自分と他人との違いを許容できないヒトというのがいるものだが これは狩猟採集生活に適応進化したヒトの先天的本能が原因である
狩猟採集においては集団組織的協調行動をする上において 自分が思っていることを他人とも共有しておく能力 いわゆる「空気を読む」能力が必要だった
集団の中においてははリーダー以外はリーダーのご機嫌をとって盲目的に服従する忠誠忠実さが必要であり リーダー個人の主観的な好き嫌いを共有することで集団の団結性を保っていたが
こうした習性というものは 異質な個体を排除するバイアスとしても働くことになり 差別やイジメの原因でもある
主観的に好きな相手同士で集団を形成するだけならそれほど問題は起きないのだが 主観的に嫌いな相手を集団組織的に差別排除したがる習性も同時に発揮してしまうのが動物的な本能習性というものの性(さが)である
威圧的にマウンティングをかけてくる相手に逆らうと嫌な思いをすることの方が多いので 威圧的な相手のご機嫌取りをする形で 結果的に集団統率的協調行動が形成されることになる
威圧的で怖い嫌な奴だとしても 逆らうことでかえってもっと嫌な思いをするくらいなら むしろ同調的に迎合しておいた方が楽なため ヒトの集団というのはどうしても暴力威圧的な個体への服従迎合性のバイアスが働いてしまうのである
そして 自分が同調迎合したリーダーに対しては 同調迎合したことを事後正当化する形で他人に対しても同調迎合性を要求することで 統率協調性はさらに強固なものになる
認知的不協和理論に基づいた洗脳というものは ヒトの先天的な本能習性によって引き起こされるバイアスが原因である
狩猟採集生活においては こうした習性は生存にとって有利に働いたため 進化的にヒトという種の生物に組み込まれることになったのである
狩りをする上において合理的で有利な習性が 差別排除という非合理な習性も同時に持ち合わせているのである
こうした動物的な本能習性というものは 「ヒト」にまで進化する以前から組み込まれていたものであって 先天的な統率的協調行動というものはイヌやハダカデバネズミやアリやハチでも見られるものであり 決して目的意識的に選択可能なものではなく あくまで「生存」における環境適応の「結果」でしかない
ヒトは差別排除をすることによって戦争や紛争を引き起こし 不毛な殺し合いをする先天的習性がある
ヒトは先天的には人間ではないのである
ヒトという種の生物の欠陥を認識し 人間性や倫理の本質(真実)とは何かを見極ることによって はじめて人間性や倫理を発揮することも可能となるのである
学級内においてイジメが発生した場合 一部の生徒はイジメのターゲットを協調的に攻撃することで仲間同士の連帯感が促す快楽によって中毒的にイジメは加速暴走を引き起こすことになる
実際には学級内においては大多数は何もしない「傍観者」ではあるのだが 誰も異議を唱えないことで結果的にイジメは許容されてしまうことにもなる
いわゆる「3秒ルール」的に 瞬発的且つ強力な反論が出てこなければ賛成したこととみなす形で 傍観者は結果的に共犯者にされてしまうことにもなる
これもまたヒトの先天的本能習性の「結果」である
「学生のイジメ」と「国家間や民族間における戦争や紛争」とは規模の違いはあれど 構造的には同じものであり 主観的な好き嫌いを統率協調的に暴走させることによってヒトは殺し合いにまで発展するのである
遺伝的進化というものは「結果的に死ななければ残るだけ」であって あらゆる形質や習性の全てに合理性が伴う必要性はなく ヒト同士が差別紛争によって一定数が殺し合いで死んだとしても 大多数が生き残れば「生物」種としては残ることになる
イワシの大部分が他の捕食者のエサになったとしても 一部でも生き残れば種としては存続することは可能であり
むしろ自然界においては個体数が一定に制限される仕組みによって生態系のピラミッドが形成されているのであって 生態系の中においては一定数に保たれる力学が働いていなければ生態系全体の持続可能性を損ない 生態系環境丸ごと淘汰対象になってしまうのである
ヒトという種の生物は現在地球環境下において淘汰対象に陥りつつある
地球環境における生態系のバランスに適応することができず 自滅の道を突き進んでいると言える
それならヒトもまた生物史の進化過程において幾度と繰り返されてきた大絶滅のシーケンスには逆らうことが出来ないのかと言えば 必ずしもそうではない
なぜならヒトには先天的本能習性に抗う選択可能性というものが存在しており 決して遺伝的進化のシーケンスだけでしか行動が選択出来ないわけではないからだ
それは単なる同調圧力に依らず 個人が自律的に行動を選択することであって 個人が自律的に「本当に正しい行動とは何か」を識別する能力が必要である
「巨人の肩の上」などと称して あたかも古典的な論説の全てが正しいかのような錯覚を促し 盲目性を発揮させることは簡単だが イマヌエル:カントやフリードリヒ:ニーチェが本当は「巨人」でも何でもないことに気付かなければ その「肩の上」から見ているものは真実ではない
主観というものには錯覚が伴う可能性が否定出来ない
例えばイスラム過激派によるテロの報道が相次ぐと イスラム教徒に対する観念的恐怖心を抱いてしまいがちだが 社会主義者の大半が連合赤軍ではないのと同様 イスラム教徒の大半は平和主義者である
むしろ 暴力的な者が社会に対する無差別攻撃をする口実(大義)として共産主義思想やイスラム教を利用しているに過ぎないのであって 利用されたイスラム平和主義者も迷惑であることに違いはない
ヒトは主観的に気に入らない相手に暴力を振るうと満足する習性がある
これは別にヒトに限ったことではなく イヌでもネコでもサルでもハダカデバネズミでも見られる動物一般に見られる普遍性習性である
それでは夜中に酔っ払って騒いでいる糞DQNに暴力を振るったら この世の糞DQNがやらかす問題行動のすべてが解決するかと言えば そうではない
家の前で暴れている糞DQNを殴って河川敷にでも棄ててくれば気分的にはスッキリするであろうが それはその場の主観的満足にしかならず 世代が変わる度に次々を出てくる糞DQNを抑制することにはならない
素を絶たないことにはどんな問題も根本的に「解決」することはないからである
社会安全性にとって最も優先されなければならないのは 徹底した原因の究明による再発防止策の構築であって 司法刑罰制度はその邪魔にしかならないからこそ 危険学のメソッドでは「刑法を一時停止する」のである
この話も「一時停止」しておこう 今回言いたいのは「マウントをとってくる奴」のことだった
主観的に嫌いな相手を攻撃してくる奴というのは 自分が個人的に嫌いであるということを短絡的に「悪」だと錯覚しているからである
自己客観性がなく 論理的に物事を検証することなく「俺が嫌いなものは悪いものだ」という観念に基づいているからこそ 結果的に身勝手な観念を振り回してマウントしてくることになるのである
生育環境下において 親が主観的な好き嫌いで子供に何かを押し付けていると 子供は「自分の主観的な好き嫌いを相手に押し付けるものなのだな」と行動学習してしまい 結果的に誰に対しても身勝手な観念を押し付けるマウント中毒に陥るのである
「世の中は全てそういうものなんだな」という 一種の諦め(絶望)を「悟り」か何かと勘違いし 動物的な行動学習によって一貫して傲慢な人物ができあがるようになるのである
ところが こういう傲慢な人物というのは 先天的な本能習性には忠実なため 自分よりも傲慢に振る舞う相手に対しては むしろ媚びへつらい服従しようとする習性も兼ね備えているものである
私が学生時代に理不尽なマウントをかけてきた男に対して ブチギレて怒鳴り返した翌日には うれしそうな顔で「おはようございます」などと丁寧な挨拶をしてきやがったことがある
もう なんだろう 自己客観性とか そういうものが全く働かないんだろうな 思い出すだけで虫唾が走るわ
暴力的で威圧的な相手に服従していれば その集団組織は暴力威圧的な封建的組織にしかならず 平等も公平もスッタクレもあったものではない
その場限りに怖い相手に服従しておけば その暴力威圧的集団の内部においては有利な立場が得られるとは言えるが それは集団組織そのもののあり方には何の配慮もなく 他人を蹴落とすことで自分を有利にしようとする卑劣な行動である
精神性とか 論理客観的検証性が働かなければ 先天的な本能習性に則った動物的行動しかしなくなるのが「ヒトという種の生物」である
「自意識」というと 一般的には「他人からの見た目」を指す言葉であるが 「他人からの見た目」というのは他人の主観であって一貫性があるわけでもなく 論理的根拠も伴わない
前述のようなマウント糞野郎の主観的な「見た目」においては 暴力威圧的に怒鳴り散らしてくる相手こそが服従対象であって 怖い相手に服従しておけば「安心」なのであり 何ら「自分の意識」を意味するものではない
どのような人物から見て「恥ずかしくない」かは人それぞれであり ヤクザにとってはヤクザ価値観における「恥ずかしい」行為とは むしろカタギの価値観こそが「恥ずかしい」ことになっているからこそ ヤクザはヤクザであり続けようとするのである
倫理的な人物から見て「恥ずかしくない」行動を採りたいと思っている時点で 既に「誰から見て恥ずかしくない行動を採るべきか」を選択しているのであって
むしろ尊敬に価する相手がいなければ自ら自律的に「こうあるべき」理想に基づき行動を選択しなければならないのであって 一般に言う「自意識(他人からの見た目)」というものは「自分の意識の本質」ではないのである
学校では教師が強制的にクラス割りを生徒に強要し 生徒の主体的意見は聞き入れられることはなく 学級内部でマウントかけてイジメてくる奴がいても逃げ場というものがない
そういう学級内での立ち居振る舞い方を動物行動的に「学習」してしまうからこそ 就職してからブラック企業だと気付いても無駄な精神論を発揮してしまい
合理的に逃げることができなくなってしまうのである
私のように怒鳴り散らして逆マウントをかけてしまえば私個人はイジメの対象にはされないものの それではイジメそのものの発生原因の究明や再発防止の具体的対策にはつながらず 別の世代の被害者が出てくることを抑制できない
養老孟司は「嫌な相手とどう付き合うか」という命題に対し「無視する 意識から外す」といったその場しのぎな処世術しか論じていない
読書猿も同様で 「嫌な相手とは付き合うな」としか論じておらず 根本的解決には全くつながらない
学校教育において 教師が強制的に特定の学級に生徒を割り振り 生徒自身の選択を尊重しない現状の制度自体に問題があるのであって そこに言及しないのは権威に対する迎合であって むしろ従来の学力偏差値を基準とした「独習」などと称した「学力成績の事後正当化」ばかりを勧めており これは一種の詐欺である
主体的な目的意識に基づいて何かを勉強しようとするのは悪いことではないが 本当に純粋に行為そのものが好きでなければ他人からの評価を基準にしてしまい 最悪のケースではカルト宗教に洗脳されて盲目的に「地下鉄に毒ガス」という行動に邁進しかねない
主観的に「信じたいものだけを信じよう」としているからこそ 簡単にデマや嘘に騙され 洗脳状態に陥って非合理な行動に邁進暴走する羽目にも陥るのである
「主観的には面白いんだけど これって本当に全部信じちゃってもい井の頭公園」という自己客観性が常に必要である
他人の言っている内容と疑うことは「コストがかかる」ことは言えるが ファクトチェックなしに社会安全性を担保することは出来ないのであって 安全性にコストをかけることを面倒臭がってはならない
原発の安全性を担保するのに「コストがかかる」ことを根拠にテキトーに省いて良いわけがないだろ
バカか
Ende;