なぜ「学ばなければならない」のか
ヒトは野生動物から進化した生物であるため 先天的に生き残りサバイバルへの執着に囚われがちで
自己の生存にとって有利になることを目的に 先天的な競争本能に促され 半ば強迫観念的に何かを学んでも 純粋な知的好奇心が動機ではないため 知識の量ばかりを自慢し 利己的金儲けのための人気取り大衆迎合の競争に参加することに陥る
しかし こうした動物的本能によって促される競争というものは 純粋な知的好奇心による本質的な主体性が伴わないため 他人からの評価が思ったように得られない場合 「やる気が起きない」という怠惰も発揮するようにもなり
現状の社会においては貧富格差があるため 世間からの評価が低ければ利益には結びつくことはなく 生存にとっては不利な場合もある以上 むしろ大衆観念に則った価値観に基づき世間からの評価ばかりに執着するようにもなりがちである
世間の多数が信じて疑わぬ価値観に則って その価値観に基づいた競争に勝ち抜くことに意識を奪われていれば 世間の多数が疑わぬ実証不能の観念であっても鵜呑みにし それだけが「正義」になってしまうことになる
知能というものを「生態系のエコシステム」になぞらえている時点で それは「知能が高い者だけが生き残る弱肉強食による生存競争」という本能習性に則った本能的強迫観念の恐怖心を煽られることによって 知能というものの本当の社会的役割を忘れているのである
知能というものの「人間社会」における社会的役割とは 他人を蹴落としたり騙したりして自分だけが生き残るためのものではなく 社会の諸問題を解決し 多くの民が救われるためのものでなくてはならない
利己的な生存競争は「サル社会」の価値観であって 「人間社会」としての価値観にはならない
しかし 個人が社会にとってできることというのは大したことではない
とはいえ 微力は無力ではない
自分ができる範囲において力を尽くすことで その力を互いに持ちあうことによって大きな力として様々な社会貢献にも役立つようにもできるのである
誰が作ったのかもわからぬ基準に基づいた競争に参加しても その基準自体が間違っているかどうかに誰も気付かなければ「実証不能の観念に基づいた暴走」にしかならない
「学力偏差値が高いこと=知能」という観念は 認知科学的には根拠のない大衆観念に過ぎず 学力の高いバカ達が社会的責任を負う立場に就いているからこそ 原発が暴走し 粉飾決算や汚職が後を絶たないのである
人間性の本質とは 「個人が自律的な社会的責任判断選択を行う」ことであって これなしに人間性を論ずることは出来ない
「チンパンジーの行動習性から 人間としての社会性を立証できるかも知れない」などと言いながら 業績を捏造するために5億円もの研究費をちょろまかしている時点で 松沢哲郎本人の「人間性」が著しく欠けており チンパンジー以前に松沢本人の人間性が反証されるという結果になった
自律的な社会的責任判断選択というものは むしろ世間的には不利になることもあり 決して自己の生存にとって有利になるとは限らない
内部告発者が裏切り者扱いされ世間から疎外されることも珍しいことではない
ナチスに反対してスイス山中で自決を余儀なくされることもある
哲学における真理の探求とは 本当に大切なものは自己の生存ではなく 自己の存在を賭してでも守るべきものが何なのかを見極めることでもある
自分の遺伝子をどんなにたくさん遺しても 子供は所詮他者であり 自分とは別人であって 当の本人の存在とは関係がない
何年生き延びたかを他人と競っても意味はない
どんなに金を稼いでも死んでしまえば意味はない
「どう生きるか」と「どう死ぬか」は結局等価であって 目先の生存価に囚われてしまうのは 所詮は祖先から受け継いだ本能習性に過ぎず 個人の主体的な目的意識とは関係がない
主体的に何かを知りたいという 純粋な知的好奇心があれば 自ずから物事を知ろうとはするものである
本当に興味がある事柄であれば たった一回耳にした話であっても強烈に記憶に残るものであって 学力偏差値を目的に反復学習しなければ覚えられない上に 試験が終われば全部忘れてしまう学習では どんなに頑張っても学力学歴による世間的評価は得られても 実質的には社会的意味はない
読書猿のような話を大衆が鵜呑みにして人気を得たからといっても 所詮は金儲けのための洗脳である
養老孟司の著作も大衆観念に則った非科学的オカルト洗脳に過ぎず 大衆観念にとって都合の良い嘘の方が大衆からは人気が得やすいのは必然というものである
主観的気分というものは あくまで先天的本能習性にとって「気分が良くなる」だけのことであって 論理客観的な根拠に基づいたものではない
自分の遺伝子を自分で選択しておらず 当然その遺伝子によって作られた脳から出てくる先天的本能習性が促す気分感情というものも 所詮は自己の本質的選択にはならない
生育環境における社会や時代から刷り込み学習されたあらゆる価値観も含め 本当に自己としての存在価値とはどこにあるのかを客観的に検証すれば 社会安全性や持続可能性や公平性こそに人間としての社会性が存在し得るのである
他人を騙し 蹴落としてまで利己的利益を得る者ばかりの社会は 到底「人間社会」ではない
それは「チンパンジー社会」の価値観である
知能とは 利己的利益のためではなく 自己存在の根拠として 自己が生き続ける意味としての真実を見極めるためのものでなくてはならない
それ以外は本質的には「人間としての知能」としては機能しないからである
自分にとって本当に大切なものが何なのかを知らないからこそ 他人の大切にしているものに対しても価値を見いだせないのであって 利己的な者というのは見方によっては「憐れなヒト」であり 仏教的には「悪人であっても慈悲をもって諭すことが肝要」であって 因果応報とは説いても「罰でどうにかなる」とは書いていない
相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺を行った植松聖であっても かつては子供だったことを考えれば 今いる子供たちの中から殺人犯を生み出さないための知見として植松聖を徹底調査研究すべきであって 決して「死刑にすれば解決」という理屈は存在しないのである
ましてや世間的迫害や「私刑」などの違法行為は言語道断である チンパンジーが喚き散らしているのと何ら違いはない
臨床心理における「責任能力」などという基準も 「責任能力があるならなぜ責任を果たさないのか」については全く論じていないのである
この無責任性については誰も言及しない上に 刑事裁判の判決で懲役刑を終えた後の再犯についても司法の誰も責任を負わないのである
そして こうした現状の司法制度の欠陥について誰も言及しないこともまた無責任なのだが ヒトは多数が無責任なら自分の責任も薄まると勝手に錯覚して何も考えなくなるのである
「考えないヒト」を何と形容するかは 既に何度も述べたはずである
頭の悪さを指摘されれば気分が悪いかも知れないが カルト宗教の信者に対して「お前らの信じている教祖はポンコツだぞ」と教えられて 気分が悪いのは当たり前の話である
Ende;