歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

京都府精華町・下馬遺跡 平安時代の集落跡を確認、現地説明会1/23

2011年01月19日 | Weblog
 府埋蔵文化財調査研究センターは18日、下馬(げば)遺跡(相楽郡精華町下狛)で、平安時代前期の建物跡2棟(いずれも南北約5m、東西約4m)と平安後期の住居とみられる建物跡1棟(南北約13m、東西約4m)の柱跡などの集落跡が見つかったと発表した。遺跡東側に奈良時代に整備された官道「山陰・山陽道」があり、安京への遷都後も官道は頻繁に利用されていたと推定されるとしている。
遺跡内を流れる古墳時代前期と奈良時代の河川の流路跡から、古墳時代の壺や奈良時代の須恵器が見つかり、古くから集落があったとみられるという。
 現地説明会は23日(日)午後2時から開かれる。
[参考:毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
2010.1.30 下馬遺跡 平安後期の集落跡を確認、現地説明会1/31

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群馬県渋川市伊香保 水澤寺(水沢観世音)

2011年01月19日 | Weblog
 群馬県のパワースポットというと、榛名神社が有名だが、伊香保の水沢観世音もその一つ。本堂前が一番のパワースポットという。
榛名神社が用明天皇元年(586年)に創建されたと伝えられるのに対して、水澤寺(水沢観世音、水沢観音とも)は推古天皇(554-628)の時代に高麗の高僧恵灌僧正の開基と伝わる。 日本書紀 推古天皇 三十三年の春正月の壬申の朔戊寅に、「高麗の王、僧恵灌を貢る。仍りて僧正に任す。」とあり、恵灌は625年に来日したことになっている。そうすると、625年から推古天皇がなくなる628年の間に創建されたことになるが、確かではない。また、恵灌の生没年も不明である。
 万葉集に10首近くが詠まれるくらい「伊香保」の地名は、古代から有名である。水澤寺の正式名は五徳山水沢寺(水沢観世音)で、縁起では推古天皇(554-628)、持統天皇(645-703)の勅願により、高麗の高僧恵灌(慧灌)僧正の開基にして、国司・高光中将公の創建とする。また、五徳山水沢寺の名称は、推古天皇のご宸筆の額名に因るものであるとしている。


   上:全景、下左:本堂 下右:六角堂

恵灌ゆかりの寺院として他に下記がある。
 元興寺(奈良市)、東大寺南院(奈良市)、當麻寺西南院(葛城市)、般若寺(奈良市)、衣縫廃寺(大阪府藤井寺市)、万年寺廃寺(万年蜜寺)(枚方市)、金剛城寺(慈岡寺)(兵庫県福崎町)、大恩寺(豊川市)、根本寺(茨城県鹿島市)、光恩寺(群馬県千代田町)
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多治見市・権現遺跡 古墳時代の竪穴式住居跡4件などが出土

2011年01月18日 | Weblog
 多治見市教委文化財保護センターが昨年10月から実施していた権現遺跡第3次調査区(同市神戸・栄区)の発掘調査で、古墳時代の竪穴式住居跡4件と約12mの範囲で溝状遺構や人為的に掘り下げた小穴計8基が発見されたことが分かった。
 ほかに、地盤強化のために設置したとみられる太さ約5cmの木杭列や、古代の須恵器の坏身(つきみ)、小型横瓶(よこべい)、土師器の甕類などが多数発掘された。中世の山茶碗や近世の碗、皿などの陶磁器も出土した。
 周辺の遺跡は、笠原川左岸の田園地帯に約6ヘクタールにわたって広がっており、一帯の字名から「権現遺跡」と「砂田・総作遺跡」と命名されている。09年1月の発掘調査では、砂田・総作遺跡から古墳時代の竪穴式住居跡や中世の掘立柱建物跡が見つかった。
 現地説明会は22日(土)午後1時~3時、遺構の公開と発掘状況の説明、出土品の公開が行われる。
[参考:毎日新聞]
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新羅・雁鴨池木簡 中国の研究者による「策事」の新見解

2011年01月18日 | Weblog
 昨日の聨合ニュースで、呂静・復旦大学教授をはじめとする中国文字研究者3人が統一新羅時代の「雁鴨池木簡」から「策事」についての新しい見解を主張との記事があった。
 成均館大東アジア学術院傘下東アジア資料学研究会が最近出版した「竹簡・木簡に含まれた古代東アジア」(成均館大出版部)に寄稿した「韓国、慶州雁鴨池出土策事木簡に関する時論」という論文で、1975年に慶州・雁鴨池の発掘調査で出土した統一新羅時代木簡51点の中に、「策事」という墨書がある木簡2点が発見され、新羅にも「策事」があったという事実がわかるというもの。 国立昌原文化財研究所が2004年に出版した「韓国の古代木簡」という総合資料調査集に収納されている中に、「策事」という文字が第182号木簡と第213号木簡で確認されている。
 すなわち、第182号木簡は三面墨書木簡で、1面には「寶應四年」(宝応四年(765)、2面には「策事」、3面には「壹貳參肆伍」(一二三四五)。 第213号木簡には、1面および2面に「策事門思易門金」が墨書で記されている。
 この墨書の判読は、最初は「策事」が「榮事」あるいは「崇事」とも判読されていたようである。
 第213号木簡の「策事門思易門金」は「策事門」と「思易門」の閂(かんぬき、鍵)程度の意味で、策事門と思易門の扉をあける鍵についた木簡(木札)だとしている。
 いずれにしても、このことから新羅には「策事」があった証拠とみている。
 中国で「策事」は、南北朝時代に「隷事」という言葉で登場し始めて、その意味は文人達が集まって談論する時、戦績や歴史的典章および古辞を定めた類型により編み出してその数が多い人が勝つ遊戯の一種だという。
 新羅王朝にも、「策事」という専門部門があったと分析している。ただし、中国では博学を競った「隸事」とは違って、新羅王朝での「策事」は貴族子弟らの学問的向上を図る試験の一種とみている。

[参考文献・記事]
聨合ニュース2011.1.17
文献1.「韓国の古代木簡」国立昌原文化財研究所(2004)
文献2.新羅の文物研究 創刊号 国立慶州博物館 2007/12/20
文献3.韓国木簡の現在「韓国木簡研究の現在─新羅木簡研究の成果を中心に」李成市(早稲田大学文学学術院)2008/8/1

備考:
 参考文献2.では、「策事」は王あるいは太子の命令に関する定形化された表記という見解があるとしている。
 参考文献3.では、「『金』は鍵を意味すると考えられ、第213号木簡は、策事門と思易門の鍵に付けられた札とみられる。日本でも鍵の札として使用された木簡が平城京などから出土しており、同様の用途をもっていたとみられる。」としている。
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三次市・南山遺跡 製鉄関連遺構が7世紀中頃から8世紀前半のものと判明

2011年01月16日 | Weblog
 昨年9月に古代の製鉄関連遺構が見つかった三次市有原町の南山遺跡が、6~8世紀ごろの遺構としていたが、「ヤツメウナギ」と呼ばれる横口付き木炭窯から出土した木炭の破片を放射性炭素年代測定法で分析した結果、7世紀中頃から8世紀前半の遺跡とみられることが、三次市教委の調査で分かった。この地域で製鉄が盛んだったことを裏付ける結果としている。
 木炭窯は製鉄時の燃料となる木炭を作る施設。遺跡では2基出土した。
 発表会が22日(土)午後1時半から、同市十日市東の市生涯学習センターで開かれる。市内の大樽池第5号古墳、稲荷山A-第1号古墳、烏ヶ峠遺跡の調査報告もある。
[参考:中国新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.9.17南山遺跡 古代製鉄関連遺構を発見
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佐賀市・三重津海軍所跡 新たに30mの直線護岸を確認

2011年01月15日 | Weblog
 佐賀市教委は14日、三重津海軍所跡(佐賀市川副、諸富町)の発掘調査で海軍所のドック北側の護岸を30mにわたって確認したと発表した。船が出入りした開口部付近の木製護岸も出土した。ドックに対し直角に築かれた明治期の石垣から、早津江川から船が出入りする部分もほぼ特定された。
 ドック護岸を曲線的に袋状に描いた大正期の絵図と違い、直線的な構造だったことが判明した。
 一般公開は22日午前9時半~正午、現場の佐野記念公園で。 説明会は9時半、10時半、11時半から各30分ずつ行われる。少雨決行。遺構は今月末に埋め戻される。
[参考:2011.1.13西日本新聞、2011.1.14佐賀新聞、2011.1.15朝日新聞、毎日新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.6.5 三重津海軍所跡 階段状の木組護岸を確認
 2010.3.20 三重津海軍所跡 昨年確認した護岸から南側30mの地点で、新たに木製護岸を確認
 三重津海軍所跡
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京都府丹波町・塩谷南古墳 6世紀初頭の円墳から木棺2基跡を確認

2011年01月14日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは13日、巫女形埴輪2体が発掘されたことで知られる塩谷古墳群(5世紀末~6世紀初頭)の南側にある塩谷南古墳(京丹波町曽根)で、6世紀初頭の造営とみられる円墳(直径15m、高さ2・5~3m)を確認したと発表した。
 南側の溝(幅3m、深さ40cm)から須恵器の破片が多く見つかった。円墳の頂上部には、ほぼ同規模の墓穴(長さ3.8m、幅1.8m)が東西に並んで2カ所あった。
 東側の第1主体部からは割竹型木棺の痕跡を見つけ、棺の内側にベンガラと呼ばれる赤い塗料が塗られていたのを確認したほか、鉄製の鏃が副葬されていた。
 西側の第2主体部は、テラス状の段を設けて須恵器の長頸壺を囲むように有蓋杯7点が並べられ、蓋の内側に赤い塗料が塗られていた。組合せ式木棺の跡と鉄製の剣(長さ95cm)と、刀子(長さ15cm)が副葬されていた。
 同センターは、血縁関係にある地域の有力者が時期をずらして埋葬されたのではないかとみている。
 現地説明会は15日(土)午後2時から開かれる。
[参考:京都新聞、毎日新聞、京都府埋蔵文化財調査研究センターHP]

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鳥取市・青谷上寺地遺跡 前漢時代の青銅製星雲文鏡が本州初出土

2011年01月13日 | Weblog
 鳥取県埋蔵文化財センターが12日、青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡から弥生時代後期から終末期(紀元前1世紀前半)に中国・前漢で作られたとみられる青銅鏡「星雲文鏡(せいうんもんきょう)」の破片が見つかったと発表した。
 出土した星雲文鏡は、弥生時代終末期の溝跡で発見された。復元径6・9cmの円形の一部で、背面中央の突起「紐(ちゅう)」やひもを通す穴を含めて扇状に4分の1が残り、一辺は4.1cm、重量は33.2g。割れ方がきれいで、断面に磨いた跡があることから意図的に割った破鏡らしい。
 背面に配された4個の「乳(にゅう)」の一部や、乳の間に数個の突起を並べて曲線でつないだ「雲気(うんき)文様」など星座や雲を連想させる文様が認められた。
 県埋蔵文化財センターによると、漢鏡は年代別に7期に分けられ、星雲文鏡は3期目に古く、日本に中国鏡の流入が始まる時期のものという。国内では須玖(すく)岡本遺跡など福岡県内の弥生時代中期の遺跡から8面が出土したが、いずれも王墓の遺跡で、墓以外から見つかったのも本州で見つかったのも初めてという。
 青谷上寺地遺跡は弥生時代の集落跡で、これまでに多くの鉄器や古代中国の銅銭などが出土している。今回、年代別で3~5期(紀元前1世紀前半から1世紀後半)の前漢鏡(星雲文鏡1面、八禽鏡2面)がそれぞれ出土したこととなり、日本海沿岸地域の交易拠点としての位置付けを、さらに高めることになったとしている。
 出土した星雲文鏡の破片は同遺跡で出土した他の銅鏡とともに、鳥取市青谷町青谷の青谷上寺地遺跡展示館で、15日から30日まで公開される。月曜は休館。
[参考:共同通信、中国新聞、読売新聞、朝日新聞、日本海新聞、鳥取県埋蔵文化財センターHP]

百余国の一つか…鳥取の遺跡で前漢「星雲文鏡」(読売新聞) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2009.19.23 青谷上寺地遺跡 2000年前の中国製「八禽鏡」破片が出土

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百済木簡から「赤米」の墨書を確認

2011年01月11日 | Weblog
 扶余郡文化財保存センターは10日、昨年10月に忠南扶餘邑旧衙里の扶余中央清渓教会増築工事予定地を発掘調査した結果、百済時代木簡8点を収集し、このうち「太公西美前部赤米二石」と読むことができる墨書木簡を確認したと発表した。同センターは今回の成果を今月7日、清渓川文化館で開かれた韓国木簡学会定期発表会で報告した。
 この木簡から初めて確認された「赤米」は、日本では飛鳥京遺跡出土木簡で朝廷に捧げる献上物の一つとして発見されたり、藤原京や平城京などの木簡でも現れる。 さらに正倉院が所蔵する文書にも、地方から中央朝廷に赤米を献上したという記録が発見されている。
 このような日本側発掘成果と比較すると、今回扶余で出土した木簡の「赤米」もまた、地方から捧げられた貢物の一種と考えられるとしている。
 合わせて、他の木簡から当時の百済首都の行政区画5部のうち、「前部」、「中部」、「下部」を示す文字が発見された。
 ほかに、多量の木製品や磁器類、土器類、金属類、石器類、草本類、動植物遺体類なども確認された。
 さらに、一部遺跡では寄生虫が検出され、お手洗い(화장실)があったとみられるとしている。
 今回発見された遺跡は西暦6~7世紀ぐらいのもの推定されている。
[参考:聨合ニュース、国民新報]
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岡崎市・車塚古墳 7世紀の古墳8基が密集して見つかる

2011年01月07日 | Weblog
(写真は岩津天満宮。拝殿は南を向いているから、後方(北に)約700mのところに車塚古墳がある。)

 愛知県埋蔵文化財センターが 昨年10月から行っている「車塚遺跡」(岡崎市岩津町)の発掘調査で、7世紀後半の直径7~14mの円墳や方墳8基が重なり合うように見つかった。
 いずれも盛り土部分が消滅していたが、石室が良好な状態で残った円墳が2基あった。「平瓶(へいへい)」や「ハソウ」と呼ばれる須恵器や、耳環など20点以上の副葬品も出土した。
 矢作川の対岸を見通すことができる標高40~50mの丘陵上に位置しており、数年前まで農地として利用されてきた。2009年度の調査で、高地性の古代集落跡や古墳2基が確認されていた。
 現地説明会が8日(土)午前10時~正午に開かれる。
[参考:中日新聞、愛知県愛知県埋蔵文化財センタHP]

過去の関連ニュース・情報
 2008.8.17 岡崎市岩津町 車塚遺跡 現地説明会

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北上市・根岸遺跡 10世紀の焼成前にヘラで描いた人面刻書土器片が出土 

2011年01月07日 | Weblog
 北上市埋蔵文化財センターは6日、北上川東岸の集落跡・根岸遺跡(北上市黒岩)で平安時代10世紀頃のものとみられる、焼成前に内面にヘラを使って線刻で人面を描いた人面刻書土器の一部が出土したと発表した。焼成前にヘラで描いた例は、千葉県八千代市の上谷遺跡(8世紀)で出土したものだけで、全国2例目という。
 土器片は、平安時代の仏堂と見られる掘っ立て柱の建物跡を覆っていた土の中から、昨年1~2月に見つかった。直径約5cm、厚さ約7mmで浅い皿などの底とみられ、内側の面に目、鼻、口が描かれている。仏の顔を描いた可能性も高いという。
 北上川東岸には、山岳仏教寺院の「国見山廃寺跡」などもある。
[参考:河北新報、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.10.16 北上市・国見山廃寺跡 9世紀前半~11世紀にかけ造成 4回の盛土を確認
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慶北永川市・華南遺跡 計357基の新羅時代墓を確認

2011年01月06日 | Weblog
 聖林文化財硏究院は6日、慶北永川市新寧面華南里の華南遺跡(화남리 유적)で木槨墓26基・石槨墓231基・石室墓87基・土壙墓2基・石槨甕棺墓7基など合計357基の新羅時代墓を確認したと発表した。
 これらの墓は、山の稜線一帯に集中して分布しており、4~7世紀の新羅時代特定地方で墓様式がどのように変化していったかがよくわかる遺跡という。
 特に、今回現われた華南古墳群は同じ墓様式としても多様な平面形状を揃えている。
 例えば全部で26基が確認された木槨墓では、新羅時代の木棺墓は隔壁を間に置いて方形の主槨と副槨を一列に配置する「日」字形が普通だが、主槨は方形なのに副槨が円形だったり、主槨の側面に円形副槨を作ったものも見つかった。
 10号木槨墓では、埋葬された人の抜歯付近と推定される主槨南側壁面底で、平たい鉄鋋何個かが敷かれているのが発見された。
 石槨墓では、一つの墓の中に石を積んで作った方形埋葬空間をいろいろな所に設けたいわゆる多槨式石槨墓も確認された。このうち、3つの石槨が同じ方向に並んで配置された85~87号石槨墓中、86号墳内部北端壁面で鉄刃の三葉文環頭大刀(삼엽문 환두대도)が出土し、87号墳では被葬者の腰部分に鉄の刀子2点をと鉄刃の大刀が収集された。ほかに、イヤリングや玉のネックレス(注1)が出土した。
[参考:聨合ニュース]

(注1) 写真から見ると真中に大きな勾玉を、少し離れて左右横に小さな勾玉を配置し、残りは小さな濃い青色の玉かガラス玉を並べた首飾りである。
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光州新昌洞低湿紙遺跡 2千年前の木櫛がカエデ製と判明

2011年01月04日 | Weblog
 1997年光州新昌洞低湿紙遺跡(광주 신창동 저습지 유적)発掘調査で収集された2千年前の木櫛(목제 빗、注1)がカエデを削って作ったとみられることが分析結果わかった。これまでも、木櫛は遺跡からたまに出土するが、樹種に対する分析はほとんどなされなかった。
[参考:聨合ニュース]

(注1) 横櫛と思われる。


過去の関連ニュース・情報
 2010.12.2 新昌洞遺跡 青銅製剣把頭飾が出土、3日に説明会
 2010.1.16 新昌洞遺跡 韓国国内最古の二股踏鋤を確認
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あま市・甚目寺 南大門仁王像の腹部に福島正則が奉納した墨書が見つかる

2011年01月04日 | Weblog
 推古天皇5年(597)に創建されたと伝えられる、愛知県あま市の真言宗智山派・鳳凰山甚目寺の南大門(重文)に立つ仁王像(注1)の解体修理(2008年から開始)で、2体の腹部の裏側から墨書が見つかった。阿形には安土桃山時代の慶長2年(1597)の年号、仏師2人などの氏名とともに「奉造立甚目寺仁王大檀那藤原朝臣福嶋左衛門大夫正則(注1)敬白」「寺中安全之助也」とあり、福島正則(1561-1624)が奉納したことが判明。吽形もほぼ同内容だった。正則はあま市の旧美和町の辺りで生まれ、1595(文禄4)年から5年間、清須城主として一帯を治めていた。
[参考:中日新聞、甚目寺観音HP]

(注1) 阿形と吽形、ともに寄木造りで高さ約3.5m、寺伝では運慶作と伝えられ、鎌倉時代の作とみられていた。
(注2) 福島正則の出自は明確でないが、『寛政重修諸家譜』では藤原氏支流としている。
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岡山市・千足古墳 石室から碧玉製管玉が出土

2011年01月03日 | Weblog
 古代吉備最大の全長350mの前方後円墳の造山古墳(岡山市北区、5世紀前半)を盟主とする造山古墳群では明治45年(1912)、千足(せんぞく)古墳(全長74mの前方後円墳)と榊山(さかきやま)古墳(全長40m?の帆立貝式前方後円墳)の乱掘が発生し、両古墳の出土品が区別出来ないまま宮内省(現宮内庁)で所蔵・管理されている。
 岡山市教委が昨年11月に行った千足古墳(国史跡、同市北区新庄下、5世紀前半~後半)の石室内の棺床部の泥の中から、副葬品の碧玉製管玉1点(現存長1・5cm、直径5mm)が見つかっていたことが分かった。糸を通して腕飾りや首飾りに使われたとみられる。
[参考:山陽新聞、岡山市HP]
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