書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

合法詐欺

2020年12月15日 14時15分19秒 | 意識論関連

ヒトの多くは宗教に対して偉大だと「感じ」るが

「感じ」とは主観である

主観である以上は錯覚が伴う可能性を否定できない

 

動いて見える錯視図形を 多くのヒトが「動いて見える」からといって その錯視図形が本当に動いていることの論証にはならないのと同様

どんなにたくさんのヒトが宗教に偉大さを「感じて」も 宗教が偉大であることの論理客観的根拠にはならない

 

刑罰においても同じで どんなに多くのヒトが刑罰に対して尊厳を「感じ」ても 刑罰というものの尊厳の論証にはならない

自己の主観的な感覚に過ぎぬ「感じ」というものを あたかも「絶対的なものだ」と信じ込んでいるという傲慢さを自覚していないから 宗教だの刑罰だのといった根拠の乏しい因習に囚われ 論理客観的な社会安全性の追求をヒトはしなくなるのである

 

自己の主観を絶対だと信じている傲慢さがあるからこそ 養老孟司だの読書猿だのマイケル:サンデルだのマルクス:ガブリエルだのリチャード:ドーキンスだの松沢哲郎だの山極寿一だのといった嘘つきに簡単に丸め込まれ騙されるのである

電話を使った特殊詐欺に騙されるのも 詐欺師の「言葉遣いが丁寧だった」というだけで本当に警察官や公務員や銀行員だと錯覚する

「詐欺師の言葉遣いとは こういうものだ」という主観的観念を逆手に取る形で 詐欺師は騙すのであって 自らの主観的感覚を疑う自己客観性こそがデマや嘘や詐欺に騙されない唯一の方法なのである

 

養老孟司も読書猿もマルクス:ガブリエルも 大量の知識をひけらかしておくことで 大衆観念上の「知識が豊富=頭が良い」という主観的感覚を利用することで信用させ 糞の役にも立たぬ実証不能の観念を信じ込ませて人気を得ているのである

「客観的事実などない」(養老孟司)

生態系のピラミッドになぞらえることができる「知識のエコシステム」(読書猿)

「世界は存在しない」「時間は分限に分割すればなくなる」(マルクス:ガブリエル)

こういった科学や「本当の哲学」を逸脱した訳のわからぬ突拍子もない話の方が 大衆の脳にとっては主観的に「楽しい」とか「面白い」と感じさせるため大衆人気を得ることは簡単であるが

こんなバカみたいな話を益川敏英や畑村洋太郎は決して信じ込むことはない

「主観が大事」などと言い出した野依良治は老害に過ぎない

科学というものは理性が必要不可欠であって 単なる子供じみた好奇心(答えの追求性)だけで科学が成立するわけではなく

大脳辺縁系を損傷した人のように 論理的には理解できない話には「わからない」と保留する理性なくして科学でも哲学も成立しない

論理客観的な根拠なしに 単なる好奇心(欲望)だけで「答え」を追求してしまえば ヘイトスピーチでもカルト宗教でも構わなくなる だからこそ「子供じみた好奇心」は簡単にイジメに陥るのである

にも関わらず現状の「哲学者」共は「答えを追求する子供じみた好奇心」と「大脳辺縁系を損傷した人の理性的判断」を「同じものだ」と言い張り これを野依良治は自律的に検証もせずに鵜呑みにしたのである

 

畑村洋太郎も益川敏英も専門分野で忙しいとは言え 学術分野という領域の自由を主張する以上は生物学界や哲学界における嘘を放置する組織腐敗にも言及し 自浄努力をする義務がある

未だ生物学者の多くは「生存戦略」だの「目的のために進化した」などという論理的に支離滅裂な話をやめようとはせず 従来通りのパラダイムを温存することで自分達の頭の悪さを隠蔽し 上っ面な権威性を維持しようとしている

「哲学者」共はイマヌエル:カントが哲学を逸脱したただのファンタジー妄想に過ぎないことに自分達が気付かなかった頭の悪さを隠蔽し 「哲学は研究をしない」などという どうにも意味のわからぬ話ではぐらかし ごまかし 自分達の権威性や組織体制を維持することしか頭にない

こんなバカげた話を学生に多額の借金までさせて学校で教えているというのは 社会に対する詐欺行為であり もはや犯罪に等しい行為である

 

これを放置するなら益川敏英も畑村洋太郎も結局は同罪である

 

 

Ende;


権限

2020年12月14日 14時14分26秒 | 意識論関連

文芸などの芸術分野というものは純粋に主観のみを取り扱うものである

従って文芸は主観的な個人の好き嫌いで選んで構わないのだが

主観的に「三島由紀夫が好き」だからといって 三島由紀夫の言っていることの全てが正しいと勘違いするなど 盲目的に信奉して良いわけではない

主観という 個人的な好き嫌いの範疇の話であれば 私が個人的に「上白石萌歌ちゃんかわうい」と述べているのと同列の話であって それ以上に何らかの社会的価値や意味があるわけではない

個人的に「読書猿が好き」だと言うのであれば それは別に構わない話だが だからといって読書猿の人気の多数決によって読書猿の言っている内容に論理的根拠が伴う証明にはならない

知識のエコシステムを生態系のピラミッドになぞらえる」などという どうにも訳のわからぬ話を鵜呑みにしておいて 「デマに騙されないようになるかもしれません」などという これまた根拠のないデマで多数人気をどんなに集め 大衆の気分を満足安心させても それこそが論理客観的検証の苦手な文科系大衆に対する洗脳に他ならない

もし「知識のエコシステムを生態系のピラミッドになぞらえ」られるのだとしたら 読書猿はピラミッドの頂点にでも君臨しているとでも言うのであろうか?

そうでないというのであれば どうして「デマに騙されないようになるかもしれません」などと根拠もなく言えるのであろうか?

読書猿が大好きな 読書猿の「信者」達にとっては読書猿こそが唯一絶対的に正しいことを言っているものだと錯覚しているから 疑うこと 論理的に検証することを全くしなくなる

これは一種の新興宗教に過ぎない

一般論としても ヒトは好きになった相手の言うことに疑うことをしなくなり 盲目的に信頼して服従してさえいれば 「全てはうまくゆく」かのような錯覚を持ち 主観的に安心満足することで思考停止に陥る

 

哲学とは 「考えること」である

考えることをやめないから哲学なのであって 考えることをやめて主観的に安心満足してしまう習性がヒトには普遍的に存在するからこそ わざわざ哲学が必要になるのである

哲学とは 本来論理客観的な根拠を伴わぬ妖怪悪霊の類いを信じ込んで意味のない行動に陥らないようにするためのものであって 何が本当に真実なのかを見極めるための「考え(論理客観的思考検証)」であって 主観的満足だの安心感を得ることが目的ではない

ところが 大衆の多くは自分の個人的な好き嫌いに過ぎぬ主観だけで物事を判断し 相手の言っていることが本当に正しいことなのかどうかは一切考えることなく 好きな相手の言っていることだけを盲目的に信頼しようとする習性がある

これこそがヒトという種の生物における先天的な「人間性の欠陥」なのである

社会安全性において最も重要なのは 論理客観的証拠である

論理客観的な根拠や証拠のない話は安全ではないからであり だからこそ科学は主観を徹底排除する

では 哲学はどうかと言うと 哲学は主観も取り扱うのだが これはただの文芸芸術とは異なり自己の主観自体も客観的に論理検証することで「哲学」として機能するのである

哲学というのは学問であって 文芸芸術のような大衆の多数人気を得ることではなく あくまで「本当のことは何か」を判別識別することである

個人的に「三島由紀夫が好き」でも「読書猿が好き」でも「リチャード:ドーキンスが好き」でも構わないっちゃぁ構わないが それは単なる個人的な好き嫌いの範疇であって 個人的な好き嫌いが論理客観的な真理の証明になるわけではない

個人的に殺し合いのヴィデオゲームが好きでも ロリコン漫画が好きでも構わないが だからといって殺し合いや幼女強姦が正当化できるわけではない

それなら「三島由紀夫が好き」だからといっても「三島由紀夫の言うことが正しい」ことの論拠には全くならない

主観的な好き嫌いで何かを信じておけば 自動的に常に正しい選択になるとでも思っているからこそ 自分の主観を絶対的なものだと信じ込むのであって それこそが精神の怠慢であり 傲慢の源である

私は自分が「知識のエコシステム」における頂点だとは全く思っていない

むしろ 精神の怠慢による傲慢さを発揮して嘘でもデマでも何でも鵜呑みにしている多数の頭の悪さを指摘しているだけであって それを「傲慢」だと勘違いしている事自体が既に自分の傲慢さを自覚していないのである

バカに対してバカだと言うのは 論理客観的な形容詞に過ぎず バカだと言われて主観的に気分が悪いからバカだと指摘している相手の言っている内容を理解しようともしないのは バカの上塗りにしかならない

他人から言われてみれば誰でもが嘘だと見抜けるようなバカげた嘘を 自分からは何も気づくことが出来ない頭の悪さを「バカだ」と指摘されて気分が悪いかどうかは 言われた方の勝手な主観に過ぎない

頭の悪さの構造を知り 同じような嘘には騙されないようにすればバカにはならずに済むのであって そこには「生態系のピラミッドになぞらえる」ような知識のヒエラルキーは存在しないのである

にも関わらず 知識の「量」だけをひけらかし あたかも「俺様だけが知識のエコシステムにおける頂点であるから盲目的に信用しろ」とばかりに言い張るバカに洗脳されていれば これはバカとしか形容詞がなくなる

自己の主観を客観的に検証することによって 主観が促す錯覚や洗脳に陥らないようにすることも可能となる そのための「哲学」である

大衆の多くは 他人から「バカだ」と指摘され「自分はバカだ」と自覚すると 主観的に落ち込むだけで自分のどこがどのようにバカなのかを客観的に理解しようとはせず むしろ「大多数がバカなら バカでも安心」して自らの頭の悪さの構造原理については一切理解しようともしなくなる

「人間って そういうものでしょ」などと称して あたかも「多数が騙されることに騙されていても仕方ないこと」のように扱い 自分の頭の悪さが多数によって正当化されたような錯覚によって自分の頭の悪さの構造原理を知ろうともしなくなる

主観的に気分の悪くなる話を意識から遠ざけ 無視し なかったことにすることで ヒトはバカから脱却することができなくなる

ヒトとは 先天的にそういう「残念な生き物」なのである

気分的にどんなに落ちこもうが 多数を論拠に正当化できたかのような錯覚に陥ろうが バカは治らない

セーレン:キェルケゴールが論じた「絶望」とは 様々な主観的屁理屈の展開によって真理の追求を免れようとする精神の怠慢を断罪したものである

精神の怠慢によって論理客観的な真理の判別ができなければ 絶滅の危険も回避することはできなくなる

室山哲也の「予言」通りに絶滅したとしても そんなこた私の知ったことではない いくら説明しても理解せず 自分の主観だけで嘘やデマを鵜呑みにし 真実を見落とし続けた結果として 回避可能な危険性が回避できなかったとしても そんなことまで私が責任を負える立場にはない

私を何様だと思っているのであろうか

アタシゃ神様でもお釈迦様でもないので 一切衆生を救済する権限も能力もありゃしませんよ

この世のバカのいちいち全部を面倒看るわけにゃいかんのですよ

生態系のピラミッド」になぞらえることが可能な「知識のエコシステム」なんぞ存在しない

社会安全性にとって必要なのは「個人が自律的な社会的責任判断選択を行う」という人間性や倫理の本質であって これは全てのヒトに平等に責任が存在するんであって 封建主義に則って誰かの言うことを盲目的に信頼して疑わずに従っておけばどうにかなるようなものではない

 

大衆の多くは 哲学というものを主観的な満足感を得るためのものだと勘違いしているが 哲学はあくまで真理を探求することによって 本当の安全性とは何かも見極めることも可能となるのである

何が本当の「哲学」なのかも見極められずに カントだのニーチェだのを哲学だと信じ込んでいるようなら真実は闇の中に葬られることになる

「それでも良い」という選択肢は「ヒト」にはあっても「人間」にはない

 

自分の脳が気持ちいいかどうかは 先天的に決定している選択不可能なものだが 社会安全性を優先する人間性や倫理に基づいた「選択」は可能である

社会安全性にとって最も重要なのは 論理客観的根拠に基づいた「本当のこと」を見極める能力であり これは特定の誰かが担保してくれるのではなく それぞれの個人における責任の範疇において必要なものである

「法律で規制されていないから」といって温室効果ガスを無駄に撒き散らして良いわけではない

大多数のバカが養老孟司だの読書猿に騙され満足して思考停止に陥っていても刑法罰の対象にはならないが それは「人間」としての著しい欠陥である

 

 

Ende;


自動車に網戸

2020年12月14日 10時26分47秒 | 日記

自動車で標高の高いところに行って車中泊すれば真夏でも涼しいので窓開けときゃ寝れるみたいな話があったんだが

何で自動車には網戸がないんだろう

窓枠のトリムの隙間に網戸の網を突っ込めば網戸になりそうだが

 

 


Ende;


機内隔離

2020年12月10日 11時56分14秒 | 日記

ブタエモンみたいに身勝手な観念でマスクしたがらない奴とは違って 本当にマスクが苦手で体調を崩してしまう人というのがいるそうで

航空機に搭乗しようとしたら機長から降りるよう命令書が出ちゃって乗れなかったんだそうな

航空機を利用しようとしている人が航空機に乗れないとなると 他の交通機関がない場合も出てくるだけに何か工夫して乗れるようにはならんのだろうか

例えば 客室でも換気(排気)口の近くの一角を不織布やポリフィルムで隔離して マスクがどうしても苦手な人には航空券を購入する際に事前に申請しておいてもらって 最初に乗って最後に降りてもらうとか

多少の料金割増にしてでも乗れるようにしてあげないと どうにもならなくなる人が出てきてしまう

今のところ航空機は利用者が少ないみたいなので 多分客室に余裕はあるんじゃないだろうか

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薬局でビタミン剤買う時に2千円札を渡したら

自動精算レジが対応してなくてフリーズしてしまったらしい

店員さん達がすったもんだあった後になんとかなってお釣りももらえて買い物も出来たんだけど

自動精算レジのお店は現行のお札以外は全部対応していないのかも知れない

何世代か前のお札を使う場合は自動レジを導入していない個人商店とかじゃないとややこしいことになりそうである

自動レジじゃなくても店員さんが若いとそもそも古い紙幣は知らない可能性もある

なので 古い紙幣を使おうと思ったら 場合によっては使えないことも想定して現行紙幣も一緒に持っていたほうが良いと思う

 


Ende;


地獄の一形態

2020年12月09日 14時20分13秒 | 意識論関連

自転車で車道を走っていると 無理やり追い越して先の赤信号に詰めて停まろうとする車が結構いる

何だろう 自動車に乗っていたら何が何でも速度を出して走らないと誰かに煽られるんじゃないかという強迫観念でもあるんだろうか?

いくら加速しても 先の信号が赤で しかも何台かの車が停車していたら 詰めて停まっても時間短縮には一切ならないのに 何かに取り憑かれたかのように必死に加速したがる運転者というのがいる

 ◇

実は以前 自動車で走行中に制限速度20キロの一方通行の道で煽られたことがあったのだが ガン無視してわざと15キロくらいで走ってやってたら 偶然脇道から子供が自転車で飛び出してきてヤバかったことがある

後ろのアオリ野郎も急ブレーキになって追突寸前になりやがったので 窓開けて顔見てやったぜ

 

アオリ運転なんぞしている奴って 本当は全然急いでなんかいなくて 暇なもんだからアオリ運転なんぞしているんだよね

やたらと暴走加速したがる奴がいた時に たまたま暇だったので追跡してみたら 先のコンビニで漫画読んでたことがある

暇があるのに 暇の使い方がわからなくて 誰かに八つ当たりする形でアオリ運転をして誰かを攻撃していなければいられない

動機は通り魔と一緒で 「ムシャクシャしたから」的な極めて個人的な不満を方向性もなく他人になすりつけようとする

評価承認欲求中毒だと 他人からの評価とか報酬でしか脳が快楽を感じないもんだから 誰も評価してくれないと 無差別的に八つ当たりをしないといられない

シツケの悪いイヌと一緒

誰彼構わず上津港 じゃなかった噛み付こうとする

どこだよ上津港って ◇:神戸空港の辺りだった

自分で自分の脳の扱い方 楽しみ方を知らないからこそ 他人からの評価報酬ばっかり求めようとして 結局自律的な社会的責任判断もしなくなる

自制心というものが働かなくなる

「他人から誉めて貰える」とか「資産が他人よりも多い」とか「他人と比べて身分や地位が高い」とか そんなことだけが人間の価値だと思い込んでいるので 自分の頭の悪さには全く自覚がなくなる

そうなると脳がサルと一緒で 他人を蹴落として自分が優位に立つこと以外に興味はなくなる

ヘラヘラと愛想だけは良いが 内心は不満でいっぱいなので 他人を攻撃することや ギャンブルやエタノールやニコチンで脳を麻痺させることくらいしか他に何も感じなくなる

そういう種類の地獄である

 

 

Ende;


感情と心

2020年12月09日 13時10分21秒 | 意識論関連

ヒトの多くは主観的感情論を人間性を伴った「心」だと勝手に勘違いしているが これこそが論理客観性を欠いた実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかける原因なのである

犯罪被害者や遺族の多くは厳罰化や死刑を要求したがるが これはあくまで遺族側の個人的感情論(主観)でしかない

被害者側の個人的な感情の強度程度がまかり通るというのであれば 加害者側が命懸けで虐殺を行っても文句は言えないことになる

被害者の個人的な主観に基づく感情論を主張しても良いというのであれば 加害者が自暴自棄に大量虐殺をすることも正当化しなければならない

 ◇

公の資金を使って行うべきことというのは 社会安全性を優先することであり 苛烈事故や虐殺事件が起きないようにするための論理客観的な対策であって 被害者側の個人的な主観的満足を満たしても被害者を減らすことにはならない

数は少ないものの 被害者遺族の中には「再発防止を優先して欲しい」と願う人もいて これは個人の主観的感情よりも「自分と同じような地獄を他人には味あわせたくない」という より社会的な観点からの要望である

たとえ虐殺事件の犯人を死刑にしても 被害者遺族が報われるわけではなく むしろ同じような事件や事故で被害者が増え続ける社会の中で生き続けることの方がむしろ地獄なのである

どんなに厳罰化を推進しても 身勝手な奴というのは「バレなきゃ良いんだ」という身勝手な観念に基づいて行動するものである

社会の中に身勝手な奴が存在している限り 法手続きによる厳罰化は意味がない

実際に中華人民共和国では麻薬取締法違反は極刑であるにも関わらず 全く根絶することができない

ましてや 強姦などにおいては強盗殺人よりも「罪が軽くなければならない」という屁理屈に基づき「犯罪者間における罰の公平性」などという 訳のわからぬ法手続きに則って判決がくだされるだけであり 再犯率が高かろうがなんだろうが司法役人達にとってはどうでも良いのである

同じヒトという種の生物でありながらも 自律的に社会的な責任判断選択をほとんどしない奴というのがいる限り 犯罪や無責任な事故は根絶できない

人間性や倫理の本質とは 個人が自律的な社会的責任判断選択を行うこと」であって 大衆迎合人気取りや金儲け 地位身分などの肩書は人間性の論証には全くならないのである

最高裁判事を国民投票するのは 司法に対する国民の監視を効かせるために憲法で保障された制度であって 漫然と権力に従うだけで何の批判もしなければ司法役人天国にしかならない

司法役人達は 立法機関によって決められた法手続きに則って機械的に手続きさえ行っておけば「業績」になるのであって 司法役人達は別に社会安全性が高まらなくても 強姦犯が何度再犯しても 「知ったことではない」のである

三権分立という制度が 互いの責任を曖昧にしていたのでは 到底国民にとっての利益など追求されることはない

 ◇

身勝手な観念を振り回し 「自分で考えるのは10年早い 教えたことを暗記しろ」などと言い出す奴が大学で教授をやっているくらいである

身分だの肩書というものが如何に価値がないかの典型的事例であろう

身分だの肩書だのに惑わされず 何が本当のことなのか 誰の言っていることが真実なのかを見極めるためには 「個人が自律的な社会的責任判断選択」をしなければならない

SNS上でファクトチェックもせずに集団で「私刑」と称して無関係な人を攻撃するなどの行為も 個人的な主観に基づく感情だけで行動が決定している故の結果であり 自己客観性としての理性が働いていないのが原因である

たとえ犯罪者の実家であるとしても 家に落書きをしたり殺害予告をして良いわけではない それは「ただの犯罪」である

個人的な報復感情だけで厳罰化だけを公の制度に要求するのであれば それは再発防止という社会的責任を放棄するという無責任性(罪)も含まれることになる

現行の法手続き上 犯罪の再発防止を優先しなくても刑罰の対象にはならないが それは法手続き上の話であって 回避可能性が存在するのに回避のための努力を放棄しているという 人道上の「罪」は免れない

「個人(主観)的に報復したいから 厳罰による報復さえ実行されれば 再発防止になろうがなるまいが 知ったことではない」と言っているのと同義である

犯罪被害者や遺族の感情が全く共感できないわけではないが 感情は所詮主観であって 犯罪者の動機に理性が伴わないことと構造的には同じものなのである

社会安全性にとって最も重要なのは 客観的な論理検証性による根源的原因の究明と再発防止策の構築である

それが刑罰によって阻害されている現状を傍観放置していれば 結果的に社会安全性を放棄する現状制度に加担していることになるのである

制度上民主主義を導入していても 国民の半数以上がバカであるならば それは「バカ主義」にしかならない

「それでも構わない」という選択肢は「ヒト」にはあっても「人間」にはない

「人間」としての判断もせずに人間としての「心」が機能するわけがないのである

 

 

Ende;


文書

2020年12月08日 12時52分28秒 | 意識論関連

病院での大規模クラスター感染が発生し 旭川市が北海道庁に自衛隊看護師の派遣要請をしたのに 要請が電話だったために正式な要請として扱われなかったという

役所って日付の入った文書をコピーを保存して送りつけないと動かないのよ

文書が残っていると責任が明確になるので動くんだけど 電話だけだとどんなに重要な要請でも動かないんだよ

原発事故の時もそうだった

 

 

Ende;


「地位や身分」という脳への報酬

2020年12月08日 12時19分45秒 | 意識論関連

「勉強をしてたくさんの知識を得れば高い身分や地位につくことができる」というのが諭吉の「学問のススメ」の動機だそうである 本当のことは知らんが 知りたいとも思わんし

高い身分や地位を得る目的って何すかね? 大衆からの人気取りや尊敬による金儲けが目的であって 利己的な利益のために学ぼうとしているに過ぎないから 学んだ内容に間違いがあっても気づくことが出来ず 簡単にデマや嘘に騙されるようになる

純粋に「本当のことが知りたい」という自発的な知的好奇心が働いていないから 教えられたことや学んだことに間違いがあっても 自発的に論理検証して「これ 本当か?」という批判精神が働かなくなる

 ◇

学力成績という いわば抽象化されたエサ(脳への報酬)欲しさに利己的で不純な動機で物事を学び知っても エサ(脳への報酬)さえ得られれば間違っていても嘘でもデマでも構わなくなってしまう

だから「高学力なバカ」が出てくることになる

「知識のエコシステムを生態系のピラミッドになぞらえれば」(読書猿)だとか

「世界は存在しない」「時間は無限に分割すればなくなる」(マルクス:ガブリエル)

「悟性」だの「純粋統覚」だの「叡智界」だの(イマヌエル:カント)

終いにゃ「客観的事実など存在しない」(養老孟司)などという訳のわからぬ実証不能の観念を振り回す奴らを 大衆の多くは「巨人」だと勘違いしている

読書猿の知識の「量」を評価している東大の経済学教授がいるらしいが 言っておくが養老孟司だって東大教授だったのであって そんな肩書は何の証明にもならない

そもそもマイケル:サンデルだって「ハーバード大学の教授」じゃねぇか

 

主観というものは個人的なものであって 人それぞれ違うものであって 主観的事実としての好き嫌いが存在するのも確かだが それを短絡的に論理的根拠に基づいた客観的事実と混同しているから デマや嘘に簡単に引っかかるようになる

権威や肩書 大衆人気など 世間的評価というものは多数決に過ぎず 論理客観的根拠が伴う保証はない

何が本当で 何が嘘なのかを見極めるのは論理客観的検証性であって これは主観を排除することで科学的根拠となる

哲学は主観も取り扱うのだが その取り扱い方に客観性が伴わなければデマやファンタジーや文芸文学にしかならない

 

論理客観的に物事を検証(考え)るというのは 知識の「量」ではなく 知識の「質」を検証することである

知識の「質」を検証するために必要なのは 主観的な好き嫌いだけで物事を判断選択することを一旦排除し 自己の主観までをも客観的に検証する必要がある

「主観的には好きな話だけど いや 自分の主観は大丈夫か?」という自己客観性が必要なのである

身分だの地位だの人気だの評価だのにつられていたのでは自己客観性は働かない なぜならそれらは全て利己的な世間的評価報酬を目的にしているからである

「頭が悪い奴は安い報酬しかもらえない」というのであれば 「知的障害者は死ね」ということになる

だが知的障害などの先天的障害によるハンディキャップというものは 当人が望んだものではないからこそ 人道に基づき社会保障を行うのである

それなら犯罪者が犯罪者になる原因として生育環境要因が存在するのならば 生育環境のハンディキャップも人道に基づき保障してあげる必要性がある

ヒトという種の生物として生まれてきながら 人間としての人格や倫理的選択が出来ないようになってしまっている「憐れ」なことである以上 「罰で解決」という短絡的解決に依らず丁寧な原因究明と再発防止が社会安全性にとっては最も重要なのである

「憐れみ」の感情から他者に施しをすることは 別に施した方が「偉い」わけではない

他人が困っていることを 自分なら解決できるのであれば それは解決してあげるのが当たり前の話であり 別に「偉い」わけでも何でもない

逆に 自分が困っていて誰かの助けが必要な時に助けてもらうためには 当然の行いなのである

「情けは他人の為ならず」とは そういう意味である

 

しかし 知的怠慢や怠惰によって真実を見極めず デマや嘘を鵜呑みにして主観的に満足安心して浮かれていたのでは これは「人間」として赦されるものではない

多数人気に基づく「流行」に便乗し 「これさえやっときゃ頭が良くなる」とでも錯覚して浮かれている自分を客観的に検証しないからこそ 養老孟司だのマルクス:ガブリエルだの読書猿に騙されるのである

そしてイマヌエル:カントの「純粋理性批判」を鵜呑みにして「自分は哲学を学んだから頭が良くなった」と勘違いし 奨学金と称した多額の借金をしてまで嘘を鵜呑みにさせられていることには誰も気づくことはできない

ディストピア

多くのヒトがこの社会の間違いに気付かなければ 社会の暴走破綻を止めることはできない

当たり前の話である

「自分は精々100年と生きられないから 自分が死んだ後に社会がどうなろうと知ったことではない」というのであれば それは「人間」として正しいのか?

世の中確かに糞野郎はいっぱいいるが それなら人間として社会的に正しい行動選択を採る人が絶対に存在しないとでも言えるであろうか?

世の中が崩壊すると 空から焼夷弾が降り注ぎ 赤ん坊が丸焦げにされることもある

街の真ん中で乗用車が暴走して子供が轢き殺されることもある それは決して養老孟司が言うような「さざ波」などではない

事故や犯罪はなくなることはないだろうが 減らすことは可能である そのために必要なのは丁寧な検証であり「ヒヤリ ハッと」事象レベルから見逃さない「意識」である

地位や身分といった利己的利益を目的とするのではなく 公平性や平等や安全性を優先してこその倫理や人間性なのである

人はそれぞれ全員違う 違うのであれば 違いを活用することの方が合理的であって 知識の「量」だけで身分だの地位が決定していたのでは到底「人間社会」とは言えないのである

ヒトという種の生物は 先天的に権威に服従し 封建的な集団組織に属しておけば安心満足するように出来ている

それを「生態系のピラミッド」になぞらえ正当化していたのでは公平性も平等もヘッタクレもあったものではない

そもそも「生態系のピラミッド」というのは遺伝的進化による「結果」に過ぎず 過酷な自然界における生存競争(喰い合い)による結果的バランスに過ぎず そこにあるのは「生存」に対する必然性だけであって 論理客観的な持続可能性の合理的根拠が伴うわけではない

人は何かを信奉したがる習性があり 権威や人気者 カリスマを崇めて満足したがるが これは祖先が狩猟採集生活の中で進化的に組み込まれた動物的な習性(無意識なバイアス)に過ぎない

そして この習性は個人の自律的な社会的責任判断選択能力を不具にさせる性質も兼ね備えている

遺伝的進化というものは あらゆる環境において常に最適化される保障はなく 偶然生存にとって適した者が生き残るという「結果」以上の何ももたらすことはなく 偶然いかんによっては大絶滅に陥ることも幾度となく起きているのである

バカなら暴走破綻を止めることはできない

それでも「バカのままで良い」という選択肢は 「ヒト」にはあっても「人間」にはないのである

 

 

Ende;


ダブルスタンダード

2020年12月07日 23時00分11秒 | 意識論関連

いくら言ってもマスコミは官邸でのぶら下がり取材とか 都知事への密集囲み取材をやめようとしないわ

都知事や大臣達を危険にさらして良い特権でもあると思ってんのかしら

文科系の奴らって何かとやっていることや言っていることが頓珍漢で一貫性のないダブルスタンダードを平気でやらかす

「漢文勉強しとけばデマに騙されない」だとか 根拠がないだろ

デマかどうかのファクトチェックを漢文に精通した奴だけが特異に優れている証拠がどこにある

そもそも生態系のピラミッドというものが遺伝的進化の「結果」に過ぎず 合理的目的に基づいたものではないのに 「知識のエコシステム」などという意味不明な実証不能の観念ぶちまけといて何偉そうにご託宣並べてんだか

読書猿がマイケル:サンデルの洗脳手法を論じたことあんのかよ

マルクス:ガブリエルの観念には根拠がないことを論じたことあんのかよ

そもそもイマヌエル:カントの純粋理性批判やフリードリヒ:ニーチェの批判したことあんのかよ

マスコミも含めて文科系の奴らってのは基本的に論理思考検証のできないデクノボウの集団だってことを 何で認識しないんだろうな

 

 

Ende;


同罪

2020年12月07日 21時02分24秒 | 意識論関連

「相互信頼関係のない社会はコストが高くつく」という話をしている奴に限って嘘が酷いのでビックリする

結局 「他人を信用しないと社会コストが高くつくから 俺の言うことは疑うな」という論法らしい

安物の占い師が「他人の言うことを信用しないというのは心の狭い人間だ」などと称して何でもかんでも鵜呑みにさせようとする手口と似たようなものである

泥棒や詐欺が一人でも社会に存在していると 他の大多数が詐欺や泥棒ではないとしてもセキュリティに余計なコストがかかるのは確かだが ちょっと考えれば嘘かどうかを見分けられるのに考え(検証し)ないというのは なんでしょう そんなに「考える」のが嫌なんですかね?

頭で「考え」たからといって 物理的にはさしたるコストなんかかからんのに 主観的に「嫌」というだけで論理客観的検証を放棄する必要性があるほどの「コスト」なんすかね

嘘を見抜けず宣伝された書籍を買って読むコストの方がよっぽど高くつくんじゃないかと思いますけどね

 ◇

社会というものは完全ではない

決して完全無欠の天才が社会安全性に基づいた「目的」に則って作り出したものではなく あくまで凡人達の多数が その場しのぎに構築した「結果」に過ぎないからだ

だから アチコチに間違いとか綻(ほころ)びがある

教えられたことを漫然と鵜呑みにしているだけでは 教えられた内容に間違いがあっても気づくことは出来ず 間違ったまんま間違った行動を受け継ぐことになってしまう

形式マナーや法手続きというものは 気分的な安心感を得ることはできるものの 論理客観的な安全性の根拠はない

法手続きに過ぎない「法の下の平等」も 香港政府を見てれば「権力側に都合の良い平等」に過ぎないことは明らかである

 

学力ビジネスに関わる者たちにとっては 「学力=知能」という大衆観念が 科学的には根拠がないことを周知されてしまうことは 既得権を失いかねない「不都合な真実」であり 従来通りに金儲けを続けるためには従来の学力成績基準を正当化するための屁理屈を大量に陳列してくるのも ある意味必然である

学習塾の講師の類いにとって 社会安全性なんぞどうでも良いのであって 「学力偏差値が高い=頭が良い=金が儲かる」という根拠のない方程式に則って従来の学力偏差値競争にバカな大衆が乗っかってくれている方が得なのである

学力偏差値や学歴が高ければ 就職には有利かも知れないが その学力偏差値が高い奴らによって大企業の不祥事は繰り返されている厳然たる事実を今更否定することは出来ない

集団組織の統率者にとっては 何も疑うことのない従順で能力の高い者の方が扱いやすいとは言えるだろう

だが 兵隊というものは過酷な訓練によって上官の命令を絶対的なものだと「学習」されることによって 戦争などというバカげた行為にも便利に使うことが可能となるのであって 主体的に何も疑うことのないバカによって あらゆる組織腐敗は進行し 暴走破綻への道を突き進むことになるのである

 

人間性や倫理の本質とは 「個人が自律的な社会的責任判断選択を行うこと」である

間違いを含んだ社会に何の疑問も持たずに その社会の中での生存競争を生き抜くための利己的な選択をしていれば 意図していなくても暴走破綻に加担することになる

東京電力社内において 上司に従順に「原発の津波に対する脆弱性を放置」しておいた方が 東電社内における「生き残り」にはなるだろう

こうした構図は国家単位や世界全体でも同じことが言える

「生存」にとって有利な行動というものが 人間性にとっても有利に働く力学は極めて稀である

イジメや差別の被害者は常に少数派や弱者であり 生き残れるのは多数派や強者 或いは何もしない傍観者であり こうした淘汰圧力下においてヒトという種の生物に先天的な人間性が組み込まれる力学は存在しない

それは リチャード:ドーキンスの「利己的な遺伝子」というのは 読んだ者が「自分が生物種として先天的に優秀なものである」という妄想観念に酔いしれ 気分的に満足できることで大衆人気を集めているだけであって 科学的に何かの役に立つような話ではない

にも関わらず 山極寿一や松沢哲郎などの大多数の生物学権威達によって「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという 科学的根拠の乏しい嘘が一向に否定されないのは 生物学界における「生存」にとっては権威に逆らわずに同調迎合するか 或いは傍観放置しておいた方が保身にはなるからである

明確に「遺伝的進化には目的が存在しない」ことを主張しない生物学者達は もはや科学者としては無能なポンコツであることが決定しており 金をとってまで大学で教える価値など全くない集団詐欺とも言える状態なのである

ましてやイマヌエル:カントを鵜呑みにしている「科学哲学者」など論外である

もはや特殊詐欺以上に悪質であろう

こうした学術界の組織腐敗を傍観放置していることもまた 犯罪レベルの話であり 「専門外」を根拠に何の検証もしない益川敏英などの物理学者達も同罪である

「学問の自由」を主張するというのであれば 学術界全体の腐敗を検証し 自浄してから物を言え

それが出来ないなら辞めちまえ

 

 

Ende;


マウンティングの構造

2020年12月07日 17時21分33秒 | 意識論関連

自分と他人との違いを許容できないヒトというのがいるものだが これは狩猟採集生活に適応進化したヒトの先天的本能が原因である

狩猟採集においては集団組織的協調行動をする上において 自分が思っていることを他人とも共有しておく能力 いわゆる「空気を読む」能力が必要だった

集団の中においてははリーダー以外はリーダーのご機嫌をとって盲目的に服従する忠誠忠実さが必要であり リーダー個人の主観的な好き嫌いを共有することで集団の団結性を保っていたが

こうした習性というものは 異質な個体を排除するバイアスとしても働くことになり 差別やイジメの原因でもある

 

主観的に好きな相手同士で集団を形成するだけならそれほど問題は起きないのだが 主観的に嫌いな相手を集団組織的に差別排除したがる習性も同時に発揮してしまうのが動物的な本能習性というものの性(さが)である

威圧的にマウンティングをかけてくる相手に逆らうと嫌な思いをすることの方が多いので 威圧的な相手のご機嫌取りをする形で 結果的に集団統率的協調行動が形成されることになる

威圧的で怖い嫌な奴だとしても 逆らうことでかえってもっと嫌な思いをするくらいなら むしろ同調的に迎合しておいた方が楽なため ヒトの集団というのはどうしても暴力威圧的な個体への服従迎合性のバイアスが働いてしまうのである

そして 自分が同調迎合したリーダーに対しては 同調迎合したことを事後正当化する形で他人に対しても同調迎合性を要求することで 統率協調性はさらに強固なものになる

認知的不協和理論に基づいた洗脳というものは ヒトの先天的な本能習性によって引き起こされるバイアスが原因である

狩猟採集生活においては こうした習性は生存にとって有利に働いたため 進化的にヒトという種の生物に組み込まれることになったのである

狩りをする上において合理的で有利な習性が 差別排除という非合理な習性も同時に持ち合わせているのである

こうした動物的な本能習性というものは 「ヒト」にまで進化する以前から組み込まれていたものであって 先天的な統率的協調行動というものはイヌやハダカデバネズミやアリやハチでも見られるものであり 決して目的意識的に選択可能なものではなく あくまで「生存」における環境適応の「結果」でしかない

 

ヒトは差別排除をすることによって戦争や紛争を引き起こし 不毛な殺し合いをする先天的習性がある

ヒトは先天的には人間ではないのである

ヒトという種の生物の欠陥を認識し 人間性や倫理の本質(真実)とは何かを見極ることによって はじめて人間性や倫理を発揮することも可能となるのである

 

学級内においてイジメが発生した場合 一部の生徒はイジメのターゲットを協調的に攻撃することで仲間同士の連帯感が促す快楽によって中毒的にイジメは加速暴走を引き起こすことになる

実際には学級内においては大多数は何もしない「傍観者」ではあるのだが 誰も異議を唱えないことで結果的にイジメは許容されてしまうことにもなる

いわゆる「3秒ルール」的に 瞬発的且つ強力な反論が出てこなければ賛成したこととみなす形で 傍観者は結果的に共犯者にされてしまうことにもなる

これもまたヒトの先天的本能習性の「結果」である

 

「学生のイジメ」と「国家間や民族間における戦争や紛争」とは規模の違いはあれど 構造的には同じものであり 主観的な好き嫌いを統率協調的に暴走させることによってヒトは殺し合いにまで発展するのである

 

遺伝的進化というものは「結果的に死ななければ残るだけ」であって あらゆる形質や習性の全てに合理性が伴う必要性はなく ヒト同士が差別紛争によって一定数が殺し合いで死んだとしても 大多数が生き残れば「生物」種としては残ることになる

イワシの大部分が他の捕食者のエサになったとしても 一部でも生き残れば種としては存続することは可能であり

むしろ自然界においては個体数が一定に制限される仕組みによって生態系のピラミッドが形成されているのであって 生態系の中においては一定数に保たれる力学が働いていなければ生態系全体の持続可能性を損ない 生態系環境丸ごと淘汰対象になってしまうのである

 

ヒトという種の生物は現在地球環境下において淘汰対象に陥りつつある

地球環境における生態系のバランスに適応することができず 自滅の道を突き進んでいると言える

それならヒトもまた生物史の進化過程において幾度と繰り返されてきた大絶滅のシーケンスには逆らうことが出来ないのかと言えば 必ずしもそうではない

なぜならヒトには先天的本能習性に抗う選択可能性というものが存在しており 決して遺伝的進化のシーケンスだけでしか行動が選択出来ないわけではないからだ

それは単なる同調圧力に依らず 個人が自律的に行動を選択することであって 個人が自律的に「本当に正しい行動とは何か」を識別する能力が必要である

「巨人の肩の上」などと称して あたかも古典的な論説の全てが正しいかのような錯覚を促し 盲目性を発揮させることは簡単だが イマヌエル:カントやフリードリヒ:ニーチェが本当は「巨人」でも何でもないことに気付かなければ その「肩の上」から見ているものは真実ではない

 

主観というものには錯覚が伴う可能性が否定出来ない

例えばイスラム過激派によるテロの報道が相次ぐと イスラム教徒に対する観念的恐怖心を抱いてしまいがちだが 社会主義者の大半が連合赤軍ではないのと同様 イスラム教徒の大半は平和主義者である

むしろ 暴力的な者が社会に対する無差別攻撃をする口実(大義)として共産主義思想やイスラム教を利用しているに過ぎないのであって 利用されたイスラム平和主義者も迷惑であることに違いはない

 

ヒトは主観的に気に入らない相手に暴力を振るうと満足する習性がある

これは別にヒトに限ったことではなく イヌでもネコでもサルでもハダカデバネズミでも見られる動物一般に見られる普遍性習性である

それでは夜中に酔っ払って騒いでいる糞DQNに暴力を振るったら この世の糞DQNがやらかす問題行動のすべてが解決するかと言えば そうではない

家の前で暴れている糞DQNを殴って河川敷にでも棄ててくれば気分的にはスッキリするであろうが それはその場の主観的満足にしかならず 世代が変わる度に次々を出てくる糞DQNを抑制することにはならない

素を絶たないことにはどんな問題も根本的に「解決」することはないからである

社会安全性にとって最も優先されなければならないのは 徹底した原因の究明による再発防止策の構築であって 司法刑罰制度はその邪魔にしかならないからこそ 危険学のメソッドでは「刑法を一時停止する」のである

 

この話も「一時停止」しておこう 今回言いたいのは「マウントをとってくる奴」のことだった

主観的に嫌いな相手を攻撃してくる奴というのは 自分が個人的に嫌いであるということを短絡的に「悪」だと錯覚しているからである

自己客観性がなく 論理的に物事を検証することなく「俺が嫌いなものは悪いものだ」という観念に基づいているからこそ 結果的に身勝手な観念を振り回してマウントしてくることになるのである

生育環境下において 親が主観的な好き嫌いで子供に何かを押し付けていると 子供は「自分の主観的な好き嫌いを相手に押し付けるものなのだな」と行動学習してしまい 結果的に誰に対しても身勝手な観念を押し付けるマウント中毒に陥るのである

「世の中は全てそういうものなんだな」という 一種の諦め(絶望)を「悟り」か何かと勘違いし 動物的な行動学習によって一貫して傲慢な人物ができあがるようになるのである

ところが こういう傲慢な人物というのは 先天的な本能習性には忠実なため 自分よりも傲慢に振る舞う相手に対しては むしろ媚びへつらい服従しようとする習性も兼ね備えているものである

私が学生時代に理不尽なマウントをかけてきた男に対して ブチギレて怒鳴り返した翌日には うれしそうな顔で「おはようございます」などと丁寧な挨拶をしてきやがったことがある

もう なんだろう 自己客観性とか そういうものが全く働かないんだろうな 思い出すだけで虫唾が走るわ

暴力的で威圧的な相手に服従していれば その集団組織は暴力威圧的な封建的組織にしかならず 平等も公平もスッタクレもあったものではない

その場限りに怖い相手に服従しておけば その暴力威圧的集団の内部においては有利な立場が得られるとは言えるが それは集団組織そのもののあり方には何の配慮もなく 他人を蹴落とすことで自分を有利にしようとする卑劣な行動である

 

精神性とか 論理客観的検証性が働かなければ 先天的な本能習性に則った動物的行動しかしなくなるのが「ヒトという種の生物」である

「自意識」というと 一般的には「他人からの見た目」を指す言葉であるが 「他人からの見た目」というのは他人の主観であって一貫性があるわけでもなく 論理的根拠も伴わない

前述のようなマウント糞野郎の主観的な「見た目」においては 暴力威圧的に怒鳴り散らしてくる相手こそが服従対象であって 怖い相手に服従しておけば「安心」なのであり 何ら「自分の意識」を意味するものではない

どのような人物から見て「恥ずかしくない」かは人それぞれであり ヤクザにとってはヤクザ価値観における「恥ずかしい」行為とは むしろカタギの価値観こそが「恥ずかしい」ことになっているからこそ ヤクザはヤクザであり続けようとするのである

倫理的な人物から見て「恥ずかしくない」行動を採りたいと思っている時点で 既に「誰から見て恥ずかしくない行動を採るべきか」を選択しているのであって

むしろ尊敬に価する相手がいなければ自ら自律的に「こうあるべき」理想に基づき行動を選択しなければならないのであって 一般に言う「自意識(他人からの見た目)」というものは「自分の意識の本質」ではないのである

 

 

 

学校では教師が強制的にクラス割りを生徒に強要し 生徒の主体的意見は聞き入れられることはなく 学級内部でマウントかけてイジメてくる奴がいても逃げ場というものがない

そういう学級内での立ち居振る舞い方を動物行動的に「学習」してしまうからこそ 就職してからブラック企業だと気付いても無駄な精神論を発揮してしまい
合理的に逃げることができなくなってしまうのである

私のように怒鳴り散らして逆マウントをかけてしまえば私個人はイジメの対象にはされないものの それではイジメそのものの発生原因の究明や再発防止の具体的対策にはつながらず 別の世代の被害者が出てくることを抑制できない

養老孟司は「嫌な相手とどう付き合うか」という命題に対し「無視する 意識から外す」といったその場しのぎな処世術しか論じていない

読書猿も同様で 「嫌な相手とは付き合うな」としか論じておらず 根本的解決には全くつながらない

学校教育において 教師が強制的に特定の学級に生徒を割り振り 生徒自身の選択を尊重しない現状の制度自体に問題があるのであって そこに言及しないのは権威に対する迎合であって むしろ従来の学力偏差値を基準とした「独習」などと称した「学力成績の事後正当化」ばかりを勧めており これは一種の詐欺である

 

主体的な目的意識に基づいて何かを勉強しようとするのは悪いことではないが 本当に純粋に行為そのものが好きでなければ他人からの評価を基準にしてしまい 最悪のケースではカルト宗教に洗脳されて盲目的に「地下鉄に毒ガス」という行動に邁進しかねない

主観的に「信じたいものだけを信じよう」としているからこそ 簡単にデマや嘘に騙され 洗脳状態に陥って非合理な行動に邁進暴走する羽目にも陥るのである

「主観的には面白いんだけど これって本当に全部信じちゃってもい井の頭公園」という自己客観性が常に必要である

他人の言っている内容と疑うことは「コストがかかる」ことは言えるが ファクトチェックなしに社会安全性を担保することは出来ないのであって 安全性にコストをかけることを面倒臭がってはならない

原発の安全性を担保するのに「コストがかかる」ことを根拠にテキトーに省いて良いわけがないだろ

バカか

 

 

Ende;


読書猿2

2020年12月07日 16時52分49秒 | 意識論関連

漢文が読めないと、現実的な弊害があります

[読書猿の解答]
 公の教育の意義を認知的ワクチンと考えると、学校で何かを教えなくてもいいという主張は、もうそんな伝染病なんてないのだからワクチンを打つ必要はないというのと似ています。

 認知的ワクチンというのは、害あるデマや考えをウイルスになぞらえて、知識や考え方(だから認知的といってます)を教え学ぶことでその流行を防いでいる、という意味です。

 すると問題は古文や漢文を教えることが認知的ワクチンだとしたらどのような認知的ワクチンであるか、つまりそれを学び知ることでどんなデマや害ある考えが防げるのかということです。我々の日本の歴史や文化についての知識は、多くの部分を近代以前に書かれた文献資料に基づいています。さらに、漢文が分からないと明治期の知識人が書いた文章(漢文訓読体)をちゃんと理解できないので、近代の文献も読めません。

 たとえば福沢諭吉『文明論之概略』で「盗賊殺人は人間の一大悪事なれど」というフレーズの「人間」は「にんげん」ではなく、漢文でいう「じんかん」=「俗世間、世の中」という意味です。「にんげん」と解釈しても一見意味が通ってしまうので誤解しやすい。こういう落とし穴が結構あります。

 漢文訓読体は、漢文に戻して理解するとわかりやすい。洋学派の福沢ですらこうなのです。明治期の知識人が書いた文章が漢文訓読体なのは、彼らを育てた私塾や、藩を超えたネットワークをつくった会読(読書会)という集まりが、漢文を読むことを軸にしていたからです。日本近代をつくった彼らの思考のベースが漢文にあった訳です。

 古文や漢文を学ぶことを止めて直接生じるのは、近代以前に書かれた文献資料を読むことができる人が減ることでしょう。この事により、日本の歴史や文化についてのデマや害ある考え(たとえば捏造マナー本や、キモチイイ系の歴史本など)の流行が拡大するかもしれません。

 高校までの古文や漢文の授業だけで、いきなり近代以前の文献が読める訳ではありませんが、これは英語や数学やプログラミングも同じです。実用化するには自分で更に積み上げることが必要ですが、認知的ワクチンのポイントは多くの人が広く接種することにあります。さらに知識のエコシステムもまた生態系ピラミッドのアナロジーで考えることができるなら、古文や漢文を読める人が減れば、スキルの高い人たちのレベルも下がると予想すべきかもしれません。

 


⇨「害のあるデマや考えをウイルスになぞらえて、知識や考え方(だから認知的といってます)を教え学ぶことでその流行を防いでいる、という意味です。」と論じているが デマや風評や洗脳に騙される性質というものはヒトという種の生物の先天的な欠陥に由来するものであって ウイルスのようにワクチンでどうにかなるものではなく むしろ生活習慣病のように日々の生活習慣こそが嘘に騙されないようにするためには重要なのである

害のあるデマや考えをウイルスになぞらえている時点で根拠がなく この時点で既にデマなのである

古文や漢文を教えることが認知的ワクチンだとしたら」という仮定自体に根拠がなく 古文や漢文に精通していたらデマに惑わされない統計的根拠も何もないのである

デマや害ある考え(たとえば捏造マナー本や、キモチイイ系の歴史本など)の流行が拡大するかもしれません。」とも言っているが 多くのヒトが捏造マナーの類いを捏造だと認識出来ないのは 形式やマナーといったものに対する盲目性を強要された結果であって 「漢文を学んだら嘘に騙されない」などというのもデマに過ぎない

野依良治でさえ「主観が大事」などという哲学界のデマを鵜呑みにしてしまうこともあるだけに 「これさえやっときゃ嘘やデマには騙されない」という短絡安易な方法論があるわけではなく むしろ主観的な好き嫌いで判断するのではなく 論理客観的に物事を検証するクセを身につけておかないから 簡単にカモられるのである

論理客観性が働いていれば 自ずから自然と批判精神も発揮され 誰が嘘つきなのかは自分で自律的に判断することができるようにもなる

相手の言っていることを論理的に理解せず 何となく雰囲気だけで鵜呑みにしてしまうからこそ嘘を嘘だと見抜けなくなるのであり

主観が促す気分的な満足による「錯覚」を「錯覚」だと認識するのは自発的な論理客観性であって 重要なのは「漢文か プログラミングか」といったものではなく 主体性とか自主性の方が重要なのである

本当は漢文なんぞに興味はないのに 「漢文さえ勉強すれば嘘が見抜けるようになるんだな」と勝手に勘違いして勉強しても そもそも読書猿のデマが見抜けていない時点でバカが決定している

知識のエコシステムもまた生態系ピラミッドのアナロジーで考えることができるなら、古文や漢文を読める人が減れば、スキルの高い人たちのレベルも下がると予想すべきかもしれません。」と括られているが そもそも「知識のエコシステム」って何だよ 読書猿がでっち上げたデマじゃねぇか

生態系のピラミッド」というものは そもそも遺伝的進化による結果的な淘汰圧力の結果であって 「知識が豊富でさえあれば社会的に優位な地位が得られる」という諭吉の妄想観念に則ったデマに過ぎない

人間社会において重要なのは 特定の知識の「量」だけで社会的な優位性を規定することではなく 個々の多様性をどう活かすかの工夫が重要であって むしろ人間社会に「生態系のピラミッド」を適用している時点で発想が相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺犯の植松聖と一緒である

 

そもそも「現実的な弊害があります」と言っておきながら 具体的な弊害については何も論証しておらず 結局全て「かもしれません」という根拠の乏しい「ふんわりした予測」しか書かれていない

こうした嘘というのは 池上彰が論じた「なぜ戦争が起きるのか これを見ればわかる」などという嘘と形式は一緒である

実際には何も論理的には述べておらず 論理的には「わからない」ため 具体性のある再発防止策には全く活かすことが出来ないにも関わらず 「現実的な弊害があります」など宣言している時点で既に嘘なのである

気分(主観)的に何かが「わかった」ような錯覚さえ促しておけば バカな大衆は簡単にデマを鵜呑みにして誰も嘘を見抜けなくなる習性がヒトにはあり だからこそマイケル:サンデルだのマルクス:ガブリエルの洗脳にも簡単に引っかかるのである

こんな単純な嘘も見抜けないバカなら もはや何を勉強してもバカは治らない

 

 

Ende;


カモを見つけるのは簡単である

2020年12月05日 20時35分21秒 | 意識論関連

諭吉の「学問のススメ」には

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。

と書いてあるんだけど これは引用であって諭吉の見解ではなく 実語教という書物に基づいた「一般論としてそう言われますが」という前置きに過ぎないという

諭吉の見解は「とは言え世の中には階級格差があって 勉強しとけば高い階級を得られるから勉強しとけ」という話のくだりだそうな

まあ 「学問のススメ」だからな 学問さえ勧めときゃ諭吉は満足なんだろう

 

世間一般には あたかも諭吉が公平性や平等を説いたかのように引用されることが多いもんだから そう誤解しがちではある

まあ ほぼトリビアだけどな

 

また

世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ

ともあるんだが 「むずかしき仕事」でありさえすれば「身分重き人」とは限らない

命懸けで毒ガス製造されても「身分の重き人」にはならんだろ

 

『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。

ともあるが

学びさえすれば賢くなるわけでもない

大量の知識をひけらかして大衆観念的に「頭が良さそう」に見えたとしても それが社会にとって役立つかどうかとは無関係である

大学合格率が高いだけで 実質的には何の発見も業績もない学習塾の講師風情が偉そうに「こうすれば頭が良くなる」などと称して著作の宣伝をすることも多いが

難関大学に受かったからといって人間性の保証になるわけでもなく 原発の危険性が放置されたのも 様々な大企業による粉飾決算も 学歴が高いだけのバカによってもたらされたものである

テロリストや通り魔の多くが学生時代に学力が高い傾向があるのも事実である

 

学問というものは ただ学ぶだけではなく 自ら問い考えることではじめて「学問」と言えるのであって バカみたいに「こうすれば頭が良くなる」的な話を鵜呑みにし バカみたいな話に唆されて大量の知識を「知っている」だけでは 「何も学ぼうともしないバカ」とさしたる違いはない

「東大に合格すれば 頭が良い」という短絡的な観念こそが バカへの第一歩でもある

 

 

Ende;


あさだあめくうる日記

2020年12月04日 15時58分16秒 | 日記

みちょぱとゆきぽよの区別がつかない

脳がジジイになったんだと思う

かなしい

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いつものピンぼけ動画





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空冷エンジンってさ

シリンダーに直接冷却フィンが生えている形式しかないけどさ

もっと熱伝導率の高い銅とかグラファイトとかで複雑な形状のヒートシンクに送風機で冷却するような形式があっても良いんじゃないかと思うんだよなぁ

瞬間湯沸かし器の熱交換器みたいな感じの形状とか おろし金みたいな形状にすれば空冷でも結構イケんじゃねぇのかな

そういや電子回路基板向けのヒートシンクって最近は剣山みたいにトゲトゲなのが主流になっている

形状とか素材にもっと工夫があっても良いんじゃないかと思う

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キリン グリーンラベルのおたべさん

https://www.kirin.co.jp/products/beer/greenlabel/images/kv_bg02_sp.jpg

https://www.kirin.co.jp/products/beer/greenlabel/images/kv_bg01_sp.jpg

何か微妙に違うのも出る

https://www.kirin.co.jp/products/beer/greenlabel/images/kv_bg_sp.jpg

当然pc版もあるよ



キリンにはもかちゃんもいた

https://www.kirin.co.jp/products/softdrink/kirinlemon/assets/img/kirinlemon_mutou/pc/movie.jpg

https://www.kirin.co.jp/products/softdrink/kirinlemon/assets/img/kirinlemon_mutou/pc/main.png

https://www.kirin.co.jp/products/softdrink/kirinlemon/assets/img/kirinlemon_mutou/sp/main.png



https://www.kirin.co.jp/products/softdrink/kirinlemon/assets/img/top/pc/main.png
違う娘が出た 誰かと思ってググったら佐久間由衣ちゃんって娘だった

申し訳ないが印象ないわぁ


もっとデカいのあったわ
https://storage.mainichikirei.jp/images/2020/06/01/20200601dog00m100005000c/003_size10.jpg

https://storage.mainichikirei.jp/images/2020/04/20/20200420dog00m100002000c/001_size10.jpg
動画からのキャプチャらしくてあんま鮮明ではないが

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浦島太郎が助けた亀って

ウミガメじゃないのか?

そもそも浦島太郎は別に英雄じゃねぇし

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師走にゴキカブリ様が出た

下水の排水トラップの水が抜けると出てくる

真夏はこまめに注水してたけど 気温が下がって気が緩んだら侵入を許してしまった

面倒臭い

なんとかメンテナンスフリーにならぬものか

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キヤノンEF-M32mmF1.4STM


シグマ65mm F2 DG DN


似てるかな 対物側はなんとなく似ている気がする

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100均で買ってきたステンレス製のハサミが切れなくなっちゃって

いくら砥石で研いでも全然切れ味が改善しない

棄てても良いやとばかりにステンレス用ヤスリ(スェーデン オバーグ社製 単目)でザクザク削ってやったら切れ味戻った

不織布も切れる

たのしいw

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緑茶にアクエリアスビタミン混ぜて飲んでいる

紅茶とアクエリアスビタミン混ぜても旨いかも





Ende;