奈良県明日香村を自転車で回りました。
明日香村は、奈良県中部、中央集権律令国家誕生の地として名前だけは有名です。きらびやかな建造物がないために観光スポットとしては地味な場所かもしれません。
甘樫丘の麓から日の出の明日香村を望む・・・・よくある田園風景なのですが、このあと明日香を自転車で走って感心したのは、この景観を村全体で守っていることです。近代化を防ぐことで歴史の重みをそのまま伝えようとしている努力は、明日香を訪れる観光客の心をつかむものだと思いました。屋根をはじめ、建物の色や形、材質を制限するって!!決めた自治体も、協力する住民も、本当に立派です。明日香法についてはこちら。
飛鳥時代などの表記と、明日香村のアスカ、その関係は・・・「飛ぶ鳥の明日香」として使われた枕詞が明日香の同義語として使われるようになったものだそうです。地名や時代名としては飛鳥、昭和31年の合併でできた村の名前が明日香。
伝板蓋宮跡・でんいたぶきのみやあと(大化の改新の舞台になったらしい、皇極天皇の宮殿跡。お彼岸らしい飾りつけが作られていました)
酒舟石(さかふねいし)
亀形石造物
石舞台古墳(蘇我馬子の墓と言われている、有名なこの姿。イメージよりずっと大きいものでした)
天武・持統天皇陵 (実在の人物だったのですね・・・)
高松塚古墳(壁画館に発見当初の忠実な模写が展示されていて、飛鳥時代を身近に感じることができる貴重な壁画だったことがわかります。)
こののどかな田園地帯の下に、100年余りの飛鳥時代に権力を争って豪族や皇子や天皇が戦った(つまり殺しあった)歴史の跡がまだまだ眠っていることでしょう。
明日香村の風景を眺めながら・・・香具山(ただの、何の変哲もない低い森でした)の横を通って、先ほど寄ったお墓の持統天皇が造営した藤原京跡へ
藤原京跡(何もない原っぱです・・・警察犬訓練競技会が行なわれていました)
以上明日香村サイクリングの記録でした。
鉢植えに水遣りをしていたら、頭上でポリポリと・・・・豆を食べるような音がします。小鳥かな?見上げたところには、アシナガバチの巣・・・!!スズメバチが襲って食事をしている音でした。
駆除した甲斐もなく、スズメバチはこのあたりに住んでいるらしいです。
ポールズヒマラヤンムスクのツルは、夏の暑さで葉を落としてしまったので、そこに作ったアシナガバチの巣はとても目立つ場所に無防備にぶら下がることになったわけです。気の毒でした。去年私を刺したアシナガバチは、サツキの茂みの奥に巣を作っていましたから人にもスズメバチにも見えにくかったのです。
まさに皆殺し・・・・飛鳥時代のまんが歴史本を読んでいるところなので、滅ぼしたり滅ぼされたりが妙に重なって見えました。
ここ一週間で急に朝夕涼しくなりました。一昨日は雨もたっぷり降ったので、いよいよ秋本番、よかったよかった。
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けれど、何の話題もなく過ごしている間に、雑草園のマツが枯れてしまいました。茶色くなり始めて気がついてからはあっという間に全体が茶色に。自生で、神棚の立て松用に重宝していた木です。伐ってもらうまでしばらくこの姿。
マツノザイゼンチュウが移るのではないかとご近所に心配をかけそうです。うちだってあと3本の松が残っているので気になります。けれど調べてみると、マツノザイセンチュウを運ぶカミキリムシが羽化して飛び立つのは来年の春だそうなので、それまでにしっかり処分すればここから移すことはない理屈です。
これからせっかくの秋の花の季節、多少でも咲くかもしれない多年草を見るために(なにしろ庭師さんにとって大切なのは樹木で、草花のことはあまり気にしない)11月下旬に各種剪定に来てもらうことにしました。
お月見のフラワーアレンジを習ってきました。なるほど~、季節感もたっぷり。丸いお皿ではなく、この場合は角ですよね四角。
にわか仕込みの理屈(三井秀樹タッチ)で解説すると、「幾何学的な形や黄金分割などの理論を通じて美を求めて発達してきた西洋の美意識と、移り変わる自然の中の無秩序に見える形に美を見出してきた日本の美意識と見たての文化の融合」なんですね!ツルの動きがある線がむずかしくて、アバウトな感性で適当に形にしてしまいましたが、ツルそのものの美しさに助けてもらえました。
材料・・・ピンポンマム、スプレーマム、カーネーション、ナンテン、ソリダコ、リキュウソウ
先月12日、歌人河野裕子さんが亡くなりました。長く忘れていた名前を見て、かつて読んだ歌をちらりと思い出していました。今日は、子どもの宿題の中にその名前を見て、思い出してごらんという意味かもしれない気がして、昔の本を出して読んでみました。今は高校の教科書にも載っている歌人なのですね。こういう人が詩人なんだと、数十年前に強烈に感じました。
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鬼などは来ぬやもしれぬ恍くわうと身をおしつつみ菜の花ばかり・・・
しんきらりと鬼は見たりし菜の花の間(あはひ)に蒼きにんげんの耳
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そうそう、「しんきらり」はやまだ紫が教えてくれたのでした。さび付いていた感性の端っこが少しフレッシュになりました。しかも、私が学生の頃御室仁和寺の近くに住んでいたのですって(関係ないけど、でも、縁がある気がする)。若い時こそ詩にふれるべきだわ!
詩も読んでごらんよ~いやだあ~詩はいいよ~だって、具体的なことが何もわからん、意味なしな気がする~(言葉を失う私)
せっかく習っているのに!!
今年にわかに気になりはじめた「センノウゲ」が満開と聞いて、9月1日、県北の大聖寺に出かけました。(天平10年開山、山岳仏教の聖地、真言密教の根本道場として信仰を集めていた。秀吉の時代以後の戦火で消失したものを、津山城主が1606年再建)
本坊山門正面からの写真。中央の幕の下にかすかに赤く見えるのが、本坊の庭に満開のセンノウゲ。
本坊正面の庭園で、燃えるような色で咲き誇っていたセンノウゲ。建物の北側軒下に地植えされていました。今年は例年ほど手入れが行き届かなかったとのこと。たくさんの花が上がって、花の径は4センチ、高さは1メートル足らず。奥の右上にも花壇があって、赤く色づいていました。その様子は、野にある草花とは全く違った風情でしたが、園芸植物としての性質なのか、特別に手入れをして育てているせいか、よくわかりませんでした。この花の由来と育て方についてはこちら。三倍体のために種ができないそうです。
縁側のガラスに貼ってあった説明のコピーは、『季刊 禅文化 186号』(禅文化研究所、2002年)芳澤 勝弘氏の論文「仙翁花~室町文化の余光~」第11回の部分でした。この論文によると、室町時代には七夕に花合わせという儀式が盛んで、その中心の花としてセンノウゲがたいへんもてはやされたことがわかります。大聖寺にもはるばる都からこの花が贈られたらしい記載もあります。嵯峨御所から株分けされたのは1848年。
生け花の古書「仙伝抄」に七月の花として特別にこの花が出てきたのも、同じ時代背景あってのことだと思いました。目立つ色で、大振りの花、真夏の暑さに強く花期が長いのも流行した理由だろうと想像しました。ただ、流行が去った後、すっかり表舞台から消え去っていたらしいことは不思議です。
(モンキアゲハ)
外のアジサイ園が有名ですが、わたしは庭の中のこのアジサイ(?)がとても気になりました。
アジサイ園の入り口、宮本武蔵像の後ろの大きなノリウツギ。ここならきれいなドライの姿になりそうですね。
作東インター付近の名所、トラちゃん田んぼ2010年版
センノウと名のつく花は、昔から有名だったセンノウゲ(センノウ)に似ているところからつけられたはずなので、名づけた人たちはセンノウを知っていたということ?いつから幻の花になったのかなあ・・・と考えたりしています。
ホームセンターで買ったピンクのフシグロセンノウ。(この時期我が家ではナデシコ類がクロウリハムシの攻撃に会います、涙)
「行ける距離にあってラッキーだったね」とYUKIさんと喜び合ったセンノウゲ探訪でした。