伊豆の国市教委の大仁町史編さん委員会が再調査を進めていた笠石山遺跡(同市神島)でこのほど、鉄剣と碧玉製管玉が出土した。5世紀後半の古墳に埋葬される遺物で、これまで住居跡と考えられていた同遺跡が墳墓であることが判明した。
沿海部の墳墓と特徴が似ており、狩野川水運を握っていた海人集団の埋葬地ではないかと推定している。
同遺跡は葛城山の中腹に位置し、標高70mの岩陰にある洞窟遺跡で65年に発見された。崩れた巨岩が天井になった形状で、幅約5m、奥行き6m、高さは最大で約2m。旧大仁町教委などが翌年1966年に、洞窟東側半分を発掘調査した際、焚き火したことをうかがわせる赤土の塊が見つかり、住居跡とされた。
18日から始まった今回の調査では未調査部分を発掘し、長さ24・5cm、幅4cmの鉄剣と首飾りの一部で大きさ3cmの「碧玉製管玉」を確認した。これらの遺物は住居跡からほとんど出土しないため墳墓と断定した。出土品から身分の高い人が埋葬された可能性が高いという。
田方平野には洞窟遺跡を埋葬場所とする古墳は他に確認されていないが、このような特徴を持つ古墳は、千葉県や長野県などで同じ時代に海や川を利用した物資運送集団の首長とみられる洞窟埋葬が確認されている。
編さん委員会は、同遺跡近くの天野地区に住んでいた天野氏の祖先が埋葬され、海と通じる狩野川水運を握っていたとも考えられるとしている。
[参考:2009.12.24静岡新聞、12.26毎日新聞]
沿海部の墳墓と特徴が似ており、狩野川水運を握っていた海人集団の埋葬地ではないかと推定している。
同遺跡は葛城山の中腹に位置し、標高70mの岩陰にある洞窟遺跡で65年に発見された。崩れた巨岩が天井になった形状で、幅約5m、奥行き6m、高さは最大で約2m。旧大仁町教委などが翌年1966年に、洞窟東側半分を発掘調査した際、焚き火したことをうかがわせる赤土の塊が見つかり、住居跡とされた。
18日から始まった今回の調査では未調査部分を発掘し、長さ24・5cm、幅4cmの鉄剣と首飾りの一部で大きさ3cmの「碧玉製管玉」を確認した。これらの遺物は住居跡からほとんど出土しないため墳墓と断定した。出土品から身分の高い人が埋葬された可能性が高いという。
田方平野には洞窟遺跡を埋葬場所とする古墳は他に確認されていないが、このような特徴を持つ古墳は、千葉県や長野県などで同じ時代に海や川を利用した物資運送集団の首長とみられる洞窟埋葬が確認されている。
編さん委員会は、同遺跡近くの天野地区に住んでいた天野氏の祖先が埋葬され、海と通じる狩野川水運を握っていたとも考えられるとしている。
[参考:2009.12.24静岡新聞、12.26毎日新聞]