🌸卑弥呼『古事記』『日本書紀』に登場しない何故?
☆邪馬台国と卑弥呼に関する情報中国の史書『三国志』『後漢書』等に
*わずかに記述があるだけ
☆日本の『古事記』『日本書紀』には情報が書かれていない
☆邪馬台国に関するほとんどの情報
☆邪馬台国に関するほとんどの情報
*『三国志』の中に書かれた「魏志倭人伝」に由来している
⛳畿内説VS九州説、大論争に決着はつくのか?
☆邪馬台国は「魏志倭人伝」によると
*沖縄の先、太平洋の海の上に到着してしまう
*邪馬台国の正確な場所はわかっていない
☆邪馬台国の所在地論争現在も決着ついていない
*江戸時代の新井白石が畿内説
(畿内説、邪馬台国が後に栄えた大和朝廷とつながっていること)
*本居宣長が九州説を唱えたことから始まった
(九州説は「漢委奴国王」の金印が福岡で発見されていること)
⛳卑弥呼、壱与(邪馬台国で「女王統治」が続いた)
☆「魏志倭人伝」による卑弥呼の実像
⛳卑弥呼、壱与(邪馬台国で「女王統治」が続いた)
☆「魏志倭人伝」による卑弥呼の実像
*邪馬台国を統治するシャーマンだった
*高齢で独身、女王となってからは宮に籠もり
*彼女の姿を見たものはほとんどいないと書かれていた
*弟がいて、彼が卑弥呼を手伝っていたようだ
☆卑弥呼ははじめて大使を魏には派遣している
*卑弥呼は女王として君臨していた
☆卑弥呼ははじめて大使を魏には派遣している
*卑弥呼は女王として君臨していた
*卑弥呼は10年位、魏と数度交流していた
*倭からは米や布、奴隷などを送り
*魏からは金印や銅鏡百枚などの膨大な品を賜わっている
*倭と魏はそれなりに友好関係を築いていたようだ
☆卑弥呼の死後、邪馬台国では男王が立つが
☆卑弥呼の死後、邪馬台国では男王が立つが
*内乱となり千人あまりが死んだ
*卑弥呼の親族だった13歳の少女・壱与が女王となる
*卑弥呼の親族だった13歳の少女・壱与が女王となる
*女王により国は治まったという
☆壱与もまた魏に使者を送っている記録がある
⛳日本史″空白の150年”の間に何が起きたのか
☆卑弥呼の正体は、大和政権の神功皇后ではないか?
☆卑弥呼の正体は、大和政権の神功皇后ではないか?
*神功皇后は、妊婦ながら朝鮮半島に出兵したという
☆卑弥呼は、熊襲(大和政権に抵抗した一族)の女族長ではないか?
☆日本はこの後、5世紀に人るまで150年間
☆日本はこの後、5世紀に人るまで150年間
*中国の歴史書にその名が記されることはなかった
*日本国内でもその間の記述がある史書がない
*日本国内でもその間の記述がある史書がない
*3世紀中頃から5世紀までの約150年間、空白の歴史
☆5世紀、倭国に「讃・珍・済・興・武」の5人の大王が現われる
☆5世紀、倭国に「讃・珍・済・興・武」の5人の大王が現われる
*その間に邪馬台国は歴史の中に消えてしまった
(敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
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⛳出典、『日本史・意外な話』
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