2014年12月27日 和歌山県
長保寺 国宝
和歌山県海南市下津町
長保2年(1000)、一条天皇によって建立されたと伝えられる。江戸時代には紀州徳川家の菩提寺となり、将軍となった5代吉宗、13代慶福を除く歴代の藩主が静かに眠り続けています。本堂・多宝塔・大門はともに国宝に指定されており、この3点が国宝というのは全国で奈良の法隆寺と長保寺だけです。 海南観光ナビより
大門 国宝
寺蔵の棟礼写「再営由来」によって、嘉慶2年(1388)に後小松天皇の勅宣をうけ、寺僧の実然が建立したとされている。現在門の扁額は紀州徳川藩の菩提寺になってから頼宣が李梅渓に命じて模写 させたものであり、当初のものは妙法院二品親王尭仁の直筆といわれ、裏書に応永24年(1417)6月1日の刻銘があり、現在宝蔵に収納されている。 海南市ホームページより
扁額:「慶徳山長保寺」 これも国宝
この門は後小松天皇の勅願により寺僧実然が嘉慶2年(1388年)に再建したものである。・・・・・・・・・仁王尊は弘安9年(1286年)に堪慶によって刻まれたと伝えられる秀作である。
本堂 国宝
本堂は桁行五間梁間五間一重入母屋造、向拝二間本瓦葺の建物である。柱頭を細くする粽、組物の笹繰り、挙鼻などの唐様の手法をとりながら、外観の間斗束、蛙股、連子窓、扠首組の妻飾り、内部の組入天井、吹寄せの菱格子などの、和様の手法によっている。寺蔵の棟礼写「再営由来」によって、嘉慶2年(1388)に後小松天皇の勅宣をうけ、寺僧の実然が建立したとされている。現在門の扁額は紀州徳川藩の菩提寺になってから頼宣が李梅渓に命じて模写 させたものであり、当初のものは妙法院二品親王尭仁の直筆といわれ、裏書に応永24年(1417)6月1日の刻銘があり、現在宝蔵に収納されている。
多宝塔 国宝
この多宝塔は寺伝では本堂と同時に建立されたとなっているが、構造、手法などから見るとやや時代が下るようである。康永3年(1344)の弘法大師御影堂建立の勧進状に塔の名が見えることから考えて、そのころにはすでに建立されていたことが知られる。
本堂が和様唐様の折衷様式であるのに対しこの塔は純和様を採用している。一重と二重の釣合がよく均整のとれた優美な意匠を見せている。さらに著しく低い亀腹と、勾配のゆるい屋根などがよく調和して一層安定感を与えている。
この多宝塔の姿は美しい
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2015-01-13 18:52:57
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