歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

福岡市西区・金武青木A遺跡 古代山城・怡土城に関する木簡が出土

2009年12月12日 | Weblog
 市教育委員会は11日、奈良時代の8世紀、唐や朝鮮半島に対する防衛のために築かれたとされる怡土城跡(前原市)に近い金武青木A遺跡(福岡市西区金武)から、「延暦十年」(791)あるいは「怡土(いと)郡」などと書かれた木簡9点が出土したと発表した。
 「怡土郡擬大領」「郡専當其事案主」「□令専當其事案主□」「三二人」と記された木簡も見つかり、怡土郡の長官に対し、城の造営に携わる人員の手配を指示したものとみられ、大宰府防衛の拠点として同郡に築かれた古代山城「怡土城」の造営とのかかわりもうかがえるという。
 別の木簡には「志麻郡」や人名の「物部嶋□、谷田部長足」「□公浄足、三家連敷浪」(注)などとあり郡を越えて人が動員された可能性がある。
 同遺跡は6月から調査を開始。8世紀中頃から末期にかけて使われたとみられる建物跡が見つかり、周辺から鉄を作った鍛冶炉跡や木簡や土器などが発見された。築城や武器製造のために鉄を供給した施設があったとみている。延暦10年(791)は、施設が使用された期間の最終盤に当たるという。同遺跡から木簡が出土したのは今回が初めて。
 現地説明会が13日午前10時~午後3時に開かれる。市埋蔵文化財センター(博多区)では、15~20日まで出土品の展示会が開かれる。
[参考:西日本新聞、読売新聞、スポーツニッポン新聞]

(注)「三家連」
①「古事記」神武天皇の条に「神八井耳命は…筑紫の三家連(みやけのむらじ)…等の祖なり。」と記される。
②「観世音寺文書・筑前国」の「三家連豊継解案」(天平宝宇二年、758)に、早良郡額田部人夫戸主・三家連息嶋、同豊継、三宅黄金などの名が見える。

福岡・金武青木遺跡 広域防衛示す木簡出土 怡土城 近隣から人員動員?(西日本新聞) - goo ニュース

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鳥取県八頭町・奈免羅・西の前遺跡 弥生時代中期後半の有鉤銅釧片が出土

2009年12月11日 | Weblog
 八頭町教委は11日、同町船岡、下濃にまたがる奈免羅(なめら)・西の前遺跡で、弥生時代中期(紀元前後)の青銅製腕輪・有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)の破片(長さ3cm、幅0・7cm、厚さ0・4cm)が山陰両県で初めて発見されたと発表した。当時の先進地域である北部九州や畿内と交易していた勢力が、因幡南東部に存在したことを裏付ける貴重な史料としている。
 有鉤銅釧は、南方に生息するゴホウラ貝で作られた腕輪を模したもので、一部が角のように突出しているのが特徴。
 釧は縄文晩期(紀元前3世紀頃)から、九州北部で大型巻き貝の殻を使って作られるようになり、弥生中期からは鉤(かぎ)状の突起を持つ青銅製に変化。身分の高い層が呪術的な目的で身に着けていたと見られている。福岡県で古墳時代の鋳型が見つかり、関東や近畿地方を中心に全国30遺跡で破片を含めて80個が出土している。北部九州を除いて、日本海側では南新保C遺跡(石川県)、西山公園遺跡(福井県)、大風呂1号墳(京都府)に次いで4例目の出土となる。
 腕輪が出土したのは竪穴住居跡で、一緒に出土した土器から時代を特定した。銅質がよく、錆もほとんどなかった。日本海沿岸部ではなく内陸部で出土したことから、この地域が広範囲な交易の拠点となっていた可能性があるという。
 町教委が10月まで約6700㎡を発掘調査していた。弥生時代中期から古墳時代初期の集落跡で、竪穴住居跡16棟、木棺墓4基などが確認され、土器や石器、水晶の玉などが出土した。
 21日まで同町宮谷の郡家公民館で有鉤銅釧などの出土品を展示している。
[参考:12.11山陰中央新報、日本海新聞、12.17読売新聞、12.19毎日新聞]
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仙台城三の丸跡 榧森御酒屋敷を裏付ける木簡が出土し公開

2009年12月11日 | Weblog
 仙台市教委は10日、この7~11月に同市青葉区の仙台城三の丸跡(現市立博物館)に隣接する外側の門付近(注)を発掘し、仙台藩主伊達政宗ゆかりの「造酒屋敷」が仙台城内にあったことを裏付ける木簡などの出土品を公開した。
10月24日に市民向け遺跡見学会を開催し、その時点では屋敷内の排水施設と考えられる石組み溝や井戸跡が見つかっていた。
 その後、井戸跡から出土した遺物を洗浄し精査したところ、墨書木簡35点があり、このうち25点から文字が読み取れた。
 その中3点は表に「御酒塩(おさかじお)」(料理酒)、裏に「榧森与左衛門」と記されていた。「御」は献上を意味しており、伊達家に献上された料理酒に付けられた札とみられる。裏面に記された名は正徳元年(1711)から寛延2年(1749)まで榧森家6代当主を務め、5代仙台藩主伊達吉村に御用酒を献上してきた人物名と一致した。
 その他の木簡は表に「御年貢米」、裏に産地や差出人の名が書かれていた。これらは年貢米を藩に納めた際に使われた札で、仙台近郊で収穫された年貢米を酒造りのために榧森家に支給されていたことを示すとみられる。
 井戸跡からの出土品は、井戸を埋め立てた際に廃棄された遺物の可能性が高い。木簡の他にも米俵や四斗樽以上の大型樽に使われた側板、さまざまな形をした木栓、大型の陶器瓶の破片や家紋を刻んだ瓦などが見つかった。
 榧森家は最高級酒とされた南都(奈良)流の酒を造り、「御酒屋(おさかや)」と呼ばれた。仙台藩祖の伊達政宗が、徳川家に剣術指南をしていた柳生宗矩(むねのり)の紹介で大和国(現奈良県)から招き、城中に屋敷を与えて酒を造らせ「榧森(かやのもり)」と名乗らせた。慶長13年(1608)から廃業した明治9年(1876)まで酒を造り続けた。
 市教委は来年以降の調査で酒造地跡の解明などに取り組む方針。
[参考:河北新報、毎日新聞、読売新聞]

(注)博物館北側直近の清水門跡付近のことか。



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奈良市・興福寺 南大門跡から地鎮に使う鎮壇具が出土

2009年12月10日 | Weblog
 奈良文化財研究所と興福寺は10日、同寺南大門の基壇跡から奈良時代前半の創建時に埋納した地鎮具とみられる通貨・和同開珎やガラス玉が入った須恵器の壺が見つかったと発表した。古代寺院では金堂や塔などの中心伽藍で多く見つかっているが、門跡では珍しい。
 興福寺は藤原氏の氏寺であり、祭祀にかかわる家柄だったので、地鎮を丁寧に行った可能性があるという。
 壺は基壇中心から北に約90cmずれた穴(一辺約60cm、深さ約50cm)に埋められており、灰色で口径18.7cm、高さ15.5cm、底部に直径9cmの高台を持つ。口の部分は割れていたが、胴部はほぼ完全な状態だった。土が詰まっており、エックス線撮影などで和同開珎5枚と、数珠とみられるビーズ状のガラス玉13個(直径約6mm、厚さ約3mm)が納められていることが分かった。
 興福寺では明治時代に中金堂の基壇から水晶や金などの鎮壇具約1500点が出土して国宝に指定されている。今回7例目となる。奈良時代の寺院の門からは初めてだという。
[参考:共同通信、読売新聞、産経新聞]

興福寺創建時の土地の神へのささげ物出土(読売新聞) - goo ニュース

過去のニュース
 2009.9.25興福寺 創建当初の南大門の基壇跡出土

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津市・多気北畠氏遺跡 室町後期の建物跡など確認 12日現地説明会

2009年12月10日 | Weblog
 津市教委は、津市美杉町の多気北畠氏遺跡の第32次調査で、「多気北畠氏城館跡」の東側から16世紀中頃~後期とみられる3棟の掘っ立て柱建物跡や石組みの井戸1基などを確認したと発表した。
 現地説明会が12日午後1時半から開かれる。
[参考:読売新聞]

過去のニュース
 2009.1.8多気北畠氏遺跡 刀の鞘の栗形が県内初出土



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福知山市・向野古墳群 20号墳からネックレス?が出土 12/12現地説明会

2009年12月09日 | Weblog
 市教育委員会は8日、向野古墳群(同市大字向野南羽合)の7基を今年5月から発掘調査し、西支群の20号墳(直径約14・5m、高さ約2m)から勾玉や水晶製のそろばん玉、ガラス玉など52点の玉類が連なった状態で見つかったと発表した。
 出土した玉類は、紐状のもので繋がれネックレスのようにして使われていたとみられる。このほか、鉄刀や須恵器なども出土した。
 向野古墳群は、古墳時代後期(5世紀末~6世紀初頭)の円形墳38基からなる。これまでに北、南の調査を行っており、今回は西の6基と南の1基を調べ、うち4基で計7つの埋葬施設を確認した。
 埋葬施設の造りや方位がこれまでの調査内容と合い、方向を決める要因は「方位」ではなく「地形」にあると考えられることが、古墳群全体の共通性として見えるという。
 出土した須恵器は、古墳群で最古とされる南支群の須恵器より新しい形状で、古墳群の築造が南から西、北へ移ったことが明らかになったという。
 12日午前11時から現地で説明会が開かれる。
[参考:両丹日日新聞、京都新聞]

過去のニュース
  向野古墳群 上下2段の埋葬施設を持つ円墳を発掘



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御所市・中西遺跡 奈良県最古級の水田跡

2009年12月08日 | Weblog
 県立橿原考古学研究所が5日、弥生~鎌倉時代の複合遺跡「中西遺跡」(御所市室、條)で県内最古級となる弥生時代前期(約2400年前)の水田跡が約6千㎡にわたって見つかり、現地で地元住民向けの説明会を開いた。
 水田跡は、調査地の広がりを考慮すると1万㎡を超える可能性があるという。
 弥生前期の水田跡は、同市玉手や、橿原市川西町の萩之本遺跡でも見つかっているが、いずれも1千㎡程度だった。
[参考:朝日新聞]

過去のニュース
 2010.8.5 御所市・中西遺跡 弥生時代の埋没林を発見 伐採痕が残る切り株も
 2009.10.2御所市玉手地区 県内最古級の水田跡



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浜松市・浜松城跡  天守門跡と富士見櫓跡から礎石などの遺構 12/5現地説明会

2009年12月08日 | Weblog
 今川領の制圧を開始した徳川家康が、武田信玄の侵攻に備えるために築城したとされる浜松城。市が再整備のために11月16日に着手した発掘調査で、天守門跡と富士見櫓(やぐら)跡から、それぞれ建物の礎石とみられる遺構などが確認された。
 天守門と富士見櫓は17世紀後半の「遠州浜松城絵図」に描かれ、それ以降の絵図にも登場する。
 これまでの発掘で、天守門跡から4基の礎石、富士見櫓跡からは2基の礎石が確認されていた。
 天守門跡からは土台部分となる4個の礎石と、2つの抜き取り穴が発見された。礎石と礎石の間隔は約4・5mで、周囲には丸瓦と平瓦を組み合わせた排水溝も見つかった。礎石の幅から観音開きの扉の幅と高さは約4mで、門の上に櫓が乗る2層式だったとみられる。出土した大量の瓦の中には安土桃山時代の物もあり、建築にかかわったのは徳川家康以後の城主だったとみられる。
 天守閣北東の富士見櫓跡では、3個の礎石とその間に床板を乗せる地覆石が見つかった。間隔が京間(六尺五寸=197cm)を用いた構造と判明。北側の石垣までのスペースでは庭園装飾に用いる玉砂利も多数見つかった。一般的な櫓は土蔵作りだが、基礎の特徴から、邸宅風の部屋があったことをうかがわせる。造営は16世紀後半か17世紀初めで、宴会や茶の湯などを催す風雅な場だった可能性がある。江戸時代初期のものとみられる細桔梗紋の瓦も見つかった。
 5日、発掘調査地説明会があり400人余が参集した。
 市は詳しく成果を検証した上、天守門と富士見櫓を忠実に復元する計画。2012年度にも復元に取りかかりたいとする。

浜松城の前身は曳(引)馬城で、築城時期は永正年間(1504-1520)とも云われる。
浜松城城主一覧(家康以降17世紀中まで)
 徳川家康 1570 (56万石)
 菅沼定政 1586 ( ? )
 堀尾吉晴 1590 (12万石)
 堀尾忠氏 1599 (17万石)
 松平忠頼 1601 (5万石)
 水野重仲 1609 (2.5~3.5万石)
 高力忠房 1619 (3.2万石)
 松平乗寿 1638 (3.6万石)
 太田資宗 1644 (3.5万石)
[参考:中日新聞、静岡新聞、読売新聞、浜松市HP]
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韓国・高敞鳳徳里古墳群1号墳4号石室墳 9月に出土した金銅製履物に迦陵頻伽像を発見

2009年12月07日 | Weblog
 今年9月、全北高敞郡にある百済時代の鳳徳里古墳群(고창 봉덕리 고분군)1号墳4号石室墳から出土した金銅製履物の踵(かかと)の部分に、透彫で装飾された韓国最古の迦陵頻伽像と力士像の模様が確認された。既に力士像は9月の時点で発見されていたが、迦陵頻伽像は新たに判明された。
 百済の迦陵頻伽像は1993年に陵山里寺跡(忠南扶余郡)で出土した金銅大香盧(7世紀前半)や、1971年に武寧王陵で出土し、2006年に模様が確認された銀盞(6世紀初め)に続き3番目の発掘となる。
[参考:朝鮮日報]

備考
 朝鮮半島での最古の迦陵頻伽像は、徳興里古墳(平安南道南項市、409年)の壁画に描かれたものであるが、彫刻としてはこの金銅製履物が最古となる。
 新羅では、統一新羅後の黄龍寺址をはじめとして芬皇寺址、三郎寺址などの瓦当などで見られる。
 一方日本では、正倉院宝物(756年)の螺鈿紫檀琵琶 (らでんしたんのびわ)の背面に描かれたものが古いのではないだろうか。

過去のニュース
 2009.9.28 高敞鳳徳里古墳群1号墳 5世紀の百済金銅製履物出土
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韓国公州・水村里古墳群 出土した百済時代の環頭大刀で金板装飾が確認

2009年12月04日 | Weblog
 国立公州博物館は3日、4~5世紀漢城百済時代地方貴族勢力の墓群として知られている公州水村里古墳群(수촌리 고분군)のうち、Ⅱ-1号古墳で出土した環頭大刀(환두대도)をコンピュータ断層撮影した結果、既にあった銀入糸装飾(은입사/장식)の他に金板装飾(금판 장식)を発見したと発表した。
 Ⅱ-1号出土環頭大刀は丸い輪の部分に龍2匹と二行の波状線文だけが銀入絲されている平面的な形状で知られていたが、今回の遺物内部構造調査を通じて竜模様と波紋銀入絲の他に金板装飾が残っていることが新しく明らかになり、金板装飾は竜 模様の立体感を生かす装飾効果のために使われたと推定されている。
[参考:聨合ニュース]
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奈良市・コナベ古墳 宮内庁、調査現場を報道陣に公開

2009年12月04日 | Weblog
 宮内庁は4日、「小奈辺陵墓参考地」として管理する奈良市法華寺町のコナベ古墳(5世紀前半ごろ)の護岸整備工事(11月上旬~今月下旬)に伴う発掘調査地を報道陣に公開した。
 墳丘を取り巻く周濠の水により、墳丘の裾が浸食されていることから工事の実施を決定。工事に先立ち遺構や遺物の状況を確認して、保全に適した方法を検討するため、先月4日から調査を始めていた。
 コナベ古墳は奈良市北部の佐紀丘陵の東側、平城宮跡の北東にある佐紀盾列古墳群のうち東群の前方後円墳で、長さ約204m、前方部幅129m。墳丘は3段築成で、くびれ部の両側には造り出しがある。江戸時代には一時、元正天皇陵とされたが。被葬者は不明。
 これまでに奈良市教育委員会の発掘調査で、18カ所を発掘。14カ所で葺石が確認され、下層にこぶし大、上層に人間の頭ほどの大きさの石を使用していることが分かった。また、前方部の南側外堤に50cm間隔の円筒埴輪列が確認されている。
 ほかに家形埴輪などの形象埴輪や中近世の鉢などが出土した。
[参考:共同通信、毎日新聞]


キーワード:平城宮松林苑跡
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奈良市・西大寺 旧境内から石上宅嗣の名や肩書きが書かれた木簡を発見

2009年12月03日 | Weblog
 市教育委員会と奈良県立橿原考古学研究所が3日、称徳天皇が造営した奈良市の西大寺旧境内から日本最古の公開図書館「芸亭(うんてい)」を開設したことで知られる奈良時代の高官で文人、石上宅嗣(いそのかみやかつぐ、729-781)の名前や肩書が書かれた木簡が見つかったと発表した。
 木簡の記述から、内裏に準じる宮殿があった平城宮東院の造営責任者だったことも判明。
 今年7月にイスラム陶器の破片が出土した幅約7mの溝には大量の木簡が捨てられていた。宅嗣の名前が書かれた木簡は縦29・7cm、横2・75cm、厚さ0・46cm。縦書きで「参議従三位式部卿常陸守中衛中将造東内長官石上朝臣」と墨書されていた。「造東内長官」は東院造営の責任者、「石上朝臣」は宅嗣を指す。
 高官の名と数多い肩書が記された木簡の出土例は珍しい。各肩書の横には一~四の漢数字も記され、紙の文書作成時に肩書の誤記を防ぐ役人の手控えとも推測され、出土例のない木簡という。
 木簡群は判読可能分だけで約250点。西大寺の造営事務所「造西大寺司」に属したらしい「金堂所」に関係する木簡や、「太政官謹奏…」と記された木簡もあり、西大寺造営や役所的事務にかかわる重要な資料となりそうだ。
 西大寺は764年、称徳天皇が建立を発願。同寺の造営がほぼ完了したとされる宝亀年間(770~780年)に造営担当の役所が投棄した可能性がある。
 7~13日午前9時~午後5時、市埋蔵文化財調査センター(奈良市大安寺西2丁目)で公開する。
[参考:共同通信、産経新聞、読売新聞、奈良新聞]

参考
続日本紀 桓武天皇天応元年(781) 辛亥6月24日
 大納言正三位兼式部卿石上大朝臣宅嗣薨。詔贈正二位。宅嗣左大臣從一位麻呂之孫。中納言從三位弟麻呂之子也。性朗悟有姿儀。愛尚經史。多所渉覽。好属文。工草隷。勝寳三年授從五位下。任治部少輔。稍遷文部大輔。歴居内外。景雲二年至參議從三位。寳龜初。出爲大宰帥。居無幾遷式部卿。拜中納言。賜姓物部朝臣。以其情願也。尋兼皇太子傅。改賜姓石上大朝臣。十一年。轉大納言。俄加正三位。宅嗣辭容閑雅。有名於時。毎値風景山水。時援筆而題之。自寳字後。宅嗣及淡海眞人三船爲文人之首。所著詩賦數十首。世多傳誦之。捨其舊宅。以爲阿閦寺。寺内一隅。特置外典之院。名曰芸亭。如有好學之徒。欲就閲者恣聽之。仍記條式。以貽於後。其略曰。内外兩門本爲一體。漸極似異。善誘不殊。僕捨家爲寺。歸心久矣。爲助内典。加置外書。地是伽藍。事須禁戒。庶以同志入者。無滯空有。兼忘物我。異代來者。超出塵勞。歸於覺地矣。其院今見存焉。臨終遺教薄葬。薨時年五十三。時人悼之。
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三鷹市・深大寺 厄除元三大師ご開帳

2009年12月01日 | Weblog
 今日は、三鷹市の深大寺へ行ってきました。ただいま、お隣の神代植物公園ともに紅葉が見ごろです。
 深大寺では、寺宝展と厄除元三大師ご開帳が12月3日まで行われています。
 天台宗第18代座主・元三慈恵大師良源大僧正(913 - 985)の1025年ご回忌のため、25年ぶりのご開帳だそうです。元三大師堂には本堂から渡り廊下を通っていきます。平日ながら天気もよし、たくさんの参拝者で、11時時点で40分待ちの混雑具合でした。
 釈迦堂では、国指定重要文化財の銅像釈迦如来倚像(7世紀後半)と梵鐘(1376年)も拝見することができました。
 梵鐘には、「敬白武蔵國多東郡深大寺、奉冶鋳槌鐘、・・・」と刻まれているはず。鎌倉時代の初期より多摩郡は、多摩川から東を多東郡、西を多西郡と分けていた証のひとつだそうです。
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