慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

アイスマンの衝撃(5000年前の人間世界)2

2022年01月30日 | 宗教
🌸アイスマンの衝撃(5000年前の人間世界)2

5000年前の人間―アイスマンの衝撃
 ☆アルプス山岳地帯で凍結した遺体が発見された
 ☆5000年以上も前の人間の遺体とわかり騒然となった
 *身長約158cm、体重50kg、年齢45歳前後の男性
 *胃の内容物の検査からは、意外なほど豊かな食生活が証明された
 *三枚重ねの衣服、熊皮の底の靴、所持品と思われる石剣と銅製の斧
 *火打石などからは、当時の生活文化を支えた技術が検証されてきた

アイスマンは、農耕牧畜社会の一員と推定されている
 ☆アイスマンの全身に61個の入れ墨がある
 *その場所が東洋医学でいう「ツボ」に重なる
 *痛みを和らげる一定の医療行為があったと思われる
 ☆アイスマン野生の原始人というよりも
 *現代人に近い生活者のイメージが浮かんでくる
 *死因の特定され、弓矢で討られたことがわかった
 *頭蓋骨にも攻撃で受けた陥没がある
 *何らかの攻撃によつて死んだのであろう
 ☆アイスマンのゲノム解析も進む
 *オーストリアのチロル地方の3700人のDNAを分析した結果、
 *19人の男性の子孫がいることが判明した
 ☆生命科学の進化が、歴史学を突き動かしつつある
 *その前兆がアイスマンの解明ともいえる

5000年前の世界への想像力
 ☆アイスマンが生きた5000年前の時代
 *世界最古の文字生んだ、シュメル都市文明がメソポタミアに動き始めた
 *地中海の対岸のエジプトに統一国家が形成された
 *欧州においては、ホモサピエンスの定住革命(農耕・牧畜の定着)
 *地中海地域にエーゲ文明が始まった
 *アジアの中国では、幻の王朝とされる「夏」が約4000年前
 (黄河文明が興隆する以前の中期新石器時代)
 *日本は、縄文時代は約1.2万年前に始まつたとされるが
 (5000年前関東・東北に住居の集落が形成されていた)
 ☆地球上の各所で、人類は知を凝縮させながら
 *それぞれの環境条件の中で必死に生きていた
                       (敬称略)                                     
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『人間と宗教』







アイスマンの衝撃(5000年前の人間世界)2
(ネットより画像引用)
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震災10年の「地震研究ムラ」(2)

2022年01月30日 | 日本の聖域
🌸震災10年の「地震研究ムラ」(2)

s-net観測網不具合の「隠蔽疑惑」
 ☆観測網不具合「馴れ合い」との批判が出ている
 *完全に水圧を計測できない地点があるので
 *その系統全体が、当初の設計のパフオーマンスを発揮できない
 *大系統全体での設計理念も崩壊しかねない
 ☆観測装置の入札などでNECに配慮した格好だ
 *血税をムダ使い、防災科研や文科省の責任も問われるべきだ
 ☆s-netでは、同一系統の観測データ
 *違う値が出るという不具合を隠薇している疑いもある
 *地上と繋がるニカ所の陸上局で、異なる数値がでる
 *どちらが正しいのかも判断できない
 ☆「防災科研などでは緘口令が敷かれている」という

地震研究者の専門家は、s-net設置場所を批判する
 ☆東日本大震災クラスの津波
 *この先すぐに東北地方を襲うとは考えづらい
 *危険が差し迫っているのは南海トラフ地震である
 ☆s-netは東北の大平洋沖、日本海溝周辺に整備された
 *南海トラフもケーブル式の津波観測網は整備されている
 *東北地方に整備されたs-netと比較して規模は小さい
 ☆南海トラフ地震
 *多くの市町村で地震発生から10分以内に巨大津波が襲うとみられる
 *中には3分程度で到達する場所がある
 ☆東日本大震災の予算だから東北沖に整備するというのは感情論だが
 *『新たな観測ができれば満足』という研究者側にも問題がある
 ☆s-net観測データが使われる緊急地震速報も問題は多い
 *信じられない誤報が発生して社会を混乱させた
 *気象庁から緊急地震速報が出て、列車が緊急停止した
 ☆「誤報」の原因
 *八丈島のはるか沖の中規模地震
 *房総半島沖で発生した大地震と認識するようなシステム
 *ポンコッ以外の何物でもない
 ☆10年以上前から運用が始まったs-net
 *いまだにこのレベルにとどまっているのは情けない
 *しかも気象庁は責任をとらない

貴重なデータが失われる危機(Hⅰ―net)
 ☆地震研究ムラは既存システムの老朽化について手をこまねいている
 *防災科研が運用する「高感度地震観測網(Hⅰ―net)」システム
 *阪神・淡路大震災を受けて整備されたものだ
 *地上の振動の影響を受けないように地下に丼戸を掘って
 *地震計を設置したもの
 ☆計画開始から20年以上が経過
 *各地の地震計が壊れ始めているが、放置されているところがある
 *ホームページを確認すると全国で十三カ所がメンテナンス中
 *百メートルから三千メートルの深い井戸の底にある機器
 *更新は難しく不具合の放置が長期化している
 ☆Hⅰ―net世界的にも類を見ない大規模地下地震観測網
 *得られたデータは極めて有用
 *このままでは将来、Hⅰ―netのデータ
 *使い物にならなくなる可能性も高い
 *地震国として大変な損失だ
 ☆地震計の更新予算などに財務省が難色を示すのが原因とみられる
 *既存システムを継続する重要性について、見つめ直すべきだ
 *地震国家の研究のあり方を再検討すべきだ
                       (敬称略)                                     
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⛳出典、『日本の聖域』










震災10年の「地震研究ムラ」(2)
(ネットより画像引用)                                                                                                                         
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島津義弘(島津家を継続させた武将)

2022年01月30日 | 歴史上の人物
🌸島津義弘(島津家を継続させた武将)

 ☆薩摩・大隅・日向を平定した名武将
 ☆朝鮮出兵や家中争いなど苦難続き
 ☆島津義弘の「やむなく西軍へ」は作り話(当初から反家康=西軍)
 ☆島津兵の勇猛さで家康に島津本領の安堵を決定させた

朝鮮出兵では日本一の大遅陣
 ☆大友宗麟の援軍要請を受けた豊臣秀吉
 *20万を超える大軍を擁して九州に進んだ
 *島津義弘戦うことをせず、積極的に降伏の手はずを整えた
 *義弘は豊臣政権の強大さを見せつけられており秀吉の命令を受けた
 ☆島津義弘の朝鮮出兵
 *国元に中央の動向への対応を懇願しても、義久は応じてくれない
 *義弘は間に立って板挟みになった
 *義弘は、御家のおんためと前線基地の名護屋に乗り込んだ
 *島津勢はやって来ず日本一の大遅陣となってしまった
 *自他の面目を失い、無念千万であると書状をしたためている
 ☆島津は、秀吉の命には逆らえず
 *島津勢は一万人ほどで朝鮮半島に上陸し戦果を挙げている


「やむなく西軍へ」は作り話
 ☆島津領での伊集院氏による庄内の乱
 *島津家の筆頭家老を務めた伊集院忠棟
 *軍事にも政治にも卓越した能力を示していた
 *早くから豊臣政権への従属を説いていた
 ☆伊集院は、秀吉の島津攻めに際して
 *戦場にあって戦うことせず、積極的に降伏の手はずを整えた
 *伊集院の行動が島津家の存続に繋がつた
 ☆伊集院忠棟を取り立てた秀吉が死亡する
 *伊集院氏と島津本家との対立は表面化した
 *義弘の子で義久の養子忠恒は、忠棟を殺害した
 ☆伊集院側は強く反発、家督を継いだ忠真は反乱を起こした
 *島津家は鎮圧の兵を向けるが、伊集院の兵は精強で戦いは長引く
 ☆関ヶ原の戦いに際して、島津家は十分な兵を手配出来なかった
 *義弘は家康からの援軍要請に応え
 *1千の軍勢を率いて家康の拠点に馳せ参じたが入城を拒否された
 *西軍総勢4万人の中で孤立した言われている義弘
 *義久は、中央の豊臣政権とはなるべく距離を置きたい決意した
 ☆義弘は当初から反家康=西軍に加わっていたと見られている


「島津の退き口」で戦場を離脱
 ☆「島津の中立」も江戸時代に成立した説
 ☆「島津の退き口」以前の義弘の戦闘行動、よく分かっていない
 *西軍の主力が壊滅すると
 *島津勢は東軍の陣を突破するようにして戦場を離脱する
 *この戦いが「島津の退き口」と呼ばれ、高名は世に轟いた
 ☆薩摩に戻った義弘は、国境を固めながら徳川との和平交渉にあたった
 *家康は九州諸大名に島津攻めの準備をさせたが、攻撃命令を出せなかった
 ☆関ヶ原に主力を送らなかった島津家にはいまだ本隊が健在である
 *長期戦になったら、家康に不満を持つ外様大名の動きが不明である
 *家康は態度を軟化させ、島津討伐軍に撤退を命令した
 ☆家康は島津本領の安堵を決定した
 *島津の存続を成し遂げて、義弘は大隅の加治木に隠居した
 *隠居後は若者たち教育に力を注ぎ同地で死去した
                       (敬称略)                                     
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⛳出典、『THEMIS1月号』




島津義弘(島津家を継続させた武将)
(ネットより画像引用)
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