🌸「権門体制論」と「東国国家論」3
☆「日本の中世にひとつの国家があった」と考えるのは難しい
⛳将軍は天皇に任命するのは「建前」に過ぎない
☆中世は天皇が将軍を任命するという行為が行われていた
⛳将軍は天皇に任命するのは「建前」に過ぎない
☆中世は天皇が将軍を任命するという行為が行われていた
*「天皇が将軍を任命する」のは、あくまで建前だ
☆幕府は「承久の乱」幕府は後鳥羽上皇に加担した理由で
*仲恭天皇を、無理やり皇位から引きずり降ろした
*仲恭天皇は、明治時代まで正式な天皇としては数えられていない
☆仲恭天皇の存在を通じて分かるのは
*「中世の幕府は、軍事力で天皇を否定することができた」
⛳幕府によって即位を阻止された忠成王
☆朝廷は皇位継承も幕府にお伺いを立てていた
⛳幕府によって即位を阻止された忠成王
☆朝廷は皇位継承も幕府にお伺いを立てていた
☆朝廷は、承久の乱以降、次の天皇を必ず幕府に確認するようになった
*鎌倉幕府は、朝廷のお計らいの通りにと答えていた
*鎌倉幕府は、朝廷のお計らいの通りにと答えていた
☆例外もある
*四条天皇の跡継ぎ、後鳥羽上皇の孫1人である忠成王という人物
*四条天皇の跡継ぎ、後鳥羽上皇の孫1人である忠成王という人物
*幕府は「後鳥羽上皇の嫡流の皇位への復活は許さん」と反発する
*結果、同じ後鳥羽上皇の孫ながら嫡流ではない邦仁王
*結果、同じ後鳥羽上皇の孫ながら嫡流ではない邦仁王
*後嵯峨天皇として皇位を継いだ
☆建前上は、天皇は将軍を任命するように見える
*実際は、次の将軍を天皇が決めることはできない
☆本質をみれば、権門体制論に矛盾がある
⛳「武士の政権」が、西ではなく東に誕生した理由
☆本質をみれば、権門体制論に矛盾がある
⛳「武士の政権」が、西ではなく東に誕生した理由
☆「日本の歴史は西高東低である」
*中世の東国はいろいろな面で遅れを取る辺境の地
*西のほうが、経済や文化などさまざまな面で進んでいた
*西のほうが、経済や文化などさまざまな面で進んでいた
☆西は、文化度も高くて栄えており、東は遅れた田舎であった
☆田舎である東国の鎌倉に幕府が誕生した理由
☆田舎である東国の鎌倉に幕府が誕生した理由
*京都に拠点を持った平清盛は武士による政権作りに失敗した
(朝廷は強靭で、政権は瓦解した)
(朝廷は強靭で、政権は瓦解した)
*平家の失敗の原因を知っていた源頼朝
*同じ過ちを繰り返さぬために、東国鎌倉に政権を作る
☆鎌倉の利点は、京都の影響をダイレクトに受けない
*田舎の関東は、朝廷から目を付けられずに、源氏政権を運営できた
☆鎌倉幕府の成立
*西の朝廷から敵と認定されなかった証拠
*幕府は朝廷から干渉を受けていない、独立した別の政権
⛳中世の日本は、「1つの国」ではなかった
⛳中世の日本は、「1つの国」ではなかった
☆日本を一つにしたのは、豊臣秀吉の全国統一以降
*日本がどこの地域でも同じように生活する状況が生まれた
☆全国統一以前は、税金の額や単位すらも土地によつて違っていた
*税金さえ統一されていない
☆「中世にひとつの国家があった」と考えるのは難しい
*関東にある鎌倉幕府は京都の朝廷とは違う
☆「中世にひとつの国家があった」と考えるのは難しい
*関東にある鎌倉幕府は京都の朝廷とは違う
*平泉の奥州藤原政権も全く違う権力体です
☆当時の日本には三つの国があったと言っても過言ではない
*権門体制論は、成立しない
(敬称略)
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⛳出典、『日本史の論点』



「権門体制論」と「東国国家論」3
(ネットより画像引用)