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2014年9月27日 目指すは日光東照宮 4回目
間々田問屋場跡と間々田本陣跡

▲間々田問屋場跡
間々田宿は、江戸時代に、五街道の一つ、日光街道(道中)の宿駅として栄えていました。江戸日本橋から十一番目の宿駅(宿場)であり、江戸と日光の丁度中間に位置していました。天保十四年(1843)の記録によると当宿は石高九四四石 家数一七五軒 人口九四七人 旅籠五〇軒 本陣一 脇本陣一 と記されており、幕府の定めにより、常備の人足二十五人、馬二十五疋を備え、幕府の公用に応じたり、一般の輸送も引受けていました。日光社参・参勤交代など特別の場合は、近隣の農村から助郷と称して、人馬を臨時に集めました。それらの人馬継立業務の一切を取扱うのが宿役人で、問屋・年寄・帳付・馬差・人足差などと呼ばれ、その詰所に当たる場所が問屋場です。ここ間々田宿の上中町の上原家が、名主職を兼ね、代々世襲で幕末まで問屋を勤めていました。 間々田商工会 小山歴史研究会

▲ 間々田本陣跡
本陣は江戸時代に主な街道に設けられた宿泊施設で、本来は幕府公用の大名・勅使・公家・門跡(僧)上級武士の便をはかるためのものでした。大名などが宿泊休けいする時は宿場や本陣の入口に「関札」を掲げ、誰が宿泊休けいしているか知らせました。また本陣には定紋入りの提灯を掲げ、門や玄関には幕を張りました。本陣主人は名字帯刀を許され、他の宿役人と共に、大名などを宿の入口まで出迎えました。江戸時代の初めから江戸時代を通して青木家が代々、この地で本陣を維持し、明治の世となって明治天皇が休けいの一時を過ごされました。 間々田商工会 小山歴史研究界
本文 cosmophantom