは論理から導き出しているものであって、予測的な「仮説」ではなく論理的「証明」です。 もし証明ではないというのであれば論理的な反証が必要となります。



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