たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

蚊帳の中

2022年08月06日 09時19分10秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

M男が、昭和20年代、30年代、幼少期を過ごした北陸の山村では、今では、とうてい考えられない、安心、安全、不用心、無警戒な暮らしをしていたものだと、つくづく思うことが有る。夏等には、どこの家も、玄関、茶の間、座敷、作納屋等、全ての引き戸は、余程の悪天候でない限り、朝から晩まで開けっ放しが、当たり前で、家族全員が、農作業等に出て留守にするような場合でも 滅多に、戸締まりして出ることもしなかった。元々地元の旧家で大きな家等は、その地方独特の造りで、玄関から奥に土間が長く続いていて、玄関からかなり入り込んでから、「おんなるかね?(だれか、いますか?)」等と、大声で叫ばない限り、奥の茶の間には通じないのが普通で、それでも 通じない場合は、構わずどんどん入り込んで、奥の茶の間の引き戸を開けて、「いいあんばいでござんす」(「こんにちは」の代わりに、いい天気ですねといった挨拶)等と、いきなり声を掛ける位は、お互い、何の問題無しだったのだ。

真夏になれば、昼間だけでなく、夜も開けっ放しで、平気な土地柄だった。そもそも、鍵というものが引き戸に付いていなかったし、せいぜい心張棒(しんばりぼう)で引き戸を押さえる位なもので、例え戸締りしても、泥棒への警戒とはならないレベル、開けっ放しでも、大して変わらないと言えばその通りだったが。それは、暑さ対策からであった。

その頃はまだ扇風機もまだ普及していなかった山村、涼を求めるとしたら、自然の風に頼るしか無く、団扇(うちわ)扇子(せんす)は、夏の必需品で、手の届くところ、いたるところに置いて有ったものだ。問題は夜。周囲の田んぼや用水を渡ってくる夜風を、出来る限り、家の中に通して、冷やすしかなかった。家の向きによっては多少違うと思うが、M男の家は、西側と東側の引き戸を開けると、風が良く通ったと思う。現在のような網戸もまだ無く、開けっ放しでは、簾(すだれ)等吊るしていても、当然、蚊(か)蛾(が)が入ってくるため、蚊取線香を点け、ハエトリリボンを吊るしてもいたが、座敷や茶の間に布団を広げる前には、大型の蚊帳(かや)を吊って、大人も子供も、その蚊帳に潜りこんで、寝たのだった。M男の家の蚊帳は何故か緑色していたが、蚊や蛾が入り込まないようにして、さっと潜り込んだ蚊帳の中は、子供達にとっては、開放的な別世界に入った感覚となり、毎夜、はしゃぐのが常、相撲をとったり、枕を投げ合ったり、勢い余って蚊帳を引き千切ってしまったりしたことも有り、大人たちに、よく叱られたものだ。

(ネットから拝借画像)
座敷に吊った蚊帳

    (ネットから拝借画像)              (ネットから拝借画像)
       蚊取り線香                   ハエトリリボン

       

当時、家の周辺には、街路灯一つなく、夜は、漆黒の闇となった。集落に自動車を保有していた家等は1軒も無く、1キロ以上離れた国道でさえ、夜間、自動車が通ることもほとんど無かった時代、一晩中、カエル、コウロギの大合唱と、山から流れ落ちる水の音が続くだけだった。
時々、遠く、北西方向、日本海に流れ込む河川の鉄橋を渡る夜行列車のガタゴト、ガタゴト、まれに汽笛が聞こえてくる・・・真夏は、そんな夜の繰り返しだったような気がする。

開け放していても、なお暑かった蚊帳の中で、M男達子供が、寝付くまで、毎夜、うつらうつらしながら、団扇で扇いでくれていた祖母を思い出してしまう。

「蚊帳の外」という言葉が有るが、「蚊帳の中」は、古き良き時代の家族の愛情あふれる空間だったように思う。
平成、令和、若い世代からは、「カヤ・・って、何?」と言われそうであるが・・・。

(ネットから拝借画像)
風鈴

 

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「中学生日記より」その60

2022年06月21日 18時31分44秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のことだ。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が全く無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると、すっかり喪失してしまっていた記憶が、断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。


その60 「臨海教育」

昭和30年(1995年)7月22日、金曜日、天気 晴

1限目、社会、 → 臨海教育
2限目、図画、 → 々
3限目、理科、 → 々
4限目、国語、 → 々

1、9時半(発の)、汽車で、(海へ出掛けた)
  3時(15時発の)汽車で、(帰ってきた)
2、父(が)、キリギリスのかご(虫籠)を買ってきた

(宅)15時50分

1、夏休み直前のその日は、社会、図画、理科、国語、午前中の授業をつぶして、「臨海教育」だったようだ。M男の通っていた1学年1クラスの小さな山村の中学校には、当時、プールは無く、村落の子供達は、夏になると、近くの川の淀み等で、水浴び(水遊び)するくらいしか無かったものだが、学校で、1年に1回、全生徒を、日本海に面した隣町の海水浴場へ連れて行っていたものだ。ただ、今のようにバスで移動等は無く、最寄りの駅に集合し、汽車で往復だった。海水浴場とは言っても、当時は、海の家や更衣室等の設備は無くて、海辺の近くの神社の境内の物陰で着替えたり、休憩したりしたようだ。波打ち際は、遠浅の砂浜ではなく砂利状、数メートルで、ガクッと深くなる日本海、しかも、流れが早く、余程自信が無いと沖へ泳ぎ出ること等出来ず、「泳ぐ」等というには程遠く、ほとんどが、寄せ返す波と戯れる程度であったが、それを「臨海教育」と言っていたのだから笑えてしまう。子供達にとっては、それでも楽しかったことには間違いないが。
2、当時の子供達は、学校から帰ると外で遊ぶのは当たり前で、真夏の炎天下でも、麦わら帽子を被って、キリギリスやオニヤンマ等を捕まえたり、夜は、ホタルを捕まえたり、結構、昆虫も遊びの対象だった気がする。その日、父親が勤務先からの帰りに、竹ヒゴ製の虫籠を買ってきてくれたようだ。多分、友達が持っていて欲しくなり、強請ったのだろう。

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M男の高校生時代(再)

2022年06月17日 16時13分25秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

北陸の山村で育ったM男は、昭和30年代中頃、隣り町に有った県立高校普通科に、通うことになった。その当時はまだ、東北や北陸等の農村部では、中学卒業と同時に、関東圏や関西圏等に就職する者が多く(集団就職と呼ばれていたが)、高校に進学する生徒は、極く一部、クラスの1割~2割程度に、過ぎなかった。まだまだ貧しかった時代、子供の進路も、本人の志望云々よりも、家庭の経済事情で、左右された時代だったのである。
M男の家も、暮らしていた村落の経済的序列(?)から言えば、とても、子供を高校に進学させられる家ではなかった。M男自身もその辺は弁えていて、自ら、高校進学を志望する等は、出来なかったものだが、担任教師の熱意ある説得、そして、なによりも、父親が勤務していた町の印刷店兼文房具店の店主夫婦の、「将来のために、進学させてやりなはれ」の助言と学資相当の援助金(手当?)まで出してくれたことにより、両親も、意を決したのだと思う。
ただ、当時の閉鎖的な村落の中にあっては、「よくまあ、金も無いのに、高校に行かせたもんだ」等という、白い目で見る住民もいたようである。 
当時の高校生、男子は、詰襟の学生服と学章を付けた学生帽、黒い革製の手提げ鞄、革靴、女子は 普遍的なセーラー服と決まっていたが、当時のM男の家の家計からすれば、どれもこれも、高い買い物だったに違いない。
やりくり、工面する、両親の後姿を見ながらの高校生生活、当然、無駄使い等は、一切出来ず、親のためにも頑張らなければという思いが強かったように思う。
学校から帰ると、積極的に農作業を手伝った。畑作業、田植え、稲刈り、等々。
まだ、家には、テレビも無かった時代、夕食後のひと時、家族みんなで、ラジオを聴く程度が娯楽だった。もちろん子供部屋等無い住まい、家族が寝ている座敷の隅に囲ったスペースで、深夜まで 音を絞ったラジオを聴きながら、勉強勉強の日々を送ったと思っている。

自宅から最寄り駅までは田んぼ道で、本数の少ない国鉄線を利用した登下校だったことや、高校生が遊ぶような環境も無い田舎だったこともあり、クラスメイトとの付き合いも、極く限定的だった。部活や生徒会活動も、最低限だったこともあり、残っている高校生生活の思い出は、極めて少ない。
M男を勉強に駆り立てた理由は、「親のためにも・・」だけではなかった。M男の卒業した中学校は、1学年1クラスの小さな山村の学校であり、当然、数百人規模の町の中学校を卒業したクラスメートとの学力の差は歴然。1年生の初期、成績を見て愕然としたことを今でも覚えている。
当時は、学級での順位、学年での順位まで、通信簿に表示されていて、自分がどのレベルなのかが一目瞭然だったのである。
その屈辱感、悔しさが、勉強の原動力となっていたのだと思う。学期毎に、ドンジリから、1人抜き、2人抜き、徐々に成績が上がっていく快感を味わいつつ、3年生後半には、多分、上位10%~20%に入るところまでに上がったような気がしている。
そんな暗い高校生活を過ごしてしまい、一面では、「良く頑張った、自分を褒めてやりたい・・・」等と思う反面、もっと、いい時間を過ごすことが出来なかったものだろうか等と、悔やむ思いもある。
とかく、高校生時代は、「スポーツだ!」「友情だ!」等、青春を謳歌され、熱く語る人達が多い中、残念ながら、M男の高校生時代は、全く花も咲かず、固い蕾のまま終わった3年間だったような気がしてならない。今さらになって思う感慨である。

当時の木造校舎

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「中学生日記より」その59

2022年05月30日 09時12分53秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のことだ。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が全く無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると、すっかり喪失してしまっていた記憶が、断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。


その59 「麦刈りとうどん作り」

昭和30年(1995年)6月19日、日曜日、天気 晴

1、かわら(川原)の北の畑(田)の麦かり(麦刈り)をした。

全く、記憶に無かったことだが、この日、川の近くに有った田んぼの1枚で作っていた麦を刈る手伝いをしたようだ。6月中旬、梅雨の真っ最中、もしかしたら、晴れる日を待ち構えていたのかも知れない。丁度、日曜日で、晴。隣リ町の印刷店・文房具店に勤めていた父親も、休んで、一家総出で、麦刈りをしたのだと思う。もちろん、稲刈り鎌で麦株を刈る作業、丸めて運ぶ作業、全て、人力、汗水垂らす仕事だったが、中学生ともなれば、一人前の人足扱い、手伝うのが当たり前の時代だったのだ。当時、村落の農家のほとんどは、稲作中心だったが、田んぼの一部に麦を植え付け、収穫した麦を、製粉し、「うどん」や「団子」等の材料にしていたような気がする。汽車やバスで、隣リ町に出掛けなければ、蕎麦屋も中華食堂も商店も何も無い村落の暮らし、例えば、「うどん」にしても、外食したり、出前を取ったり、買ってきて食べるということは考えられず、M男等は、「うどん」は、自分の家で作って食べる物と思い込んでいた位だった。
記憶曖昧だが、刈り取った麦は、リヤカーで運び、稲架(はさ)掛けし、乾燥させた後、脱穀、農協の製粉所に持ち込んで製粉、うどん製造機で出来た「生うどん」を持ち帰り、座敷等で、物干し竿に吊るし、何日かで乾燥させ、あとは、包丁だったかハサミだったかで適度の長さに切り揃え、完成・・・という具合だったような気がする。そんな手間暇掛かる「うどん作り」も、その後、次第にやらなくなった気がするが、その頃には、簡便な商品が出回ってきたからなのだろうと思う。たった1行の日記から、当時の情景までが、炙り出てくるから不思議である。

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学生寮の記憶・その10

2022年04月08日 18時50分39秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

◯「四季の新潟」
昭和30年代中頃、M男が、北陸の山村の親元を離れ、地方都市の学生寮に入寮し、生まれて初めて外で集団生活を始めた頃の話である。

3月8日の「学生寮の記憶・その2」の中の「◯寮歌の練習」で、「歌詞をもらったようなもらわなかったような・・・」と書き込んでいたが、その後、その気になって、押入れのダンボール箱に詰まっている、ガラクタ、雑物を漁ったところ、寮歌や当時の愛唱歌等の歌詞を手書きした小型のノートのような、手帳のようなものが見つかった。多分、歌集等の印刷物等はもらえず、何かから書き写したものなのだろう。すでに紙は劣化しており、うっかり触るとボロボロ破れ落ちてしまいそうな代物だが、なんとか読める。その中には、「四季の新潟」も有る。
「昨日の夕食、何食べた」も思い出せなくなっている後期高齢者であるが、なんと、「四季の新潟」、1番から4番までソラで歌える程に覚えているから不思議なことだと思う。
念のため、今更になってネットで調べてみると、3番の最後の1節、「旅まわり」と書かれている部分が、正しくは、「岳(たけ)まわり」であることが分かり、もしかしたら、間違って教えられ、ずっと「旅まわり」が正しいと思い込んでいたようだ。
当時から詳しく知っていた分けではないが、実は、「四季の新潟」は、元々の寮歌ではなく、1934年(昭和9年)に、作詞 西條八十作詞 中山晋平で作られた、新潟情緒たっぷりの、いわばご当地ソングで、花柳界で歌われたり踊られていた歌だったのだ。では、何故、そんな歌が、学生寮で、寮歌の番外として歌い継がれてきたのかについては、旧制高校のバンカラ時代、芸者遊び等をするような剛気な学生も大勢いたはずで、その歌を寮に持ち帰り、コンパ等で歌っている内、定番になってしまったものと推定されている。

「四季の新潟」
作詞 西條八十、作曲 中山晋平

1、春はうらうら日和山(ひよりやま)
  雪の弥彦も霞に溶けて
  枝垂れ(しだれ)青柳 (あおやぎ)風吹きゃなーびく 
  あだな西堀東堀(にしぼりひがしぼり)

2、夏はすずかぜ天の川 
  うちわ片手に万代橋(ばんだいばし)を
  おけさ踊りについ夜も更ーけて
  別れ涙の寺泊(てらどまり)

3、秋は稲穂(いなほ)の信濃川 
  早も帰るか港のつばめ
  便りまちまち今年も暮―れりゃ 
  やるせないぞえ旅まわり岳(たけ)まわり

5、冬は雁木(がんぎ)に積もる雪 
  口説(くぜつ)半ば(なかば)に窓の戸開けりゃ
  佐渡は寝たかよもう灯(ひ)は見―えぬ 
  夜の出船に鳴く千鳥

島村武男の「四季の新潟」 (YouTubeから共有)
1934年(昭和9年)に発売されたSPレコード盤のB面に収録された「四季の新潟」だが、ほとんど一般庶民には歌われず、「幻の名曲」?とも言われているようだ。

小林幸子の「四季の新潟」 (YouTubeから共有)
2005年(平成17年)には、地元新潟出身の歌手小林幸子も、カヴァーしている。

新潟古町芸妓・日本舞踊 「四季の新潟」 (YouTubeから共有)



(つづく)

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学生寮の記憶・その9

2022年04月03日 19時53分37秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

◯続・寮歌の記憶
昭和30年代中頃、M男が、北陸の山村の親元を離れ、地方都市の学生寮に入寮し、生まれて初めて外で集団生活を始めた頃の話である。

2022年3月8日の「学生寮の記憶・その2」の中の「◯寮歌の練習」で、「歌詞をもらったようなもらわなかったような・・・」と書き込んでいたが、その後、その気になって、押入れのダンボール箱に詰まっている、ガラクタ、雑物を漁ったところ、寮歌の歌詞を手書きした小型のノートのような、手帳のようなものが見つかった。多分、当時、歌集等の印刷物等はもらっておらず、書き写したものだと思われる。すでに紙は劣化しており、うっかり触るとボロボロ破れ落ちてしまいそうなものだが、寮歌の一つを、そっと、スキャナーで取り込んでみた。「昨日の夕食、何食べた」も思い出せない後期高齢者であるが、寮歌のメロディーは、未だに脳裏に焼き付いていて、歌詞もほとんど暗唱出来るから、不思議なことだと思う。

寮歌 
あけのこじょう
黎明の孤城

   あけのこじょうに かねなれば
1、黎明の孤城に鐘なれば
   はるさんげつは りょうらんの
  春三月は繚乱の
   うたげのにわの はなむしろ
  宴の庭の花筵
   はえのいのちに あこがるる
  榮の命にあこがるる
   こちょうのゆめは やぶられて
  胡蝶の夢は破られて
   たかんのゆうし いまさめぬ
  多感の遊子いま覚めぬ

  きたわたつみに くもひくく
2、北海洋に雲低く
  ひがしくがちは まやみなり
  東陸地は真闇なり
  われらがおかは えいこうの
  我等が丘は榮光の
  たくみのかみを いつくみや
  藝術の神を斎く殿堂
  とはのさだめを にないては
  永劫の運命をになひては
  たまゆらもこそ つとめなん
  瞬時もこそつとめなん

  しうんのかなた ゆびさして
3、紫雲の彼方指さして
  よのたびびとに きみつげよ
  世の旅人に君告げよ
  ちえのこのみの みのるもり
  智恵の果の実る森
  わかき◯◯◯の すむさとと
  若き猟者の住む郷と
  じんせのげらく なけれども
  塵世の快楽なけれども
  まことのみきは かもさるる
  真理の美酒は醸さるる

(つづく)

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学生寮の記憶・その8

2022年03月29日 21時38分53秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

◯自動車運転免許取得事情
昭和30年代中頃、M男が北陸の山村の親元を離れ、地方都市の学生寮に入寮し、生まれて初めて、外で集団生活を始めた頃の話である。
記憶は定かで無くなっているが、確か、入寮してから半年余り経過した秋のことだったと思う。学内のクラブ活動部だったのかどうかの記憶曖昧だが、「自動車部?」、「自動車クラブ?」の、「運転免許証を取りたい者集まれ・・!」的なポスターだったかチラシだったかが、寮にも回ってきて、「ベラボーに安い講習費で運転免許が取れるぞー」と言った雰囲気が漂ったような気がする。ただ、そうであっても、金銭に余裕等無しの貧乏学生の集団、おいそれと申し込む者等、ほとんどいなかった気がするが、たまたま、M男には、そのタイミングで、臨時収入?が有り、これ幸いと申し込んだような気がする。
それは、当時、日本育英会の貸与額は、月額2,000円だったが、入寮してまもなく、増額申請をして認められ、申し込んだ月まで遡って、その差額が一時金として受領出来たからだった。その合計額はわずか6,000円だったが、M男にとっては大金。本来は、のちのちの学費や寮費支払い等充当するべきものではあったが、後は野となれ山となれ、その一部活用?で、その運転免許講習が受けられることが分かり、またとないチャンス、逃してなるものか、同室の先輩等にも相談したりしたはずだが、思い切って、運転講習を受けることにしたのだった。当時はまだ、M男の郷里、北陸の山村では、マイカー(乗用車)等所有している家は皆無で、貧乏だった家のM男等は、自分が乗用車を運転するなんてことは夢でしか無かったものだが、一躍先頭に躍り出たような気分がしたものだった。
いざ、運転講習へ。ところが、指定された講習日、講習場所へ行って、びっくり。建設ゴミ置き場の如くの草茫々のだだっ広い空き地、車1台通るだけの凸凹道が、ぐにゃぐにゃ有るだけの荒れ地。車ときたら、ポンコツ車数台、一度エンストしようものなら、前に回って、クランク棒を回しエンジンを掛けないとならない代物、学生のやること、廃車寸前の車を譲り受けて、運び込んだものだったのだろう。ブルン、ブルン、ガタン、ゴトン、半クラッチ、坂道発進等、微妙なエンジン音の変化等、分かるはず無しの代物だったが、何しろ、生まれて初めて乗用車のハンドルを握り、運転する興奮が有った気がする。講習が、何日間有ったのかの記憶も無くなっているが、当時は、現在のように自動車運転教習所で所定の教習を受けなければ、免許取得出来ない・・というのではなく、いきなり試験場に申し込み、合格しなければ、何回でも受け、免許取得出来た時代だったようで、M男も、自信等有ろうはず無かったが、講習を受けた皆と共に、運転試験に臨んだのだった。(もしかしたら、モグリだったのかな)。今でも覚えているのは、最初に運転した試験車は、テールランプが縦型のセドリックだった(と思う。当時は車の車種もなにもあまり知らなかった)。講習で、ガタン、ゴトン、ブルン、ブルン、空き地で運転したポンコツ車とはダンチであり、まず面食らい戸惑ったが、次第に馴れて、運転免許試験であることすら忘れ、乗用車を運転出来ることにウキウキ、気分良しだった気がする。試験官に、「どこかで運転してたんじゃないの?」って言われて、どう答えていいか分からなかったことが思い出される。ただ、所詮、まともな車で運転練習もせず、学科も、本屋で買った教本、問題集を一夜漬けで臨んだといういい加減さ、実地、学科で、2回、3回落ちた気がする。試験には、1回毎に受験料?が必要で、それがもったいなくて(あるいは、足らなくて)、どんどん、日にちが過ぎてしまい、結局、全部合格し、運転免許を取得できたのが、年末ギリギリ、12月26日だったようだ。当然、その年末年始に帰省した際には、そのことを家族に事後報告したと思うが、「車」、「運転」等に無縁な家族は、びっくり仰天、「なんということを・・」と叱られたような気がする。とりあえず、運転免許証を取得したと言っても、運転する機会等有る分け無しの学生寮生活、実際に一般路上で初めて運転したのは、就職して数年後、運転免許取得してから7~8年後のことで、今でも覚えている。その頃出回り始めたばかりの360CC軽自動車だった。長期出張で勤務先から貸与された車、いきなり運転することになり、どぎまぎ、勝手分からず、緊張、失敗、こっそり、人車の通らない田舎道で、練習したものだった。その場所は、広島県福山市の、直ぐ近くに大きな川が有った気がする道路だった。待った無しの営業で、初心運転者が、よくもまあ、尾道、世羅、御調等を地図を見ながら走り回ったものよと思う。最初に運転免許取得してから60年が過ぎ去り、無事今に至っているが、あの日、あの頃が、遠い昔のことのようにも、昨日のことのようにも思い出される。

最初から 
免許の種類=「普通」「自動二輪」
となっていた免許証。
(注)現在の免許の種類は 「中型」「自動二輪」に変わっている。

(つづく)

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学生寮の記憶・その7

2022年03月19日 06時35分52秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

◯寮祭・市内仮装パレード
昭和30年代中頃、M男が北陸の山村の親元を離れ、地方都市の学生寮に入寮し、生まれて初めて、外で集団生活を始めた頃の話である。
入寮してから半年余り経過した秋、M男達には初めてのことであったが、学生寮恒例の「寮祭」が催された。当時はまだ、カメラ等が一般に普及していなかった時代、「寮祭」の写真等も、ほとんど残っていないことも有り、なかなか記憶を炙り出すのも難しいが、その年だけだったのかどうか?、全寮生による「市内仮装パレード」も行われた。その写真だけが数枚、古いアルバムに貼って有る。誰かが写し、焼き増ししたものを買ったのだろう。すでにセピア色化した古い写真ではあるが、写真を見ると、完全に忘れてしまっていた記憶や当時の情景まで炙り出てくるから不思議で、貴重な写真だ。よく見ると、1枚の写真の背景には、旧制高校時代のバンカラが染み付いた古い木造の学生寮の玄関が写っていることに、今更になって気がつき、懐かしくなってしまっている。
「市内仮装パレード」を行うにあたり、どのような相談や打ち合わせが有ったのか等の記憶は全く無くなっているが、当時、既に、「女性上位」、「尻に敷かれる旦那さん」・・等という世相になりつつ有り、それをテーマにしたような仮装パレードとなったのだと思う。
多数の女性役が必要で、最下級生だったM男達が、最も恥ずかしい?女装仮装を強制?されたようだ。当時は、安価な貸衣装店等、多分無かったはずで、女装用衣類やグッズ等は、主に先輩寮生達が、アルバイト先やガールフレンド等、様々なルート、つてを頼って、借り集めたものだったのだろう。寮の集会所で、顔に白い物?をべったり塗られ、あーだ、こーだ、大騒ぎした記憶が有る。その中に、1着、ワンピース?が有ったが、皆、無理、無理・・・。多分、当時、痩せっこけていたM男に、「これ、お前着ろ!」と 先輩寮生に押し付けられたような気がする。
寮の玄関に異様な集団が勢揃い、「えい!、えい!、おー!」、看板を立てたリヤカー先導で、いざ出発、市内繁華街へ繰り出したものだった。よくもまあ、人の迷惑も考えず、街中を伸し歩いたものだと、今思うにぞっとするが、「学生のやることだから・・・」等と、目くじら立てず、笑ってはやしたててくれたのかも知れない。それだけまだ、世の中、のんびりしていたということだろう。女装仮装した事等、後にも先にもその1回だけであり、遠い昔の懐かしい想い出の1ページになっている。 

 

(つづく)

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「中学生日記より」その58(再)

2022年03月17日 16時50分29秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のことだ。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が全く無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると、すっかり喪失してしまっていた記憶が、断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。


その58 「田植えの頃」

昭和30年(1995年)6月1日、水曜日、天気 晴

1限目 「音楽」、太平洋、強弱記号
2限目 「図画」、モザイク、
3限目、4限目 「映画」、「月の物語」「運動の法則」「ガラス」「火の歴史」「ニュース」等

1、くりの木にたかる「くりまたばち」、退治してくれと、言われた(頼まれた)
2、田植えが始まったので、今日から昼前限り(授業は、午前中のみ)
3、父が休んだ。(川島の田植えのため)
  学校へ、自転車に乗っていった。
4、テキストの帰りにどこかの家に自転車をぶっつけた、
5,始めて(今年、初めて)、ふせばりをかけて見た(みた)
6、うちの田植えは、六日ときまった(決まった)。

帰家(帰宅) 12時10分

どうも、この年の新学期、「国語」担当教師のH教頭から、日記を付けるように言われ、付け始めた最初の日だったようだ。まずは、学校のことを書いているが、
1限目の「音楽」の「太平洋」って、歌の題名・・かな?、記憶が無い。
2限目の「図画」の「モザイク」、これは、いまだに記憶が有る。各自、家から、鶏の卵の殻を持ってくるように言われ、何個かの殻を持参、それを割り砕いて、小さな破片にして、絵の具だったかポスターカラーだったかで、何色か色付けし、その1片1片を あらかじめ下絵を描いた木板に、ノリで張り付け、乾燥した時点で、表面にラッカーニスを塗って出来上がりという授業だったと思う。そのことを「モザイク」と呼んでいて、後年になって、写真や映像をぼやかすことを「モザイクを掛ける」ということを知り、違和感を抱いた気がする。出来上がった「モザイク作品」は、秋の文化祭に展示されたものだ。
3限目、4限目は、映画を観たようだ。1学年1クラスの小さな小、中学校併設校だったこともあり、大教室に全生徒が集合、教育用映画を見る授業が、1年に何回か有った気がする。白黒で、退屈な内容の映画が多かったような気がするが、授業から開放され、ワイワイ、ガヤガヤ・・・、そんな情景が思い出される。

1、「くりの木にたかる」とは、「栗の木に群がる」・・の意。「くりまたばち」とは、どんな蜂だったのか、さっぱり見当がつかないし、記憶が無い。
2、「田植えが始まったので、今日から、昼前限り」
ほとんどの児童生徒が農家の子供だったため、当時、毎年、田植え最盛期や稲刈り最盛期には、1週間程度、「田植え休み」「稲刈り休み」が有ったが、その前後も、授業は、午前中で終わっていたようだ。子供と言えども、家の手伝いをするのが当たり前の時代だったのだ。
3、「父が休んだ。学校に自転車に乗って行った」
当時、M男の家には、父親が通勤で使っていた自転車、1台しか無く、自転車に乗りたくてしかたなかったM男だったが、普段は乗ることが出来なかった。通勤から帰る父親を待ち構えて、自転車を借り、乗っていたものだが、その日は、父親が親戚の田植えの手伝い(結のため)ため休んで 自転車が空いたことで、学校に乗って行ったようだ。
4、「テキストの帰り」?、意味が分からない。「どこかの家へ自転車をぶつけた」・・・、そんな記憶は、全く残っていないが、父親の自転車を乗り回していて、運転未熟?、他所様の家に自転車をぶつけたようだ。
5、「ふせばり」。当時、近所の子供達はつるんで、徒歩20分~30分の川に、夕方出掛け、1m程の棒の先に、釣り糸をくくりつけ、釣り針に、ミミズ等の餌を付け、川べりに大きな石で押さえて仕掛けて帰り、翌朝、ウグイ、フナ、ナマズ等が掛かるのを楽しみにする遊びが流行っていたが、「ふせばり」と呼んでいた。コイ等大物が掛かった話を聞いて、夢中になった時期が有ったが、M男自身、釣れた記憶がほとんど無いので、大した成果は無かったのだと思う。
6、「ウチの田植えは、6日と決まった」
当時、田植えや稲刈りは、親戚や知り合いが、予め打ち合わせ、日を決めて、順番に、お互い家族全員で手伝いに行く習慣が有った。後に、「結い」と呼ばれる習慣であることを知ったが、何日も他所の手伝いをし、田んぼが少なかったM男の家等は、半日程で簡単に終わってしまうのは、割が合わないことだと、子供心に考えたこともあったように思う。6月6日が、M男の家の田植えと決まったようだ。

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学生寮の記憶・その6

2022年03月15日 18時57分03秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

◯寮の食事事情
昭和30年代中頃、M男が、北陸の山村の親元を離れ、地方都市の学生寮に入寮し、生まれて初めて外で集団生活を始めた頃の話である。
入寮した翌日から、いよいよ、不安と緊張の内に寮生活スタートだったと思うが、まず第1に驚いたのは、寮の食事事情だったような気がする。寮と学校は、隣接していたため、M男等は、朝食、昼食、夕食共、基本、寮で食事をとっていたと思うが、ほとんど記憶曖昧になっている中で、朝食の記憶だけは、未だに脳裏に焼き付いている。古い木造に暗い食堂の朝食時間、調理場と食堂の境目の棚には、次々と、黄色のアルミ製容器に山盛りの温かいごはんと味噌汁が並べらたと思うが、おかずは無しだった。ご飯の隅に、タクワン2切れと、海苔の佃煮小さじ一杯程度が、ちょこんと乗っているだけという塩梅、これを各自、長テーブルに運び、食する分けだが、タクワン2切れと、海苔の佃煮小さじ1杯程度を、いかにチビチビ食べながら、ご飯の最後まで持たせるかを、常に考えながら食べたものだった。毎食、それが定番だったが、最初は、驚いたものの、人間馴れればそれが当たり前となり、空腹には、温かいご飯が食べられるだけで、有難いものだった。ただ、寮生の生活リズムはバラバラで、指定された朝食時間を随分過ぎてから、ノコノコ食堂に現れる者も多く、そんな連中は、冷たくなったご飯をかきこむしか無いのだった。昼食、夕食については、おかず1品位は、付いていたような気がするが、まるで思い出せない。おそらく、1日、3食の食費合計が、100数十円だったはずで、推して知るべしだが。

◯エッセン・飯盒炊爨
斯々然々、寮の三食は貧弱で、寮生は皆、常に腹を空かせていたものだったが、特に、夜中になるとたまらなくなり、ガスコンロ数台だけの寮の共同湯沸し場で、飯盒炊爨(はんごうすいさん)したりしたものだ。中には、先輩寮生が、バイト先等からもらってきた骨付き荒肉等を洗面器等で煮上げ、皆で突っついて腹を満たしていた者もいた。炊飯器も無し、鍋も無し、料理するような場所も無し、今のようなインスタントラーメン等も無し、貧乏学生の集団だった寮生とて、やたら外食したり、食料等を買うことも出来ず、M男にような農家出身の寮生に、たまたま実家から米や餅等が届くとたちまち、寄ってたかって食べていたものだった。そんな、山賊みたいな夜食をすることを先輩寮生達は、「エッセンする」と言っていたような気がする。ドイツ語で「食べる」「食事」の意味の言葉だが、なんともバンカラ風な行為で、登山、キャンプ気分である。先輩寮生から、飯盒炊爨のノウハウを教わったのも、そんな時だった気がする。中高年になってから、山歩き等をするようになったが、すでに飯盒炊爨しようという時代でも無くなっており、すっかり忘れてしまっていたが、学生寮生活の懐かしい思い出の1ページになっている。

(ネットから拝借した飯盒の写真)

ネットで調べてみると、
飯盒(はんごう)は、今でも、キャンプ等で使う人が有り、
通販でも安く売られているようだ。

(つづく)

 

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