2015年4月18日 長野県
高遠城跡 100名城
長野県伊那市高遠町
高遠城は三峰川と藤沢川に削られた断崖上の突端にあって、段丘の上から見れば平城のようであるが、他の三方から見ると川敷きから 80mの高い丘の上にある山城の姿をしているので、平山城といわれている。この地方は古くから諏訪氏の勢力圏内にあって、南北朝の頃からその支 族である高遠氏が高遠地方を支配していたが、天文年間武田信玄の侵略にあい、その旗下に属した。高遠は諏訪から伊那に入る門戸であり、駿河・遠江に進出す るためには重要な地点であるため、信玄は天文16年(1547) 家臣秋山信友・山本勘助らに命じ、この城を拡張改築させた。その規模はおおきくないが、当時の進歩した築城技術と、武田流兵法を勘案して築いたといわれ、 城としての必要条件はみな備えた名城である。上伊那各地の諸城は江戸時代になって全く廃されたが、高遠城だけは大名の居城として明治維新まで存続した郡下 唯一の城郭である。伊那市観光協会公式ホームページより
※ 妻と母の目的は高遠の桜!当方はお城巡り!花見の人出が多くじっくりと城址を見ることができず、残念。
満開だ!
グランドゲートより入城
▲ 空堀
▲ 高遠閣
▲ 桜雲橋を渡り本丸へ
▲ 新城藤原神社
▲ 本丸あたり? ▼
▲ 遠方の山は中央アルプスかな?
▲ 太鼓櫓 ▼ 時を知らせた。
▲ 白兎橋
▲ 南ゲートより退城
大手門と二の丸
この門は高遠高等学校が、この地にあった昭和五十九年(1984)まで正門として使用されていた。明治五年(1872)新政府から城郭の取り壊しを命ぜられ、城の建造物や樹木は、競売に付されすべて取り払われた。当時、城内には大手、二ノ丸、本丸、搦手の四つの櫓門(間口五~六間、奥行き二間の二層門)があったが、いずれも競売されて民家や寺院の門として払い下げられていった。この門は、そのうちの一つで大手門といわれているが、その形は切り詰められ当時の姿ではない。昭和二十九年(1954)に高遠高等学校の正門として、伊那市富県の那須退蔵氏(亡)より寄贈を受け移築されたものである。
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