書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○感情論はさておいて。

2015年05月22日 21時14分10秒 | 意識論関連
尾木直樹ママの長女さんは「いい子症候群」というのになってしまっていたそうです。

尾木ママの場合は特に強迫的抑圧で子供を服従させてなどいないと思うんですけど、それでも子供は親の顔色を敏感に感じとって、大人になるまで自分が本当に好きなことを全然しなかったんだそうです。

何でいきなり「いい子症候群」を挙げたのかというと、承認欲求中毒症状との関連性があるのか、ないのか。そこが気になったんです。

どこぞの病理医ちゃんの承認欲求中毒というものが、もしかすると「いい子症候群」の結果なんじゃないかとしたら、おいらの個人的な怨念で「ピアノ線でキリキリ締め上げるようなこと。」をしていたら可哀相に思えてきたからなのです。

どこぞの病理医ちゃんとか、人体ピラミッドで悪名高い吉野よしろう教諭のように、人の話を全く聞かないクソ野郎のご機嫌取りは個人的にはしたくはないのですが。そういう個人的な感情論は科学的分析からは一旦外して考えなければならないとも思うのです。

若い人達が道を踏み外そうとしているのであれば、泣きついてでも引き止めてあげたいと思うんですけど。(オッサンに泣きつかれてもキモいだけなんだろうけど。)同年代とか指導者の立場の者なんか「死ねやクソ野郎。(怒」としか思わないんですよね。 でもそれっておいらの主観的な感想気分でしかない。

でも、吉野よしろうみたいなクソヲヤヂの気持ちだとか、犯罪者のご機嫌取りみたいなのをやりたい奴っているんすかね。

あ、ダメだ今は腹立って来て冷静になれないや。

また今度考えよう。

おいらは尾木ママみたいに育ちが良くないから無理なのかも知れないし。


Ende;
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承認欲求中毒は論理思考が成立しない。

2015年05月22日 17時26分18秒 | 意識論関連
「(誉められる=気分が良い)=(学力偏差値が高い=賢い=知能が高い)=人間として優秀」といった短絡的価値観の連携が承認欲求中毒にはあるため。

「気分が良い=知能が高い=人間として優秀」といった、脳の報酬系にとって主観的に気分の良いことこそが人間としての優位性であると錯覚しているからです。

従って承認欲求中毒では、自分にとって気分の悪い話には一切耳を貸さなくなるため、自分の頭の悪さを認識することが全く出来なくなるのです。

そのため、どこぞの頭のイカレた病理医ちゃんのように科学的議論に個人の主観的好き嫌いを持ち込んで、自分の頭の悪さを認識しないよう拒絶反応しか示さなるからです。

自分の頭の悪さを認識せずに、どうして「賢く」なることができるんでしょう。



「気分が良い=人間として優秀」という方程式は、全能感覚をもたらし、感情気分が行動に直結するようになるため。犯罪者の多くに見られる傾向でもあります。

無差別殺人犯などは自分が絶対的に優秀な存在だと思っているからこそ残虐な行為も平気で行えるようになるのです。

そのため、気分が良くなるようにしてくれる相手を、とりたてて合理的根拠もないまま盲目的に信奉し、マイケル:サンデルなどを短絡的に「頭が良い=天才だ。」と思い込み。サンデルの講義さえ聴いておけば自分の頭が良くなったと勝手に思い込み、更にはSNS上で同じ観念を他者とも共有することで多数派同調バイアスによる満足感と相まって、頭の悪さが暴走状態に陥ることで、利己的で身勝手なことも平気で行えるようにもなるのです。

気分を良くしてくれる相手であれば、別にサンデルでも養老孟司でもオウム真理教の教祖でもISILの指導者でもナチス総統でもかまわなくて、行き当たり場当たり的に、自分がおかれた環境に依存して偶発的に盲信することにもなります。

こうした全能感覚というのは、同時に「俺の気分が悪くなることを言う奴は、バカだ。」といった、これまた短絡的な価値観も生み出します。

バカの話は聞きたくありませんよね。私もそうです。バカは大嫌いです。バカの話をマトモに聞いているとこっちまでバカが感染るんじゃないかという恐怖さえ覚えます。

そのため、普通はバカだと思う奴の話は最初から取り合わないのが普通の一般人の感覚ではないでしょうか。バカがバカげたことしたら、懲罰でも与えて「シメときゃ良いんだ。」となるでしょう。刑法懲罰というのはそれを社会制度にしたものです。

ところが、刑法懲罰制度というのは、バカがバカげたことを実際に犯さないと懲罰対象にはなりません。たとえ実際にバカげたことをやらかして懲罰を与えたからといって、バカが治る論理的根拠も保証もないので、強盗殺人で25年服役して出所後数週間で殺人を犯すなんていう事例がいくつも出てきます。

刑法懲罰というのは、単に大衆的な報復感情を満たすために存在しているだけなので。具体的かつ論理的に「なぜ、この犯罪者は自分の行動に何の疑問も持たなくなったのであろうか。」といった、精神分析的なアプローチは制度的に一切組み込まれていないのです。

凶悪な強盗殺人犯の主張に耳を傾け、どのような条件によって殺人犯が殺人を犯すのかを真面目に分析するアプローチは刑法制度にはないため。裁判官による科料の妥当性(それまでの判例と較べて)によって判決を下しているだけなのです。

よって、刑務所の出所者が出所後に何をやらかしても、誰も責任を取らないという、社会的には無責任極まりない制度でありながら、大衆の感覚的な懲罰感情を満たすだけの制度が漫然と温存放置されていることになっているのです。



実際に被害者が出なくても、バカには普遍的に共通した傾向性や症状があるはずです。それが「気分感情が行動や思考と直結している。」という点なのです。

行動や思考が気分感情と直結する大きな原因として、承認欲求中毒が挙げられるのです。

某どこぞのイカレた承認欲求中毒の病理医ちゃんなんていうのは、バカとしてはさしたるものではありません。精々「ヒヤリ、ハッと」程度の話に過ぎないでしょう。このくらいのバカであれば掃いて棄てる程世の中にはいますが、その全てが重大犯罪者になるわけではないですし。単に私が個人的に気分が悪い程度の話でしかありませんでしょうから。(奥さんの気分も悪かったようですが。)

しかし、一つの重大事象が発生する裏には、無数とも言える小さな事象が隠れている(ハインリッヒの法則)のであって、どんなに些細(に見えるよう)な出来事であっても詳細に分析する必要性があるのです。




先日の「オイコノミア」で放送していた内容で、経済学で言うところのインセンティブ設計というのを採り挙げていましたが。これはヒトの脳の報酬系の条件反射的行動動機付けを利用しているわけです。

経済学というのは大多数の人の行動傾向を利用する形の誘導を、特定の社会制度などに応用するためのものでもあるため。大多数の人達のこうした無意識性を変えようという考えが最初からありません。

ですから自分で自律的に物事の良し悪しを判断する能力が未発達な幼児の行動を制御するためならまだしも、身体は大人ででありながら気分と行動が直結しているのでは、到底人間としては大人とは言えません。

具体的に誰のことを述べているのかはもう言いませんが。(言いたいけど。)

幼児の場合は自分の行動を論理的に判断し行動や言動を選択できる程の知識の量もすくなければ、当然判断基準も足りないので自律的に社会的責任なんぞ負えるわけがありませんから。幼児が悪いことや危ないことをしていたら親大人が「こらこら、そんなことしてはいけません!。」的に叱って抑制するしかありません。

しかし、こうした他律的な行動抑圧によって心理的に刷り込まれた「超自我(ジグムント:フロイト)」だけでは、構造原理的に自律判断が養われないために。自分がおかれた環境に依存した行動抑制しか働かないばかりか、むしろ環境に従順に従うことで承認を得ようとするようにも陥るわけです。

その典型的な一例がナチス政権下のポーランド アウシュビッツ ビルケナウ ユダヤ人絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマン中佐でしょう。

彼は国際法廷においても、「自分は体制に忠実な一吏官に過ぎない。」とも述べています。

これはつまり、意味としては「自分が悪いのではなくて、自分を雇ったナチス政権が悪いだけだ。」と主張しているのと同義でしょう。

社会の多数派が求めているものであるならば、何でも正しいと思うのは間違いの素です。今自分がおかれている社会環境が完全無欠の絶対的なものであると「思う」のは、それが「生まれてずっとそうだった。」というたかだか数十年という時間が作り出した感覚に過ぎません。




そういえば以前、ヲタク叩き番組に煽られてカウンターに入ろうとした若者がいましたが。キチガイというのは個人的な好き嫌いを短絡的に物事の良し悪しに直結させて糾弾しておけばどうにかなると思っているような奴がヘイトスピーチをしているのであって。感情的に怒鳴り散らすことで、論理的な土台のグズグズな泥沼地雷原に引きずり込まれることもあるのでとても注意が必要です。こうした意識の引きずり込みというのは、必ずしも相手が意図的にやっているとは限らず、バカがバカ同士で共鳴しあっているうちに暴走している「結果」に過ぎないことも少なくありません。

むしろそっちの方が多いのかも知れませんし。

人はどうしても感情が優先してしまいがちです。これは特に承認欲求中毒に限ったことではなく、そもそもヒトという種の生物は哺乳類ですから、どうしたって親と子の関係性からは逃れられるものではなく。全ての人はかつて子供だったことを前提に、ほぼ例外なく承認欲求を潜在的に持ち合わせているものであると考えるべきなのです。

こういう話をしていると、短絡的に承認欲求という「甘え」が全面的に悪いかのような解釈をしてしまい、子供は幼児期から甘やかさずに厳しくスパルタ戸塚ヨットスクール万歳的な思い込みに陥るバカも少なくありません。

そんな短絡的でバカみたいな文系解釈の仕方こそが「甘え」に他ならないのです。論理的理解をすっ飛ばして「甘え」だけが悪いといった「これさえやっときゃ、全ては解決」みたいな短絡的思考こそがバカが陥る典型的パタンでもあるのです。

子供にとって、親というのは神も同然です。親が望まざるとしても子供にとって親は絶対的な存在でなくてはならないのであって。子供が自律的に行動責任判断を行えるようになるまでは決して威圧的な強制をするべきではないのです。

自律とは自発の中にあるのであって。先ずは子供の主体的な意思というものを大切にし、自由に物事を考えられるような精神的ゆとりを持たせてあげる必要性があるのです。

ここでアルバート:アインシュタインの言葉を引用しておこうと思います。

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私にとって、最悪だと思われるのは学校が主として恐怖、力、人工的な権威という方法を用いることです。そのような扱いは、生徒の健全な情緒、誠実さ、自信を破壊します。それが作り出すのは従順な臣民です。 (大月書店刊「アインシュタインは語る」より抜粋)

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「従順な臣民の一体なにがいけないんだ。」そう思っているのであれば、もはや相当頭がヤラレていると自覚した方が良いかもしれません。

従順であることというのは環境依存的に多数派や権威の命令に服従するだけの冷徹さを意味するのであって、それこそが役所の手続きのようにユダヤ人殺害計画書の作成に邁進するようなキチガイをも作り出すからです。

恐怖や威圧的な態度で子供を服従させた最も典型的な害が虐待の連鎖ではないでしょうか。

そこで問題になるのが、自発的に物事を考え、権威や多数派の意見に安易に同調しないようには育てられていない親大人達が、一体どうすれば子供に自律的判断力をつけさせられるのかがさっぱりわからないということでしょう。

承認欲求中毒患者の場合、評価承認とセットで教えられたことを無批判に鵜呑みにするばかりで、自律的には何が正しいのかを判断する能力がほとんど全く養われていません。 ですから教えられていないことは何も出来ないのです。

厄介ですね。

私も匙投げたくなりますわ。




夕ご飯の支度があるので今日はこれまで。

Ende;
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○考えたつもり。

2015年05月22日 11時21分32秒 | 意識論関連
ヒトという種の生物は、「悩む」ことを「考え」と混同する習性があります。

これは一種の錯覚妄想なんですが、気分的に悩ましい事柄に意識を奪われている時間の長さとか、感情強度などの「程度」のことをあたかも論理的思考か何かと勘違いする習性があるのです。

マイケル:サンデルの講義で持ち出される命題などは、最初からどうにもならない事態を仮定しておくことで感情的に「悩ましい」よう仕向けることで、あたかも生徒達に「考えさせられた」ような錯覚を与えることで、生徒達は「自分が賢くなった。」という錯覚を促すため、サンデルの講義は「人気」があるわけです。

よく文系の人が、「考えさせられる。」的なことを述べている場合。そのほとんど全ては単なる「悩ましい事態」を挙げているだけであって、実際には何の考えも出てくることはありません。

サンデルの講義で用いられる命題というのは、よく考えれば「もはやその時点では何もすることが出来ず、ただ傍観する他ない。」ような状況ですから、どんなに悩んでも意味はないのです。



認知行動療法というのは、鬱症状の患者が陥っている思考の間違いや思い込みを気付かせ認識させるための手法なのですが。治療では思考の間違いや思い込みを直接患者に指摘したりせず、「なぜ、そう思うのですか?。」といった形式を重ねることで、考えを促し、単なる思い込みに過ぎなかったことを認識させるよう持ち込みます。

なぜ、こんなまわりくどいことをするのかと言うと。直接間違いを指摘してしまうと患者が「ああ、自分はバカなのか。」と逆に気分的に落ち込んでしまうという、ヒトという種の生物が持つ先天的な情動バイアスが普遍的に存在するからなのです。

ですから、認知行動療法というのは、あたかも「自分で気付いた」かのような錯覚を促すことで、間違いに気付かなかった頭の悪さを認識させないようにすることによって、鬱症状を改善することが目的なのです。



ここまで書けば、私が何を言いたいのか頭の回転の速い方なら何となくわかったかも知れません。

いや別に明確にわからなくてもバカなわけではありません、速度だけ取り上げても知能の論証にはならないからです。



最初に解決不可能な気分的に憂鬱な話を持ち込むことで、生徒達に何らかの考えを促したような錯覚を与えておいて。最後には「今日は有意義な議論が出来ました。」などと誉めることで、生徒達は「サンデルの言う通り、自分は頭を使って考えたので、賢くなった。」という錯覚に陥り。その気分的満足感からサンデルの講義を好きになり、一種の中毒症状を促すわけです。



こうした手法というのは、実は診療内科の治療法に限ったことではなく。占い師やペテン師、詐欺などの手法でも使われるものなのです。

振り込め詐欺などの特殊詐欺においても、大量の情報をカモに与えて「悩ましい」状態に陥れることで、カモに何かを「考えた」ような錯覚を与えることで「自分は大丈夫だ。」という錯覚に陥れます。



他者から与えられた条件の範囲だけで促された「考え」には、自発的検証が介在しないのですが。ヒトの多くは気分的に悩ましい状態によって感情が高ぶると、その感情の強度こそを意識だと錯覚しているために、感情が行動に直結してしまうようになります。



振り込め詐欺に騙される被害者というのは、「孫を助けたい一心で。」お金を振り込んだりします。

それって「考え」ですか?。

それ以上はここでは述べません。促されてなを気付かないようであれば、もはや何を言っても無駄ですから。



ヒトという種の生物の脳というのは、間違いを直接指摘されると「自分はバカだ。」と歎き、気分的に凹んで鬱な気分に陥る習性があるため。間違いを直接指摘されると条件反射的無意識に言い逃れや取り繕い、はぐらかしをすることで、「自分だけは絶対に大丈夫だ。」と思い込むことで鬱状態を回避することも少なくありません。

論理的に導き出された客観的事実に対して、自分の気分(大脳辺縁系が促すバイアス)が悪くならないように拒絶反応を引き起こすようなメカニズムが、ヒトという種の生物の脳にはあるのです。



脳の前頭核という部位の活性が、前頭前野が司る論理検証性の働きを抑制すると言われています。平たくいえば、パニックに陥ると反射的に何かに取り憑かれたような変な行動を採ってしまう現象の脳科学的機能説明なんですが。

いままで誰も論じてこなかったような突拍子もない話を聞かされると、ヒトの脳は気分が悪いので反射的に拒絶反応を引き起こします。

スタンレー:ミルグラムによる社会心理実験で服従に関する実験があって、「服従の心理」という書籍があります。河出書房かどっかだったかな。

通称「アイヒマン実験」とも言われるこの実験報告書によれば、ハンナ:アーレントが述べたように、ナチスのような野蛮行為というのは、ごく普通の一般人の性質が引き起こしたものであると結論づけています。(ただし、ミルグラムは「サイバネティクスの観点から」という、進化生物学の間違った観念からのこじつけ考察も行ってしまっているので、注意が必要ですが。)

これを読んだある一般人は、その感想文において、「それでも権威に服従しない社会は崩壊する。」などという論理的根拠のない実証不能の観念をぶちまけたりしています。これは「権威に服従していないと不安」という感情気分が促した短絡的結論です。



ヒトの脳というのは神様が作った完璧なものでもなければ、進化の上で何らかの意味が必ず存在するような行動だけしか促さないようには出来ていません。

どこぞの病理医ちゃんみたいに科学的議論に主観的好き嫌いを持ち込んで小型犬のようにキャンキャン喚き散らすことも珍しくはないのです。そんなことでは科学的議論が進まないのは当たり前なんですが。こういうバカがエリート扱いされて指導者の立場にいるから理科離れが起きるのではないでしょうか。

学力偏差値というのは知能とは無関係です。知能指数と学力との相関はあると言われていますが、そもそも知能指数は本当に知能の論証かどうか考えたことがありますか?。

知能指数が高い犯罪者というのが時折います。特殊詐欺なんてそういうことでしょ。



意外とこの世の中というのは科学的論理検証が徹底的に追求されているわけではなかったりします。

結構スカスカなんです。

だから脳みそ一つでも指摘可能な科学的議論も出来るんですよ。こうした誰も気付かなかったことに気付くというのは、別に頭が良いわけではなくて、他者から与えられる脳への報酬、いわゆる承認欲求に依らない自発的興味によって徹底的に追求することで自ずと発見することが出来るものなのです。



学力偏差値が高いくらいでテングにならないで下さいね。教えられたことを「知っている」だけでは、その教えられたことの中に間違いがあるかどうかにまでは意識が働いていないことを認識してください。

社会というものは、それぞれの人が自分の得意分野を分担し、相互に補い合うことでより機能的になります。しかし、専門分野の中だけで高い能力評価をされると、あたかも自分が賢くなったかのような全能感覚に陥ることも珍しいことではありません。犯罪者の発言の多くにはこうした身勝手な全能感覚が見られます。振り込め詐欺師が詐欺能力を存分に発揮されても困るように、軍隊が軍事力を存分に発揮されても、警察が警察権力を存分に発揮されても、企業が金儲け能力だけを存分に発揮されても社会にとって有害な場合は少なくありません。

得意を伸ばすことは重要ですが、他人と較べて優劣だの序列だの順位だのといった、既存の基準を鵜呑みにするからテングになっちゃうんでしょう。どっかの頭のおかしい病理医ちゃんみ(ry

ヒトという種の生物が持つ本能的な社会形成習性というものも、存分に発揮されればISILやシエラレオネの少年ゲリラやナチズムのような組織的暴走をも招きかねないのです。

特定基準だけで優劣をつけて、その基準を基にしてヒエラルキーを形成するのが社会形成習性です。動物の場合は狂暴性を基準に優劣を決めて服従することしか出来ません、でもそれは自然淘汰の「結果」に過ぎないことを忘れてしまえば、あたかも生存のためであれば何でも許されるかのような結論を導くことも可能になるのです。

教わったことを鵜呑みにするだけではなく、教わった知識に対しての小さな疑問は大事に温めておくことも重要です。小さな疑問の地道な積み重ねによって、誰も気付かなかった発見があるかもしれないからです。

教わったことを「知っているだけ」なのと、誰にも教わっていないことに「気付く」ことというのは、脳機能として決定的に異なるものです。その決定的な違いこそが本質的知能の源なのです。そしてその能力というのは、脳の使い方によって誰にでも獲得可能なものでもあるはずなのです。





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