歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

平壌・大成山地区 高句麗時代の瞻星台遺跡を発掘 

2009年12月23日 | Weblog
 平壌中心の大成山一帯で建設中の平壌民俗公園敷地内で、高句麗時代に作られた瞻星台遺跡(첨성대 유적)が金日成総合大学の科学者らにより発掘された。
 遺跡は大成山蘇文峰南側麓の安鶴宮跡西門の西方約250mに位置している。
 石と石灰を固めて積んだ四角形の中心施設とその外部を囲んだ七角形の補助施設で構成されている。
 遺跡の規模は総敷地面積約380㎡、四角形中心施設の上段南北長さ7.5m,東西幅6.7m、下部基礎部分の南北長さ7.2m、東西幅6.7m。七角形の石施設は一辺長さが約9.1~9.2mで直径は約20.6m。
 高句麗の首都が平壌の大成山一帯であった427~586年に築造して利用した瞻星台遺跡とみられる。
 新羅の慶州瞻星台、高麗の開城満月台の瞻星台、李朝時代の瞻星台らと同じように王宮の西側に位置している。
[参考:2009.12.11朝鮮新報、2009.12.23朝鮮新聞、聨合ニュース]
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鹿嶋市・塚原館跡 12/23一般公開および現地説明会

2009年12月23日 | Weblog
 戦国時代の剣術家、塚原卜伝(1489-1571)の居城とみられる塚原館跡が23日、初めて一般公開され、現地説明会が鹿嶋市沼尾の発掘調査現場で開かれる。
同館跡の発掘調査は、先月2日から続けていたもので、これまでに土塁跡や堀跡、三つの平たん地を確認。市教委は「卜伝の居城と断定はできないが、可能性は高い」と話している。
 遺構や遺物の推定年代は、15世紀半ばから16世紀後半で、卜伝が城主を務めた1533年から1557年までの時代と重なる。
 説明会は、午後1時半から3時半。
[参考:毎日新聞]

過去のニュースおよび情報
2009.11,28 鹿嶋市・塚原城 最有力地を発掘し戦国時代の遺構・遺物を発見 
 鹿嶋市教委は27日までに、戦国時代の剣術家・塚原卜伝(1489~1571)の養子先である塚原家が当主を務めたとされる塚原城(塚原館)の最有力地とされる鹿嶋市沼尾の発掘現場で、柱の遺構や陶器、銅製品などの遺物が見つかったことを明らかにした。今回出土した陶器や銅製品などの遺物は、15世紀半ばから16世紀末のものとみられている。
 これまで城跡の推定地だったが、戦国時代の城の存在が確認されたことになるという。周囲には同様の城はないことから塚原城の可能性は高まっているが、塚原家があったことを証明できる遺物は出ていなく、塚原城と断定はできないとしている。城跡は北浦を望む標高35mの台地部にあり、天然の要塞となっている。
 卜伝は鹿島神宮の神職の家に生まれ、幼少期に塚原家の養子となった。全国修業を終えて帰国し、44才(1533)の頃から68才(1557)の頃まで城主だったという。
 発掘調査は今冬で終了する。
[参考:茨城新聞]



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武蔵国分寺~武蔵府中熊野神社古墳散策

2009年12月23日 | Weblog
 武蔵国分寺跡から武蔵府中熊野神社古墳へは直線距離で約3kmです。
 残念ながら石室は見ることができません。府中市のホームページには、
 「市では、平成20年から古墳の保存整備工事を行ってきましたが、平成21年8月30日に竣工しました。上円下方墳の築造時の姿を、ぜひ、ご見学ください。古墳の外観はいつでも見学することができますが、横穴式石室は、保存のため埋め戻しをおこなっておりますので、内部の公開はしていません。境内にある現場事務所に仮設展示室を設け武蔵府中熊野神社古墳の解説パネル等を展示しています。」
としています。
 古墳の前にも説明板が設置されています。 

 武蔵府中熊野神社古墳の最寄り駅は南部線「西府駅」です。帰りがけに、「御嶽塚」も見てきました。
 途中、府中第五小学校の北東隅で発掘調査が行われていました。現場のお知らせ看板が見当たらず、何の発掘調査かわからないので、調査現場にいた方に聞いたところ奈良から平安時代にかけての遺跡ということでした。(それ以外は不明)

2011.3.7
 府中市郷土の森博物館で開かれている特別展「発掘!府中の遺跡2010 古代国司館と家康御殿」に行ってきました。そこで購入したパンフレットに「西府の中世遺跡」[1477次調査]が載っていました。すなわち、前述の府中第五小学校の北東隅で行われていた発掘調査のことでした。まだ、遺跡名がついていないようです。
 パンフレットでは、「中世の遺跡の姿をあらわしてきている」とし、「おびただしい数の建物の柱穴が見つかった。」と記しています。
 西府駅前の「御嶽塚」(直径25mの円墳)の前に立つ説明板には、
 「(略)、その後、中世になると屋敷を壕で囲む約200m四方の区画の中心に位置することになり、さらに、江戸時代には信仰の対象として祀られることになったと考えられます。(略)」
 と記されており、これらから、中世のイメージがぼんやりと浮かんでくるような気がします。
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武蔵国分寺散策 武蔵国分寺、本村八幡神社ほか

2009年12月23日 | Weblog
2009.12.23追記分
武蔵国分寺跡僧寺地区 遺構発掘現場現地見学会12/23 
 そういえば、武蔵国分寺跡資料館で、今日23日に講堂跡の遺構発掘現場現地見学会のチラシがおいてありました。詳細は書かれていませんでしたが、昨日の東京新聞の記事にありました。
 武蔵国分寺の僧寺地区を、2028年頃を目途に歴史公園として整備する方針の国分寺市は、昨年から今年にかけて金堂の北側に位置する講堂の発掘調査を行っており、九世紀中後期ごろに建て直された結果、全国の国分寺でも最大級の規模になっていたことなどが判明したという内容です。
 一番右の写真(拡大・南→北)の右側にブルーシートが掛かっている部分が、多分その場所と思われます。
 見学会は午前十時と午後二時からそれぞれ約一時間程度。僧寺金堂跡に集合。
[参考:2009.12.22東京新聞]

 自転車で武蔵国分寺から、武蔵府中熊野神社古墳を見学してきました。
 国分寺駅南口付近の標高約(以下A=)75mほどでしょうか。付近は国分寺崖線にかかり、かなり起伏が激しいです。国分寺駅から西の西国分寺方向へ進み、武蔵国分寺公園(A=80m)から南へ向かいます。こもれび公園(A=79m)を越えると、武蔵国分寺の最北にある薬師堂(A=76m)がありました。境内の説明版によると、
 「建武二年(1335)に新田義貞の寄進により国分僧寺(注1)の金堂跡付近に建立されたと伝えられる。その後、享保元年(1716)に修復されたが、宝暦年間(1751~1763)に現在地に再建された。」と記されています。
 堂内には、平安時代末期あるいは鎌倉時代初期の製作の国指定重要文化財・木像薬師如来坐像(高さ191.5cm)が安置されています。さらに南へ進もうとすると、参道は長く急な階段になっており、やむを得ず遠回りして自転車で向かいます。すると直ぐ南西に本村八幡神社がありました。祭神は応神天皇、創設は元和年間(1615~1624)ともいわれるそうです。
 急な坂道を下り、先ほどの階段(参道)の先に着きますと市指定重宝・仁王門(A=65m)がありました。説明板には、
 「宝暦年間(1751~1763)に建立された入母屋造の八脚門で、間口が9m、奥行きが3.6mあります。」と記されています。さらに、旧薬師堂に使用された材料を再利用したことがうかがえ、門の左右には、享保三年(1718)に造立された阿吽二体の仁王像が安置されるとしています。
 そこより、道なりに東へ50mほど進むと北側に、南を正面にした享保18年(1733年)建立の本堂(A=64m)がありました。本堂の南には市指定重宝・楼門(間口3間×奥行き2間)が立っています。説明板には、「この門は、米津出羽守田盛の元菩提寺として建立された米津寺(東久留米市)の楼門を明治28年に移築したものです。国分寺境内の諸建築物とともに、国分寺の変遷を知るうえで重要な建築物です。 *米津出羽守:出身地は三河国碧海郡米津村で出羽守田盛のときに久留米村前沢を知行地とする。石高は、1万五千石 大阪定番を勤める。」と記されています。
 本堂の西には万葉植物園が、東には今年10月18日にオープンしたばかりの武蔵国分寺跡資料館があります。お堂の前の道はお鷹の道と呼ばれ、途中一里塚の交差点を経由してJR国分寺の駅へ通じています。徒歩で約20分とか。
 さて、武蔵国分寺資料館では東京都指定文化財の銅造観世音菩薩立像ほか出土品が展示されているほか、来年6月27日まで「住田古瓦コレクションの世界」として200点近くの全国の国分寺や寺院の鐙瓦、文字瓦などが展示されています。一見の価値ありです。その中で、特に気になるものを列記してみると、
  五葉単弁蓮華文鐙瓦: 上野国分寺(上野国)
  五葉複弁蓮華文鐙瓦: 岡寺(大和国)
  七葉単弁蓮華文鐙瓦: 武蔵国分寺(武蔵国)(注2)
  七葉複弁蓮華文鐙瓦: 虚空蔵寺(豊前国)、出雲国分寺(出雲国)、弥勒寺(豊前国)
 でした。五葉ないし七葉のものだけを採り上げました。
 武蔵国分寺資料館を後にして、さらに南側の国分僧寺跡そして西にある国分尼寺跡を見学して、武蔵野府中熊野神社古墳へ向かいました。

(注1)国分寺は僧寺と尼寺のセットで置かれた。
(注2)文化財資料展示室に展示。(住田コレクションとは別物)

過去の関連ニュース・情報
 相模国分寺(相模国)珠文縁五葉単弁蓮華文
 2008.11.26 武蔵国分寺跡 南大門・講堂地区見学会
 2009.2.28 武蔵国分寺跡 「講堂」の基壇に瓦積の外装
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