2015年4月25日 栃木県
足利学校
栃木県足利市昌平町2338
足利学校の創建については様々な説があります。平安初期に小野峯が創建したという説。ですがどれが正しい説であるかは現在も解明されていません。足利学校の歴史が明らかになるのは室町時代中期です。上杉憲実が関東菅領になると学校を整備し、書籍の寄進や庠主(校長)を招き入れ、学生の養成をしました。16世紀の初頭には生徒は三千人を数え、フランシスコ・ザビエルによって海外にも紹介されました。現在の姿は落雷により消失してしまった江戸時代の姿を復元し、当時の学徒がどのようなところで勉強していたのかを、皆さんが見学できるように一般開放しております。 足利市観光協会
足利市観光協会より拝借
▲ 裏門
▲ 入徳門
▲ 学校門
▼杏檀門
▼ 大成殿
聖廟とも呼ばれ孔子を祀ってある廟です。建物の名称は「大成殿」で寛文8年(1668)足利学校第13世庠主伝英元教の時に造営されたものです。「大成殿」の様式は中国明代の古廟を模したものと伝えられています。
▲ 孔子坐像
▲ 小野 篁 像
▼ 衆寮
衆寮は、僧房又は学生寮です。学生が寄宿し、あるいは遠くから通う学生が写本をするために泊まったと思われます。桁行八間、梁間二間半、屋根は切妻造で板葺、外壁は上が土壁の漆喰仕上、下が板張です。内部は六畳の間に一間の土間がついて一部屋になり、それが四部屋続く長屋となっています。発掘調査の結果、塀の中から多数の灯明皿が出土していることから、夜の闇の中で灯明をともし、学問に励んだ様子をうかがうことができます。(宝暦年間の姿に復原) 説明版より
木小屋 (物置)
土蔵
▲ 手前 「方丈」 奥 「庫裡」
▼ 方丈
日本最古の学校といわれる。堂中の中央には孔子坐像、右には、足利学校の創立者とされる小野篁、左に徳川家康の神位を祭っている。聖廟の左に足利学校遺跡図書館があり、多数の古文書が保管されている。創立については明らかではなく、平安初期に小野篁の創立などの説がある。その歴史が明らかなのは室町中期以降で、1439(永享11)年に関東管領上杉憲実が鎌倉の禅宗五山のうち円覚寺の僧快元を初代庠主として学校を整備し、学則を定め学生を養成した。憲実以後もその子憲忠などが学校の基礎をかためた。1668(寛文8)年には幕府の力で聖廟が修築された。廃校となったのは1872(明治5)年のことである。じゃらん
▲宥坐之器(ゆうざのき)
自らの戒めとするために身近に置いてある道具のこと。「宥坐」は身近や身の回りという意味。桓公の墓にあった器は「水が入っていない空の時は傾き、水を適度に入れるとまっすぐに立ち、水が満ちるとひっくり返り全てこぼれる」という。これを見た孔子は「知を持つものは愚を自覚し、功績を持つものは謙譲の心をもち、力を持つものは恐れを忘れず、富があるものは謙遜を忘れずに正しい姿勢を保て。」と説いた故事から。四字熟語辞典オンライン
▲ 北庭園 ▼
▲ 方丈からの大成殿
▲ 南庭園
▲ 裏門
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