ヒトという種の生物の脳というのは、一旦何かを思って他者と議論を始めたりすると、その議論の「勝ち負け」ばかりに執着してしまって、論理的根拠とか証明を聞き入れないように陥ることってよくある。
結論ありきの事後正当化の取り繕いというのは、脳にとっては処理が軽いので。認知症の初期症状にも見られる簡単なものです。
大脳辺縁系が促す思考や行動のバイアスというものは、科学的論理思考にとって不都合で不条理なものであるということは認識しておいてください。
振り込め詐欺師に騙される被害者が、自分が電話でのやりとりの中で信じ込んだ話ばかりを盲目的に信頼し、銀行員や警官の言うことすら聞かなくなるのは、こうした思考バイアスによるものなのです。
ですから「感情的になっている時こそ冷静になる。」という、自分の感情の制御が出来ないと、結論ありきの議論に陥り真実を見失うことがあるのです。
警察や検察による「結論ありき」の取り調べによって自白を強要されるという冤罪事件が時折発生しますが、こうした現象にも取り調べを行う警官や検察官の思考バイアスが働いているからです。
間違えることは誰にでもあることであり、ましてや学生のうちに間違えておくのであれば咎める必要性はなく。むしろ「たくさん間違えること。」は山中伸弥教授が薦めていることでもあります。
でも、間違えた時に、間違えたことを認識せずに間違えたままなのでは、教訓や経験としてこれからの人生に生かすことにはならず、単なる身勝手な暴走者でしかなくなります。ヘイトスピーチをしている人達というのも、「結論ありき」で自分の既に抱いている観念に都合の良い話以外を聞き入れなくなるのが原因です。
ヒトという種の生物は、他人が失敗すると頭に血がのぼってカッとなって反射的に懲罰を与えようとしがちです。その上罰を与えると脳内物質の相転移によって満足し、あたかも全てが解決したかのような錯覚をも促します。
どこぞの病理医ちゃんに限らず、多くのヒトはそれで満足感を得て解決したと錯覚しがちなのです。
DV男がカミさんに散々暴力ふるった後に、オキシトシンだかセロトニンだかが脳内に分泌して急に優しくなるという現象は、実はDV男の脳特有の現象などではないのです。
バカを糾弾すると満足かも知れません。 でもそれは主観的で社会にとって普遍的価値を持った結論ではないのです。
一体誰が間違えたのか、それを精密に論理検証し。その原因(心理的要因とかバイアスも含めて)を今後の対策に生かすことこそ、より社会にとって普遍的な価値を持つものです。
間違えが特定個人に起きうることは、遺伝的にさして違いのないヒトである以上、誰にでも起こり得る現象であり、「自分だけは絶対に大丈夫」という盲目的自己信頼というのは、むしろ振り込め詐欺師に騙される被害者に見られるものなのです。
繰り返しますけど、別に病理医の嘘なんて「ヒヤリ、ハッと」事象でしかなく、おいらが個人的に嫌な気分になるだけのハナクソみたいな事象に過ぎないのです。
重要なのは嘘をついたり拒絶的に差別をするヒトの心理を分析することで、ISILとか暴力団の構成員を更正への応用可能性があることです。
日本の法律手続き上では思想とか信条の自由は保証されていますが、論理的根拠のないいわゆる「実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかける」ことまで許されているわけではありません。
従って、自分の思想信条が間違っていないかどうかの責任は、ひとりひとりの個人に委ねられているわけであって。「思想信条が自由だから何を信条にヘイトスピーチをしようと許される。」なんて話ではないのです。
民主主義というのは民衆に権利があると同時に、その責任も負わなければならないということを忘れてはいけないのです。
Ende;
結論ありきの事後正当化の取り繕いというのは、脳にとっては処理が軽いので。認知症の初期症状にも見られる簡単なものです。
大脳辺縁系が促す思考や行動のバイアスというものは、科学的論理思考にとって不都合で不条理なものであるということは認識しておいてください。
振り込め詐欺師に騙される被害者が、自分が電話でのやりとりの中で信じ込んだ話ばかりを盲目的に信頼し、銀行員や警官の言うことすら聞かなくなるのは、こうした思考バイアスによるものなのです。
ですから「感情的になっている時こそ冷静になる。」という、自分の感情の制御が出来ないと、結論ありきの議論に陥り真実を見失うことがあるのです。
警察や検察による「結論ありき」の取り調べによって自白を強要されるという冤罪事件が時折発生しますが、こうした現象にも取り調べを行う警官や検察官の思考バイアスが働いているからです。
間違えることは誰にでもあることであり、ましてや学生のうちに間違えておくのであれば咎める必要性はなく。むしろ「たくさん間違えること。」は山中伸弥教授が薦めていることでもあります。
でも、間違えた時に、間違えたことを認識せずに間違えたままなのでは、教訓や経験としてこれからの人生に生かすことにはならず、単なる身勝手な暴走者でしかなくなります。ヘイトスピーチをしている人達というのも、「結論ありき」で自分の既に抱いている観念に都合の良い話以外を聞き入れなくなるのが原因です。
ヒトという種の生物は、他人が失敗すると頭に血がのぼってカッとなって反射的に懲罰を与えようとしがちです。その上罰を与えると脳内物質の相転移によって満足し、あたかも全てが解決したかのような錯覚をも促します。
どこぞの病理医ちゃんに限らず、多くのヒトはそれで満足感を得て解決したと錯覚しがちなのです。
DV男がカミさんに散々暴力ふるった後に、オキシトシンだかセロトニンだかが脳内に分泌して急に優しくなるという現象は、実はDV男の脳特有の現象などではないのです。
バカを糾弾すると満足かも知れません。 でもそれは主観的で社会にとって普遍的価値を持った結論ではないのです。
一体誰が間違えたのか、それを精密に論理検証し。その原因(心理的要因とかバイアスも含めて)を今後の対策に生かすことこそ、より社会にとって普遍的な価値を持つものです。
間違えが特定個人に起きうることは、遺伝的にさして違いのないヒトである以上、誰にでも起こり得る現象であり、「自分だけは絶対に大丈夫」という盲目的自己信頼というのは、むしろ振り込め詐欺師に騙される被害者に見られるものなのです。
繰り返しますけど、別に病理医の嘘なんて「ヒヤリ、ハッと」事象でしかなく、おいらが個人的に嫌な気分になるだけのハナクソみたいな事象に過ぎないのです。
重要なのは嘘をついたり拒絶的に差別をするヒトの心理を分析することで、ISILとか暴力団の構成員を更正への応用可能性があることです。
日本の法律手続き上では思想とか信条の自由は保証されていますが、論理的根拠のないいわゆる「実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかける」ことまで許されているわけではありません。
従って、自分の思想信条が間違っていないかどうかの責任は、ひとりひとりの個人に委ねられているわけであって。「思想信条が自由だから何を信条にヘイトスピーチをしようと許される。」なんて話ではないのです。
民主主義というのは民衆に権利があると同時に、その責任も負わなければならないということを忘れてはいけないのです。
Ende;