書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○回答その3。

2015年05月23日 10時19分31秒 | 意識論関連
あらら、「進化に対する誤解」が広まっていたなんてしらなかった。 (情報弱者 (T-T)

でも、そうなるとますます病理医達の議論は論理整合性がなくなることになるのです。進化の結果に何らかの意味をこじつける形式の議論を、病理医は私のブログを読むまで知らなかったからこそ、進化生物学的こじつけに同意していたんですから。墓穴を掘っているのは病理医の方なんですよ。

予め進化生物学的こじつけが間違いであることを知らないにも関わらず、「生存の上で○○が役に立ったのだろうと推測することは大切だ」という趣旨の話「○○は生存 のために役に立つ能力だったと言うとまるで生存を目的として機能が生まれた」という趣旨の区別は出来ないのですから。病理医の主張には論理整合性がなく、いきあたりばったりに取り繕ったに過ぎないことが推理できるわけです。

そもそも病理医が知っていたとするのであれば、どうして「査読がない」ことを理由に一蹴破棄できるんでしょうか。病理医は予め進化生物学的こじつけの間違いのことは知らず、初耳だったとか最初から理解するつもりが全くなかった証拠でもあるのです。

「攻めすぎ」と形容していることからも、病理医はしらかなったことが証明されているのです。

養老孟司(東京大学名誉教授)などもそうなんですが、自分の観念の中に閉じこもっている者にとっては、むしろ論理整合性の方を開こうとする性質があります。 (敵が多過ぎるんだよ。めんどくせぇ。)

これこそがヒトという種の生物が「実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかける原因。」なのです。

論理整合性を後回しにしていて、どうして科学的議論が出来るというのでしょうか。それこそオカルト集団内部でのオカルト理論の共鳴で満足している証明になるのです。

こうした論理整合性をすっ飛ばした観念を共鳴する集団の心理には、「評価承認とセットで教えられたことは短絡的に鵜呑みにし、同時に評価承認になりそうにない(攻めた)内容には拒絶反応しか示さない」という共通のパタンがあるのです。

でも、「仮説」と「証明」の区別がつかないというのは、法学部4年生としてはちょっと自律的論理検証性に問題がありますね。私のブログを読んでも点数とか単位がもらえないからテキトーに読んでいるのではないかと邪推してしまいます。


Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○回答その2。

2015年05月23日 02時59分02秒 | 意識論関連
ここ数回のブログの意図が不明なの で、あなたの思考手順を僕なりに推察してみ ました。違っていたらすみません。 あいつ科学的議論から逃げた!(実際はすり 替え論法に嫌気がさしただけ)→周りの奴ら の賛同を得てやがる!承認欲求中毒に違いな い!→((続く


「すり替え論法に嫌気がさしただけ」というのは病理医の主張の鵜呑みですが、それが本当かどうかは何の確証もありません。すり替えというよりは実際には単なる間違いに過ぎないですから、科学的議論であれば「いやそれ、間違えているよ」で済む話のはずなんですが。病理医は明らかな拒絶反応(ブロックなど)を示していることから何らかの不都合を指摘されたことが推測できるわけです。

さらに病理医達のやり取りを追えば、進化生物学的こじつけに賛同し、「面白い」とも同意していることは明らかで、進化生物学的なこじつけについて何ら認識していなかったことは明白であるにも関わらず。

「生存の上で○○が役に立ったのだろうと推測することは大切だ」という趣旨の話をしたら「○○は生存 のために役に立つ能力だったと言うとまるで生存を目的として機能が生まれたみたいになるけどそれは間違いです」 とつっこまれたんですが、これ、すりかえですから……あぁーもうめんどくさい

という病理医の主張には論理整合性はないことになり、言い逃れや取り繕いに過ぎないことが推理できるのです。

進化生物学的なこじつけ論法の間違いを頭から否定しており、論理的反証すら最初からしていません。

それなら進化生物的こじつけの間違いを私のブログを読んで初めて認識したことになるのです。

この私のツッコミに対して論理的反論が出来ないために、そもそも曖昧な議論に対し、後から「生存の上で○○が役に立ったのだろうと推測することは大切だ」という趣旨の話をしたことに後から取り繕ったと考えられるのです。

たった一言でも進化生物学的こじつけに対して同意している以上、彼らは進化生物学的こじつけが科学的に間違いであったことを、それまで全く認識していなかった証拠になります。

進化生物学的こじつけを認識していない時点で、どうして結果と目的を区別した上での話が可能なのでしょうか。そもそも「査読がない」ことを根拠に頭から否定している理論に沿った考えが予め成立しているわけがないのです。



そもそも科学的議論に拒絶するなんていう話は科学者として論外です。個人的気分で嫌な話を拒絶していたのでは到底科学的議論は成立しないからです。

「めんどくさい」なんて話も科学的議論の途中では論外です。もちろん主観的感想を挟むのは自由ではありますが、感情的になって拒絶する時点で最初から本気で科学的議論をするつもりはなかった証拠になります。科学的議論なんつううのはそもそもがめんどくさいものだからです。


本当に科学的議論をするのに「攻め過ぎ」だの「自分を大事に」といった話が出てくるわけがありません。そうなると彼らは既存の業績知識をなぞることで、進化生物学的こじつけを共有して満足したかったとしか考えられないわけです。

彼らに見られる権威主義性の源は一体なんでしょう。教えられたことを鵜呑みにして満足感を得るだけの科学的には意味のない議論(のつもり)で同じ観念を共有するのはなぜでしょう。その理由として承認欲求中毒の症状が考えられるのです。



ブログの「意図」としては、普遍的に見られる組織集団の閉鎖性や差別排除の心理的構造を明らかにすることや、自律的に論理検証することも出来ずに科学的議論をしたつもりになっているという支離滅裂さの原因として、承認欲求中毒(甘え)がもたらす思考や行動のパタンを一般化することです。病理医はサンプルに過ぎません。



医師だし、承認欲求中毒の原因は、偏 差値だけを追い求めたからに違いない!→ 「偏差値が高い=賢い」ではない!→じゃあ バカだ!!New!! ってな感じですかね。。。少なくとも僕の見 た範囲での解釈はこんな感じです。すり替え と、自分の仮説を前提として確定させている のがマズイです

私は別に偏差値が高いことが直接バカであるとは述べたつもりはありません、ただ、偏差値が高いからといって賢いとはかぎらないとは言うことは出来るわけです。学力偏差値が高い方全てをバカだと言っているわけではなくて、むしろバカの原因が承認欲求中毒に由来するものであるという趣旨です。

承認欲求中毒というものが、学力偏差値の追求だけで生ずるものではないことは、良く読んで頂ければわかるのではないかと思いますが。親の多くも「学力=知能」という大衆的観念を鵜呑みにして子供に学力競争を強いることは非常に多いことからも、学力偏差値の追求の動機が、当人が本当は主体的には望んでいないにも関わらず、努力辛抱根性で親の期待に応えようとした結果である場合には、結果的に承認欲求中毒に由来する頭の悪さ(自律的論理思考や発想力の欠如)を生ずることになると考えられるわけです。

「考えられる。」と述べましたが、それ以外に(学力偏差値が高いにも関わらず)自律的論理検証性や発想力の欠如を招くような要因が存在する可能性があるのであれば、是非聞かせて頂きたい。

進化生物学的こじつけが間違いであるという証明は、教えられれば誰でも理解可能な簡単な論理証明です。ですから自発的に考えが及んでいれば中学生にでも言うことのできるものに過ぎません。にも関わらず私以外誰も主張していないのはどういうことでしょうか。私より遥かに学力偏差値が高い方は無数にいるはずにも関わらず、どうして誰も気付くことが出来ないのでしょうか。それは、その事柄についての自発的疑問とか認識が働いていないことが原因です。

学力偏差値に関わらず、承認欲求中毒というのは気分感情と思考や行動が直結することで自律的な論理検証性が失われます。学力偏差値というのは知識の「量」とか促された思考の「速度」といった特定の能力の高さによっても高くなるものであるため、学力偏差値が高くても「評価承認とセットで教えられていないことには何も自発的には気付くことが出来ない」という決定的な頭の悪さを発揮しているのです。

前述のように「すりかえ」というのは病理医の主張であって、実際には単なる「間違い」とか「意思疎通不足に由来する勘違い」であって。むしろ取り繕いによって論点をすりかえているのは前述のように病理医の方です。

それから進化生物学のこじつけ論法の間違いというのは論理から導き出しているものであって、予測的な「仮説」ではなく論理的「証明」です。 もし証明ではないというのであれば論理的な反証が必要となります。



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○感情論はさておいて。

2015年05月22日 21時14分10秒 | 意識論関連
尾木直樹ママの長女さんは「いい子症候群」というのになってしまっていたそうです。

尾木ママの場合は特に強迫的抑圧で子供を服従させてなどいないと思うんですけど、それでも子供は親の顔色を敏感に感じとって、大人になるまで自分が本当に好きなことを全然しなかったんだそうです。

何でいきなり「いい子症候群」を挙げたのかというと、承認欲求中毒症状との関連性があるのか、ないのか。そこが気になったんです。

どこぞの病理医ちゃんの承認欲求中毒というものが、もしかすると「いい子症候群」の結果なんじゃないかとしたら、おいらの個人的な怨念で「ピアノ線でキリキリ締め上げるようなこと。」をしていたら可哀相に思えてきたからなのです。

どこぞの病理医ちゃんとか、人体ピラミッドで悪名高い吉野よしろう教諭のように、人の話を全く聞かないクソ野郎のご機嫌取りは個人的にはしたくはないのですが。そういう個人的な感情論は科学的分析からは一旦外して考えなければならないとも思うのです。

若い人達が道を踏み外そうとしているのであれば、泣きついてでも引き止めてあげたいと思うんですけど。(オッサンに泣きつかれてもキモいだけなんだろうけど。)同年代とか指導者の立場の者なんか「死ねやクソ野郎。(怒」としか思わないんですよね。 でもそれっておいらの主観的な感想気分でしかない。

でも、吉野よしろうみたいなクソヲヤヂの気持ちだとか、犯罪者のご機嫌取りみたいなのをやりたい奴っているんすかね。

あ、ダメだ今は腹立って来て冷静になれないや。

また今度考えよう。

おいらは尾木ママみたいに育ちが良くないから無理なのかも知れないし。


Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

承認欲求中毒は論理思考が成立しない。

2015年05月22日 17時26分18秒 | 意識論関連
「(誉められる=気分が良い)=(学力偏差値が高い=賢い=知能が高い)=人間として優秀」といった短絡的価値観の連携が承認欲求中毒にはあるため。

「気分が良い=知能が高い=人間として優秀」といった、脳の報酬系にとって主観的に気分の良いことこそが人間としての優位性であると錯覚しているからです。

従って承認欲求中毒では、自分にとって気分の悪い話には一切耳を貸さなくなるため、自分の頭の悪さを認識することが全く出来なくなるのです。

そのため、どこぞの頭のイカレた病理医ちゃんのように科学的議論に個人の主観的好き嫌いを持ち込んで、自分の頭の悪さを認識しないよう拒絶反応しか示さなるからです。

自分の頭の悪さを認識せずに、どうして「賢く」なることができるんでしょう。



「気分が良い=人間として優秀」という方程式は、全能感覚をもたらし、感情気分が行動に直結するようになるため。犯罪者の多くに見られる傾向でもあります。

無差別殺人犯などは自分が絶対的に優秀な存在だと思っているからこそ残虐な行為も平気で行えるようになるのです。

そのため、気分が良くなるようにしてくれる相手を、とりたてて合理的根拠もないまま盲目的に信奉し、マイケル:サンデルなどを短絡的に「頭が良い=天才だ。」と思い込み。サンデルの講義さえ聴いておけば自分の頭が良くなったと勝手に思い込み、更にはSNS上で同じ観念を他者とも共有することで多数派同調バイアスによる満足感と相まって、頭の悪さが暴走状態に陥ることで、利己的で身勝手なことも平気で行えるようにもなるのです。

気分を良くしてくれる相手であれば、別にサンデルでも養老孟司でもオウム真理教の教祖でもISILの指導者でもナチス総統でもかまわなくて、行き当たり場当たり的に、自分がおかれた環境に依存して偶発的に盲信することにもなります。

こうした全能感覚というのは、同時に「俺の気分が悪くなることを言う奴は、バカだ。」といった、これまた短絡的な価値観も生み出します。

バカの話は聞きたくありませんよね。私もそうです。バカは大嫌いです。バカの話をマトモに聞いているとこっちまでバカが感染るんじゃないかという恐怖さえ覚えます。

そのため、普通はバカだと思う奴の話は最初から取り合わないのが普通の一般人の感覚ではないでしょうか。バカがバカげたことしたら、懲罰でも与えて「シメときゃ良いんだ。」となるでしょう。刑法懲罰というのはそれを社会制度にしたものです。

ところが、刑法懲罰制度というのは、バカがバカげたことを実際に犯さないと懲罰対象にはなりません。たとえ実際にバカげたことをやらかして懲罰を与えたからといって、バカが治る論理的根拠も保証もないので、強盗殺人で25年服役して出所後数週間で殺人を犯すなんていう事例がいくつも出てきます。

刑法懲罰というのは、単に大衆的な報復感情を満たすために存在しているだけなので。具体的かつ論理的に「なぜ、この犯罪者は自分の行動に何の疑問も持たなくなったのであろうか。」といった、精神分析的なアプローチは制度的に一切組み込まれていないのです。

凶悪な強盗殺人犯の主張に耳を傾け、どのような条件によって殺人犯が殺人を犯すのかを真面目に分析するアプローチは刑法制度にはないため。裁判官による科料の妥当性(それまでの判例と較べて)によって判決を下しているだけなのです。

よって、刑務所の出所者が出所後に何をやらかしても、誰も責任を取らないという、社会的には無責任極まりない制度でありながら、大衆の感覚的な懲罰感情を満たすだけの制度が漫然と温存放置されていることになっているのです。



実際に被害者が出なくても、バカには普遍的に共通した傾向性や症状があるはずです。それが「気分感情が行動や思考と直結している。」という点なのです。

行動や思考が気分感情と直結する大きな原因として、承認欲求中毒が挙げられるのです。

某どこぞのイカレた承認欲求中毒の病理医ちゃんなんていうのは、バカとしてはさしたるものではありません。精々「ヒヤリ、ハッと」程度の話に過ぎないでしょう。このくらいのバカであれば掃いて棄てる程世の中にはいますが、その全てが重大犯罪者になるわけではないですし。単に私が個人的に気分が悪い程度の話でしかありませんでしょうから。(奥さんの気分も悪かったようですが。)

しかし、一つの重大事象が発生する裏には、無数とも言える小さな事象が隠れている(ハインリッヒの法則)のであって、どんなに些細(に見えるよう)な出来事であっても詳細に分析する必要性があるのです。




先日の「オイコノミア」で放送していた内容で、経済学で言うところのインセンティブ設計というのを採り挙げていましたが。これはヒトの脳の報酬系の条件反射的行動動機付けを利用しているわけです。

経済学というのは大多数の人の行動傾向を利用する形の誘導を、特定の社会制度などに応用するためのものでもあるため。大多数の人達のこうした無意識性を変えようという考えが最初からありません。

ですから自分で自律的に物事の良し悪しを判断する能力が未発達な幼児の行動を制御するためならまだしも、身体は大人ででありながら気分と行動が直結しているのでは、到底人間としては大人とは言えません。

具体的に誰のことを述べているのかはもう言いませんが。(言いたいけど。)

幼児の場合は自分の行動を論理的に判断し行動や言動を選択できる程の知識の量もすくなければ、当然判断基準も足りないので自律的に社会的責任なんぞ負えるわけがありませんから。幼児が悪いことや危ないことをしていたら親大人が「こらこら、そんなことしてはいけません!。」的に叱って抑制するしかありません。

しかし、こうした他律的な行動抑圧によって心理的に刷り込まれた「超自我(ジグムント:フロイト)」だけでは、構造原理的に自律判断が養われないために。自分がおかれた環境に依存した行動抑制しか働かないばかりか、むしろ環境に従順に従うことで承認を得ようとするようにも陥るわけです。

その典型的な一例がナチス政権下のポーランド アウシュビッツ ビルケナウ ユダヤ人絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマン中佐でしょう。

彼は国際法廷においても、「自分は体制に忠実な一吏官に過ぎない。」とも述べています。

これはつまり、意味としては「自分が悪いのではなくて、自分を雇ったナチス政権が悪いだけだ。」と主張しているのと同義でしょう。

社会の多数派が求めているものであるならば、何でも正しいと思うのは間違いの素です。今自分がおかれている社会環境が完全無欠の絶対的なものであると「思う」のは、それが「生まれてずっとそうだった。」というたかだか数十年という時間が作り出した感覚に過ぎません。




そういえば以前、ヲタク叩き番組に煽られてカウンターに入ろうとした若者がいましたが。キチガイというのは個人的な好き嫌いを短絡的に物事の良し悪しに直結させて糾弾しておけばどうにかなると思っているような奴がヘイトスピーチをしているのであって。感情的に怒鳴り散らすことで、論理的な土台のグズグズな泥沼地雷原に引きずり込まれることもあるのでとても注意が必要です。こうした意識の引きずり込みというのは、必ずしも相手が意図的にやっているとは限らず、バカがバカ同士で共鳴しあっているうちに暴走している「結果」に過ぎないことも少なくありません。

むしろそっちの方が多いのかも知れませんし。

人はどうしても感情が優先してしまいがちです。これは特に承認欲求中毒に限ったことではなく、そもそもヒトという種の生物は哺乳類ですから、どうしたって親と子の関係性からは逃れられるものではなく。全ての人はかつて子供だったことを前提に、ほぼ例外なく承認欲求を潜在的に持ち合わせているものであると考えるべきなのです。

こういう話をしていると、短絡的に承認欲求という「甘え」が全面的に悪いかのような解釈をしてしまい、子供は幼児期から甘やかさずに厳しくスパルタ戸塚ヨットスクール万歳的な思い込みに陥るバカも少なくありません。

そんな短絡的でバカみたいな文系解釈の仕方こそが「甘え」に他ならないのです。論理的理解をすっ飛ばして「甘え」だけが悪いといった「これさえやっときゃ、全ては解決」みたいな短絡的思考こそがバカが陥る典型的パタンでもあるのです。

子供にとって、親というのは神も同然です。親が望まざるとしても子供にとって親は絶対的な存在でなくてはならないのであって。子供が自律的に行動責任判断を行えるようになるまでは決して威圧的な強制をするべきではないのです。

自律とは自発の中にあるのであって。先ずは子供の主体的な意思というものを大切にし、自由に物事を考えられるような精神的ゆとりを持たせてあげる必要性があるのです。

ここでアルバート:アインシュタインの言葉を引用しておこうと思います。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

私にとって、最悪だと思われるのは学校が主として恐怖、力、人工的な権威という方法を用いることです。そのような扱いは、生徒の健全な情緒、誠実さ、自信を破壊します。それが作り出すのは従順な臣民です。 (大月書店刊「アインシュタインは語る」より抜粋)

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

「従順な臣民の一体なにがいけないんだ。」そう思っているのであれば、もはや相当頭がヤラレていると自覚した方が良いかもしれません。

従順であることというのは環境依存的に多数派や権威の命令に服従するだけの冷徹さを意味するのであって、それこそが役所の手続きのようにユダヤ人殺害計画書の作成に邁進するようなキチガイをも作り出すからです。

恐怖や威圧的な態度で子供を服従させた最も典型的な害が虐待の連鎖ではないでしょうか。

そこで問題になるのが、自発的に物事を考え、権威や多数派の意見に安易に同調しないようには育てられていない親大人達が、一体どうすれば子供に自律的判断力をつけさせられるのかがさっぱりわからないということでしょう。

承認欲求中毒患者の場合、評価承認とセットで教えられたことを無批判に鵜呑みにするばかりで、自律的には何が正しいのかを判断する能力がほとんど全く養われていません。 ですから教えられていないことは何も出来ないのです。

厄介ですね。

私も匙投げたくなりますわ。




夕ご飯の支度があるので今日はこれまで。

Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○考えたつもり。

2015年05月22日 11時21分32秒 | 意識論関連
ヒトという種の生物は、「悩む」ことを「考え」と混同する習性があります。

これは一種の錯覚妄想なんですが、気分的に悩ましい事柄に意識を奪われている時間の長さとか、感情強度などの「程度」のことをあたかも論理的思考か何かと勘違いする習性があるのです。

マイケル:サンデルの講義で持ち出される命題などは、最初からどうにもならない事態を仮定しておくことで感情的に「悩ましい」よう仕向けることで、あたかも生徒達に「考えさせられた」ような錯覚を与えることで、生徒達は「自分が賢くなった。」という錯覚を促すため、サンデルの講義は「人気」があるわけです。

よく文系の人が、「考えさせられる。」的なことを述べている場合。そのほとんど全ては単なる「悩ましい事態」を挙げているだけであって、実際には何の考えも出てくることはありません。

サンデルの講義で用いられる命題というのは、よく考えれば「もはやその時点では何もすることが出来ず、ただ傍観する他ない。」ような状況ですから、どんなに悩んでも意味はないのです。



認知行動療法というのは、鬱症状の患者が陥っている思考の間違いや思い込みを気付かせ認識させるための手法なのですが。治療では思考の間違いや思い込みを直接患者に指摘したりせず、「なぜ、そう思うのですか?。」といった形式を重ねることで、考えを促し、単なる思い込みに過ぎなかったことを認識させるよう持ち込みます。

なぜ、こんなまわりくどいことをするのかと言うと。直接間違いを指摘してしまうと患者が「ああ、自分はバカなのか。」と逆に気分的に落ち込んでしまうという、ヒトという種の生物が持つ先天的な情動バイアスが普遍的に存在するからなのです。

ですから、認知行動療法というのは、あたかも「自分で気付いた」かのような錯覚を促すことで、間違いに気付かなかった頭の悪さを認識させないようにすることによって、鬱症状を改善することが目的なのです。



ここまで書けば、私が何を言いたいのか頭の回転の速い方なら何となくわかったかも知れません。

いや別に明確にわからなくてもバカなわけではありません、速度だけ取り上げても知能の論証にはならないからです。



最初に解決不可能な気分的に憂鬱な話を持ち込むことで、生徒達に何らかの考えを促したような錯覚を与えておいて。最後には「今日は有意義な議論が出来ました。」などと誉めることで、生徒達は「サンデルの言う通り、自分は頭を使って考えたので、賢くなった。」という錯覚に陥り。その気分的満足感からサンデルの講義を好きになり、一種の中毒症状を促すわけです。



こうした手法というのは、実は診療内科の治療法に限ったことではなく。占い師やペテン師、詐欺などの手法でも使われるものなのです。

振り込め詐欺などの特殊詐欺においても、大量の情報をカモに与えて「悩ましい」状態に陥れることで、カモに何かを「考えた」ような錯覚を与えることで「自分は大丈夫だ。」という錯覚に陥れます。



他者から与えられた条件の範囲だけで促された「考え」には、自発的検証が介在しないのですが。ヒトの多くは気分的に悩ましい状態によって感情が高ぶると、その感情の強度こそを意識だと錯覚しているために、感情が行動に直結してしまうようになります。



振り込め詐欺に騙される被害者というのは、「孫を助けたい一心で。」お金を振り込んだりします。

それって「考え」ですか?。

それ以上はここでは述べません。促されてなを気付かないようであれば、もはや何を言っても無駄ですから。



ヒトという種の生物の脳というのは、間違いを直接指摘されると「自分はバカだ。」と歎き、気分的に凹んで鬱な気分に陥る習性があるため。間違いを直接指摘されると条件反射的無意識に言い逃れや取り繕い、はぐらかしをすることで、「自分だけは絶対に大丈夫だ。」と思い込むことで鬱状態を回避することも少なくありません。

論理的に導き出された客観的事実に対して、自分の気分(大脳辺縁系が促すバイアス)が悪くならないように拒絶反応を引き起こすようなメカニズムが、ヒトという種の生物の脳にはあるのです。



脳の前頭核という部位の活性が、前頭前野が司る論理検証性の働きを抑制すると言われています。平たくいえば、パニックに陥ると反射的に何かに取り憑かれたような変な行動を採ってしまう現象の脳科学的機能説明なんですが。

いままで誰も論じてこなかったような突拍子もない話を聞かされると、ヒトの脳は気分が悪いので反射的に拒絶反応を引き起こします。

スタンレー:ミルグラムによる社会心理実験で服従に関する実験があって、「服従の心理」という書籍があります。河出書房かどっかだったかな。

通称「アイヒマン実験」とも言われるこの実験報告書によれば、ハンナ:アーレントが述べたように、ナチスのような野蛮行為というのは、ごく普通の一般人の性質が引き起こしたものであると結論づけています。(ただし、ミルグラムは「サイバネティクスの観点から」という、進化生物学の間違った観念からのこじつけ考察も行ってしまっているので、注意が必要ですが。)

これを読んだある一般人は、その感想文において、「それでも権威に服従しない社会は崩壊する。」などという論理的根拠のない実証不能の観念をぶちまけたりしています。これは「権威に服従していないと不安」という感情気分が促した短絡的結論です。



ヒトの脳というのは神様が作った完璧なものでもなければ、進化の上で何らかの意味が必ず存在するような行動だけしか促さないようには出来ていません。

どこぞの病理医ちゃんみたいに科学的議論に主観的好き嫌いを持ち込んで小型犬のようにキャンキャン喚き散らすことも珍しくはないのです。そんなことでは科学的議論が進まないのは当たり前なんですが。こういうバカがエリート扱いされて指導者の立場にいるから理科離れが起きるのではないでしょうか。

学力偏差値というのは知能とは無関係です。知能指数と学力との相関はあると言われていますが、そもそも知能指数は本当に知能の論証かどうか考えたことがありますか?。

知能指数が高い犯罪者というのが時折います。特殊詐欺なんてそういうことでしょ。



意外とこの世の中というのは科学的論理検証が徹底的に追求されているわけではなかったりします。

結構スカスカなんです。

だから脳みそ一つでも指摘可能な科学的議論も出来るんですよ。こうした誰も気付かなかったことに気付くというのは、別に頭が良いわけではなくて、他者から与えられる脳への報酬、いわゆる承認欲求に依らない自発的興味によって徹底的に追求することで自ずと発見することが出来るものなのです。



学力偏差値が高いくらいでテングにならないで下さいね。教えられたことを「知っている」だけでは、その教えられたことの中に間違いがあるかどうかにまでは意識が働いていないことを認識してください。

社会というものは、それぞれの人が自分の得意分野を分担し、相互に補い合うことでより機能的になります。しかし、専門分野の中だけで高い能力評価をされると、あたかも自分が賢くなったかのような全能感覚に陥ることも珍しいことではありません。犯罪者の発言の多くにはこうした身勝手な全能感覚が見られます。振り込め詐欺師が詐欺能力を存分に発揮されても困るように、軍隊が軍事力を存分に発揮されても、警察が警察権力を存分に発揮されても、企業が金儲け能力だけを存分に発揮されても社会にとって有害な場合は少なくありません。

得意を伸ばすことは重要ですが、他人と較べて優劣だの序列だの順位だのといった、既存の基準を鵜呑みにするからテングになっちゃうんでしょう。どっかの頭のおかしい病理医ちゃんみ(ry

ヒトという種の生物が持つ本能的な社会形成習性というものも、存分に発揮されればISILやシエラレオネの少年ゲリラやナチズムのような組織的暴走をも招きかねないのです。

特定基準だけで優劣をつけて、その基準を基にしてヒエラルキーを形成するのが社会形成習性です。動物の場合は狂暴性を基準に優劣を決めて服従することしか出来ません、でもそれは自然淘汰の「結果」に過ぎないことを忘れてしまえば、あたかも生存のためであれば何でも許されるかのような結論を導くことも可能になるのです。

教わったことを鵜呑みにするだけではなく、教わった知識に対しての小さな疑問は大事に温めておくことも重要です。小さな疑問の地道な積み重ねによって、誰も気付かなかった発見があるかもしれないからです。

教わったことを「知っているだけ」なのと、誰にも教わっていないことに「気付く」ことというのは、脳機能として決定的に異なるものです。その決定的な違いこそが本質的知能の源なのです。そしてその能力というのは、脳の使い方によって誰にでも獲得可能なものでもあるはずなのです。





Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○更に分析。(しつこいね。)

2015年05月21日 19時49分16秒 | 意識論関連
もう少し分析すると、どこぞの病理医ちゃんみたいな承認欲求中毒患者というのは科学的議論で真理を追求しようとしているわけではなくて。予め自分が求めていた答えに同調してもらって気分的に満足したいだけなんだろうな。

だから予め求めていたストーリーなり仮説なりにとって都合の悪い、気分の悪くなる話に対しては短絡的に「クソリプ ワーイ」になっちゃんでしょうねぇ。

そんな気分感情と直結した言動で科学的議論が深まるわけがないんですけどね。

「ヤンデル」だとか自称しているのも、要するにマイケル:サンデルの講義を見て自分の頭が良くなったかのような勝手な妄想に陥っているからこそ、「ボクチン大人だから。」的な発言も出てくるんでしょう。

そもそもサンデルの講義というのは認知行動療法的にご機嫌取りしかしないんですけどね。そこには気がつかないんでしょうなぁ。医師免許持っているはずなのにね。内科医的な知識しかない証拠だね。

サンデルの講義っていうのは予め生徒の答えを予測して、それに対する評価なり疑問点を予め用意しておくという周到な準備によるもので。だからこそ生徒の議論に対して即答することで、あたかも「頭の回転が速い=頭が良い」という錯覚を促しているに過ぎないわけです。

速度とか容量だけで知能を語ることは出来ないのであって、速度だけを取り上げて短絡的に「頭がいいわぁ。」なんて思うのは認知科学的根拠の全くない大衆観念に過ぎません。



しかし何でしょうね、「もう話しかけなくて良いですよー。」って。

要するに自分の観念にとって気分の悪い話は聞きたくないからもう話かけるな。っていう意味でしょうから、こういう感情論を科学的議論に持ち出すこと自体が科学者としてはポンコツで。組織の閉鎖性の原因でもあります。

もし間違った指摘をしているのであれば、「いや、そういう意味ではないですよ。もうちょっとちゃんと理解してね。」で済む話なんですが。短絡的に「クソリプ ワーイ」になってしまうというのは拒絶反応でしかないですね。

なぜ拒絶反応を示したのかと言えば、もしかするとイタいとこ突かれたからかも知れません。そもそもどこぞの病理医ちゃんが「生存の上で○○が役に立ったのだろうと推測することは大切だ」という趣旨の話をしたら「○○は生存のために役に立つ能力だったと言うとまるで生存を目的として機能が生まれたみたいになるけどそれは間違いです」とつっこまれたんですが、これ、すりかえですから……あぁーもうめんどくさいって言ってたけど、めんどくさいのは主観だし。下手すりゃイタいとこ突かれたことをごまかすための言い逃れとか取り繕いの可能性もなくもないんだけどね。

じゃなきゃ議論の途中でブロックするってどうなのよ。聞きたくないっていう感情論が先に立っているからでしょうよ。そもそも進化生物学的なこじつけに「面白い」って同意してたじゃねぇか。(今思い出した。)

科学的議論に拒絶反応持ち込んでいたら、「ガリレオ火炙り」と同じことで、到底科学的議論として成立しないんですけどね。まぁ、公然と「病んでる」って言っているので医者というよか病人なんでしょうけどね。

こういう偏差値が高いだけの承認欲求中毒患者がSNS上で集まっても、彼らは同じ観念を共有して気分的に安心満足感を得ることを目的にしているだけであって、科学的議論が成立しているわけではないことを、彼らは認識出来ないんでしょう。哲学界なんていうのはそういう連中の巣窟だからこそ東大から排除されたんでしょうね。

科学的議論というのは承認欲求中毒患者の気分が良くなるお花畑じゃないんですが。何せ思考や行動の動機の全てが他者から与えられる脳への報酬しかないので、「めんどくさい」だの「リスペクトしてくれねぇ。」という主観的感情論が先に立っちゃうんでしょう。

でもこういうヒトって決してどこぞの病理医ちゃんに限ったことではなくて、あらゆる組織腐敗の根底に隠れている現象なんですよね。

子供のイジメのキッカケでもありますよね。イジメ集団とかヘイトスピーチ達の排除心理と同じものですね。

個人の主観的感情論が排除の理由になる。イジメの場合は脅迫的で声のデカイ子供の扇動に他の子供が無意識につられてイジメが暴走する。

承認欲求中毒患者が自分の気分が良くなる相手の話しか聞かなくなるからこそ、論理的話が通じなくなる。オウム真理教とかISILなんてその最も先鋭的な例じゃないんですかね。

「Intelligence」という言葉には「情報局」の意味も含まれています。あらゆる情報を妙なバイアスをかけずに公平に評価してはじめてインテリジェンスなんですけどね。偏差値が高いだけの承認欲求中毒患者にはそういう冷静さはないんですね。

そんな心の狭い奴だからカミさんに愛想つかされたりするんじゃ(ry

多分カンファレンスでもパワハラ的発言でばっかりしていて研修医に嫌われてんじゃないのかね。あそか、だからツイッタランドに逃げてんだ。なるほどね。

までも、こんなに特定個人ばっかり挙げて分析していると、下手に何か呟いたりしたら自分も地獄の底まで追い詰められて分析されるんじゃないかとみんな怯えちゃうかもしれませんね。いや相手が自称「大人」って言っているし、向いてないにせよ一応科学者面しているから分析対象にしているだけなので、誰彼構わず分析するわけではないですし、もともと個人攻撃が目的でもないですから。(今更信じてもらえないだろうなぁ。)




Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○ご感想を頂きました。

2015年05月21日 14時29分41秒 | 意識論関連
ある方から感想を頂いたので、ここでご返事的なものを書いてみたいと思います。

「自らの主張を裏付けるために出してきたの が(既に多くの学者に議論し尽くされた話題 でありながら)学術論文ではなく、自らのブ ログであり、話にならない。」

科学的検証というのは特定組織(学術界も含めて)の内部の多数決で決まるものではないのです。科学哲学者のカール:ライムンド:ポパーは、「白いスワンをどんなにたくさん集めてきても、この世のスワンの全てが白いことの科学的証拠にはならない。」と述べています。

彼がいうところの「話にならない。」というのは、要するに「にわかには信じ難い。」と述べているに過ぎず。少数派とか異端であるから排除しようとしているに過ぎないのではないでしょうか。

別に「信じる」とか学術内部での「多数派」ではないとかいう話はどうでも良いんですよ、議論ですから。科学的議論の問題提起の権利を否定する権利があなたにあるわけではありません。科学的議論の権利は誰にでも自由でなければならないのです。

「多くの学者によって議論されてきた」とのことですが、実際には進化生物学者の誰もこのことには触れたことはなく。全く議論なんかされてなどいません。(後述します。)

結果と目的を厳密に区別することというのは、進化生物学界では長い間放置されてきたものなのです。



「そもそも議論 (review)自体が検証のプロセスだと思うの ですが、それは置いといたとしても、他者に よる検証を経てもいないあなたのブログを証 拠として使おうなど論外だということです。」

これも同じですね。「他者による検証」に依存している時点であなたの自律的な論理検証を放棄していることになります。本当に科学的興味があるのであれば、ご自身でも検証してみてはいかがでしょうか。

科学的議論の過程ですから、意見が「証拠」として権威による認証がなければならない必要性はありません。既に学術界内部で認証された「証拠」しか信じないというのであれば、それは学術内部の間違った「証拠」も鵜呑みにしてしまい批判精神もすったくれもない、単なる学力成績中毒の学生レベルの話でしかありません。

「僕は高校3年生の時の偏差値が80ほどだった が、三年間ほとんど勉強していない。賢さと 承認欲求は常にセットではない。」

学習障害という症状が存在するのと同様、その逆に学習に異常に適した人というのがいてもおかしくはありません。そもそも「学力=賢さ」という基準自体を何らご自身では検証されていないから短絡的に偏差値をご自慢されているのだけなのではないでしょうか。

このように学生時代にどんなに偏差値が高くても、「学力=賢さ」といった基準には認知科学的な根拠がないといった知能論についての見識にも自発的興味も持たれなかったのでしょう。

学生時代の学力成績というものは認知科学的な本質的知能の論証にはなっていません。

例えば、通り魔とか銃乱射事件の犯人の多くは学生時代に学力が高かったケースが意外と多いんです。これらの無差別殺人犯達が「賢い」わけではないのは言うまでもないでしょう。

ISILとかオウム真理教の幹部達にも偏差値の高い人は多いそうです。

東京電力で原発の安全管理をしていた人達も、偏差値が高くなければなれない職業です。

ですから偏差値というものは何の自慢にもならないのです。

多分お若い方なので、あまりそういったことにも知見をお持ちでないのかも知れません。



「信じたい」とか「信じたくない」といった気分的バイアスは何の科学的検証による「証拠」にはなりません。

ほとんど私以外誰も言わないような突拍子もない話でもあるので、にわかには信じたくないというお気持ち(大脳辺縁系が促す思考バイアス)はわからないでもないですが。気分的なバイアスを短絡的に科学的証明か何かとすりかえるのは間違っています。

とは言うものの、承認欲求中毒と学力との相関がないという話は確かかも知れません。もちろん承認欲求中毒患者が必ずしも学力成績競争という土俵でしか発揮されないというものでもありません。

学力が低くて承認欲求が暴走するからこそ、暴力団や半グレなどの暴力集団内部での評価で承認欲求を満たそうとするからこそ、先天的本能習性としての「社会形成習性」を存分に発揮してしまうのです。

暴力団が暴力性を評価承認基準にヒエラルキーを作り、統率的に役割分担をすることは、イヌなどの動物の社会形成習性と良く似ています。これを生物学では長い間「社会性」と形容して、短絡的に人間性を伴った知能か何かとゴッチャにしてきました。

このように、先天的な本能としての社会形成習性というものが、人間性を伴った社会性とは異なるという話はほとんど誰も議論してこなかった領域なのです。

偏差値というものを短絡的に知能だと錯覚していれば、テストやクイズの点数を短絡的に知能とか人間としての優位性か何かと勘違いするのは当然でしょう。

教えられたこと以外何も自分では発想することも、検証することも出来ないのにどうして「知能」だと言えるのでしょうか。そこはもう少し深く考えて欲しいものです。

ですが反論する権利まで否定するつもりはありません。若い方であれば知らないことがあっても何ら問題はありません。質問や感想は歓迎します。

それこそ「恥ずかしい」なんていう気持ちで萎縮している方が良くありません。「気持ち」という思考バイアスこそが科学的論理思考の最大の障害でもあるからです。

出来れば私としては理論的な反証のようなものを頂ければと思っているのですが、なかなか難しいようですね。科学的議論というのはあまり焦らず、じっくり時間をかけて検証する必要性があります。純粋にご興味をお持ちであれば参考になさったり、ご自身で検証してみてはいかがでしょうか。

言っておきますけど、別に個人攻撃しているわけではないですからね。科学的議論の段階においては「まちがったっていいじゃないか にんげんだもの」(あいだみつを)ってことです。科学的議論というのは結論さえ間違えなければいいんです。



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○科学的議論に向いてないタイプ。

2015年05月21日 11時52分40秒 | 意識論関連
海外での研究だったと思うけど、殺人犯の脳を医学的に分析すると連続殺人犯と衝動殺人犯に違いがあったそうです。

連続殺人型というのは大脳辺縁系の活動が活発で、いわゆる「熱しやすく、冷めやすい」タイプで。衝動殺人型というのはその逆で、「普段おとなしいのだけれど一旦感情的になると手がつけられなくなる」タイプになる。

燃料で例えるとメタノールタイプと備長炭タイプとでも言えるかな。こうした分類は殺人犯に関わらず、あらゆる人にスペクトラムとして存在する傾向で、個体の性格に大きく影響を及ぼす。

で、おいらは後者にあたる。

なので、他の人から較べると物凄い「根に持つ」タイプで、一つのことを徹底的に突き詰めないと気が済まない。

しつこいタイプなのね。

地獄の底まで追求しないといられないのよ。



それに対してどこぞの小型犬みたいに吠えまくる病理医ちゃんは前者、連続殺人型に分類される。

連続殺人型っていうのは大脳辺縁系の活動が活発なので、元々感情が行動に直結しやすい性質があって。こういうヒトが承認欲求中毒(いわゆる「甘え」)と組み合わさると自律的に論理検証することが出来ないヒトの出来上がり。

どっかの病理医ちゃんみたいなヒト(あくまで個人攻撃じゃないからね、そういうヒトって結構あちこちいて、普遍的で一般的な傾向でもあるから。)っていうのは、子供のイジメのキッカケみたいなことを平気でやっておいて、他人に「恥ずかしいからやめとけ」とか言い出す始末。

恥ずかしいのはどっちでしょうねぇ。

そこは考えが及ばないんでしょうねぇ。

そんなんでどうして「ヒトという種の生物の科学的分析」をするつもりでいるんでしょうねぇ。

「攻めすぎ」なんてのも、おかしな話で、科学的分析に攻めるも守るもありゃしないんですよ。科学的分析っていうのは徹底的に理論で詰めて真理に近づくものであって、どんなに時間や労力をかけてでも真理に近づくことに意味があるわけです。

ところが連続殺人型+承認欲求中毒タイプのヒト(以下、めんどくさいので「どこぞの病理医ちゃんタイプ」と略す。)というのは、論理的思考よかその場限りの感情が優先してしまうために、外見的な体裁ばっかり優先しちゃうので「守り」だとかいう概念で議論しようとする。

それが一番科学的検証にとって害になる。

承認欲求中毒というのは、学生時代に学力競争による優位性ばかりに意識を奪われ、「学力=知能=人間としての優位性」といった、大衆観念的価値観をまるまる鵜呑みにすることでも生ずる症状です。

承認欲求中毒というのは、そもそもが「甘え」ですから。他人からの評価という、いわば他人から与えられる脳への報酬に対して条件反射的無意識に他人目ばかりが優先してしまう。

子供が親大人から誉められることばかりを求め続けた結果、誉めてもらう相手が多数や権威に転移することで、目先の多数や権威に同調的で自律のないヒト全般に生ずるものなので、どこぞの病理医ちゃんのように高学歴だけに見られるタイプではありません。

先天的要因などで学校での学習が苦手な人の場合、学力という基準では「勝ち目」がないために、暴力などの他の基準で優位性を確保しようとする場合もあります。

なにが何でも「俺の方が上に立ちたい」という、本能的欲求に対して自律的なブレーキが効かないので、些細なケッカケでイジメとかヘイトスピーチなどに加わることで、目先の優越感を満足感させることばかりに意識が働いてしまう傾向が見られます。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

ただ、そもそも学校での学力競争だけが人間の価値を決めるようなものではないので、道徳教育のペーパーテストで「殺人は悪いことかどうか、○×で答なさい」という設問で○を書けば殺人をしなくなる的な安易で簡単なものではありません。

こうした短絡的評価基準というものは、学力試験全般に存在するものであって。諺の類の「量」なんぞで国語力を評価するような設問などは、日常親大人との会話や、会話している大人そのものによっても異なるものですので、こんな基準で子供を評価するのは実はかなりとんでもない話でもあります。

現在の学力基準というものの異常性というものは他にもたくさんありますが、それはまた別の機会に。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

目先の優位性ばかりを追求している人の場合。目先の多数派や権威からの評価を優先してしまうために、自発的で自律的な自分の考えというものが全く働きません。 そのためどこぞの病理医ちゃんみたいに「恥ずかしいからやめておけ」的な発言が出てくるわけです。

こういうヒトの場合、恥ずかしいかどうかの基準は多数派や権威に依存しているために。客観的に見ればとんでもなく恥ずかしいことであっても、自分の中にある価値観でしか物事を判断しないために。ISILとかヘイトスピーチに加わっても気分的には「平気」なんですね。

そこには客観性というものが存在しない。

だからどこぞの病理医ちゃんが小型犬のように吠えまくりながら他人に「恥ずかしいからやめとけ」なんていう支離滅裂なことも「恥ずかしく」はない。

その場限りの優越感ばかりを追求していて、考えに深みがない。物凄い薄っぺら。(多少は個人的怨念も入っているかもね。申し訳ない。衝動殺人型なので地獄の底まで追求しちゃうかもね。)

こういうヒトがどんなに科学的議論を真面目にしたつもりになっても、所詮は多数派や権威の顔色窺いからは逃れられないので、自由に物事を考えることが出来ないわけです。だから科学者には向いていない。

どっかの病理医ちゃんみたいにたかだか5000弱のフォロワ内部での賛同なんていうのは、世界人口からすればサンプル抽出としてはあまりに少なく、また偏りも激しく、科学的議論の査読なんぞには全く値しないことは、言うまでもないでしょう。そもそも「チンコ」ばっかり呟いて人気取りをしているようなアカウントのフォロワですしね。

にも関わらず、「恥ずかしい」とはなんでしょう。自己客観性が欠如しているにも甚だしい。

きっと、事故前の東電社内で原発の危険性を論ずることもさぞかし「恥ずかしい」ことだったに違いありません。

ナチス政権下のドイツにおいても、「ユダヤ人を差別するな。」なんて主張はさぞかし「恥ずかしい」ことだったでしょう。下手すりゃ差別対象です。ヴァルター:ベンヤミンのようにスイス山中で自害しなきゃならないかもしれません。

これらのことから言えるのは、自分が生活している世間の内部における「恥ずかしい」なんていう基準はアテにならないということです。環境に依存した価値観にしかならないですから。

環境依存的価値観が優先していれば、必然的に自律は失われます。

本論(意識論)に限らず、危険学においても最も重要なのは「個人が自律的に社会的責任判断を行う。」ことであり。自律が失われることというのが社会にとって最大の損失をも生み出すのです。



権威などに対し議論をふっかけると、大衆の多くは「勝ち目がないから、やめておけ。」的なことを言い出します。これも目先の勝ち負けを基準とした話でしかないため、科学的議論を深める上においても障害となる感情論(思考バイアス)に過ぎません。

このように、感情気分といった大脳辺縁系が促してくる行動バイアスは、科学的論理検証性に対して阻害するような働きをすることが少なくありません。

むしろ大衆的な固定観念に迎合しておいた方が、多数派同調バイアスを満足させることが出来るため。ヒトの多くは科学的議論がどんどん苦手になるわけです。

科学的議論というのは、真理を追求するためのものであって。他人からの承認欲求を満足させるためのものではありません。しかし学校教育で学力競争にばかり執着していれば、試験の点数という評価だけが学力追求の動機になってしまうために。学力評価という「エサ」に対する条件反射的情動行動としてでしか頭が働かなくなるのです。

承認欲求中毒患者にとっては、他人からの承認なしで物事を深く突き詰めることは厳しいことだと「感じる」ようですが。そうした「感覚」こそが中毒症状に他ならないのです。

主観的感覚が優先しておいて科学的客観性が出てくるわけがないんですよ。当たり前でしょ。

科学が厳しいというのは、実は承認欲求中毒患者にとっての主観的感想に過ぎないのであって。それがない者にとっては厳しいという感覚がありません。

なので、もしかすると私は研究者に向いているのかも知れませんけど。そもそも研究組織に限らず一般的に集団組織が持つ閉鎖性にこそ興味があるので組織に属するつもりも最初からなかったんですね。組織の中にいたら組織批判が難しくなることは最初からわかっていたことですから。



お腹がすいたのでペヤングタイム。




Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○サンデル中毒。

2015年05月21日 00時45分24秒 | 意識論関連
マイケル:サンデルなんてのも、結局は認知行動療法の手法を応用することで、あたかも学生が自分で何かを考えたような錯覚に陥れることで、生徒達のご機嫌取りによって人気を得ているだけなので。サンデルなんぞを信奉している時点で既に学生レベル。

学生達はサンデルの講義で気分的に満足感を得たことを、短絡的に「自分の頭が良くなった」と勘違い妄想しているだけであって、所詮はサンデルが用意した思考パターンに誘導されているだけで、自分から何か新しい考えが出てくるようになるわけでもない。

実際サンデルの講義受けたからといって、誰も思いつかなかったような新しい考えが思い付いた事例はきいたことない。

人気があるからといって、それが短絡的に教師として優秀であることの証明にはならない。 そもそも人気があれば「頭が良くなる」ことにどうしてなっちゃうのよ。

そういう検証性をすっ飛ばして人気と満足感だけで絶賛する短絡性というのは、気分が判断に直結してしまっているからなんですよね。



認証欲求中毒っていうのは、中毒ですから気分感情が行動や思考に直結してしまっている状態でもあるため。気分良く満足感を与えてくれる相手を短絡的に「頭が良い人だ」と思い込むことにも陥りがちです。

「がち」っつうよか、実際それしかないんですけどね。

それはイヌが服従欲求を満たしてくれる相手を盲目的に信頼し服従したがることと良く似ています。

サンデルとか池上彰は生徒が質問をすると、「それは良い質問ですね。」的に誉めます。サンデルの場合には講義の終わりに「今日はとても良い議論が出来ました。」などとも言いますね。これらは全て生徒のご機嫌取りに過ぎません。

サンデルは生徒達に特定条件下における答の出ない判断を求めます。その条件下から導き出される判断というのは限定されたものしかなく、所詮はサンデルの用意したパターンの中の判断しか出て来ることはなく。全く新しい考えが出てくるわけではないのです。それでも「促された思考」によって、あたかも生徒達は「自分の頭が良くなった。」或は「自分で何かを考えた。」かのような錯覚に陥って満足しているに過ぎないのです。

これは認知行動療法の手法の応用に過ぎません。

認知行動療法っていうのはうつ病患者の治療などに用いられるものですから、気分が改善するのも当然です。

ですからサンデルの講義をどんなにたくさん受けても、自分自身で自律的に物事を考えるようには構造的になりません。他者から考えを促されないと自分からは自発的には考えないようにもなってしまうからです。

実際サンデル信奉者達の多くは権威主義的で自律的判断を拒絶します。もう具体的に誰とは言いませんけどね。個人攻撃が目的じゃありませんから。

このように認証欲求中毒者というのは、気分的満足感で盲目的に信奉するのと同時に、気分的に嫌な話をする相手を猛烈に攻撃するようにもなるのです。それはあたかも小型犬が吠えまくる姿と良く似ています。

承認欲求中毒というのは、承認してくれる相手に依存した「甘え」でもあります。承認という他者から与えられる脳への報酬だけが判断基準になってしまうため、論理検証をすっ飛ばして気分感情が行動や思考に直結してしまうのです。



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○もうちょっと小言。

2015年05月20日 20時52分56秒 | 意識論関連
「review(査読)つき論文でもないのに信じられない。」ってヤンデル先生言ってたけど、reviewが大量についていたとしても、そのreviewが正しいのかどうかも検証しないのであれば科学者としてはデクノボーですけどね。(また嫌な小言って申し訳ない。)医師だからい井の頭公園。

どんなに審査されていても、その審査自体が正しいのかどうかを審査をするのは読む人(専門の科学者である必要性はない。)に委ねられているのであって、権威者による査読がないから語るに足らないというのは自律的検証性が欠けており。権威主義丸出しです。

そもそも京都大学の有名な教授の間違いを指摘している内容を、理論的に正しいなんて言い出したら学会干されちゃいますから生物学者の誰も審査なんか手を出さないでしょうね。そうやって組織腐敗っていうのは放置されるんですよ。

「恥ずかしい」という感情の正体とは、多数派に迎合していないことに対する違和感や恐怖心に起因するものであって。その場限りの気分感情の話でしかなく、科学的な普遍性をも蔑ろにする原因でもあります。

ノーベル賞受賞者の山中伸弥教授が学界内部で「じゃまなか」よばわりされていれば、他人から見て「恥ずかしい」ことになるんでしょうけど、そんな外見的観念こそが科学的普遍性の追求を阻害する気分的バイアスでもあるのです。

ヒトという種の生物には、多数派同調バイアスというのがあって多数派の意見に気分的安心満足感を得てしまうことで自律的な論理検証をすっ飛ばしてしまう原因でもあります。

自分で判断しなけりゃ責任持たなくて良いしね。

東京電力福島第一原発の津波に対する危険性というのは、実は事故前から社内においても上がっていた話なんだそうですが、それに対して上司が「津波の危険性まで考慮に入れれば日本の何処にも原発なんて作れない。」という「作ることありき」の論理を持ち出して粛正したと言います。

こうした権威への服従性が組織腐敗への批判性を失わせる原因なのです。

批判精神というのは科学的考え方にとって、とても重要なものです。東京大学学長が「全てを疑え」と述べたのは、観念的猜疑心を勧めているわけではなくて、大多数への同調や思い込みを捨てる必要性があることを論じているのです。

科学者のはしくれであるなら多少なりとも論理的反証でもすりゃ良いのに、それをすっ飛ばして「俺の気分が悪い。」だとか「リスペクトしてくれねぇ。」的な発言は、ほとんど駄々っ子としか思えないですね。

予め用意したストーリーなり仮説にとって都合の良い現象だけを抽出してきて科学的立証か何かと勘違いしてるようでは科学者としての社会的役割を全く果たしていません。しかし、進化生物学界はそれだけで「立証」だと言い続けてきたんですよ。ですからこうした進化生物学的コンテキストを鵜呑みにして何かを立証したつもりに陥ることはダメなんですぅ。(ここ重要)主観的に面白いから科学だなんて話は要らないんですよ。そこの指摘は間違えてないでしょ。

どんなにツイッター上で多数派からの同意されようと、ファボられようと、それはその場限りの満足感に溺れているに過ぎません。ファボられて満足することと科学的検証をゴッチャにするのは間違いです。

科学的議論をする上では予め期待していた気分的満足感が得られないことも珍しいことではないですから。

承認欲求でしか思考や行動の動機が得られないのであれば、それは科学者に向いていないと言えるでしょう。たとえどんなに学力成績が高くてもです。知識の「量」ばっかり自慢して「お前は何も知らない素人だから黙っとけ」といった発言は学術界に限らずあらゆる組織集団の閉鎖性の大きな要因でもあります。

人体ピラミッド問題で有名な吉野よしろう教諭も、その承認欲求中毒だからこそ危険な人体ピラミッドに固執するのであって。科学者であるならそういった承認欲求からは自由である必要性があるのです。

さぞかしたくさん勉強なされて苦労して医師になったのかも知れませんけど、その努力が「他人から誉められる」という承認欲求だけを目当てに学力競争に駆り立てられていたからこそ承認中毒に陥り、論理検証性を喪失してイエスマンに囲まれることばっかり求めるようになれば、必然的に自分の観念にとって都合の悪い話に耳を貸さなくなるわけです。

あいや、別にヤンデル先生個人攻撃が目的ではなくて、一例としてヤンデル先生を挙げているに過ぎなくて。こうした性質はヒト全般に見られる普遍的性質(結果としてのね。)であって、その医学的な「正常性」は人間として正しい判断の論証にはならないよって話です。

ただ心理臨床的な観点からは認知行動療法的アプローチを用いて、あたかも自分から気付いたような錯覚を導き出して納得感によって理解させるような「手法」もあるんでしょうけれども。でも相手は一応医者なのでそういう気遣いみたいなものは患者扱いになって逆に失礼かなとも思ったり。 そういうリスペクトの形はあんまり理解されないのかな。

医者免許をお持ちであるなら研修期間に献体解剖もなされたと思いますから、社会のために心理分析の献体として扱わせて頂いても良いかなとも思うのです。 同意は得てませんけど、ツイッター上で公然と述べている以上分析されても文句は言えないでしょう。まがりなりにもつぶやいたのはヤンデル先生の「意思」なんですから。発言責任ってもんはあるはずでしょ。

そもそも私は心理臨床で食っているわけでもないですし、先生のご機嫌取りしたって金になるわけじゃないですからご機嫌取りは一切しませんよ。そんな義務ないですから。それとも誰かにご機嫌取りをしてもらうことを前提としてしか何も考えることが出来ないんでしょうかね。

ヤンデル先生がどういった家庭環境で育ったのかなんか知りませんけど、学力競争を強迫観念的に強制されて育ったから承認欲求中毒に陥っているんじゃないですか?。人体ピラミッド吉野よしろうの異常執着性も同じ承認欲求中毒が原因だと考えられる以上、そうならないようにどうしたら良いのかは自ずと答えが出てくるでしょう。

いや、勘違いされても困るのですが、別に気分的に凹んで欲しいわけじゃないんですよ。気分の話なんかじゃなくて、成育環境における普遍的失敗例であるなら社会的教訓にも出来る可能性があるわけであって、別に個人攻撃して優越感に浸って満足したいわけでもないんですよ。

そういう「上」とか「下」といった優劣順位序列に異常執着するのも承認欲求中毒患者に普遍的に見られる傾向です。そんなこたどうでも良いんです。そもそもヤンデル先生が何を述べているのかを正確に把握せずに指摘し始めたこちらの過失もあるわけですし。

私が知りたいことや分析したいことは、ヒトという種の生物に普遍的に見られる危険性なのです。それがこの文章(意識論)の「目的」であって、先生が気分的に満足することも機嫌を損ねることも、どうでも良いことなのです。ご機嫌取りをしてほしいのであればキャバクラにでも行って存分に誉めてもらえばいいんじゃないですか。読みたくない理解したくないというなら読まなくて結構です、あくまで普遍的で一般的な現象の例として挙げているだけですから。

ヒトの先天的な情動というものが、どのようにしてどう働いているのか。そのご自分の感情すら客観的に検証することも出来ないのに、どうしてヒトという種の生物についての科学的議論が成立すると言うのでしょうか。

だから科学的議論に向いてないって言っているんです。残念ながら。御愁傷さまです。

最近になって教育現場では、強迫観念的な詰め込み学習だけではなく自分自身で考える能力の重要性が取り沙汰されるようになりましたが、ヤンデル先生が学校に行っていた頃にはそういう対策はほとんどされていませんでしたから、無理からぬ事態だとも言えるでしょう。だからといって何も言ってはいけないわけではないでしょ。

「めんどくせぇ奴だな。」と主観的に思われることは、どうぞご自由に。めんどくさいことを考えずに科学もすったくれもないんですよ。安易に簡単に気分良く答えが出るなら科学的考えなんて最初から要らないんですから。ヒトの脳が先天的かつ自動的に科学的検証が出来るんだったら科学教育なんて要らないんですよ。

心理の専門家であっても「クリティカルシンキングとかロジカルシンキングとか嫌い。」なんて公言しているくらいですから、そういう人は掃いて棄てる程います。それでも医学的には「正常」と診断するんでしょうけど、そりゃ内科の基準でしかありません。そういった「普通の人の感覚」がナチズムを助長した原因でもあるのです。ヘイトスピーチで怒鳴り散らしている人達だって内科医学的には健康で正常なんですから。

子供のイジメのように主観的に「めんどくせぇ。」だとか「クソリプ」などと煽っておいて、一体何を科学的に分析するつもりなんでしょうか。科学者だったら少しは冷静に論理検証する余裕ってもんを持つべきなんじゃないですか。

私はあんまり他人から承認されることには興味がないので感覚的には「何でこの人こんなにキレてんだろ」としか思っていません。よくわからないんですよ、承認欲求中毒患者の心理なんて。

私の母親は私が何をやっても否定することで自分が優位に立って服従させようとする人でしたから、誉められて育った記憶が全然ありません。他人のご機嫌取りが下手くそなのもそこに原因があるのかも知れません。でも別に意図的に気分を悪くしようとするつもりがあるわけではなく、多分そういうのも苦手なだけなんだと思います。

それでも一応長い文章で説明したりするのは、それなりの尊敬なり期待なりがあるからであって、ISILの構成員とかヤクザとかネトウヨ相手にカウンターで説明する気にはならないです。そういうのは伊勢崎賢治さんにでもやって頂いた方が良い結果が得られると思うからです。




Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○ヒヤリ、ハッと。

2015年05月20日 14時14分46秒 | 意識論関連
進化生物学では長い間、「生存のために進化した。」といった言い回しが用いられてきましたが。生存そのものは結果であって目的ではなく、あくまで結果的に生き残ったものを「生物」と分類しているに過ぎず。生存自体を目的だと言うことは科学的ではないのです。

そもそも本能習性(行動や思考のバイアス)も含めて先天的性質を決定する遺伝子は、自分で変更や選択が出来るようなものではなくて、(生存や種の保存などの)目的のために進化「する」ことは構造原理的にできませんし。親の遺伝要素もランダムに遺伝するものであって、遺伝要素の「変化」は多様性を作ることはあっても特定の目的に適応するためだけに起こるわけではありません。

遺伝疾患などが発生するのも、こうした複雑系の結果でしかないからだと言えるでしょう。

進化生物学会は自分達がこのことに長い間気付かなかったという事実が広まることを恐れてフェードアウト的に「生物の目的は生存」を言わなくなってきているようです。 まあ、はぐらかしですね。

「ある特定の先天的な行動バイアスは何らかの目的のために存在する。」といった形式の、本能習性という結果に対する事後正当化的な「説明のための説明」は科学的には意味を為さないわけです。

以前は公然と虫の擬態なども「生存のために進化した。」なんて言ってましたけど、最近言わなくなったのもそのためです。擬態をちゃんと科学的に説明すれば、たまたま個体差の中から偶発的に見つかり難い個体が遺った結果ということになるのです。

こうした生物の先天的要素といったものには、目的が介在する余地が構造原理的に存在しないというのが理論的に正しい見方と言えるでしょう。

ところが、先天的な本能習性に対して何らかの理由説明をこじつけることで、気分的満足感のようなものが得られるというバイアスがヒトにはあるため。長い間進化生物学では結果と目的の区別を明確に出来なかった原因でもあります。

一種の「思考の罠」のようなものが先天的に存在するために、人の多くは固定観念から逃れることが出来ず、何となく「皆がそう言っているから。」的な多数派同調バイアスによって思考が制限されていることは誰でもあるんだと思います。

それは別に特定の人に限ったことではなくて、自分自身でも注意していないと危ないことでもあるので。逆にこれに触れないことの方が危険なのではないかと思います。その結果ヤンデル先生が機嫌を損ねて気分が悪くなったとしても、それは主観ですので何とも言いようがありません。科学的には意味がないからです。

ヘイトスピーチとかISIL、ナチズム、ポルポト、挙げるとキリがありませんが、これらの野蛮行為の原因を究明してゆくと、「気分が論理性を拒絶する性質」が脳にはあるために思考停止に陥り、結果的に行動だけが暴走するという事態に陥ると言えるのです。

ナチズムのような野蛮行為というのは特定の異常者が引き起こすものではなくて、むしろ「普通の人」の感覚こそが引き起こす惨劇であることはハンナ:アーレントも述べています。だからこそISILとかオウム真理教とか通り魔のような野蛮行為が現代社会でも簡単に起こるのでしょう。

こうした思考バイアスも含めて一般論としても「なぜそのような性質が存在するのか。」を進化生物学的な「説明」によって満足することは危険だと言えるのです。

先天的本能習性が存在することが、進化の過程において何らかの「原因」が存在するということは言えるんでしょうけれども、それらは全て結果でしかありませんので、主観的に面白いかどうかを判断基準にすると客観性が損なわれてしまいます。

危険性を持つ可能性を指摘することに「上から目線」もすったくれもありません、「危ないことはやめましょう。」と言っているだけなんですから。

それこそ自然界における野蛮な弱肉強食による淘汰に対して事後正当化のための「説明」をしてしまえば、特殊詐欺であっても「生存という目的のために騙す能力を身につけた。」なんて話も鵜呑みにしなければならなくなります。

生物学者の松沢哲郎らは生物進化の結果でしかない本能習性から倫理性を立証しようと試みていますが。たとえば彼らの研究結果からチンパンジーやボノボなどの猿の本能習性から倫理性が立証されたと述べたとしましょう。ではその研究結果からISILとか暴力団の構成員が特定環境下において、どのような行動習性が見られたらヒトの先天的倫理性を証明したと言えるでしょうか。それを証明したと言い張ったところでISILの野蛮行為に対して何の意味があると言えるでしょうか。それこそ単なる「お花畑」に過ぎないのです。

「ヒトという種の生物には先天的に倫理性や社会性が組み込まれている。」的な話をしておけば、大多数の人達の賛同を得ることも可能でしょう。実際松沢が「チンパンジーの行動習性から人間としての社会性が立証出来るかも知れない。」などと述べたことに対して、それが論理的に不可能であることを全く検証せずマスコミは取り上げ賞賛しました。

無論、大多数の人達もそれに対して何の批判もしませんでした。

しかし重要なのはむしろ大多数の人達(普通の人)の中に潜む危険性であって。こうした進化生物学に対する無批判性というのは、いわば「ヒヤリ、ハッと」事象であると言えるのです。

ハインリッヒの法則に基づけば、一つの重大事象が起こる原因には、無数の小さな事象が隠れていると考える必要性があります。ですから私の言っていることは「嫌な小言」に聞こえるかも知れませんけれども、言わないわけにはいかない話ではあるのです。

犯罪も含めて、あらゆる「人災」の最も根源的な部分には、気分感情が行動と直結してしまっていることが原因であると言えます。私は別にヤンデル先生のご機嫌を損ねようとしているつもりはありませんが、ご機嫌取りのために言うべきことを言わないわけにはいかないことはご理解して頂きたい。



「臨床は科学ではない」とも言われるくらいですので、医学に関しては素人が口をはさむことは難しいとは思うのですが、自然科学の分野においては誰でも発言する権利はあるので、権威主義的に「素人だから黙れ」的に封じ込めるのは間違いだと思います。(ヤンデル先生の場合はご機嫌を損ねてもちゃんと議論してくれる点において権威主義的ではないとは思うのですが。所詮ツイッタランドでのやりとりですからご機嫌損ねてブロックされることを咎めるつもりもないです。)

そういえばNHKの「ドクターG」とか見ていると、研修医に対して指導医が説明を求めるような場面が時折見受けられますが、これは一般人の感覚からはちょっと乖離しているので、何か高圧的というか権威主義的に見えてしまっているだけかも知れないですね。だとすればそれは単なる私の主観的で勝手な思い込みに過ぎないでしょう。



科学的な検証から導き出される答えというものは、必ずしも気分的に満足感や納得感が得られるわけではありません。人生の中で刷り込み学習的に組み込まれた価値観に対して都合の悪い事実が出てくることもないとは言えないでしょう。

人は誰も自分の意思でこの世に産まれてきたわけでもありませんし、遺伝子を自分で選択していない上に、そうした遺伝子から作られた自分の脳の先天的バイアスすらも自分では選択出来ないわけです。

更に言うと自分が育った社会や環境から刷り込み学習的に植え付けられた価値観も、必ずしも自分自身の選択を介さないことは少なくありません。

ですから科学論理的な検証に基づいた選択可能性を保つためには主観的感想と客観的知見は意識的に切り離しておく必要性があるのです。それを怠ることで論理的根拠のない実証不能の観念を振り回してしまう危険性があるからです。

繰り返しになりますけど、こうした危険性というのは誰にでもある「普通」で「平均」的な一般論なので、別にヤンデル先生の間違いだけを糾弾しようというわけではありません。医学では普通で平均的な状態を「健康」とか「正常」と見なすんでしょうけれども、多数派であれば常に正しい結果が得られるわけではないことは認識しておいて欲しいのです。

ツイッター上で賛同者をたくさん集めてきても、それが科学的に正しいことの証明にはならないことは言うまでもないことだとは思いますが。



◇追記:っていう記事を書いたんだけど、おいらがヤンデル先生の言っていることを誤解していたみたいです。

申し訳ない。

◇さらに追記:誤解なのかと思ったのだけれど、よく精査してみたら取り繕いの可能性がありました。 他の記事で分析しております。




Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○ピンセット。

2015年05月19日 10時55分39秒 | 日記
ピンセットでちっちゃなものをつまむと パチンとはじけて遥か遠くに跳んでっちゃうことがあるけど これってピンセットの剛性が足りなくてねじれているのが原因なんじゃないかと思うのだ。

なのでこうゆう剛性の高いピンセットをこさえたら良いのかなと思った。



剛性の高い材料っていうと セラミックとかかな。

ラジオペンチでどんなに強くものをつまんでもはじけて跳ぶなんてことないものね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○北王子線。

2015年05月19日 10時33分25秒 | 写真
GoogleMapの航空写真見てたら日本製紙総合開発の引き込み線が廃止になっていてビビった。

なので昔撮った在庫を放出。



















機関車




なんとクランク。

「協三工業」でググったら新造の蒸気機関車出てきた。





もうちょっとちゃんと撮っておけばよかた。まさかなくなるなんて思ってなかったもんで。

北王子線:goo map

Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○絞りとかシャッタースピードの数値や関係性がややこし過ぎる件。

2015年05月19日 02時14分28秒 | 日記
写真を本格的に学びたいと思ったとき、Avモード(絞り優先AE)やTvモード(シャッタースピード優先AE)を選ぶと出てくる数値の意味が全然わからないとか。

Avモードの場合出てくる「f5.6」などという半端な数字の意味は専門的な書籍を読んでもあんまり理解出来ないこと、結構多いんじゃないかなと思うのだ。

Tvモードでも同様で、「1/125秒」とか「1/15秒」の相関関係とかがモヤモヤしている人多いと思う。




まず手始めにシャッタースピードの数字の説明をしてみたいと思う。

Tvモードで出てくる数字の「シャッタースピード」というのは日本語に置き換えてみると「露出時間」と言うことになる。

イメージセンサーに光を当てる「時間」を示しているわけですね。

シャッタースピードの数値の基本は「秒」で、1秒を基本として、その半分が1/2秒、さらに半分が1/4秒、そのさらに半分が1/8秒という風に、いわゆる倍数系列で表記されているわけです。

「あれ、おかしいじゃないか。125とか500は1の倍数2の乗数なんかじゃないぞ。」そう思ったあなた、大変良い質問ですね。(池上彰風)

本来の倍数系列であれば、1/8の次は1/16、さらに続けると1/32、1/64、1/128、1/256、1/512、1/1024、といった数になるはずです。

ところがTvモードで出てくる数字では、1/2、1/4、1/8、1/15、1/30、1/60、1/125、1/250、1/500、1/1000、となっています。

この微妙な違いは何なのかというと、実は昔のカメラがこうした表記をしていたために、慣習として倍数とは微妙に違う表記をしているだけなんです。

なので、実際のシャッタースピードというのは、1/15と表示されていても本当は1/16で、1/30と表示されていても本当は1/32で、1/125と表示されていても本当は1/128で、1/250も1/256で、1/1000も1/1024を意味するものなのです。

昔のカメラがこうした妙な数字系列で表記されていたため、慣習的に今でも本来のシャッタースピードの数値とは異なる数値で表記され続けているというのが、シャッタースピードの数値の正体なのです。




次に絞りの数値の説明をしてみましょう。

絞りというのは、絞り羽根という複数枚の薄い板で構成され、レンズの中を通る光の量を調節するためのもので。絞りの数値というのは、レンズの焦点距離に対する絞りの穴を「前から見たときの見かけ上の直径(*注1)」との比率を表したものです。(ちょっとややこしい。)

絞りの数値の基本は焦点距離と絞りの穴の直径が同じ場合をf1として、その半分をf2、そのまた半分をf4と表記するわけです。

実例を挙げると、50㎜レンズでf2だったら絞りの穴の直径は50÷2で見かけ上の絞りの大きさは25㎜。f4に絞れば絞りの穴の直径は50÷4なので12.5㎜になる。(ただし、レンズの解放F値の場合は小文字ではなくて大文字の「F」で表記されることが多い。)

でも、Avモードで出てくる絞りの数値って、そんなに倍数系列になんかなってなくて、妙な小数点とかついていたりしますよね。f5.6とかf1.4なんてふうに。

絞りの数値というのは、あくまで絞りの穴の直径を表しているだけなので、絞りの穴の大きさが半分になると、穴の面積は1/4になるため、光の量も1/4になってしまいます。

そのため、シャッタースピードの数字列と同じように光の量を半分ずつの系列にするためには、絞りの穴の直径を1/2ではなく、1/1.141421356つまり「1/√2」にしなければならないのです。

実際の数値で言えば、f1に対して光の量を半分にするためにはf1.41421356…にする必要があるのです。

で、小数点以下2桁以下が面倒臭いので省略してf1.4などという中途半端な数値が出てくるのです。

この理屈で数列をならべると、f1、f1.4、f2、f2.8、f4、f5.6、f8、f11、f16、f22、f32という風になるわけです。





これで絞りの数列をシャッタースピードの数列と同じように「光の量が半分ずつ」に出来るので、シャッタースピードを一段早くした場合には、絞りを一段開ければ同じ露出が得られるようになっているのです。

もう少し具体的に例を挙げると、

絞りがf2.8でシャッタースピードが1/500秒の場合、絞りを3段絞ってf8にしたらシャッタースピードを3段遅く1/60秒にすれば、同じ露出のまま絞りとシャッタースピードの組み合わせを変えることが出来るわけです。

このように露出を変えることなく絞りとシャッタースピードの組み合わせを変えることで多彩な写真表現も可能になるのですが。実際の撮影ではむやみに絞りを絞り過ぎるとシャッタースピードが遅くなり過ぎて手ブレの影響を受けてしまうので、ISO感度を高くするとか、三脚などを用いてカメラを固定するなどの工夫も必要になってくるのです。

ついでに言うと、ISO感度も倍数系列なので、ISO感度を倍にした場合、絞りを一段絞るか、シャッタースピードを一段早くすれば同じ露出が得られるのです。



絞りの数列は覚えずらいと思うでしょうけれども、こればっかりは慣れるしかないですね。本当ならカメラの方に絞りの数列が全部表示されていて、ダイヤル操作で矢印が移動するような形であれば絞りの数値をいちいち暗記する必要性もなく直感的に絞りを操作出来るようになるんだと思うんですけどね。そういうのはカメラメーカーさんにみんなで要望しましょう。

液晶パネルの端に予め絞りの数値が書いてあっても良さそうですけどね。

それこそ「書いてあるだけ」でも初心者にはかなり便利な気がするので、液晶保護フィルムの上から貼る透明な絞り数値表シールとかカメラ雑誌に付録でつければ良いんじゃないのかな。




*注1:写真用光学レンズというのは複数枚の光学ガラスレンズから構成されており、必ずしもレンズ内部に組み込まれた絞り羽根の物理的な穴の大きさが光の量とは相関しません。また、「前から見て見かけ上」というのも、ズームレンズなどではズームした場合に見かけ上変化したり、広角レンズなどでは後ろから見た絞りの見かけ上の大きさが異なったりする場合もあります。 また、絞りの穴の大きさを「瞳径(ひとみ けい)」と呼ぶこともあります。


ついでにもひとつ、

シャッタースピード優先AEの「Tv」は、"time value"の略で、

絞り優先AEの「Av」というのは、"aperture value"の略です。

apertureの意味についてはこちらをご参照下さいませ。




Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○自律的な社会的責任判断。

2015年05月16日 02時33分56秒 | 意識論関連
社会安全性というものを考えた場合、最も重要なのは個人の自律的な社会的責任判断力である。

この自律的な社会的責任判断力というものは、単に規範意識を強要しておけば発揮されるというものではない。規範意識といったものは既に存在する規範に従うだけの機械手続き的な無意識(怖いからやらない/怖くないからやる)しか促さず。個人が自律的に責任判断を行うために対しては逆効果にしか働かない。

ナチスのユダヤ人絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンがユダヤ人虐殺計画書を作成した行為というのは、ナチス政権の規範には従っていたのである。

オウム真理教幹部達が毒ガステロを行ったのも、オウム真理教の規範に従ったからである。

東京電力福島第一原発における津波に対する危険性の放置などは、もはや「規範」どころか原子力保安院の「規制」さえもクリアしていた結果なのである。

「規範」というものは権力や多数による行動規制であり、機械的に服従することを意味するものであり。規範意識というものの範疇には自律的な社会的責任判断というものが機能する余地はない。

とは言っても、短絡的にあらゆる規範や規制に従わないことが自律というわけではない。規範や規制といったものの趣旨や社会的価値といったものを理解し、従うべき規範や規制には従うこともまた自律的な社会的責任でもあるからだ。

規範意識的にただひたすらに服従させるだけでは、自発的に何をしてはいけないのかまでは考えなくなるようになる。そこが問題の本質である。

規範意識の強要というのは、権力や多数派による行動抑圧でしかないため。要するに「規範に従わないと評価が下がることを怖れて従う」だけなので、評価する他者に依存した他律にしかならないため、自律が失われるのである。

さらに言えば、評価する他者にばれなければ「怖くない」ので。悪いことであっても平気で行うようにもなる。

「怖いから、やらない。」という行動原理は、同時に「怖くなければ、やる。」という短絡的条件反射行動しか促さない。

どんなに法律手続きを整備しても、個人が自律的に社会的責任を負わない限り。この世の全ての悪事を法手続きで抑制することは構造原理的に不可能である。

それこそストーカーや神のように一日中行動監視をしておく「誰か」が必要なのでは、もはや3歳児以下であろう。それは生物学的な「ヒトという種の生物」でこそあれ、社会的な人間とは言えないであろう。

法律などの規則や規範で社会を拘束したがる者というのは、そもそも縛ろうとしている本人に自律的な社会的責任判断能力が欠如しているため、はなから規則や規範で縛ることしか考えが働かないのである。

「法の支配」に異常執着する者とのは、言い換えれば「法手続き機械的制度依存症」とも言え。自分が権威や多数から抑圧されていないと何をしでかすかわからないからこそ、他人をも権力や多数によって抑圧しておかなければならないという考えに基づいているのである。

「自律」的な社会的責任判断というものは、その根底に「自発」的に社会の安全性や持続可能性を求めようという意思が不可欠であり。そのためには自発的に自分が社会の中で存在し続けることの意味を持っている必要性がある。

ここで勘違されては困るのは、「社会の中で存在し続ける意味」というものを、「社会多数から要求されること」とか、「世間的に成功すること」と短絡的に解釈されることである。ここで挙げている「社会の中で存在し続ける意味」とは、他者(社会)から必要とされるか否かに関わらず個人が主観的に純粋に楽しめることがあるかどうかであり。他者からの評価や報酬といった環境依存性に頼った存在価値のことではない。

東京電力社内においては、原発の危険性を論じるような社員は会社にとっては存在価値がなかった。

ナチス政権下のユダヤ人絶滅収容所においては、ユダヤ人の殺害をやめるよう提言する吏官は存在価値がなかった。

ことほど左様に、特定環境の価値観に依存した環境(社会)からの要求に応えるだけでは自律的な社会的責任判断力には結びつかないばかりか、むしろそれを蔑ろにする原因ですらあるのだ。

通り魔のように社会に対して無差別殺人を行う者の行動動機は社会に対する茫漠とした報復感情である。すなはち、多数他人が自分を認めてくれないとか、他人と比べて報酬が少ないといった。他者との比較における世間的な評価が「思ったほど」得られないことに不満を「感じ」て「感情的」な報復(懲罰)攻撃に走るのである。

ついでに述べておくが、ヘイトスピーチというものも言葉上では「差別」ではあるが、民族国籍という分類を根拠に無差別に差別することは、通り魔と同じで個人を全く区別しない無差別攻撃である。

ヒトという種の生物が無責任な行動を選択する原因というのは、論理的思考検証を気分や感情が阻害することで思考停止に陥ることで発生するものである。

ここで一応述べておきたいのは、「理性には利己的金儲けの側面もある」などという短絡的大衆観念を応用した嘘のことである。「金儲け」という欲望に基づいた断片的論理性を取り上げて「理性には利己的金儲けの側面もある。」などと言い張るのは、もはやただのバカとしか言いようがない。そんなもんが理性の本質なわけねぇだろ。

欲望に基づいている限り、それは欲望であって純粋理性ではない。カントの勘違いを鵜呑みにして純粋理性を批判するというのは、そもそも何も「考えて」いない証拠である。

理性が純粋な状態であれば、いわば大脳辺縁系が機能していない状態であり。あらゆる欲望が失われた状態であれば利己的欲望が働くわけがない。

そもそも「利己」とは、他者との利益の格差比較に過ぎず。個人の純然たる主観的利益(楽しみ)とは無関係な話であって。純粋に個人的に好きなことを追求することにおいては「利己」などという概念すら存在しないのである。

他人から何も奪わず、他人から何も受け取らず、ただ純粋に個人的に楽しんでいる事柄に「利己」などという概念が入り込む余地はない。

世間的、すなはち多数他者から見て価値がないと判定されていることであっても、個人が主観的に「楽しい」と感じることがあるからこそ、自発性というものが働くようになり。結果的に自律も可能になるのである。

科学的研究における業績捏造といった無責任行為であっても、結果の程度の差こそあれ自律的な社会的責任判断力の欠如に由来するものであって。どんなに学力成績が良くても研究内容に対しての純粋な興味がないからこそ捏造してまで評価を得ようとするのである。

自律とは自発の中にあり、他にはない。 これは定理である。

どんなに規範意識を植え付け、他者から恐怖心によって行動制限を刷り込み学習されても自律には結びつかないばかりか逆にむしろ、恐怖心によってこそ社会的責任を放棄するようになるのである。

恐怖や安心といった気分感情だけで行動が決定されているからこそ、自律が失われるのである。何せ自分で論理検証するという「自分の考え」が働いていないのであるからこれは必然的結果である。

自分の脳というものは自分で作ったものではない。自分の遺伝子を自分で選択していない以上、その遺伝子によって作りだされた自分の脳から湧いてくる気分感情を、短絡的に自分の意思や目的だと錯覚するのはバカの論理である。

ヒトの多くは自分の気分感情を短絡的に意識や目的だと勘違いしているフシがある。そのため気分的に優しい気持ちでありさえすれば人間性か何かだとも勝手に妄想しており、こうした大衆観念こそがヒトという種の生物が引き起こす様々な問題の本質を撹乱してしまうのである。

何せ気分感情が意識であると錯覚しているのであるから、そこに論理検証するという「考え」が働かないのは当たり前である。

気分感情というものは、環境によって左右されるものでもあり。そもそもが自分自身の意識的選択すらも介していないものでもある。そんな気分感情というものを短絡的に人間性だと思うのは、身勝手極まりない社会的に無責任なことである。

多数派のご機嫌取り、すなはちいわゆる「愛想が良い」ことを。短絡的に「良い人」だと形容するのも大衆観念である。東京電力社内において多数派に同調して原発の危険性を放置した原因も、いわば「愛想が良い」からこそ話を丸めてその場限りに社内多数派のご機嫌取りを優先した結果でもある。

金儲けなどの世間的な成功を得るためには、短絡的には愛想が良い方が「得」ではあろう。いうなれば多数派のバカを丸め込んで金を払わせておけば儲かるからである。

「金が儲かった」とか、「多数大衆から評価された」といった、現状世間的な成功が短絡的に人間性の基準にならないのも当たり前の話である。若者の労働力を安く買い叩くブラック企業が「株主の利益を最大化」出来たとしても、それは社会的には搾取略奪にしかならず、社会を破滅に導いてしまうのであれば、もはや詐欺師と何の違いもない。

企業というものに限らず、あらゆる個人も社会的存在であることに変わりはない。にも関わらず金儲けに成功しただとか多数派の評価を得たといった基準を短絡的に人間性か何かとすり替えることは、社会的には無責任な行為なのである。



具体的に犯罪や過失の再発防止に結びつかない現行の司法刑罰制度を野放しにしているのも、その場限りに「悪者」に懲罰さえ与えて「解決」だという短絡的発想で思考が停止しているからであり。こうした思考停止こそが犯罪や過失の本質的原因の論理的究明を妨げているのである。

犯罪や過失といったものの最も根源的原因とは、自律的な社会的責任判断力の欠如である。

過失(失敗)といったものは、ヒトという種の生物である以上避けることの出来ないものであり。再発防止にとっては失敗しずらいような環境の構築も重要な一つの「工夫」である。

「まちがえたっていいじゃないかにんげんだもの」とはあいだみつをであるが、間違えておいて「良い」ことはないのだが、間違えは誰でも起こり得るものであって、その誰にでも起こり得る間違いを糾弾して懲罰を与えて満足しても、間違いが起こるような環境を放置することになる。

具体的に誰かに被害が及ぶまで、「ヒヤリ、ハッと」事象を放置するのが司法刑罰制度である。被害が出るまで捜査もしないのは、警察というものが事件書類を検察庁に送るまでを「目的」としているからであり。犯罪や過失といったものを減らして被害者も減らすことにまで意識が働いていないからである。逆に被害も出ていないのに「飲食店の中で客が踊っていたから店長が逮捕される」などという、法律の趣旨を逸脱した適用が生じてしまう原因も同じである。

当然ながら社会的には税金の無駄遣いであり、迷惑にしかならない。

統合的な視点から、社会的な意味価値といったものに基づいて考えれば。制度上の評価基準とは無関係に「何をすべきか。」を検証することは可能である。

犯罪や過失を減らすための対策、すなはち被害者を減らすための対策という、予測可能な事柄でありながら放置するというのは、これは「人災」の構造と全く同じである。いうなれば現在の司法制度に関わる役人達は、制度上での評価だけを目的することで、社会的に本当に必要な対策を一切取らないことを正当化しているのである。

これこそが犯罪であるとは言えないだろうか。

司法に関わる役人達は、自分達の頭の悪さを棚上げにして犯罪者の頭の悪さを糾弾して大多数の無責任な大衆に迎合しているに過ぎないのである。

私は将来的には刑法は無用だと考えている。なぜなら犯罪者というものが発生する原因というものを突き詰めてゆけば、犯罪者の成育環境における社会の影響も必ず存在するはずであり。結果的に被害が起きた事象についてだけ懲罰で「解決」だと見なす刑法制度というものは、論理的に犯罪者を育てない社会の構築にも寄与しないからである。

ヒトという種の生物は先天的には危険性を伴うものである、その上突然変異的に危険性の高い個体が生じる可能性すらある。それなら先天的要因はどうにもならないのであって、どうにか出来るのは環境要因しかないからだ。

自分の先天的要因すらどうにもならないのに、どうして他人の先天的要因がコントロール出来るというのであろうか。

犯罪者が発生するというのは、いうなれば教育における「失敗」である。権威と恐怖心を煽って学力競争ばかりに意識を狭窄化させ、自発的に何も考えないよう育てた子供が自律的に社会的責任判断力を失うのは、教育関係者に限らずあらゆる大人達にも責任の一端が存在するはずである。

それを短絡的に被害者が出たから加害者を特定して懲罰を与えるだけの司法刑罰制度では問題の根源が放置されてしまい、社会的には税金の無駄遣いにしかならないからである。

人類は今まで長い間司法刑罰を「解決」であると見なし、その場限りの報復感情を満足させることだけしかして来なかった。そのため、それに馴れてしまい、その馴れからくる気分的安心満足から漫然と不毛な制度であっても温存維持し続けようとしてしまっている。

こうした安心満足というものも、結局は先天的な脳の構造に由来するものである。

つまり、先天的な安心満足というものこそが、論理的思考を拘束することで、具体的な社会安全性や持続可能性への論理的対策というものへの配慮を失わせているのである。

自分達の頭の悪さを次世代に継承する必要性はない。むしろ頭の悪さをどのようにして継承しないように出来るかこそが、本当の英知というものではなかろうか。





Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする