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たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

学生寮の記憶・その6

2022年03月15日 18時57分03秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

◯寮の食事事情
昭和30年代中頃、M男が、北陸の山村の親元を離れ、地方都市の学生寮に入寮し、生まれて初めて外で集団生活を始めた頃の話である。
入寮した翌日から、いよいよ、不安と緊張の内に寮生活スタートだったと思うが、まず第1に驚いたのは、寮の食事事情だったような気がする。寮と学校は、隣接していたため、M男等は、朝食、昼食、夕食共、基本、寮で食事をとっていたと思うが、ほとんど記憶曖昧になっている中で、朝食の記憶だけは、未だに脳裏に焼き付いている。古い木造に暗い食堂の朝食時間、調理場と食堂の境目の棚には、次々と、黄色のアルミ製容器に山盛りの温かいごはんと味噌汁が並べらたと思うが、おかずは無しだった。ご飯の隅に、タクワン2切れと、海苔の佃煮小さじ一杯程度が、ちょこんと乗っているだけという塩梅、これを各自、長テーブルに運び、食する分けだが、タクワン2切れと、海苔の佃煮小さじ1杯程度を、いかにチビチビ食べながら、ご飯の最後まで持たせるかを、常に考えながら食べたものだった。毎食、それが定番だったが、最初は、驚いたものの、人間馴れればそれが当たり前となり、空腹には、温かいご飯が食べられるだけで、有難いものだった。ただ、寮生の生活リズムはバラバラで、指定された朝食時間を随分過ぎてから、ノコノコ食堂に現れる者も多く、そんな連中は、冷たくなったご飯をかきこむしか無いのだった。昼食、夕食については、おかず1品位は、付いていたような気がするが、まるで思い出せない。おそらく、1日、3食の食費合計が、100数十円だったはずで、推して知るべしだが。

◯エッセン・飯盒炊爨
斯々然々、寮の三食は貧弱で、寮生は皆、常に腹を空かせていたものだったが、特に、夜中になるとたまらなくなり、ガスコンロ数台だけの寮の共同湯沸し場で、飯盒炊爨(はんごうすいさん)したりしたものだ。中には、先輩寮生が、バイト先等からもらってきた骨付き荒肉等を洗面器等で煮上げ、皆で突っついて腹を満たしていた者もいた。炊飯器も無し、鍋も無し、料理するような場所も無し、今のようなインスタントラーメン等も無し、貧乏学生の集団だった寮生とて、やたら外食したり、食料等を買うことも出来ず、M男にような農家出身の寮生に、たまたま実家から米や餅等が届くとたちまち、寄ってたかって食べていたものだった。そんな、山賊みたいな夜食をすることを先輩寮生達は、「エッセンする」と言っていたような気がする。ドイツ語で「食べる」「食事」の意味の言葉だが、なんともバンカラ風な行為で、登山、キャンプ気分である。先輩寮生から、飯盒炊爨のノウハウを教わったのも、そんな時だった気がする。中高年になってから、山歩き等をするようになったが、すでに飯盒炊爨しようという時代でも無くなっており、すっかり忘れてしまっていたが、学生寮生活の懐かしい思い出の1ページになっている。

(ネットから拝借した飯盒の写真)

ネットで調べてみると、
飯盒(はんごう)は、今でも、キャンプ等で使う人が有り、
通販でも安く売られているようだ。

(つづく)

 

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学生寮の記憶・その5

2022年03月13日 21時51分50秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

◯ダンスパーティー
昭和30年代中頃、M男が、北陸の山村の親元を離れ、地方都市の学生寮に入寮し、生まれて初めて外で集団生活を始めた頃の話である。
学生寮に入寮してまもなくのこと、新入寮生は、度々、寮の食堂に呼び出された。「寮歌を教え込まれた話」は、「学生寮の記憶・その2」に記したが、同時並行して、「社交ダンスの教習」が有った。社交ダンスとは言っても、ほとんど、ジルバ、ブルース、マンボ、ルンバ等のベーシックレベルのものであったが、北陸の山村育ち、フォークダンスの経験すら皆無で、ダンス等とは無縁だったM男等にしたら「エッ!、ダンス?」、青天の霹靂の感を覚えたものだった。
先輩寮生の何人かが、手取り足取り、一から教えるものだったが、それまで見たことも聞いたことも無かった「社交ダンス」、イメージもわかず、マゴマゴするばかりだったと思う。記憶曖昧だが、女子学生寮からも指導役?で、何人かが応援参加していたのかも知れないが、高校卒業まで、女性に触れる等、とんでも無かった時代、手を握る、腰に手を当てる等、大パニックだった気がする。「寮生が、何故?、社交ダンス?」。それは、当時、学生寮自治会主催で、「新入寮生歓迎ダンスパーティー」「寮祭ダンスパーティー」「クリスマス、ダンスパーティー」等の年中行事が有って、一応 「寮生は、社交ダンスは覚えなければならない・・」等という不文律のようなものが有ったのだと思う。否応なく半強制的に参加させられたような気がする。
まったくの初心者が数回の教習、それも先輩の足型を真似する程度の教習で、直ぐ、本番ダンスパーティーで、女性と組んで踊れるはずは無しで、初めてのダンスパーティー「新入寮生歓迎ダンスパーティー」では、オドオドするばかりで、先輩寮生が楽しげに踊るのを見学するのみだったような気がする。
学生寮自治会主催の「ダンスパーティー」の会場が、寮の食堂だったのか、学生ホールのような場所だったのかの記憶は無くなっているが、主に先輩寮生達が、女子学生寮の寮生や看護学校の生徒やデパートの女性店員等、あちらこちらにパー券を売って招集した女性達であふれ、電飾とバンド演奏、その雰囲気に飲まれたものだ。その後、何度かのダンスパーティーを経験して、次第にその雰囲気にも慣れ、ジルバ、ブルースのベーシック位はなんとか踊れるようになったものの、その他、ワルツ、タンゴ等の曲がかかるとやはりお手上げ、眺めるだけの無骨者だった。
昭和30年代前後には、全国的に、学生等若者が中心の「社交ダンスパーティー」なる催しが行われていたような気がするが、M男が学生寮に入寮していた頃が、ちょうどそんな風潮の最盛期だったのかも知れない。そして時代が変わり、1980年代前後になると、第二次社交ダンスブーム「中高年の社交ダンス」が盛んになり、現在に至っているようだ。

(ネットから拝借イラスト)

(つづく)

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いなかっぺの赤ふんどし事件?

2022年03月12日 07時53分59秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

時々、gooブログの「アクセス解析」の「アクセスされたページ」欄を覗くことがあるが、随分前に書き込んだ古い記事で、すっかり忘れてしまっているような記事に、アクセスが有ったりする。「エッ?」と驚くと同時に、「そう言えば・・・・」、記憶が蘇り、なんとなく、嬉し、懐かしくなってしまい、つい、そんな記事を読み返してみたりしている。10年前の2012年、「OCNブログ人」時代に書き込んでいた記事「夏休み・赤ふんどし事件」にも、度々アクセスが有ることに気付き、コピペ、リメイク(再編集)することにした。従来の紙ベースの日記日誌備忘録の類では、絶対考えられない、「デジタル」のメリットである。


「いなかっぺの赤ふんどし事件?」

昭和20年代から昭和30年代前半の頃、M男は、北陸の山村の、1学年1クラスの、小さな小学校、中学校併設学校に通っていた。当時、学校には、プール等は無く、周辺の町村にも、プール等という施設は皆無で、プールで泳ぐこと等、別世界のことのように感じていたと思う。M男達は、夏になると、専ら、集落から歩いて20~30分に有った川の淀み等で、飛び込んだり、流れに乗ったり、せいぜい犬かき抜き手で岸まで戻ったりを繰り返し、時間を忘れて遊んでいたものだ。「水泳」等とは言わず、「水浴び(みずあび)」と言っていた位なのだ。その川も、いったん雨が降れば、急増水し、日照りが続くと涸れ川状態となる、大きな石がごろごろした荒れ川で、子供達が安心安全に遊べる川では無かったが、淀んでやや深みがある場所を見つけては、遊び場にしていたものだ。

イメージ
( ネットから拝借画像)

当時の農家は、夏の間、夜明け直後から朝食までの涼しい時間帯、朝飯前(あさはんまえ)と言っていたが)に、草刈り等の農作業をし、昼食後、午後は、開け放った座敷や茶の間で、ゴロリ横になって昼寝をする習慣があって、子供達も、昼寝を強要されたりしたが、近所となりの子供達から、「水浴び(みずあび)、行こ!」等と声がかかると、とても昼寝なんかしておれず、大人達の制止を振り切って かんかん照りの中、飛び出していったものだった。みんな、麦わら帽子、ランニングシャツ、半ズボン、ゴム草履、手ぬぐい、といった、童謡の挿絵に出てくるような格好だった。

北陸の山村でプールの存在すら知らなかった子供達であり、当時はまだ、「海水パンツ」等の水着の普及もなく、男の子は皆、「サラシの六尺ふんどし」が当たり前だった。幼児に至っては、ヌードダンサーのバタフライの如くの三角布「きんつり」だった。M男が、小学校高学年から中学生の頃には、何故か、「赤いサラシの六尺ふんどし」が流行りだして、M男も親にせがみ、買ってもらい、得意げに締めていたものだ。

話は変わるが、M男が中学2年の夏休みのこと。第二次世界大戦末期、戦火を逃れ東京から疎開し、そのまま父親の生家の近くに定住したM男の家は、戦後の暮らしは苦しく、それまで、家族の誰一人、一度も上京すら出来ずにいたが、やっと落ち着いたのか、その年、祖母が10数年ぶりに、戦前暮らしていた東京、そして、埼玉、神奈川の親戚、知り合いを訪ねる旅が実現し、M男と弟H男が同行したのだった。転々と、親戚、知り合い宅に泊めてもらいながら、多分、1週間~10日間の旅だったように思う。当時、神奈川県の逗子には、母親の長兄、M男から見て叔父になるT叔父が住んでおり、T叔父宅にも1泊または2泊させてもらったような気がするが、そのT叔父宅を訪れ時の話である。逗子と言えば、当時も、鎌倉、江ノ島、葉山等と並んで、首都圏でも人気の高い海水浴場が有り、T叔父は、さっそく逗子海水浴場に、M男達を連れて行ってくれたんだと思う。ところが、脱衣所?で着替えて出てきたM男とH男の姿に、T叔父は、びっくり仰天。M男は、「赤ふんどし」、H男は、「きんつり」だったのだ。T叔父は、泡食って、町の商店街に飛んで帰り、それぞれの「海水パンツ」を買ってきてくれ、着替えたように思う。「赤ふんどし」で海辺を歩いたり、海に入った記憶は、M男には無いので、何かの陰にじっとしているように言われたのかも知れない。当時の逗子海岸で、「赤ふんどし」と「きんつり」の子供を見かけて、目に焼き付けてしまった方がおられるならば、それは、M男達兄弟に間違いないと思われる。北陸の山村で育ち、「井の中の蛙」だったM男、昭和30年代前半の北陸の農村の暮らしと、都会人であふれる湘南海岸の逗子海水浴場とのギャップが起こした事件であった。その「赤ふんどし事件」、「あの時は ぎょっとしたよ」等と、後年になって、冠婚葬祭等で会う度、T叔父の語り草になってしまったものだった。M男にしたら、早く忘れてしまいたい話であるが、未だにその情景が思い浮かび、冷や汗がでてくるから不思議である。

日中のかんかん照りの中、トンボ取り、セミ取り、キリギリス探し、魚取り、川での水浴び 等々 平気で遊んでいたM男達。全身真っ黒に日焼けし、背中は、水ぶくれで、一皮二皮、ペロリとむけて、2学期が始まる頃には、そのマダラ模様が、少しづつ消えていく、そんな夏休みを、毎年繰り返していたM男達。当時はまだ、大都会の暮らしとど田舎の暮らしは、相当なギャップが有り、M男が、初めてそれを実感した夏休みだったのではないかと思っている。


 

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学生寮の記憶・その4

2022年03月11日 10時31分53秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

◯ストーム
昭和30年代中頃、M男が、北陸の山村の親元を離れ、地方都市の学生寮に入寮し、生まれて初めて外で集団生活を始めた頃の話である。学生寮に入寮してまもなくのこと、真夜中に、寮棟の板張りの廊下を、酔っ払ってわめきながら、ドタバタ、下駄を鳴らして通る数人の先輩寮生がいた。今にも部屋に乗り込んで来そうな雰囲気が有り、部屋の前の廊下を通過するまで、恐ろしさ?さえ感じ、息をひそめたものだった。ある時はまた、寮棟と寮棟の間の中庭で、ブリキのバケツをガンガン打ち鳴らしながら、「やーやー 我こそは 北寮の◯◯なり。出合え、出合え ・・・・」等と、武将名乗りを上げる先輩寮生がいたり、各部屋の戸をガラガラ開けながら、「起きろーー!」と喚く先輩寮生がいたりした。大概は 十数分の嵐のようなものだったが、M男達新入寮生は、その都度、ビビッて身を固くしたものだった。そういった迷惑千万な一連の行為を、先輩寮生達は、「ストームを掛ける」と言っていたような気がする。当時は、その意味も知らず分からずだったが、後年になってから、「ストームとは、学生が、寄宿舎、寮内で、騒ぎ、練り歩くこと」という意味合いの言葉だと知り、納得したものだった。旧制高校時代の「バンカラ」の名残りのようなもので、極く一部の先輩寮生が、そんな「バンカラ」を受け継いでいたということになる。もしかしたら、何年もドッペッタ(留年した)、寮の主(ぬし)?のような存在の先輩達が主だったのかも知れない。そんなこんなの寮の環境は、高校までど田舎で、純朴に?育ったM男等には、異常であり、驚異の世界だったが、若さは、むしろ、これを歓迎、日々、刺激的で、「これが 青春!」等と、意気に感じていたところが有ったような気もする。

因みに、「バンカラ」という言葉を、今更になってネットで調べてみると、明治期に、西洋風な身なりや生活様式をすることに対して、「ハイカラ」という言葉が生まれたが、それとは逆な、粗野で野蛮な身なりや生活様式をすることを皮肉って、「バンカラ」という言葉も生まれた。その後、「バンカラ」は、明治期から昭和中期に掛けて、男子学生の間で大流行した風潮となったが、「バンカラ」には、あえて、外見を粗野野蛮に見せても、男気が有ったり、友情に厚かったり、人間性豊かである男子という意味も込められた言葉だったのではないかと思っている。後年になって、かまやつひろしの「我が良き友よ」がヒットした時、M男は、学生寮でちょっぴり経験した「バンカラ」風な出来事を、懐かしく思い出していたものだ。

イメージ
(ネットから拝借イラスト)

(つづく)


「我が良き友よ」・かまやつひろし (YouTubeから共有)


学生寮の記憶・その3

2022年03月09日 10時35分03秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

◯鈴懸の径
昭和30年代中頃、M男が、北陸の山村の親元を離れ、地方都市の学生寮に入寮し、生まれて初めて外で集団生活を始めた頃の話である。学生寮に入寮してまもなくのこと、寮の自治会主催の「新入寮生歓迎コンパ」が行われたが、アトラクションの一部に、寮の先輩達が中心メンバーのジャズバンドの演奏が有った。記憶曖昧だが、バンド名は、確か「ブルーサウンズ」だったような気がする。
小・中学校の教科「音楽」は、最も苦手、嫌いな科目だったM男、高校3年間も、音楽とは無縁だったし、北陸の山村のど田舎暮らしには、特に、ジャズ、洋楽等は、別世界の音楽だったはずで、ジャズバンド演奏を目の前で聴くなんてことは、もちろん、初めてのこと、先ずは、まるでプロの如く演奏する先輩寮生がいることにびっくりしたものだ。手慣れた楽器テクニック、そのハギレの良さ、華やかな演奏スタイルに身震いを感じた気がする。それまで、まるで音楽等に興味も関心も無かったM男に、一気に音楽の素晴らしさを教えてくれたのは、あの日あの場所あの演奏だったのではないかと、後年になってからいつも思っている。そのバンドのバンドテーマソングは、「鈴懸の径」だった。当然、その時点では、曲名も何も知る由も無かったはずだが、後年になって、それは、第二次世界大戦中に発売された灰田勝彦の3拍子の歌謡曲で、戦後間もない頃、鈴木章治とリズムエースが、4拍子にジャズアレンジして演奏し吹き込んだことで、大ヒットした曲ということを知ったのだった。そのバンドの楽器編成は、鈴木章治とリズムエースとは、多少異なっていて、確か、スチールギター、クラリネット、ドラム、ギター、ベース、パーカッション・・だったように思う。後年、音楽を親しむようになってから、鈴木章治とリズムエースの演奏を好んで聴くことになり、あのバンドは、そっくりコピーして演奏をしていたこともわかった。音楽技術的にどうだったかは知る由もなかったが、「鈴懸の径」演奏が始まった途端、手拍子で会場が爆発的に盛り上がった情景が未だに浮かんでくる。
M男が音楽の楽しさを初めて知った曲、それは「鈴懸の径」だったという話である。「イントロ」とか、「サビ」、「アドリブ」等という音楽用語を覚えたのも、その後だったような気がする。

(ネットから拝借イラスト)

(つづく)


「鈴懸の径」・鈴木章治とリズムエース (YouTubeから共有)


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学生寮の記憶・その2

2022年03月08日 14時29分12秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

◯寮の様子
昭和30年代中頃、M男が、北陸の山村の親元を離れ、地方都市の学生寮に入寮し、生まれて初めて外で集団生活を始めた頃の話である。最初の1年間を過ごした学生寮は、第二次世界大戦の戦火を免れた、旧制高校時代からの古い木造平屋建(大正後期から昭和初期の建物)だった。記憶は曖昧になっているが、寮舎の入り口・玄関は、大きな引き戸で、入ると広い土間が有り、向かって右、中、左、並列に3棟が並んでいた。各棟は、「南寮」「中寮」「北寮」と呼ばれていたような気がするが、その3棟の奥には、さらに2棟が有って、「東寮」「西寮」と呼ばれていたと思う。いくつか有った「寮歌」の一つの歌詞の一節に、「三寮の窓、漏るる灯の・・・」が有り、おそらく、創立時には、「南寮」「中寮」「北寮」の3寮だったものが、後に、「東寮」「西寮」2寮が増設され、全部で5棟の寮になったということだったと思う。各寮棟に入るには、渡り廊下の土間から高い敷居を上がり、学校の廊下のような板張りの廊下を伝っていく造りで、もしかしたら、創立時には、上履きに履き替えて、あるいは裸足で、出入りしていたのではないかと推定される建物様式だったが、入寮当時は、土足で廊下を進み、各部屋まで入れるようになっていた。

◯寮歌の練習
入寮してまもなくのこと、新入寮生は、先輩寮生から、たびたび、寮の食堂へ呼び出された。寮には、旧制高校時代から脈々と受け継がれた「寮歌」が何曲か有って、それを教え込むためのものだったが、もちろん、譜面も何も無し、先輩が歌うを聞いて真似するだけ、謄写版で刷ったような歌詞も、もらったようなもらわなかったような。何人かの先輩が代わる代わる担当していたような気がするが、音痴な先輩、高温が出ない先輩、はっきりしない先輩、微妙に歌い方が違ったりして、曖昧な部分多々有りだったが、そんなことにはまるで頓着しない風で、とにかく「覚えろ!」だった。

◯新入寮生歓迎コンパ
4月も半ば過ぎてからだったと思うが、寮の食堂で「新入寮生歓迎コンパ」が行われた。寮の行事の一つで、寮生全員が参加、長テーブルを宴会型に並べ替えただけの会場で、夕食に毛が生えたようなささやかな料理が出され、アルコールも出たのだろう。寮には「自治会」が有って、先輩寮生が寮長以下、役員になっていたが、居並ぶ顔ぶれを見て、M等は、大人と子供の違い程を感じたものだった。アトラクションの一部に、先輩寮生が中心メンバーとなっていたジャズバンド演奏も有り、感動したりもしたが、宴たけなわともなると、寮生全員が蛮声を張り上げて、次々と「寮歌」の大合唱となり、その迫力に圧倒されると同時に、気分が高揚したものだった。当時でも、軟派(なんぱ)を張る寮生もかなりいたように思うが、いざ、集まり、飲み、肩を組み合い、「寮歌」を大合唱する段になると、たちまち、「バンカラ」「豪気」一色になってしまうのだった。
平成の時代になってからのこと、そんな若かりし頃にタイムスリップし、高齢者が、蛮声を張り上げる「全国寮歌祭」なるものが催されていたこと知ったが、その思いが分かる気がしたものだ。

旧制高校時代の「バンカラ」「豪気」が、まだまだ漂っていた寮で、ど田舎で育った初なM男が、大きなカルチャーショックを受けながら、むしろ、これを歓迎、日々、刺激的で、「これが 青春!」等と、意気に感じながら過ごした日々のことである。寮歌の何曲かは、未だに、不確かだが歌えるから不思議だ。

(ネットから拝借イラスト)

(つづく) 

 


学生寮の記憶・その1

2022年03月07日 20時24分46秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

昭和30年代中頃の話である。M男は、北陸の山村の親元を離れて、地方都市の学生寮に入寮することになった。入寮条件は、親の収入が、ある一定額以下で、学費支払いにも窮するような貧困家庭の学生ということだったと思うが、当時の日本、まだまだ貧しい暮らしの家庭が多く、学生寮入寮希望者も多かったはずで、おそらく定員オーバー状態で(詰め込みで)、受け入れていたのではないかと、後年になってから思われたものだ。貧乏な家で育ったM男は迷わず、寮費が下宿等と比べたら段違いに安い学生寮入寮を希望し、どんな寮なのかは問題外、藁をもすがる思いで申し込んだと思うが、入寮許可通知が届いた時は、家族共々、大喜びしたものだった。ただ、いざ入寮が迫ると、世の中を知らない井の中の蛙は、初めて外で集団生活する不安に襲われたような気がする。しかし、事前に下見する等のことも無しで、いきなり入寮の日を迎えたのだった。記憶曖昧だが、初めて訪れる都市、地図を片手に迷いながら学生寮にたどり着いたのではないかと思う。
「エッ!、ここ?」、寮の玄関に立って、一瞬、目を疑ったような気がする。古い建物とは聞いていたものの、想像以上の老朽建物。第二次世界大戦の戦火を免れた、旧制高校時代の古い木造平屋建ての寮だったのだ(大正後期から昭和初期の建物)。おずおずと寮監に挨拶、布団等荷物は、鉄道便(チッキ)で届いていて、すでに決まっていた部屋へ案内されたのだと思うが、まず驚いたのは、各棟毎に小学校のような板張りの長い廊下が有り、ずらーっと小さな部屋が並んでおり、土足でギシギシ音を立てながら進むことだった。2部屋毎に、袋状半畳程のスペースが有り、各部屋への引き戸入口になっており、隣りの部屋と相対していたが、玄関等というものではなく、いきなり畳部屋である。
M男が入る部屋は、寮の玄関から見て、並列に並んだ3棟の中央の棟の中間あたりに有ったと思うが、すでに、年齢差を大いに感じる(おじさん?のように落ち着いた)医学部の先輩と、やや、軟派(ナンパ)張ってかっこつけていた、文系の先輩が、入っており ど田舎出身の初心なM男と、なんとも、ちぐはぐな3人が、狭い4畳半で、暮らすことになったのだった。各自持ち込んだ座り机を壁側に並べるため、居住空間、つまり寝るスペースは、3畳弱しか無く、1間程の押入れも3人で共用、夜、布団を敷くと、びっちり、足の踏み場も無くなる状態、真夏の山小屋並みの状態になるのだった。昼間でも薄暗い部屋の照明は、中央に裸電球1灯のみで、各自、座り机に、電気スタンドを置かないと本も読めない状況、それぞれ、授業時間や生活スタイルがまちまちのため、自習時間も異なり、深夜の場合等は、各自、机上の笠付きの電気スタンドを灯し、気を遣いながら勉強したものだった。
廊下側の窓も、中庭側の窓も、入口の引き戸と同様、桟が木製、ガタピシ、ガラス引き戸だったので、冬期は、隙間風がスースー、暖房、冷房の設備等、施されるような時代では無く、コタツもストーブも置くスペースすら無し、夏は、ガラス戸を開け放ち、外気を流通させることで涼をとり、冬は、毛布や布団にくるまって、勉強したものだった。
入室してしばらくしてから気がついたことだったが、部屋の壁、天井、ガラス窓、柱、押入れの中に至るまで、隙間なく、「落書き」がされていた。いずれも、天下国家を論ずるものや、人生訓のようなものや、哲学的な内容、はたまた、青春、恋愛を叫ぶようなもの等、高い向学心に燃えて寮生活をした、バンカラ旧制高校時代の学生、大先輩達の息吹が感じられるものばかりだったが、それも良し、決して、消してしまおう等という雰囲気すら無かったのだ。
おじさん?のような存在の医学部の先輩は無口で、下手なことを言えないような威厳さえ感じてしまい、どんな話をしたかも思い出せないが、文系の先輩には、ちょくちょく、映画館や喫茶店に、誘われ、ついて行ったような気がする。
斯々然々、現在では、プライベート云々等と騒がれてしまうような、収容所並みの学生寮の暮らしが始まったが、当時は、まだまだ、そんな環境をも受け入れて、逆に、そんな学生生活を楽しんだりもした時代だったのかも知れないと思っている。

(ネットから拝借イラスト)

(つづく) 

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ラッセル車の記憶(再)

2022年02月23日 12時06分21秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

2月中旬にもなって、北海道や東北の日本海側、北陸等で、記録的大雪に見舞われており、大変なご苦労をされておられる様子が伝わってきているが、天気予報によると、明日以降、厳しい寒さは緩み、一転して、春の暖かさになるようで、ホッと胸をなでおろしているところだ。昭和20年代から30年代、雪深い北陸の山村で、幼少期を過ごした爺さん、毎年、冬になると、どうしても雪の情報に、まず目が行ってしまうのである。
ふっと、「ラッセル車」のことを思い出してしまった。「ブログ内検索」してみると、数年前にも、ブログに書き込んでいたことが分かり、コピペ、リメイク(再編集)してみた。

M男が、小学生、中学生の頃、村落の中心部に有った小さな学校のすぐ近くを、旧国鉄の路線が通っていたが、大雪になる度、「ラッセル車」が出動していた。
当時は、まだ、蒸気機関車の時代、記憶曖昧だが、「ラッセル車」も蒸気機関車が押していたような気がする。それでも、勢い良く雪を飛ばしながら、疾走する「ラッセル車」は、子供達にはカッコ良く、校舎の窓から顔を出して、一斉に歓声を上げていたものだった。
現在は、もっと性能が良くなっているはずの「ラッセル車」が、北海道、東北、北陸、山陰等で活躍しているのだろうと思うが、もう、60年以上も、「ラッセル車」が雪を蹴散らして疾走する雄姿を目にしておらず、懐かしくもある。YouTubeで、「ラッセル車」の動画を見つけ、共有させてもらった。

豪快に排雪する宗谷本線ラッセル【DE5】

 

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「中学生日記より」その57(再)

2022年02月05日 15時42分40秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のことだ。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が全く無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると、すっかり喪失してしまっていた記憶が、断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。


その57 「 学校植林と修学旅行の準備?」

昭和32年(1957年)4月30日(火)、

学校林植林
1、9時集合
中三男、大から10人(自分も入る)は、
樋口先生の部下で(班で)、補植など(等)をしたりして、
皆と離れて作業した。
手にマメがおえた(出来た)

旅行必要品、ボストンバッグ、トリパン(トレパン)、パンツ、くつ下、シャツ、歯磨き粉・歯ぶらし、さいふ、

M男の通っていた北陸の山村の1学年1クラスの小さな中学校では、当時、戦後禿山と化していた村営林に、毎年、カラマツ(唐松)を植林していたが、この日が、その植林日だったようだ。生徒は、登校せず、9時に、直接、植林する山に集合したようだ。植林には、生徒だけでなく、PTA、村の職員等も参加していたような気がするが、何班かに別れて作業に当たったのだろう。この日、M男は、教頭で国語担任の樋口教師の班に入り、植林した後の補植作業をしたようだ。手にマメが出来たと書いて有り、カッサビ?、クワ?、カマ?、スコップ?等で かなり一生懸命、働いたのかも知れない。
修学旅行が近づいていたのだろう。旅行に必要なものを確認したようだ。
ボストンバッグ・・とは懐かしい響きだ。


「学校植林」?

終戦後、全国で禿山化した山がどれだけ有ったのかは知らないが、そうした山にスギ(杉)やカラマツ(唐松)等の苗を植林する運動が繰り広げられていた時代だったのではないかと思われる。記憶定かではないが 当時「学校植林コンクール」等という催しが有ったように思う。M男の通っていた中学校は、これに参加し、県単位だったのか、全国規模だったのか記憶無いが、その実績に対して表彰され、校長が、朝礼で、「こんな小さな学校でも、表彰された」等と、誇らしげに報告していた記憶は有る。禿山を抱えていた村と、学校植林に積極的な校長が意気投合して行われていたのかも知れないが、「学校植林」も教育の一環として考えられていた節もある。M男達が植林したのは、カラマツ(唐松)で、後年、見事な唐松林になっていたことを知っているが、時代が変わり、利用価値が無いまま伐採され、その山全体が開発され、現在は運動公園になっている。


「学校植林コンクール」?

ネットで調べてみると、現在の公益社団法人国土緑化推進機構の前身である「森林愛護連盟」と「国土緑化推進委員会」が中心となって 1950年度から実施された活動の一環、「全日本学校植林コンクール」だったようだ。


植林したカラマツ(唐松)が 成長する前の山は 
冬期、子供達の絶好の遊び場(スキー場)だった。
滑り降りては、エッチラオッチラ、登り、また滑る。
飽きずに遊んだものだ。

当時は、スキー板に取り付けた金具とフィットと呼んでいた留め具で
長靴に掛けて滑る類だったが、
転んだりして スキー板が外れると最悪、
スキー板を拾いに行くのが一苦労だった。

(家にカメラ等無かった時代、誰かに撮って貰った貴重な写真)

 

 


「横井戸、水汲み、風呂焚き」(再)

2022年01月28日 21時11分33秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

10年前、「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代、
2012年6月24日に書き込んでいた記事を、コピペ、リメイク(再編集)。


「横井戸、水汲み、風呂焚き」

M男は、昭和30年代後半まで(高校を卒業するまで)、北陸の山村で過ごしたが、その頃はまだ、M男の家には、水道が無く、飲料水、生活水は、全て井戸水でやりくりしていた。井戸と言っても、通常の縦井戸ではなく、山際の崖を横に掘って地下水を集め、屋敷まで引いてくる形のもので、横井戸と呼んでいて、後年になって思ったものだが、沢水を引いてくるのと大差ないものだった。その横井戸も、専門の業者に、水脈を調査してもらったり、機械で掘削してもらったものでなく、父親と数人の親戚の男衆が、スコップ、ツルハシ、カッサビ等を使って人力で、何日もかけて、掘ったもので、うまく、地下水脈に当たらなければ、何度も場所を変えて掘り直していたような気がする。当時、子供の目からするとかなり奥深くまで掘り進めていたように感じたものだが、実際は、2~3mだったのかも知れない。掘った後、周囲をコンクリートで固める等もせず、ただ内部からしみ出した水を溜めておく堰を作り、そこから、鉄管で屋敷まで引いてくるという簡単な工事であった。それを台所まで伸延する技術や資材や資金が無かったのだろう。玄関から、7~8mの敷地の隅に鉄管の先が出て、常時、勢いよく流れ落としていたのだ。直ぐ脇に村道が有り、通る人達がよく立ち寄って、柄杓(ひしゃく)で、のどを潤し、「うまい水だ」と絶賛していたので、かなり、良質な地下水だったのかも知れない。

問題は、台所の水瓶風呂桶(木製、大きな樽状浴槽)に、日々、人力で、その水を運搬しなければならないことだった。当時は、ブリキのバケツを使っていたが、満杯にするとかなり重く、何回も往復する大変な作業だった。父母は、勤めや農作業のため、暗くなるまで、家に居ないため 家事全般は、祖母が担っていたが、その水汲み作業も、最初は、大部分祖母がやっていたように思う。元々、痩せて華奢な祖母で、その重労働を見てはおれなくなったM男は、小学校高学年になった頃からは、代わって自ずとやるようになっていたのだ。台所の水瓶には、毎日、2~3回往復程度で良かったと思うが、風呂桶を満たすとなると、20数回往復しないとならず、かなりつらい仕事ではあったが、弱音は吐かなかったような気がする。

風呂焚きも、だいたいM男の役割だった。風呂釜に、まず、紙屑と枯れた杉葉を入れてマッチで焚きつけ、野積み乾燥のを運んできて、くべる(焼べる)のだが、煙突の無い風呂釜だったこともあり、燃えにくく、頻繁に消えたり、くすぶったりで、その都度、火吹き竹で送風、火の勢いをつけるが、家中、煙が充満、茶の間の天井近くには、高窓が有って 煙を排出させてはいたものの、柱や梁は、燻されて黒光りしていたものだった。 

台所の隅には、薪をくべる(燃べる)竈(へっつい、かまど)が有って、朝夕、お釜(おかま)で 炊飯していた。炊き上がったご飯を御鉢(おはち)に移すのは祖母がしていたが、こげつき(おこげ)が出来た時等、祖母は、よく醤油でまぶしておにぎりにしてくれたものだった。夕食前、腹ペコの食べ盛りのM男達とっては、たまらなく美味しく感じた、うれしいおやつで、飛びついて食べたものだった。

(ネットから拝借画像)
竈(かまど)・へっつい      囲炉裏(いろり)
   
 

台所には、囲炉裏もあり、吊るされた自在鉤(じざいかぎ)に、大きな鍋を吊るし、味噌汁等の煮炊きをしていた。戦前、東京で定食屋のような店をやっていたことも有った祖母は料理上手で、貧しい食材を上手く工夫し、近所でも評判だったような気がする。

後年になって、「あの頃は、家族全員それぞれが、自然と役割が決まって、日々をこなしていた時代だったんだな」とつくづく思ったものだ。

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