ドライフラワーと言えばカントリー調のナチュラルな飾りか、アンティーク家具に似合う装飾として使われます。
けれど、枯れた花を飾る、と言うととたんにイメージ悪くなりますね。それでも懲りずに枯れたもの、落ちたもの、乾かしたもの、の数々を使いたくなってしまいます。枯れたものは、急がなくてもいい。待ってくれる。やさしい。勝手にそう思っています。
最近読んだ文章に、その、枯れた植物を飾ることについての興味深い一節があったので、記憶のためにここに抜粋しておきます。
・・・・本郷弥生町の高村光太郎のアトリエに写真を撮りにいったとき、応接間の壁の亡妻・智恵子さんの写真のそばに、枯れたつる草がピンで止めてあった。いわば仏前の献花である。やはり古い頭のぼくは、何か異様な感じがして、そのヒョロヒョロした枯れたつる草をながめていた。僕の気持ちを察してか、「この枯れた線が美しいのでね」と、光太郎はいった。「美しい」と光太郎に注釈されて、ぼくもはじめて眼があいたみたいに、その枯れたつる草を美しいと思った。咲いた赤い花だけが美しいのでないことを知った・・・・少なくとも高村光太郎に切りとられて、壁の上にピンでとめられた瞬間から、それは美しいものになった・・・・(土門拳『拳魂』p.152「形式でなく心である」世界文化社より)
このくだりは、勅使河原蒼風がいけばなにはじめて枯草を生けて華道界から非難を浴びた話題の中に挿話として語られています。
明治生まれの超一流の芸術家たちが登場する挿話と次元が違うのですが、「枯れているからだめだ、と決め付けたものでもない」程度のお墨付きをもらったような気がしてうれしく思いました。枯れ草の季節です。