2009.12.23追記分
武蔵国分寺跡僧寺地区 遺構発掘現場現地見学会12/23
そういえば、武蔵国分寺跡資料館で、今日23日に講堂跡の遺構発掘現場現地見学会のチラシがおいてありました。詳細は書かれていませんでしたが、昨日の東京新聞の記事にありました。
武蔵国分寺の僧寺地区を、2028年頃を目途に歴史公園として整備する方針の国分寺市は、昨年から今年にかけて金堂の北側に位置する講堂の発掘調査を行っており、九世紀中後期ごろに建て直された結果、全国の国分寺でも最大級の規模になっていたことなどが判明したという内容です。
一番右の写真
(拡大・南→北)の右側にブルーシートが掛かっている部分が、多分その場所と思われます。
見学会は午前十時と午後二時からそれぞれ約一時間程度。僧寺金堂跡に集合。
[参考:2009.12.22東京新聞]
自転車で武蔵国分寺から、武蔵府中熊野神社古墳を見学してきました。
国分寺駅南口付近の標高約(以下A=)75mほどでしょうか。付近は国分寺崖線にかかり、かなり起伏が激しいです。国分寺駅から西の西国分寺方向へ進み、武蔵国分寺公園(A=80m)から南へ向かいます。こもれび公園(A=79m)を越えると、武蔵国分寺の最北にある薬師堂(A=76m)がありました。境内の説明版によると、
「建武二年(1335)に新田義貞の寄進により国分僧寺(注1)の金堂跡付近に建立されたと伝えられる。その後、享保元年(1716)に修復されたが、宝暦年間(1751~1763)に現在地に再建された。」と記されています。
堂内には、平安時代末期あるいは鎌倉時代初期の製作の国指定重要文化財・木像薬師如来坐像(高さ191.5cm)が安置されています。さらに南へ進もうとすると、参道は長く急な階段になっており、やむを得ず遠回りして自転車で向かいます。すると直ぐ南西に本村八幡神社がありました。祭神は応神天皇、創設は元和年間(1615~1624)ともいわれるそうです。
急な坂道を下り、先ほどの階段(参道)の先に着きますと市指定重宝・仁王門(A=65m)がありました。説明板には、
「宝暦年間(1751~1763)に建立された入母屋造の八脚門で、間口が9m、奥行きが3.6mあります。」と記されています。さらに、旧薬師堂に使用された材料を再利用したことがうかがえ、門の左右には、享保三年(1718)に造立された阿吽二体の仁王像が安置されるとしています。
そこより、道なりに東へ50mほど進むと北側に、南を正面にした享保18年(1733年)建立の本堂(A=64m)がありました。本堂の南には市指定重宝・楼門(間口3間×奥行き2間)が立っています。説明板には、「この門は、米津出羽守田盛の元菩提寺として建立された米津寺(東久留米市)の楼門を明治28年に移築したものです。国分寺境内の諸建築物とともに、国分寺の変遷を知るうえで重要な建築物です。 *米津出羽守:出身地は三河国碧海郡米津村で出羽守田盛のときに久留米村前沢を知行地とする。石高は、1万五千石 大阪定番を勤める。」と記されています。
本堂の西には万葉植物園が、東には今年10月18日にオープンしたばかりの武蔵国分寺跡資料館があります。お堂の前の道はお鷹の道と呼ばれ、途中一里塚の交差点を経由してJR国分寺の駅へ通じています。徒歩で約20分とか。
さて、武蔵国分寺資料館では東京都指定文化財の銅造観世音菩薩立像ほか出土品が展示されているほか、来年6月27日まで「住田古瓦コレクションの世界」として200点近くの全国の国分寺や寺院の鐙瓦、文字瓦などが展示されています。一見の価値ありです。その中で、特に気になるものを列記してみると、
五葉単弁蓮華文鐙瓦: 上野国分寺(上野国)
五葉複弁蓮華文鐙瓦: 岡寺(大和国)
七葉単弁蓮華文鐙瓦: 武蔵国分寺(武蔵国)(注2)
七葉複弁蓮華文鐙瓦: 虚空蔵寺(豊前国)、出雲国分寺(出雲国)、弥勒寺(豊前国)
でした。五葉ないし七葉のものだけを採り上げました。
武蔵国分寺資料館を後にして、さらに南側の国分僧寺跡そして西にある国分尼寺跡を見学して、武蔵野府中熊野神社古墳へ向かいました。
(注1)国分寺は僧寺と尼寺のセットで置かれた。
(注2)文化財資料展示室に展示。(住田コレクションとは別物)
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