慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

仏教の発展と変容(2)

2018年06月08日 | 宗教
ガンダーラを中心に東西文化が融合し仏教美術が興隆した

はじめての仏像の顔は西洋人?
 ☆アレクサンドロス大王の東征の地ガンダーラ
 (ギリシア文明の影響と職人が残っていた)
 ☆ガンダーラで発展した仏教美術は、ギリシア彫刻などの影響を色濃く受けた
 ☆仏像の顔立ちや体格などは西欧風の美男になっている
 ☆モデルは、釈迦の姿をした仏陀像、釈迦の生涯を描いたレリーフが中心
ガンダーラは東西の交通の要衝で、その影響は中国に及ぶ
 ☆この地で発展した仏教とその仏教美術は、周辺地域も含んで長く維持された
 ☆アジャンターの石窟、バーミヤンの大仏などを生み出した
 ☆仏教美術は、歴史上最もグローバルな王朝だった中国の唐で最盛期を迎える
 (オアシス都市・敦煌にも花開く)
 ☆敦煌近郊の砂漠から発見された莫高窟には西域の仏教美術が見られる
 (唐代の貴人・武人の姿をしている)
 ☆日本の仏像にも、シルクロードを通ってきた唐の様式が色濃く反映されています
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『手にとるように宗教がわかる本』




ガンダーラを中心に東西文化が融合し仏教美術が興隆した
(『手にとるように宗教がわかる本』記事より画像引用)


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ご存知ですか?『スメハラ』WORDの意味

2018年06月08日 | 医療
スメハラ対策に制汗剤、消臭剤など製品充実

 ☆臭いケアで「スメハラ」を防げ
 (制汗剤、部屋の消臭など製品充実で市場も活気 )
 ☆小林製薬が男性向け芳香・消臭剤として販売する「オトコの消臭元」
 (身体の臭いを抑える制汗剤やシャンプー、ボディーソープ)(部屋の臭いをケアする商品)
 ☆体臭や口臭で周囲の人に不快な思いをさせる「スメルハラスメント(スメハラ)」の言葉が浸透
 ☆セクハラやパワハラと同様に、スメハラ対策に乗り出す企業も増加
 ☆各メーカーは臭いケア用品の売り込みに力を入れる考え

「オトコの5大悪臭」
 ☆「汗」「皮脂」「タバコ」「加齢臭」「靴下」
 (男性が女性に比べて特に臭うという事はない)
 (汗を拭かない、汚れた衣類をそのままにしてしまうなどの習慣が臭いを発生させている)
 ☆男性向けの芳香・消臭剤を購入するのは本人ではなく、周りにいる人が購入するケースが多い
 ☆足の臭いもとは「イソ吉草酸」は、花の香りで打ち消すのが難しい
各メーカの商品投入が相次ぎ、市場も拡大傾向
 ☆マンダムの男性向けデオドラント(体臭抑制)剤の規模は25年の約1.2倍
 (スプレー式より効果の長続きが期待される「直塗り」タイプが人気)
 ☆ロート製薬の男性の加齢臭や体臭、汗臭などの臭い対策ブランド「デ・オウ」
 (ボディーソープやシャンプー、洗顔料など19品目発売中)
 (ブランド全体の29年度の売り上げは25年度の約1.5倍)
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『産経新聞』




オトコが放つ「5大悪臭」撃退せよ(『産経新聞』記事より画像引用)
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バーチャル旅行(会津若松歴史)

2018年06月08日 | 観光
会津若松の歴史

会津戊辰戦争
 ☆ペリー率いる黒船の来航をきっかけに徳川幕府と薩摩藩、長州藩が対立
 ☆会津藩主の松平容保は、幕府から京都守護職を命ぜられ、不穏な京都の治安を任されていた
 ☆幕府軍は、鳥羽伏見の戦いで敗走し江戸の無血開城
 ☆西軍(薩長軍)の標的は、会津に向けられた
 ☆西軍は、会津軍が降伏するまで会津各地で戦いをした
 ☆この戦いをこの年の干支にちなんで戊辰戦争という
白虎隊の悲劇
 ☆白虎隊は幕末期、会津藩の軍制で会津藩士子弟で編成された組織
 ☆藩主松平容保の近衛兵として滝沢本陣に出陣した
 ☆白虎士中二番隊42名は、西軍の猛攻に敗走し20名が飯盛山にたどり着いた
 ☆目にしたのは砲煙に包まれた城下でした
 ☆少年たちは城が陥落したものと思い「主君に殉じよう」と全員が自らの命を絶った
 ☆ひとり生き残った飯沼貞吉によって白虎隊の物語が後世に伝えらた
新選組と会津藩
 ☆新選組は、会津藩主松平容保が京都守護職時代に、配下となって京都の治安にあたった組織
 ☆池田屋事件の指示は、会津藩の公用人から出ていた
 ☆鳥羽伏見の戦いの後、局長の近藤勇は捕らえられて斬首
 ☆副長の土方歳三は、宇都宮の戦いで負傷した後会津に入り
 ☆会津の近藤勇の墓は、東山温泉で湯治をしていた土方が建立した
 ☆新選組は西軍と会津で戦い、神指町如来堂には「新選組殉難碑」が建っている
会津を治めた武将
 ☆葦名氏が、中世の時代会津を治めていたが、伊達政宗によって滅ぼされた
 ☆会津の領主となった政宗は、豊臣秀吉に疎まれてわずか1年余りで会津を去る
 ☆秀吉は文武両道に秀でたエリート蒲生氏郷を会津に配し92万石の石高を与えた
 ☆氏郷は七層の天守閣を築くとともに産業を興し、城下町を整備しました
 ☆秀吉が次に指名したのが、徳川家康のライバル上杉景勝
 ☆関ヶ原の戦いの後、加藤時代を経て会津を支配した3代将軍家光の異母弟の保科正之
 ☆会津松平藩は、4代将軍家綱の後見人として幕政に参画し数々の業績を残した
什(じゅう)の掟
 ☆「什の掟」に記される「ならぬことはならぬものです」といった精神的支柱
 ☆理屈ではなく「ダメなものはダメ」、という教えに基づく厳しい考え方です
 ☆会津藩では、次代を担う青少年の教育にことのほか熱心
 ☆学問好きの藩祖保科正之の影響が大きかったのでしょう
 ☆5代藩主松平容頌により、藩校日新館ができました
 ☆「什の掟」は日新館入学前の藩士の子弟が遊びの前に話し合う自治的な定めです
 ☆鶴ヶ城の西の藩校跡地に当時の天文台跡が残っています
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『会津若松観光ナビ』





会津若松の歴史(ネットより画像引用)


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