歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

大野城市・古野遺跡 丘陵から24基の小規模方墳と円墳(群集墳)を発掘、四禽文鏡も出土

2011年12月16日 | Weblog
 大野城市教委は15日、同市乙金2、3丁目の古野遺跡の丘陵から24基の小規模方墳と円墳(群集墳)を発掘し、1基からは県内3例目の銅鏡「四禽文鏡(しきんもんきょう)」や県内4例目の青銅製鈴などが見つかったと発表した。
 丘陵の最も高い所にある2基のみが方墳で、石棺系竪穴式石室を持つ。5世紀後半の須恵器が出土し、ここから一帯の古墳築造が始まったとみられる。
 竪穴系横口式石室をもつ6基の円墳は、方墳築造後間もなくして造られた。
 横穴式石室をもつ4基(直径4~7m)の円墳は、6世紀末前後に造られたらしい。子供用とみられる、他のものより半分程度の石室もある。
 8号墳は、東西2m、南北0・9mの竪穴系横口式石室があり、直径7cmの四禽文(しきんもん)鏡が被葬者の胸の辺りから、100点以上のガラス玉が顔の付近から見つかった。 腰付近にはまだ音が出る直径2・3cmの鈴があった。 ほかに鉄剣、鉄鏃、鉄鎌、鋤先、須恵器の壺なども埋葬されていた。 小地域を治める中小クラスの有力者の墓と考えられるという。
 付近は乙金古墳群でこれまで100基超の古墳が出土しているが、今回発掘した群集墳がその先駆けだった可能性もあるという。
 現地説明会が7日午前10時~正午、乙金天満宮先で開かれる。
[参考:西日本新聞、毎日新聞]

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全南霊岩・チャラボン古墳 周溝から祭祀木器が出土

2011年12月16日 | 韓国の遺跡・古墳など
 霊岩郡は始終面泰澗里のチャラボン古墳(영암 자라봉고분)の20年ぶりの発掘調査を大韓文化遺産研究センターに依頼して、6世紀初めの築造が確認された。 さらに引き続いて周溝の発掘調査が行われており、霊岩郡は14日、100点余りの円筒形土器(원통형 토기、注1)とともに祭祀木器が完全な状態で出土したと発表した。
 発掘した祭祀木器には、笠型木製埴輪(개형 분주목기)、長さが520cmに及ぶ幡竿形木器(깃대형 목기)、両刃形木器(양날형 목기)があり、韓国では初めての出土例という。
 これら祭祀木器は単に古墳周溝に廃棄されたわけでなく、周溝内部に設けられた木造構造物に意図的に貢献したとみられるとしている。
 このような祭祀木器の出土は、前方後円墳築造と関連して進行された葬制の一面と考えられる。
[参考:聨合ニュースほか]

(注1) 円筒形土器: 円筒埴輪のことか。
 辞書にない語句がいくつかあり、同じ物を表す語句が韓国語と日本語で違う、そして写真が公開されているのに、写っている木器が何なのか説明がないために、正確に内容を把握することができない。したがって、内容に間違いがあるかもしれないので、そのつもりでお読みいただきたい。

関連ニュース・情報
 2011.11.23 全南霊岩・チャラボン古墳 20年ぶりに再発掘し、6世紀初めの築造を確認
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光州市・新昌洞遺跡 初期鉄器時代から高麗時代まで持続して活用された生活の場

2011年12月16日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立光州博物館は14日、7月29日から初期鉄器時代から三国時代の農耕複合遺跡の新昌洞遺跡(광주 신창동 유적、史跡375号)を発掘調査した結果、新たに紀元前2世紀後半-1世紀頃の円形土壙6ヶ所と4-5世紀の三国時代住居跡10基が見つかり、さらに、高麗時代以後の方形土壙まで発見され、この一帯が紀元前2世紀後半以後高麗時代まで持続して人間生活の主要空間として活用されたことがわかったと発表した。
 特に、新昌洞半月村北西の丘陵南側斜面で三国時代住居跡が密集分布するとことがわかり、これら住居跡は空中から見下ろすと全て方形であり、四柱式が中心をなしていることが明らかになった。
 これら住居跡から、かまど枠、鋳造鉄斧(農工具用)、打捺文土器、灰青色硬質土器、砥石、防錘車などが出土した。
[参考:聨合ニュース]
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宮城県松島町・瑞巌寺本堂の発掘調査で、前身・円福寺の僧堂と発堂の遺構が出土

2011年12月16日 | Weblog
 宮城県教委と松島町教委は14日、瑞巌寺本堂の発掘調査で出土した遺構から判断して、瑞巌寺と同じ場所に中世寺院の「円福寺」(13世紀中頃創建)が建っていたことが確定したと発表した。
 本堂南側から僧堂とみられる、東西18m、南北7.3mにわたって約45cm四方の石を敷き詰めた「四半敷(しはんじき)」の床が出土した。 東西30m、南北40mの大きさで建てられたとみられる。
 また、本堂中央部では法堂(はっとう)とみられる18m(5間)四方の建物跡が見つかった。
 伊達政宗が創建した瑞巌寺が、円福寺の遺構上に同じ方向に建てられていたことがわかった。
[参考:河北新報、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.10.2瑞巌寺 前身の円福寺の基壇発見 東北初「四半敷」舗装
  「円福寺」跡から、禅寺特有の「四半敷」で舗装された基壇と、大型建物の柱の礎石(直径約1m)1個と、礎石を抜いたとみられる穴数カ所を確認した。
 2011.8.31瑞巌寺 本堂下の発掘調査で、江戸初期の創建当時、三和士は切石を並べた石敷き
  部分的に掘り下げた場所から、瑞巌寺建立以前の鎌倉時代に建っていた円福寺のものとみられる切石が見つかる。
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福岡県みやこ町・京ケ辻遺跡 5世紀頃の須恵器製作工人の集落跡を発見

2011年12月16日 | Weblog
 九州歴史資料館(福岡県小郡市)は15日、京ケ辻遺跡(同県みやこ町有久)で、古墳時代中期(5世紀頃)に須恵器を作っていた「工人」のものとみられる集落跡が見つかったと発表した。 国内で須恵器が作られ始めた5世紀前半の工人集落跡が出土するのは九州初。
 見つかった集落は直径約100mの範囲に広がり、16棟の竪穴式住居跡、4棟の掘立柱高床倉庫跡、調理用の土師器など数百点とともに、高坏や壺など40点以上の須恵器が見つかった。 これらは、京ケ辻遺跡の北東約1kmにある居屋敷遺跡(いやしきいせき、同町徳永)の窯跡で1989年に見つかった須恵器と形や色合いがよく似ており、また窯跡と集落跡の距離が近いため、居屋敷遺跡で須恵器を作っていた技術者の集落の可能性が非常に高いとしている。
 また、京ケ辻遺跡にはかまどの跡があり、朝鮮半島の伽耶地方の遺跡と共通しているという。
[参考:西日本新聞、毎日新聞]
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橿原市東池尻町 「磐余池」候補地から堤や建物跡(6世紀後半)を発見

2011年12月16日 | Weblog
 橿原市教委が15日、同市東池尻町で日本書紀や万葉集に登場する「磐余池」とみられる人工池の堤の遺構と大型建物跡などが出土したと発表した。 日本書紀には、磐余池のほとりに用明天皇(?-587、在位585-587)が池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)を営んだとの記述があることから、宮殿の関連施設だった可能性もある。 これまで飛鳥時代(7世紀)より古い天皇の宮殿は確認されていなかった。
 一帯は藤原京跡の一角で、地形や「池」のつく地名の多いことなどから磐余池の候補地とされていた。 10月から市道拡幅工事に伴って発掘したところ、厚さ約1.4mの土を盛って斜面を整えた跡が見つかり、長さ81m、幅8m、高さ2mの堤跡を確認した。
 周辺の地形などから、堤は「へ」の字状に伸び、幅20~55m、高さ3m、長さ約330mと推定される。複数の谷の水を堰き止め、南北約600m、東西約700mの範囲に、手のひら形をした面積8万7500㎡の池を形成したらしい。 平安時代までは存在したとみられる。 川を堰き止めるダム式の人工池としては、狭山池(7世紀前半、大阪狭山市)が最古とされてきたが、さらに年代を遡り国内最古となる。
 さらに、堤の上で南北17.5m以上、東西4mの掘立て柱建物跡が出土した。 一緒に出土した土器から、6世紀後半ごろに建てられたとみられる。 堤と並行して築かれており、池を眺める用途だった可能性が高いとしている。
 磐余池は、天武天皇の第3皇子で、謀反を企てたとして686年に自害に追い込まれた大津皇子の辞世の句「ももつたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」(万葉集3-416)に詠まれ、橿原市や隣の桜井市周辺にあったと考えられてきた。
 現地見学会は17日(土)午前9時から開かれる。
[参考:時事通信、朝日新聞、読売新聞、産経新聞]

 橿原市教委の現地見学会資料では、「大藤原京左京五条八坊の調査」としている。

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