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校歌を分析

2013-10-05 22:40:22 | 秋田のいろいろ
以前、県立新屋高校や秋田和洋女子高校の校歌の作曲者として紹介した、三善 晃(みよし あきら)氏が4日に亡くなった。80歳。
新屋高校の校歌は、秋田市出身の国文学者・歌人の阿部正路氏による地域色あふれる歌詞と、三善氏が音楽を担当した「世界名作劇場 赤毛のアン」と通じる雄大なメロディで、名作だと思う。
【6日追記】三善氏の訃報は、6日付秋田魁新報社会面にも掲載された。しかし、共同通信からの配信記事そのままなのか、秋田県内の校歌を作曲していたことには触れていない。


以前の続き(とその補足)で校歌について。
※記事中の人名の敬称は略します。 ※見落としや見間違いがあるかもしれません。

各学校や教育委員会(市立図書館にもあるかも)で「学校要覧」を見せてもらえばすべての学校の校歌が分かりそうだが、そこまでするつもりはないので、ネットで分かる限りで調査。
秋田市立(毎度すみませんが雄和・河辺地区を除く)の小中学校57校の校歌を、ホームページなどで調べてみた。
その結果、49校の作者と50校の歌詞が分かった。

秋田市立の学校では、すべての学校でそれぞれのホームページ(サーバーは市管理で共通)を公開している。他の市町村では、ホームページ自体がなかったり、所在地程度の内容しかないところもあったりする中、秋田市では各学校の個性豊かな情報が分かる。
しかし、その取材や作成・更新は特定の教員に任せられているようで、学校によって内容や鮮度に大きな差が出てしまっている。特に年度初めは、前年度担当の先生が異動してしまって放置状態の学校もある。
一部の自治体ではやっているのだが、学校の所在地や沿革、そして校歌など決まりきった変化しない情報は、教育委員会事務局が各学校共通のレイアウトのページを作成して掲載してもいいのではないだろうか。日々の学校生活など、変化するページだけを現場に任せて。

ホームページへの校歌の掲載は、秋田市立、秋田県立高校などでは、歌詞は掲載している学校が多い。一部では譜面や音声もアップしている一方、歌詞さえ掲載していない学校もある。
中には、詞や譜面は掲載しているのに、その作者名を記していない学校もあった。これは作者に対して失礼であまりいいことではないのではないでしょうか。


●制定年
以前も触れたように明治時代からある学校なのに、校歌は比較的新しい学校がある。いくらなんでも最近の新設校は開校直後には作られているだろうけど。
また、中学校は制度自体が戦後にできたから、古い校歌はない。

分かった中でいちばん古いのは明徳小の1932(昭和7)年2月11日、次いで土崎小の1941年。
あとは戦後で、1949年から1966年にかけて10以上の小学校で作られている。特に1955年前後に多い。
高清水小では1958年に開校80周年を記念して校歌を作ったそうだが、それ以前には別の校歌があったという。旭北小では1966年の創立80周年で校歌を「改訂」したとしている。
他にも、この頃に創立80または90周年で校歌を作った学校が見受けられる。

考えられるのは、以前は校歌があったものの内容が時代にそぐわなく、終戦から10年経って余裕が出てきたのを機に変えたとか、新制中学校の新しい校歌に触発されて作ることにしたといったことだろうか。【7日追記】1954年には当時の周辺町村の多くが秋田市に編入合併されており、現在の秋田市の市域がほぼ確立している。この時、既に秋田市内にあった学校や周りの他町村の学校と足並みを揃えて校歌を作ったということもあるかもしれない。
【新制中学校の校歌については、末尾追記の土崎中学校のことを参照】

●何番まで?
校歌の長さというか「節」の数。何番まであるか。
いちばん長いのが4番までの日新小と豊岩小。
多いのは3番までで小学校10校、中学校11校。2番までは小学校21校、中学校6校。
※ホームページで公開されている歌詞がすべてではない(途中までで、さらに続きがある)可能性もあります。

【2015年10月19日追記】日新小と豊岩小は、どちらも中川正男作詞で、四季を描写している。
2015年10月13日付秋田魁新報「歌い継ぐ校歌42」によれば、日新小では「式典では春と夏に1番と2番、秋は1、3番、冬は1、4番と歌い分けている。」。

●常連作者
1人で複数の秋田市立学校の校歌を作った作詞者、作曲者がいる。
作詞者では、佐々木高一と大友康二が各3校、中川正男が5校(この人は日新小、豊岩小、浜田小、豊岩中、秋田西中と、いずれも西部地区の学校限定)、そして竹内瑛二郎がなんと16校!
作曲者は、小田島樹人、小野崎孝輔が2校、菊地三男、佐藤長太郎、佐藤敏雄、小野崎晋三、藤井吉次郎が3校、そして大山会三郎が5校。

【2015年10月19日追記】2015年10月13日付秋田魁新報「歌い継ぐ校歌42」より。
中川正男は「教員で歌人、郷土史家としても活躍した。日新小OBで、同小教頭や日新中校長を務めた。校歌の作詞は日新中、豊岩小、戸島小なども手掛け」た。
※日新中は秋田西中の前身。


特定の作詞者と作曲者がコンビを組んであちこちの校歌を作る場合があり、秋田市立学校でも見られる。竹内瑛二郎・佐藤長太郎、竹内瑛二郎・小田島樹人が2校、竹内瑛二郎・佐藤敏雄が3校、竹内瑛二郎・大山会三郎が5校。

ここに出てきた作者のうち、小田島樹人、小野崎晋三、小野崎孝輔については、以前紹介した。
他にも調べて素性が判明した方々を紹介しておく。いずれも学校の先生だったようだ。
大山会三郎:1960年頃に県立秋田北高校の教諭。1967年に秋田市在住。
菊地三男:1960年頃に市立外旭川小学校の校長。(作曲したのは広面、下新城、上新城の各小学校)
竹内瑛二郎:1904年頃生まれ。秋田市教育委員、秋田南中学校長、明徳小学校長。漢字、かなづかい、送りがなの普及に尽力。1968年秋田市文化章受章。秋田魁新報の詩壇選者。
大友康二:1930年頃、(現在の秋田市)下浜羽川出身。秋田高校、秋田大学学芸学部卒(専門は体育?)。秋大附属小学校教諭、県教育庁保健体育課長、県生涯学習センター長、県立秋田西高校長を歴任。2001年県文化功労者。県内14学校の校歌を作詞。週刊アキタに随想を連載。(2012年8月29日魁より)
ずっと前に紹介したように「AKT少年の船」の立ち上げスタッフであり、AKT少年の船の歌の作詞者でもある。
【2014年4月12日追記】2014年4月12日付秋田魁新報県央地域面で、由利本荘市の道川、亀田、松ケ崎の各小学校が統合して開校した岩城小学校の校歌が報道されていた。「作詞は元秋田西高校長で県文化功労者の大友康二さん(83)=秋田市下浜羽川、作曲は元新屋高校長で県吹奏楽連盟会長の高野豊昭さん(66)=由利本荘市石脇」「大友さんは県内各地の小中学校の校歌の作詞を手掛けており、今回で16校目。高野さんはこれまで中学、高校合わせて3校の校歌を作曲しているが、小学校は初めて。」「大友さんは「自分が作詞した最後の校歌になるかもしれない(略)」と語った。」
次項の通り、大友作品では“サブタイトル”が付くのが特徴。岩城小の校歌は「希望のかなた」というサブタイトルなのが、記事中にある体育館に掲出された歌詞の写真から分かるが、記事本文中では触れていない。
【2015年3月18日追記】2015年3月17日付秋田魁新報の連載「歌い継ぐ校歌・大曲工高」で、同校の校歌を作詞した竹内瑛二郎、作曲した小野崎晋三に、大山会三郎を加えた3氏について触れられていた。
「県内で多くの校歌を作っている」3氏を指して「校歌3人組」と呼ばれているという(誰に??)。
竹内氏は「詩人で元秋田市教育委員長」、小野崎氏は「元秋田大教授」、大山氏は「元高校教諭」としている

●サブタイトル付き
「○○○学校校歌」だけでなく、副題が付いている校歌がある。
秋田南中の「みちのくの子ら眉高く」は、同校の校訓的なフレーズにもなっている。
他には、飯島南小の「夢 美しく」、寺内小の「みんなは太陽」、泉中の「君よ 輝け」。南中以外の3校は、いずれも大友康二作詞。大友作品の校歌にはサブタイトルが付くのが定番らしく、秋田市立以外でも、県立栗田養護学校「いのちあかるく」、潟上市立天王南中(補作を担当)「ただこの時に」といった具合。

歌詞の中身に注目。
●校名
学校名が歌詞に出てこない校歌がたまにある一方、早稲田大学のような校名を連呼する校歌もある。
秋田市では10校で校名が歌われていない。残り40校は校名(もしくは校名を示唆する言葉)が出てくる。
40校中、1節(番)内に2回以上校名が出てくる「連呼」タイプは、6校。

●山、川
2月17日にテレビ朝日系で放送された「題名のない音楽会(2302回)」は、「みんなで歌おう!ユニーク校歌大集合」。
番組によく出演する作曲家の青島広志(僕には1986年からNHK教育テレビで放送された小学校4年生向け音楽番組「ゆかいなコンサート」の印象が強い)は、全国各地の校歌の作曲も作詞も手がけているという。
「青島流 校歌作詞・作曲の極意」があるそうで、作詞に関しては「名所、旧跡、名物などを歌詞に入れる」こと。「富士山がほんのちょっとでも見える場合は(歌詞に)入れる」「川が暗渠になっていたとしても入れる」そうだ。
たまに全然地名が入らない校歌があるが、個人的にはそれでは寂しいと思っていたので、大いに賛同した。特に、通学地域(=子どもが暮らす地域)が限られた範囲内である公立の義務教育学校では、そこにある風景は地域の財産だろうし、アイデンティティを呼び起こすものだから。

秋田市立学校の校歌には、どんなものが歌い込まれているだろうか。
まずは、山。秋田市内の多くの場所から見える「太平山」、あとは「鳥海山」か。
太平山(もしくは太平)は50校中、実に30校に登場。
鳥海山(もしくは鳥海)は8校で、うち6校は太平山と鳥海山の両方が歌われる。

次に川。
遠くからでも見える山と違い、川はその学区周辺を流れていないと歌われない傾向にあった。
大河・雄物川は、12校に登場。「雄物」と歌われるものが多い(10校)。
旭川は意外に少なく、旭川小(もちろん地名としてではなく)と秋田東中だけ。太平川は4校。
あとは新城川(上新城小)や宝川(下北手小)が見られる。

他には「海」「大森山」「手形山」「千秋(公園など)」が散見される。
総社の森(川尻小)、高梨台(旭川小)、三吉さま(太平山三吉神社のこと。広面小)、この丘(高清水小)など、さらにその地域ならではのものも出てくる。

山王中の「八橋の丘」や保戸野小の「地の果てを遠く望んで」など、現状ではイメージが湧かないものもある。
「八橋の丘」は、現在の八橋運動公園一帯にあった丘陵を指しているそうで、運動公園西側にその名残がある。
「地の果て」は、かつては保戸野から西方向は一面田んぼが広がっていたことを歌っているのだろう。

男鹿市の寒風山について

●地域色
地名以外にも、その地域がイメージされるフレーズがある。
「船の煙」「かもめとぶ」(土崎中【末尾追記参照】)、「海荒び砂はふぶけど里守る松」(飯島中)、「風かおる道行く牛」(太平中)など。他には、田んぼの広大さや実りの描写が多数。
【2014年6月2日追記】初回アップ時は不明だったので集計対象外とした太平小学校の校歌(鎌田巳千雄 作詞、小野崎晋三 作曲)でも、「あぜの仔牛と ほほえみ交わし」とウシが登場。

旭北小では「西に南にはるばると 日にましのびる大秋田 絵巻のようなよいながめ」。
秋田市の真ん中の学校らしく、街が拡大する期待感にあふれた歌詞だけど、今となっては…

秋田東中は「清しさ霧の中わけて 野より街よりにこやかに 語る足並み軽々と」。
秋田東中の学区は、秋田駅のすぐ北側の千秋地区から(【7日補足】そればかりか、秋田駅の所在地など中通地区の一部も)、太平山のふもとの仁別地区(開校から1975年までは藤倉分校→藤倉中学校があったそうだが)まで広範囲に及ぶ。まさに「野より街より」生徒が集うわけで、的確できれいな描写だと思った。


校歌も各学校や地域の個性の1つであり、通った人の思い出に残るもの。子どもが減ったり学校が統廃合されたりしても、いつまでも残してほしいものである。

※秋田市立御野場中学校の校歌についてはこちら

【2015年2月2日追記】秋田県立聾学校は、2010年に土崎港北から上北手(南ヶ丘)へ移転している(関連記事)。
その校歌は、1968年制定(井田道爾 作詞、露木次男 作曲)で1番に「空もゆたかな将軍野」という歌詞がある。(土崎時代の所在地は、すぐ隣が将軍野)移転後も、そのまま歌われている。

【2022年6月28日追記・土崎中学校の校歌の作成の経緯と作者について】
土崎中校歌は作詞 工藤共子、作曲 工藤雄一。
「日本ラジオ歌謡研究会長」(聖霊高等学校教員でもあった)で1940年生まれ、秋田市の工藤雄一氏という人が、秋田魁新報の連載「シリーズ時代を語る」で取り上げられた。その第9回、2022年6月28日付で、同氏が土崎中学校の校歌を作詞したことに触れている。
県立秋田高等学校の3年生だった1957年、同氏の母校でもある土崎中で校歌の曲を募集していることを、新聞記事で知り応募。
「歌詞は既に生徒の一人が作っていました。」「(同年は新制中学校の多くが)10周年記念で校歌を作った学校は多いはずです。」
学校の公式サイトには、歌詞と作者は掲載されているが、作成経緯は出ていない。
コメント (6)
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