歴歩

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桜井市・纒向遺跡 祭祀用供物か、大量の魚や動物の骨、植物の種子などを確認

2011年01月21日 | Weblog
                          (写真:ヘダイ)

 桜井市教委は21日、纒向遺跡で昨年夏の調査で大量の桃の種が出土した穴の土を詳細に分析した結果、祭祀の際に供えたとみられるタイなどの魚の骨、シカなどの動物や鳥の骨、植物の種子などが見つかったと発表した。
 それらは大型建物(3世紀前半)の南側にあった柵の解体後に掘られた穴(南北約4・4m、東西約2・2m、深さ約80cm)から見つかった。
 市教委が土坑内の土嚢400個分の土をふるいにかけ、動1000点以上の物の骨や歯と約9800点の植物の種や花粉を採取した。骨や歯は宮路淳子・奈良女子大准教授(環境考古学)、種は金原正明・奈良教育大教授(植物考古学)が分析した。
 見つかった骨や種子は下記のとおり。
 ■ マダイ、ヘダイ、サバ、アジ、イワシ、コイ科などの魚の骨 
 ■ カモ科などの水鳥、ニホンジカ、イノシシ、ネズミなどの動物の骨、両生類のカエル
 ■ 植物は73種類、モモを筆頭にイネ、アサ、コウゾ、ウリ、ヒョウタン、アワ、ウリや果実酒原料のニワトコサルナシなど。
 また、金原教授による花粉の分析で、土坑周辺にモモ林が広がっていたと推定できるという。(注1)
 これらは、人が調理して食べた形跡がなく、供物と推定している。
 現地説明会はなく、市立埋蔵文化財センターで22日~2月27日に出土品が展示される。
[参考:時事通信、共同通信、毎日新聞、NHK放送、MBS毎日放送]

お供え物?動植物の骨や種=穴で大量発見―奈良・纒向遺跡(時事通信) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2010.9.17纒向遺跡 大型建物跡の南側から桃の種2000個以上と祭祀関連遺物が出土

2012.6.10追記
 2012.6.10付け読売新聞朝刊で、花粉の分析をしたところ桃の花粉が約1%含まれていたとしている。
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明日香村・飛鳥京跡 飛鳥浄御原宮の一部か、石組み溝と石敷き出土

2011年01月21日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が20日、明日香村の飛鳥京跡にある天武、持統両天皇の宮殿、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)跡の内郭の北側で、同宮と同時期の7世紀後半の石組み溝と石敷き、塀跡とみられる柱列が見つかったと発表した。周辺は役所群があったと想定され、計画的な区画整備が明らかになったとしている。
 内郭の北約100mの場所が調査され、出土した石組み溝(幅40cm、深さ10cm)は直角に東に曲がっており、南北5m、東西1m分を確認。石敷きはその周囲など東西、南北各5mの範囲であり、こぶし大の石を使っていた。 石敷きの20~30cm下層には小石敷きがあり、さらに下層は、黄色い山土で厚さ20~30cmに整地していた。 同宮の造営で土地利用が変更された可能性がある。また、柱穴は水路部を隔てて南北に5基見つかった。板塀だったとみられ、石組み溝と同様、同宮の建物群と同じ方位を向いていた。
 今回の調査地の東側では、昭和34年(1959)の奈良国立文化財研究所(当時)による試掘調査で発掘された石敷きとつながり、石敷きの面積は東西32m、南北40mに広がることが明らかになった。
 また、石敷きの西側で、南北16・5mに並ぶ柱穴5基が出土。石敷き遺構の西端を区画する塀だった可能性がある。
 宮の北側には、役所などの施設があったとみられているが、建物跡は見つからなかった。
 今回の調査は、農業用水「吉野川分水」の改修工事に伴って実施されたが、半世紀前の同分水の整備で、石敷きや柱跡が壊されていたことが明らかになり、公共事業と文化財保護のあり方が改めて問われている。
 現地説明会はなく、成調査果は橿考研付属博物館(橿原市)の速報展(2月11日~3月6日、月曜休館)で展示される。
[参考:読売新聞、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.5.20飛鳥京跡 大型建物遺構を確認、飛鳥浄御原宮の関連施設か
 2090.2.10飛鳥浄御原宮 北限溝の北に大型建物跡が出土
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木津川市・上狛北遺跡 恭仁京の京域の遺構か 溝跡が見つかる

2011年01月21日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは20日、木津川市山城町上狛(かみこま)の上狛北遺跡の発掘調査で、恭仁京に都が置かれていた奈良時代中期の長さ約100mの溝跡や建物跡、大量の須恵器などが見つかったと発表した。 恭仁京の関連施設跡の可能性もある。 恭仁京をめぐってはこれまでの発掘調査で、左京とみられる区域に大極殿の回廊跡などが見つかっているが、右京の遺構は確認されていなかった。
 続日本紀に
天平十二年(740)十二月十五日丁夘。 皇帝在前幸恭仁宮。始作京都矣。太上天皇皇后在後而至。
天平十三年(741)九月十二日己未。 (略) 從賀世山西道以東爲左京。以西爲右京。
と記され、740年12月に平城京から遷都し、聖武天皇が造営した恭仁京の構造について「鹿背山を挟み、左京と右京に分かれる」との記述がある。 発見された溝跡は恭仁宮跡の西約5kmに位置し、鹿背山(同市)の西側にあり、恭仁京の右京の遺構ではないかとみている。
 確認された溝跡は幅が最大1m、深さは20~80cmで約100mにわたり、ほぼ正確に南北方向に掘られていた。西側に沿う形で、掘立柱の建物跡3棟も見つかった。溝内の土器から、ともに8世紀中ごろの遺構とみられ、同時代の井戸跡や、恭仁宮跡と同じ唐草文のある軒平瓦も発見された。
 溝跡は規模や方向から、国家か権力者が計画的に掘ったもので、建物も、役所や邸宅の一部と考えられるとしている。
 遺構の発見地点は、歴史地理学者の足利健亮氏(故人)が、続日本紀などをもとに復元した恭仁京域の「右京四条三坊」に当たるほか、山背国府があったとする説もある。
 現地説明会は23日(日)午前10時半から開かれる。
[参考:京都新聞、共同通信、産経新聞、京都府埋蔵文化財センターHP]

過去の関連ニュース・情報
 2010.10.23恭仁宮跡 大極殿の南面回廊跡の遺構を確認 続日本紀の記述に符号
 2009.11.22恭仁宮跡・朝集殿院の区画が判明 平城宮と同形
 2008.11.27 恭仁宮跡・朝堂跡?見つかる

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