安心と安全の違いとは 気分的なものか論理的根拠に基づくものかの違いである
「航空機事故は日常生活で起きるアクシデントよりもはるかに少ない」と言えば 利用者は気分的に安心するが
航空機運用においては危機感を持ってあらゆる危険性を排除する必要性がある
「原発事故による放射能の影響は生活習慣病のリスクよりもはるかに少ない」からといって原発の運用に手抜きがあってはならないのである
京大学長の山極寿一や霊長類研究所の松沢哲郎は 大衆マスコミ相手に「先天的本能習性から人間性が立証出来るはずだ」などと言い張るが
先天的本能習性というのはシーケンシャルな条件反射に過ぎず 環境依存性の無意識な「結果」に過ぎず
人間性の根幹となる「自律」的な社会的責任判断とは全く別のものである
「世界人口のごく僅かしか戦争をしていない」と言われれば 大衆マスコミは気分的に安心満足して思考停止に陥るのであろうが
これは論理的安全性とは全く別の 錯覚を利用した大衆迎合に過ぎない
航空機や原発というのは それを取り扱う者が責任を持って運用すべきものであるが
イジメやヘイトスピーチの防止というのは一般大衆全員が責任を持つべき人間としての基本的要件である
イジメやヘイトスピーチという差別は戦争の源であり ハイリッヒの法則に鑑みれば「ヒヤリ、ハッと」事象なのである
小さな事象の原因を見逃しているからこそ 重大事象にまで発展してしまうのであって
中学生のイジメも殺人事件にまで発展することが実際にある
実際に人が死んでいる以上 これは当事者にとっては「小さな事象」で済まされる話ではない
生物学者達による非科学的観念錯覚を用いた大衆迎合で気分的に安心することは むしろヒトという種の生物の危険性を看過ごす大きな要因であって
極めて社会的に無責任な「洗脳」とも言えるものである
「本性」というものを「先天的本能習性」と定義すれば
ヒトという種の生物の本性とは「順位序列階級差別を好む愚かな猿」に過ぎず
ヒトの子供を集団で放置しておけば 自動的自然にイジメ差別が起きる
これは普遍的事実結果であり 統計的に見ても「ヒトという種の生物における先天的習性」であると定義すべきものでもある
にも関わらず「ヒトは先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという科学的根拠のないお伽話で大衆を気分的に安心させることしかしていない生物学界というものは 科学を逸脱したオカルトにしかなっていない
「ヒトという種の生物は 先天的には危険である」という前提に基づき あらゆる危険性を徹底排除することは 社会人としての責務であり 教育関係者だけに丸投げしておけば済むような話ではない
犯罪者の言い分というのは 論理的に支離滅裂で訳が解らないことが非常に多い
その中には優生学に基づいたものもあり 優生学に対する論理反証を生物学界が認めようとしないことも犯罪助長の大きな要因ともなっている
主観的な嫌悪や怒りの感情を 短絡的に意識の主体だと錯覚しているからこそ 非人道的発想が出てくるのであって
論理客観性に基づいて自己の主観的感情を統合的に検証することによってのみ 社会安全性を優先するという発想に至ることが出来るのである
私個人の主観的「本音」を言わせてもらえば「お前らみたいなバカは全員絶滅しろよ」としか「思わ」ないが
それでは自己の存在における尊厳において「一秒足りとも生き続ける理由」にならないからこそ こうやって懇切丁寧に 噛んで含めるよう説明を 面倒臭いし意欲もないが続けているのである
別に「生きる必要性」など私にはそれほどないが どうせいつかは死ぬ以上無駄に誰かが苦しむのも見たくはない それなら社会安全性にとって少しでも有効な選択をすべきだという客観的判断である
主観である以上 誰の主観であっても意味はない
重要なのは客観性に基づく論理性 理性である 理性なくして人間性など成立することはない
耳当たりの良い 心地好くなる「面白い話」の方が気分的には安心満足することが出来るのであろうが それこそが社会安全性を損なう無責任な非科学的オカルト観念への洗脳によって思考停止に陥れる
養老孟司は「人生は崖登りだ」と述べたが 「国際競争力」などと称して無駄なチキンレースを鵜呑みにしているから「崖登り」などという危険な破綻への暴走をすなければ(すなければ?)ならなくなるのである
誰かと較べて「勝った」からといって 安全性を蔑ろにして 弱者をすり潰してまで競争する価値などない
勝ち負けというのは犬の価値観であって 特定の身勝手な価値観に基づいて「勝つ」ことは人間性や社会安全性において意味がないのである
◇
宗教の多くでは「人知を超越した実証不能の謎の能力」の存在を根拠にしたがるのだが
「人知を超越した実証不能の謎の能力」なんぞ そいつにしか使えないので応用が出来ないのである
「予言が的中した」だとか 「一度死んでから復活した」だとか言われても そんなのそいつにしか出来ないんだから意味がないだろ
「へぇ そいつぁスゲーや(棒)」としか言いようがないゎ
「人知を超越した実証不能の謎の能力」を振りかざせば 衆人達の多くは気分的に「畏れ」おののき 簡単に平伏して盲目的に信頼したがるのだが
津波や原発事故を誰か予言したんすかね
紛争解決に何か役立ったことがあるんすかね
要は盲目的に信頼することで気分的に安心したいから宗教にのめり込むだけで
実際に津波で漁師の息子と船と家まで流され たった一人残された歳老いた母親を救おうなんて宗教家なんぞいない
なぜかって?
「金儲け」にならないからだな
Ende;
「航空機事故は日常生活で起きるアクシデントよりもはるかに少ない」と言えば 利用者は気分的に安心するが
航空機運用においては危機感を持ってあらゆる危険性を排除する必要性がある
「原発事故による放射能の影響は生活習慣病のリスクよりもはるかに少ない」からといって原発の運用に手抜きがあってはならないのである
京大学長の山極寿一や霊長類研究所の松沢哲郎は 大衆マスコミ相手に「先天的本能習性から人間性が立証出来るはずだ」などと言い張るが
先天的本能習性というのはシーケンシャルな条件反射に過ぎず 環境依存性の無意識な「結果」に過ぎず
人間性の根幹となる「自律」的な社会的責任判断とは全く別のものである
「世界人口のごく僅かしか戦争をしていない」と言われれば 大衆マスコミは気分的に安心満足して思考停止に陥るのであろうが
これは論理的安全性とは全く別の 錯覚を利用した大衆迎合に過ぎない
航空機や原発というのは それを取り扱う者が責任を持って運用すべきものであるが
イジメやヘイトスピーチの防止というのは一般大衆全員が責任を持つべき人間としての基本的要件である
イジメやヘイトスピーチという差別は戦争の源であり ハイリッヒの法則に鑑みれば「ヒヤリ、ハッと」事象なのである
小さな事象の原因を見逃しているからこそ 重大事象にまで発展してしまうのであって
中学生のイジメも殺人事件にまで発展することが実際にある
実際に人が死んでいる以上 これは当事者にとっては「小さな事象」で済まされる話ではない
生物学者達による非科学的観念錯覚を用いた大衆迎合で気分的に安心することは むしろヒトという種の生物の危険性を看過ごす大きな要因であって
極めて社会的に無責任な「洗脳」とも言えるものである
「本性」というものを「先天的本能習性」と定義すれば
ヒトという種の生物の本性とは「順位序列階級差別を好む愚かな猿」に過ぎず
ヒトの子供を集団で放置しておけば 自動的自然にイジメ差別が起きる
これは普遍的事実結果であり 統計的に見ても「ヒトという種の生物における先天的習性」であると定義すべきものでもある
にも関わらず「ヒトは先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという科学的根拠のないお伽話で大衆を気分的に安心させることしかしていない生物学界というものは 科学を逸脱したオカルトにしかなっていない
「ヒトという種の生物は 先天的には危険である」という前提に基づき あらゆる危険性を徹底排除することは 社会人としての責務であり 教育関係者だけに丸投げしておけば済むような話ではない
犯罪者の言い分というのは 論理的に支離滅裂で訳が解らないことが非常に多い
その中には優生学に基づいたものもあり 優生学に対する論理反証を生物学界が認めようとしないことも犯罪助長の大きな要因ともなっている
主観的な嫌悪や怒りの感情を 短絡的に意識の主体だと錯覚しているからこそ 非人道的発想が出てくるのであって
論理客観性に基づいて自己の主観的感情を統合的に検証することによってのみ 社会安全性を優先するという発想に至ることが出来るのである
私個人の主観的「本音」を言わせてもらえば「お前らみたいなバカは全員絶滅しろよ」としか「思わ」ないが
それでは自己の存在における尊厳において「一秒足りとも生き続ける理由」にならないからこそ こうやって懇切丁寧に 噛んで含めるよう説明を 面倒臭いし意欲もないが続けているのである
別に「生きる必要性」など私にはそれほどないが どうせいつかは死ぬ以上無駄に誰かが苦しむのも見たくはない それなら社会安全性にとって少しでも有効な選択をすべきだという客観的判断である
主観である以上 誰の主観であっても意味はない
重要なのは客観性に基づく論理性 理性である 理性なくして人間性など成立することはない
耳当たりの良い 心地好くなる「面白い話」の方が気分的には安心満足することが出来るのであろうが それこそが社会安全性を損なう無責任な非科学的オカルト観念への洗脳によって思考停止に陥れる
養老孟司は「人生は崖登りだ」と述べたが 「国際競争力」などと称して無駄なチキンレースを鵜呑みにしているから「崖登り」などという危険な破綻への暴走をすなければ(すなければ?)ならなくなるのである
誰かと較べて「勝った」からといって 安全性を蔑ろにして 弱者をすり潰してまで競争する価値などない
勝ち負けというのは犬の価値観であって 特定の身勝手な価値観に基づいて「勝つ」ことは人間性や社会安全性において意味がないのである
◇
宗教の多くでは「人知を超越した実証不能の謎の能力」の存在を根拠にしたがるのだが
「人知を超越した実証不能の謎の能力」なんぞ そいつにしか使えないので応用が出来ないのである
「予言が的中した」だとか 「一度死んでから復活した」だとか言われても そんなのそいつにしか出来ないんだから意味がないだろ
「へぇ そいつぁスゲーや(棒)」としか言いようがないゎ
「人知を超越した実証不能の謎の能力」を振りかざせば 衆人達の多くは気分的に「畏れ」おののき 簡単に平伏して盲目的に信頼したがるのだが
津波や原発事故を誰か予言したんすかね
紛争解決に何か役立ったことがあるんすかね
要は盲目的に信頼することで気分的に安心したいから宗教にのめり込むだけで
実際に津波で漁師の息子と船と家まで流され たった一人残された歳老いた母親を救おうなんて宗教家なんぞいない
なぜかって?
「金儲け」にならないからだな
Ende;