歴歩

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岐阜市・織田信長公居館跡 約3000㎡に及ぶ巨大庭園跡を発見

2011年12月21日 | Weblog
 岐阜市教委は20日、岐阜公園内の「織田信長公居館跡」の第4次発掘調査、池の遺構や建物跡など庭園の全体像が判明したと発表した。池の面積は約120㎡、居館跡一帯が約3000㎡に及ぶ巨大な庭園であったことが確認されたという。
 今回は金華山ロープウェー乗り場の東地点約300㎡を対象に、過去に掘っていない箇所を調査した。15日までの発掘調査で、約120㎡の池の遺構と排水路(幅約30cm、長さ約2m)の跡が確認されたほか、池に隣接して建物の礎石とみられる石や焼けた壁土が見つかった。
 また、池や建物の東側にある谷川沿いでは幅1・8m、長さ20m以上の石敷きの通路も見つかった。通路西側の護岸は石垣ではなく、庭石のようなもので石組みされていた可能性が高い。通路は緩やかなスロープで、付近にあったと推測される信長の居館まで谷川を眺めながら行き来できたとみられる。
 宣教師ルイス・フロイスが残した著書『日本史』の内容と矛盾しないとしている。
 23日午前10時から正午まで、ロープウエー乗り場東側で現地説明会が行われる。
[参考:岐阜新聞、中日新聞、読売新聞、毎日新聞、岐阜市HP]

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 織田信長公居館跡
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東京文京区 小日向神社

2011年12月21日 | Weblog
小日向神社(こびなたじんじゃ) 文京区小日向2-16-6
ご祭神は、建速須佐之男命(氷川大神)、誉田別皇命(八幡大神)。


 氷川神社は、天慶三年(940)春、常陸国大豫の職にあった平貞盛が、この地方を平定し、その報賽として現在の水道2丁目の日輪寺の上の連華山に建立した。
 八幡神社は貞観三年(860)の創立で旧社名を田中八幡宮と称し音羽町九丁目(現、文京区音羽1丁目)に鎮座していた。
 明治2年9月に氷川神社と八幡神社を当地(服部権太夫屋敷跡)に合祀し、同4年に地名を以って小日向神社と改称した。


 「江戸名所図会」(注1)の恵日山金剛寺(注2)の図会を見ると、金剛寺の左に本法寺、さらに左に日輪寺が見え、日輪寺の上には氷川明神社(神社)が鎮座している。日輪寺と氷川神社は階段で繋がれており一体であったようだ。その氷川明神社(祠)については、「慈照山日輪寺といへる禅林にあり。祭神は当国一宮に同じ。(略)中古太田道灌の再興にして、小日向の鎮守なり。(略)」と記されている。明治の初年に神仏混淆を禁じられたため、氷川神社は前述の服部権太夫屋敷跡に移ることになったわけである。
 日輪寺を訪問すると、本堂内の左に氷川神社と書かれた提灯が飾られていた。日輪寺と金剛寺はともに曹洞宗寺院で駒込吉祥寺の末寺であった。
(注1)「 江戸名所図会」(斎藤長秋、莞斎、・月岑の著、天保年間(1830-184)に斎藤月岑が刊行)
(注2)昭和25年に中野区上高田に移転した。
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