🌸鎌倉殿の13人衆NHKドラマ(北条義時)
☆北条 義時 (小四郎)小栗 旬が演じる
*田舎の平凡な武家の次男坊だった
*姉・政子が源頼朝の妻となり状況が一変
*頼朝の右腕として、義時は坂東武者たちの間を奔走する
☆当主源氏将軍が断絶し、得宗の義時が鎌倉幕府の指導者となった
☆得宗家とは
*幕府の初代執権の北条時政が初代
*2代義時からその嫡流9代を数える
(泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時)
☆幕府と朝廷の対立が激化する(承久の変)
*後鳥羽上皇より義時追討の宣旨が全国に発布し、義時朝敵となる
*幕府軍は京都に攻め上り朝廷を制圧
*義時は、後鳥羽を含む3人の上皇を配流
*義時は、践祚していた後鳥羽の孫の懐成親王を廃した
⛳北条義時(誕生から青年期)
☆北条時政の次男として生まれ、江間小四郎と称した
☆義時が15歳の頃に、姉の政子が源頼朝の妻となる
☆義時は父・時政、兄・宗時と共に頼朝の挙兵に従う
*石橋山の戦いで大庭景親に敗北して兄・宗時が戦死する
*敗北後も、時政・義時親子は頼朝のもとに戻る
*義時も時政や他の御家人と共に列した
☆義時は頼朝の寝所を警護する11名のうちに選ばれた
☆頼朝は愛妾・亀の前を伏見広綱の宅に置いて寵愛していた
*事情を知った政子は激怒し、宗親に命じて広綱宅を破壊する
(宗親は、時政は舅)
*怒った頼朝は宗親を呼び宗親の髻を切って辱めた
*時政は舅への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた
*義時は父に従わず鎌倉に残り、頼朝から称賛された
☆義時は、頼朝存命中はそれほど表立つことはなかった
☆義時は、頼朝死後に鎌倉幕府内の権力闘争が激化し頭角を現わす
⛳政権簒奪闘争(父時政が実権握る)
☆頼朝の死後、跡を継いだ2代将軍・源頼家
*頼家の独裁を押さえるため13人の合議制となった
☆頼家が病に倒れると、時政は頼家の乳母父を謀殺す
*時政は、軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼした
(比企氏鎌倉幕府の有力な御家人)
*時政は、頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺へ追放する
☆時政は頼家の弟の実朝を3代将軍に擁立
*時政は、大江広元と並んで政所別当に就任して実権を握った
*頼家は義時の送った手勢により暗殺された
⛳北条氏が有力御家人排除(時政・義時親子協同で)
☆時政は畠山重忠を謀反の罪で滅ぼした
☆時政と牧の方は、実朝を廃して女婿の朝雅を将軍に擁立しようと画策
☆義時は姉・政子と協力有力御家人・三浦義村の協力を得て
*時政と牧の方を出家の上で伊豆国に追放した
*義時は、平賀朝雅を京で誅殺した
☆義時は父に代わって政所別当の地位に就いた
*義時は北条執権体制の障害となる有力御家人抑圧策を進めていく
*諸国守護人定期交替制にしようとした
*千葉・三浦・小山など豪族御家人達の激しい反発を招き断念する
☆この頃から義時の地位は執権と呼ばれるようになる
⛳実朝暗殺事件の波及
☆将軍・実朝が頼家の子公暁によって暗殺され、源氏の正統が断絶した
☆子のない実朝の後継者
*後鳥羽上皇の親王を将軍として東下させる事が検討された
*政子が上洛して卿二位と話が進められていた
☆源氏の正統が絶えた事による幕府内での動揺は大きい
*実朝暗殺後、幕府は新たな将軍として親王の鎌倉下向を朝廷に要請
*後鳥羽上皇はこれを拒否
☆後鳥羽上皇は、皇族将軍東下問題と絡ませて
*上皇の寵姫である亀菊の所領の地頭廃止を要求
☆幕府方は上皇の要求拒否し、義時の弟を上京させて交渉に当たらせた
*両者の態度は強硬で交渉は不調に終わる
☆幕府はやむなく皇族将軍をあきらめた
*頼朝の遠い縁戚である摂関家の藤原頼経を4代将軍で迎え入れた
*頼経は当時生後1年余の幼児
*征夷大将軍に任じられる状況にはなかった
☆政子が尼将軍として、頼経の後見とし鎌倉殿の地位を代行
*義時がこれを補佐して実務面を補う
*実権を握る執権政治が確立した
☆実朝死後の半年将軍後継者問題で
*後鳥羽院政と鎌倉幕府の対立が先鋭化する
*義時は、義兄の伊賀光季を京都守護として派遣
*娘婿・大江親広も京都守護として上洛させた
⛳後鳥羽上皇の戦い準備(軍備を拡張)
☆院政内の親鎌倉派を粛清して伊賀光季を殺害
☆倒幕の兵を挙げ、義時追討の宣旨が全国に発布された
*諸国の守護人・地頭に、上皇の元に馳せ参じるよう命が出された
☆京都朝廷・天皇の権威は未だ大きく、幕府にとり容易ならぬ事態
*義時は生涯最大の難局に直面する
☆幕府では朝敵となる事に動揺する御家人たちに対し
*尼将軍政子が頼朝以来の恩顧を訴える声明を出し団結させた
☆幕府首脳による軍議では慎重論も出る中
*大江広元の「防御では東国御家人の動揺を招く」との助言で
*鎌倉幕府、京への出撃が決定した
⛳承久の乱の顛末
☆義時は嫡男・泰時を総大将として東海道から京都へ向けて軍勢を送る
☆次男・朝時、弟・時房を大将軍として
*北陸・東山の三道から京へ上らせた
☆幕府首脳部の積極作戦で、東国武士たちが続々と動員令に応じた
*総勢19万の大軍となって都へ攻め上った
☆幕府軍は木曽川、宇治川の京都防衛線を突破し京都を制圧した
☆義時追討の宣旨発布からわずか1か月後の幕府軍の完勝
☆敗北した後鳥羽上皇は倒幕計画は自分の考えではない
*近臣が勝手に起こしたものであると弁明した
☆幕府は乱の首謀者後鳥羽上皇以下に対して極めて厳しい態度を取る
*後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島に配流された
*土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された
*後鳥羽上皇の皇子の雅成、頼仁親王、但馬国、備前国へ配流
*懐成親王は廃されて新たに後堀河天皇が立てられた
☆親幕府派の公家・西園寺公経らを中心で朝廷の再編成が行われた
*上皇側に与した武士の処分は最も厳しく大半が斬罪された
*貴族も処刑・流罪・解官となった
☆後鳥羽上皇の莫大な荘園は没収され、支配権は幕府が握った
☆公家政権の監視にあたる出先機関として六波羅探題が設置された
☆京方の貴族・武士たちの所領3万か所
*幕府に没収され、東国武士たちが恩賞として地頭に任命された
☆京方についた旧将軍独裁時代の勢力は一掃された
☆執権義時の幕府内での最高権力者たる地位が確定した
*義時の主導する鎌倉政権が公家政権に対して支配的地位を持った
*朝幕関係を完全に逆転させる事に成功した
☆新たに展開された執権政治
*全国的政権としての新たな段階に進む事になる
⛳義時の承久の変の苦悩と恐怖(徳川慶喜と同様な心境)
☆幕府軍が鎌倉を発った直後義時の邸に雷が落ちた
*下働きの男が一人死亡した
☆義時は大江広元に「幕府の運命もこれまでび前兆?」と尋ねた
*広元は君臣の運命は天地が定めるもので何も恐れる事はない
*幕府にとり落雷は吉兆であると返答して狼狽する義時を宥めた
☆義時が神の末裔である皇族に弓矢を引くことに恐怖を感じていた
☆天皇を絶対的な権威とする当時の『常識』を義時もまた持っていた
⛳義時の最期
☆義時は、在京中の泰時に譲った邸宅に住んでいた
☆義時は自身の健康長寿などを願って泰山府君祭を開始した
*三寅の手習始の儀が行われて義時は中心的な役割を果たしていた
☆義時は62歳で急死した
*義時の別称は得宗と呼ばれ、北条氏の嫡流の呼び名となった
*義時の墓は臨済宗建長寺派の北條寺境内にある
*泰時が建てたもの
(敬称略)
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⛳出典、『WIKIPEDIA』他






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