武田じゅうめい 愛と誠と正義

色即是空とは、すべての存在は虚無であると知る。
旗印は日本愛、 日本人には日の丸が足りない

竹林はるか遠くを読んで。

2017年07月06日 | 人生の意味

★竹林はるか遠く。
日本人少女ヨーコの戦争体験記「竹林はるか遠く」を読んだ。

帯にはこう書かれてあった。
「終戦直後の朝鮮半島と日本で、日本人引き揚げ者が味わった壮絶な体験を赤裸々に綴る、息もつかせぬ、愛と涙のサバイバルストーリー、と。

読み始めたら、一気に読み終えてしまった。
そして読み進むにつれて、涙が滂沱(ぼうだ)とこぼれ落ち、心が洗われるようだった。
日本の敗戦が迫り、ソ連兵がやって来ると急を告げられ、真夜中、叩き起こされ、慌てて大事な物をリュックに入れ、風呂敷に包み、母親と姉17歳、妹11歳の三人の母娘は竹林の中にあった北朝鮮・羅南の一軒家から逃れた。

父は満州鉄道の幹部職員であったが、そこからほど遠い場所に単身赴任、兄は近くの軍需工場で学徒動員で働いていたが、一刻を争う危機が迫る中、兄を待つ時間もなく、母娘3人は、京城(ソウル)そして釜山を目指して、死の脱出行をしなければならなかった。

羅南の駅から傷病者用の蒸気機関車の赤十字列車に必死の思いで飛び乗ったが、病人、重傷のケガを負った兵隊さん、着の身着のままの妊婦、老婆らが身動きもできぬまま、そして食べ物はなく、水もなく、空腹のまま気絶しかけながら、とにかく生き延びる、祖国日本へ帰る、そして父と兄に再会するのだという執念だけが母娘三人を駆り立てたのであった。

しかし、列車は赤十字のマークをつけていながら、ソ連軍の飛行機による攻撃を受け、先頭機関車は破壊され、やむなく母娘三人は列車から降り、線路沿いに、はるか京城(ソウル)を目指して、危険に満ちた徒歩による脱出行を試みるのだった。

途中、朝鮮人に襲われそうになったが難を逃れ、それから娘二人は剃刀で頭を剃り男のように姿を変え、母も含めて三人は死んだ朝鮮兵の軍服を着こみ、朝鮮人共産兵士に見えるように変装したのだった。兄妹は朝鮮語が上手だった。

一方の兄は単身、母と妹らを追いかけるように、京城を目指して歩いて南下したが、途中、ついに厳寒の中、倒れ、気がついたときは朝鮮人の農家の夫婦に助けられた。日本人と分かると連行され殺されるからと彼らの甥にしてくれ、農家の仕事を手伝ったが、やがて日本に帰ることを決意し、朝鮮人夫婦と涙の別れを交わした。
しかし危機は終わってはいなかった。朝鮮共産軍が支配する38度線のイムジン川を裸で泳いで渡る際、ライフルで狙い撃ちされながら、夜間、川の中を泳ぎ切り、南に脱出した兄、そしてその後、兄妹は劇的な再会を果たすのだった。
しかし、その劇的な再会の日には、母はいないのだった。
京都駅前で長く野宿をしていた母娘三人、既に母は弱り切っていた。
青森の親戚の家を探し求めた母だったが、青森は空襲によって身寄りは既に死んでいたという。長い列車の旅を終えて一人青森から帰って来た母は、11歳の娘が見守る中、京都の駅前で静かに息を引き取った。
そして北朝鮮の羅南の家から持って来た風呂敷を決して離さぬようにと言いつけながら。その風呂敷の縫い目に当時のお金で3万円ほどの大金を隠していたのだった。
危急の時には、その金を使えと。

時には人に襲われ、時には人に助けられ、時には運命の糸に翻弄され、過酷な人生を送りつつも、貧しくとも教育は大事と、戦後間もない当時、京都の女学校に通わせてくれた母親、貧乏ゆえ、女学校でのいじめに耐えながら、オール甲という優秀な成績を上げても、友達はドモリの優しいおじさんで、学校の小使いさんだけという境遇に心が挫けそうになった。そして毎日、学校で遅くなるからと言っていた17歳の姉は、実は町の露天商の隣で、兵隊帽をかぶり、靴磨きをやっていたのであった。
その靴磨きをやっていた姉の姿を偶然見た妹は、姉への感謝の気持ちで涙が溢れるのであった。

そして、人生は転変する。
英語力を生かして通訳になった妹は米軍基地に勤めるようになる。
そこで知り合った米国人と結婚し、夢の国、米国へと渡ったのであった。

 

余談、
実はこの本は、1986年英語で書かれたものだった。
著書であるヨーコ・カワシマ・ワトキンズは、もちろん11歳の女の子が大人になって、彼女の実体験を本に著したものだった。 ヨーコカワシマは川嶋擁子。
原題は、So Far from the Bamboo Grove。 邦題:竹林はるか遠く。

その本がアメリカで評判を呼び、戦争の悲惨さを訴える資料として、また、米国の中学校用の教材として多くの米国の学校で使用されているという。
作者はこの著作によって、アメリカでは1998年に、ボストン図書館が推奨する児童文学者に選ばれ、アメリカの平和団体「ピース・アビー」からは「The Courage of  Conscience Award」を受賞している。


2005年、韓国において韓国語で出版されたが、その後起きた米国韓人会による批判を受け、韓国で販売禁止になった。

米国での出版から遅れること27年、2013年に日本で初めて日本語に翻訳され(訳・都竹恵子)、出版の運びになったが、なぜ日本での出版がこれほど遅れたのか、米国の学校での教材本になり、数々の賞を得ながら、日本では全く見向きもされなかったというのはなぜなのか、日本の出版界と新聞界の堕落と怠慢を感じるのは、私だけだろうか。

 

(じゅうめい)

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