コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

本陣跡(飯島印刷)(深谷宿)~旧中山道を歩く(3回目)

2012-04-15 19:35:52 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>熊谷宿(駅)~神保原駅
2012年4月12日 3回目

本陣跡 (飯島印刷) (深谷宿)

本陣は、脇本陣並びに旅籠と違い、一般人は利用できず、即ち公儀の厳重な制約を受け続けました。中山道筋の貴人の通行の例としては年間、泊まり10件、休息40件程で誠に少なく、為に本陣職の大半は、 他に主たる職業を持って居ました。飯島家は宝暦二年より明治三年迄、足かけ六代に亘って、已むなく本陣職を続けざるを得ませんでした。略 平成八年5月深谷上杉顕彰会

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本陣跡(熊谷宿)~旧中山道を歩く(3回目)

2012-04-15 19:35:47 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>熊谷宿(駅)~神保原駅
2012年4月12日 3回目

本陣跡 (熊谷宿)

 

熊谷市指定文化財史跡「本陣跡」

本陣は、江戸時代初期の寛永12年(1635)諸大名に対する参勤交代制度が確立されてから、各街道の宿場町に、置かれたものである。諸大名や幕府役人・公家貴族などのための特別な旅館であり、門・玄関・上段の間を具えることができて、一般の旅館(旅籠屋)とは区別されていた。従って本陣の経営者も土地の豪家で、名字帯刀を許されるものが多かった。熊谷宿の本陣は、明治17年(1884)の火災と昭和20年(1945)の戦災で跡形もなく灰燼に帰してしまったが、嘉永2年(1849)一条忠良の娘寿明姫宿泊の折、道中奉行に差し出した本陣絵図の控えが竹井家に残っており、その絵図によって内部の模様が細々とわかる。中仙道に面し、間口14間5尺(約27M)で、奥は星川にまで至り、上手の御入門・下手の通用門・建坪・部屋数・畳数など、全国に現存する旧本陣と比べても規模・構造共に屈指のものである。 昭和59年3月 熊谷市教育委員会

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札の辻跡(熊谷市本町)~旧中山道を歩く(3回目)

2012-04-15 13:01:38 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<熊谷宿(駅)~神保原駅
2012年4月12日 3回目

札の辻跡(熊谷市本町)

札の辻は、高札の設置場所で、高札場とも言われた。高札は、掟・条目・禁令などを板に書いた掲示板で、一般大衆に法令を徹底させるため、市場・要路など人目を引く所に掲示された。熊谷宿の高札場は、宝永年間(1704~1711)に作られた「見世割図面写」により、場所・大きさなどが推定できる。場所は、本町長野喜蔵の前の道路中央にあり「町往還中程に建置申候」と記され、木柵で囲まれた屋根のある高札場が描かれているので、今の大露路と中山道の交差する付近と推定される。
高さ:一丈一尺(約3.3m)
長さ:二間四尺三寸(約5m)
横:六尺四寸(約2m)
現在、高札は本陣であった竹井家に一四枚残っている。
昭和59年3月 熊谷市教育委員会

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