武田じゅうめい 愛と誠と正義

色即是空とは、すべての存在は虚無であると知る。
旗印は日本愛、 日本人には日の丸が足りない

柴咲コウ、崖っぷちに立たされた女村長。  日帝時代の韓国。

2017年07月31日 | 人生の意味

★柴咲コウの女村長。
昨日(7・30)のオッチョコチョイ日記。

この女性脚本家は日本の歴史を知らないし、勉強するつもりもないようだ。
今川家が井伊家の二心(裏切り)を見抜き、井伊家を潰して今川家の直轄領にする企てを立てるのに、井伊領の民百姓に徳政令を出して借金棒引きにする面倒臭いことをするなど現実的でないし、それを知った民百姓が今川家の代官に押し寄せて、「徳政令は嫌じゃ」などと言う訳もない。徳政令が下って民百姓の借金が帳消しになれば、民百姓にとって万万歳な訳で、「徳政令は嫌じゃ」などというシナリオは歴史を知らない女性脚本家の空想でしかない。


じゃあ、戦国時代はどうしたのか。
それは井伊家の人質を今川家が預かり、それと並行して、今川の敵である徳川家康への戦(いくさ)を井伊家に仕掛けさせることである。
人質を出させ、同時に徳川への戦(いくさ)を仕掛けることによって、井伊家を今川家に繋ぎ留め、井伊家の忠誠度を計ることが戦国時代の常套手段であった。
井伊家が差し出す人質は嫡男である虎松(井伊直政)になるだろう 。
もし、井伊家がそれを拒絶すれば、井伊家に二心ありとして、柴咲コウを謀殺するか、あるいは正面から実力で井伊家を滅ぼそうと今川勢が押し寄せることになる。
それが弱肉強食の戦国時代の掟(おきて)なのだ。


(補足)
戦国時代とはいえ、無抵抗で嘆願する百姓を槍で叩いて流血させる武士はいない。
それをやると主家の評判は落ち、民百姓は離反し、敵に乗じられる。
なにせ、戦国時代の兵隊は百姓であったから、恨みを買えば、すわ戦(いくさ)ぞ、という時に百姓が鋤を捨てて、刀を持って駆け付けるだろうか。
かの国、朝鮮ではそういう無体な事が普通にあったろうが、日本ではない。
この女性脚本家は朝鮮的発想をして、日本の歴史を知らないんだな。

 

★稲田朋美。
最後の感想を聞かれて、空?
「私、中身、空っぽだから、空(くう)」とのたまった稲田朋美オバサン。
靖国への入場を禁ず。

 

★中川俊直
この人、下品というか、「なめくじ」のようなヌメリ感があるイヤな男ですね。
自民党の衆院議員・前川恵との深夜のお泊り密会をフライデーに撮られ、不倫を報じられ、また別の女性との重婚疑惑、そして渋谷警察署からストーカー認定された元自民党の代議士。
自民党(細田・安倍派)を離党させられたとはいえ、自民党の不潔さを見ているようで、気持ちが悪くなる。

 

★田原総一朗
この男は、過去、何人もの大物政治家を壊してきた。
自民党のプリンスと言われた加藤紘一(故人)は、田原のテレビ番組で政治生命を失い、総理の椅子を目前にして失脚。
そして総理になった橋本龍太郎も、海部俊樹も、そして宮沢喜一も大けがを負った。
今度は、安倍晋三の番か。

 

★みずきさんの嫌韓宣言。
1939年、「朝鮮人の日本への移入計画」が発表された。
それまで朝鮮人が日本に入国することは厳しく制限されていた。
この発表によると、朝鮮人が日本に行ける道は次のような方法があった。

一つは、日本企業の独自募集で、京城(ソウル)の朝鮮総督府に依頼し、朝鮮人を募集する「官斡旋」があった。 
なお、朝鮮人に対する強制はあった。
その強制とは日本に不法に渡った密航者を検挙して、朝鮮に帰国させたことである。つまり「日本への強制連行」ではなくて「朝鮮への強制送還」だった。

 

次に、帝国陸軍に志願し、合格することであった。
朝鮮人の軍採用については、1938年に発表した「陸軍志願兵」制度がある。
帝国陸軍に自ら志願し、その後に厳格な徴兵検査を受け、合格しなければ陸軍への入隊はできなかった。
当時の朝鮮人の志願者数と合格者数を見ると、1938年の初年度は、志願者に対して合格率は約13%で、翌年から1943年までは5%未満だった。
つまり合格するには、針の穴を通すような難しさだった。
当時の韓国・東亜日報の記事によると、慶尚南道からの志願者は300人いたが、9人(3%)しか合格できなかったと書かれている。
朝鮮総督府の資料によると、1942年は1.6%。(志願者254273人に対し入隊者は4,077人)であった。100人が志願しても2人以下しか合格できなかったということである。


さて、戦争で日本の敗色が濃くなり、日本本土の若者がすべて徴兵されて戦場に出るようになると、日本の炭鉱労働者が不足し、「国民徴用」が開始された。
国家総動員法によって「国民徴用令」は1939年に実施されたが、朝鮮人には適用されなかった。韓国人のプライドが傷つく話だが、「朝鮮人は労働の質も落ちるし、信頼できない」という理由で徴用されなかったのだ。


そうするうちに労働力不足が深刻化して、「内鮮一体」という統治理念を盾に朝鮮人たちの嘆願と総督府の後押しにより、1944年9月から朝鮮人たちにも「国民徴用令」が適用されることになる。
そこで初めて「朝鮮人の日本への渡航制限の撤廃」が行われたのだ。
この「民間徴用」は、1945年3月までのわずか7ヶ月だった。
米連合軍が日本海の制海権を掌握し、釜山と下関を結ぶ関釜航路が閉鎖された為であった。そして5ヶ月後の8月15日に、日本が降伏することで終わった。


一方、ある疑問が残った。

戦後、多くの朝鮮人は差別と苦しみを受けたと主張したが、なぜ日本の地を離れ朝鮮へ帰らなかったのだろうか?
差別され抑圧され命まで失うほどだったという「残虐非道で悪夢」のような場所を、なぜ離れなかったのか?
その理由は、朝鮮半島にいる時よりも日本にいる方が、はるかに良い暮らしをしていたからだ。だから故郷の朝鮮に帰ることには否定的であった。
当時の日本は、私たち(韓国人)が今言ってるような「生き地獄」ではなくて、「チャンスの地であり、幸福の地」だったのだ。

日帝時代の歴史と実像をライフテーマとして研究してきたイ・ヨンフンというソウル大学の経済学部教授は、韓国が現在、日帝時代を振り返っている状況を見て「幻の国」と述べた。
その「まぼろし」とは、日帝時代は人類最悪の生き地獄であったのか、それとも近代国家への輝けるゲートウエイであったのか、それを論じることは、今は控えたい。
(みずきさん)

(じゅうめい)

 

コメント
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