あらら、「進化に対する誤解」が広まっていたなんてしらなかった。 (情報弱者 (T-T)
でも、そうなるとますます病理医達の議論は論理整合性がなくなることになるのです。進化の結果に何らかの意味をこじつける形式の議論を、病理医は私のブログを読むまで知らなかったからこそ、進化生物学的こじつけに同意していたんですから。墓穴を掘っているのは病理医の方なんですよ。
予め進化生物学的こじつけが間違いであることを知らないにも関わらず、「生存の上で○○が役に立ったのだろうと推測することは大切だ」という趣旨の話と「○○は生存 のために役に立つ能力だったと言うとまるで生存を目的として機能が生まれた」という趣旨の区別は出来ないのですから。病理医の主張には論理整合性がなく、いきあたりばったりに取り繕ったに過ぎないことが推理できるわけです。
そもそも病理医が知っていたとするのであれば、どうして「査読がない」ことを理由に一蹴破棄できるんでしょうか。病理医は予め進化生物学的こじつけの間違いのことは知らず、初耳だったとか最初から理解するつもりが全くなかった証拠でもあるのです。
「攻めすぎ」と形容していることからも、病理医はしらかなったことが証明されているのです。
養老孟司(東京大学名誉教授)などもそうなんですが、自分の観念の中に閉じこもっている者にとっては、むしろ論理整合性の方を開こうとする性質があります。 (敵が多過ぎるんだよ。めんどくせぇ。)
これこそがヒトという種の生物が「実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかける原因。」なのです。
論理整合性を後回しにしていて、どうして科学的議論が出来るというのでしょうか。それこそオカルト集団内部でのオカルト理論の共鳴で満足している証明になるのです。
こうした論理整合性をすっ飛ばした観念を共鳴する集団の心理には、「評価承認とセットで教えられたことは短絡的に鵜呑みにし、同時に評価承認になりそうにない(攻めた)内容には拒絶反応しか示さない」という共通のパタンがあるのです。
でも、「仮説」と「証明」の区別がつかないというのは、法学部4年生としてはちょっと自律的論理検証性に問題がありますね。私のブログを読んでも点数とか単位がもらえないからテキトーに読んでいるのではないかと邪推してしまいます。
Ende;
でも、そうなるとますます病理医達の議論は論理整合性がなくなることになるのです。進化の結果に何らかの意味をこじつける形式の議論を、病理医は私のブログを読むまで知らなかったからこそ、進化生物学的こじつけに同意していたんですから。墓穴を掘っているのは病理医の方なんですよ。
予め進化生物学的こじつけが間違いであることを知らないにも関わらず、「生存の上で○○が役に立ったのだろうと推測することは大切だ」という趣旨の話と「○○は生存 のために役に立つ能力だったと言うとまるで生存を目的として機能が生まれた」という趣旨の区別は出来ないのですから。病理医の主張には論理整合性がなく、いきあたりばったりに取り繕ったに過ぎないことが推理できるわけです。
そもそも病理医が知っていたとするのであれば、どうして「査読がない」ことを理由に一蹴破棄できるんでしょうか。病理医は予め進化生物学的こじつけの間違いのことは知らず、初耳だったとか最初から理解するつもりが全くなかった証拠でもあるのです。
「攻めすぎ」と形容していることからも、病理医はしらかなったことが証明されているのです。
養老孟司(東京大学名誉教授)などもそうなんですが、自分の観念の中に閉じこもっている者にとっては、むしろ論理整合性の方を開こうとする性質があります。 (敵が多過ぎるんだよ。めんどくせぇ。)
これこそがヒトという種の生物が「実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかける原因。」なのです。
論理整合性を後回しにしていて、どうして科学的議論が出来るというのでしょうか。それこそオカルト集団内部でのオカルト理論の共鳴で満足している証明になるのです。
こうした論理整合性をすっ飛ばした観念を共鳴する集団の心理には、「評価承認とセットで教えられたことは短絡的に鵜呑みにし、同時に評価承認になりそうにない(攻めた)内容には拒絶反応しか示さない」という共通のパタンがあるのです。
でも、「仮説」と「証明」の区別がつかないというのは、法学部4年生としてはちょっと自律的論理検証性に問題がありますね。私のブログを読んでも点数とか単位がもらえないからテキトーに読んでいるのではないかと邪推してしまいます。
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