歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

今治市・古谷犬山谷古墳 5世紀中頃の未盗掘の1辺10mの方墳を確認、鉄製大刀や人骨が出土

2011年09月16日 | Weblog
 愛媛県埋蔵文化財調査センターは15日、今治市古谷の多岐川上流域で、古墳時代中期(5世紀中頃)築造の未盗掘の小型方墳「古谷犬山谷古墳」を確認したと発表した。
 古谷犬山谷古墳は、古墳時代後期(6~7世紀)の多伎宮古墳群の南西約100mに位置する。 今年3月に標高約112mの丘陵の尾根で発見し、8月から調査している。 斜面を削って整形した約10m四方の方墳。 2基の石棺が並んで発見され、それぞれ人骨や鉄製大刀などが出土した。
 石棺は、北側が全長約185cm、幅約30~40cm、南側が全長約200cm、幅約45~50cm。 いずれも石棺の周りを石で囲い、石棺内部には小石が規則正しく並べられ、手厚く埋葬された様子がうかがえる。 成人を1体ずつ頭部を東に向けて埋葬していた。 南側の石棺の側壁などに赤い顔料が付着していた。
[参考:愛媛新聞、ITVあいテレビ]
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奈良市・興福寺 北円堂創建当時の回廊規模が判明

2011年09月16日 | Weblog
 奈良文化財研究所が15日、奈良市登大路町の興福寺北円堂(国宝)周辺の発掘調査で、北円堂創建当時に建てられた回廊の全体規模が、南北約43・5m、東西約44・3mと確認したと発表した。
 八角円堂の北円堂は、興福寺創建者藤原不比等の一周忌にあたる養老5年(721)8月に、元明太上天皇と元正天皇が建てたとされる。 その後、永承4年(1049)に焼失し再建したが、治承4年(1180)、平氏の南都焼き討ちで再び焼失した。 承元4年(1210)頃に再建された。 八角の一辺は4.9mで、本瓦葺きの建物。 室町時代の「春日社寺曼荼羅図」など、回廊を描いた絵図を裏付けた。
 一方、平安時代末に編纂された「興福寺流記」には、回廊は永承4(1049)年の最初の火災後に再建された記録が残り、記された規模と一致する。 治承4年(1180)の2度目の焼失後に北円堂は再建されたが、回廊は再建の記録がない。
 現地見学会は17日(土)午前10時~午後3時に開かれる。
[参考:産経新聞、奈良新聞、奈良文化財HP、興福寺HP]

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広州市・武寧王陵 黒い玉の材料は炭木でなく黒玉

2011年09月15日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立公州博物館は15日、今年開催する武寧王陵(무령왕릉)発掘40周年記念特別展を準備する過程で、武寧王陵で出土した首飾や獣形佩飾(동물모양장식)、棗玉(모양 옥)などに使われた黒い玉の材料が、科学的分析の結果、炭木(탄목)でなく黒玉(흑옥)であることが明らかになったと発表した。 黒玉は約1.4の比重値を持つ層構造が確認された。
 黒玉製の装飾を武寧王のからだに着用させ、邪鬼を祓うことを祈ったのだろうとしている。
 武寧王陵発掘40周年を記念する特別展「武寧王陵を格物する」は来月10月8日~来年1月29日まで開かれる。
[参考:聨合ニュース]
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大垣市・南荒尾遺跡 弥生前期の土器(遠賀川式土器)が多量に出土

2011年09月15日 | Weblog
 県文化財保護センターは、大垣市の荒尾町と桧町に広がる「荒尾南遺跡」で、弥生時代前期の土器の破片が約2000点出土し、約1000点が西日本で多くみられる「遠賀川式土器」だったと発表した。
 同遺跡の調査は2006(平成18)年度から始まり、これまでに弥生時代前期の土器は約200点が出土していた。
 岐阜県内において遠賀川式土器が出土した遺跡は宮塚遺跡(各務原市)、野笹遺跡(美濃加茂市)など数例に限られるという。
 また、土器群が見つかった場所の近くでは、弥生時代中期ごろに掘削された幅約5mの溝も見つかり、弥生時代後期の居住域推定範囲が狭まった。
 現地見学会が、20(火)~22日(木)のいずれも午後1時30分~午後3時30分に開催される。 午後1時30分、2時30分の2回、調査担当者からの説明が行われる。
[参考:岐阜新聞、読売新聞、岐阜県HP]

過去の関連ニュース・情報
 荒尾南遺跡

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韓国堤川市白雲面 堤川地域で初めての南方式の支石墓を発見

2011年09月14日 | 韓国の遺跡・古墳など
 堤川市(제천시)は14日、今月初め白雲面平洞里(백운면 평동리)で、前面に3個、右側に2個の礎を置いて、その上に大きな蓋石を乗せた、横2.5m、縦1.5mの大きさの青銅器時代の代表的墓様式である南方式の支石墓(고인돌)を発見したと発表した。
 支石墓を北方式(북방식)と南方式(남방식)・蓋石式(개석식)に区分すると、これまで、同じ堤川地域の水山面綾江里(수산면 능강리)と清風面黄石里(청풍면 황석리)などで発見されたのは蓋石式支石墓である。
 また、平洞里支石墓蓋石には直径14㎝、深さ10㎝のくぼみ(星穴、성혈)が見られた。 これは雷の敬畏思想と太陽崇拝思想、豊穣などの意味があるという。
[参考:聨合ニュース]

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京都府大山崎町・松田遺跡 弥生時代後期の八角形の竪穴式住居跡と、奈良末~平安初頭の掘立柱建物跡を確認

2011年09月14日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターが13日、大山崎町円明寺一丁田の松田遺跡から、底面が八角形(1辺・1.8m)をした弥生時代後期(2世紀)の竪穴式住居跡1基が見つかったと発表した。 同じ構造の住居跡が播磨地方で多く出土しており、同センターは、この地方から移り住んだ有力者の住居だったのではと推測している。
 底面からは直径16~18cmの柱穴跡7基、壁際の4カ所からは、土を盛り上げて作ったベッド状の遺構がそれぞれ出土した。床面からは日用品の高杯や甕などが見つかった。 松田遺跡から弥生時代後期の遺構が出土したのは初めて。

 このほか、長岡京期を含む奈良時代末期-平安時代初期(8世紀末~9世紀前半)の一部瓦葺きとみられる掘立柱建物跡が出土した。 「山城国府」だった可能性もあるという。
 8基見つかった柱穴跡(柱の直径は推定40cm)の間隔から、東西6・3m、南北は5・4m以上の大きさとみられる。 西側の溝からは、長岡京期を含む時代の高杯や土器、平瓦が大量に発見された。 過去の調査でも近隣から同じ時代の掘立柱建物跡が出土している。

 現地説明会は17日(土)午前10時半から開かれる。

[参考:京都新聞、朝日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.2.26 松田遺跡 古墳時代の大規模集落をうかがわせる遺構や13世紀の大型溝などが出土
 2010.8.26 松田遺跡 13~14世紀の建物跡と中国・南宋から輸入?の白磁や青磁も出土
 2008.8.1 松田遺跡 継体天皇ゆかりの地で古墳時代後期の集落跡

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松阪市・朝見遺跡 越州窯系青磁片などが出土 斎王宮との関連も

2011年09月14日 | Weblog
 三重県県埋蔵文化財センターは13日、松阪市和屋町の朝見遺跡で、平安時代中期から後期にかけての越州窯系青磁片、緑釉陶器片150点、緑釉緑彩陶器片4点、石製のベルト飾りや、「官」「成」「西」などの文字の入った墨書土器片50点などが出土したと発表した。
 越州窯系青磁片の出土は県内では多気町の斎宮遺跡、東裏遺跡などに次いで5例目という。 朝見遺跡は、平安期に条里型地割りが進められたことが分かっており、近くの明和町には斎王宮がある。
 現地説明会は17日(土)午前10時から開かれる。
[参考:毎日新聞]

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長浜市・西浜千軒遺跡 天正大地震で琵琶湖湖底に沈んだ集落跡を発見

2011年09月13日 | Weblog
 滋賀県立大・中井均准教授(中世考古学)が指導する同大の学生グループ「琵琶湖水中考古学研究会」が12日、15世紀後半頃の大地震で「西浜村」という集落が湖底に沈んだとの伝承が残る長浜市沖の琵琶湖底の「西浜千軒遺跡」で、供養塔や仏塔、石仏の一部など石群約430点が見つかったと発表した。
 長浜市祇園町沖約100mの湖底・水深約1・2~1・5mで、東西38m、南北26mにわたって素潜りで調査し、方形区画や石積みを見つけた。 一石五輪塔(砂岩製)の一部や、石仏の上部など、墓地に使われたとみられる石があり、材質と形状から、16世紀前半から17世紀初頭に作られたとみられる。 文献で天正13年11月29日(1586年1月18日)に岐阜県中北部を震源とするマグニチュード7・8規模の地震が起きたことが分かっており、これと時期が一致した。 伝承の時期よりは120年後となる。
 南東約2・5kmにある同市の下坂浜千軒遺跡も、同地震で水没したことが科学調査で確認されている。
[参考:産経新聞、読売新聞、京都新聞、中日新聞、朝日新聞]

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栃木県壬生町・塚越1号墳 5世紀後半の青銅鏡の破片が出土

2011年09月13日 | Weblog
 壬生町教委による同町国谷の塚越1号墳の発掘調査で古墳時代中期(5世紀後半)のものとみられる青銅鏡の破片が発掘されたことがわかった。
 壬生町の「広報 みぶ/ 2011年8月号 No.627」には、壬生の『考古楽』講座として10月8日(土) 壬生中央公民館(研修室)で、『「青銅鏡が副葬された塚越1号墳」大型古墳が築造される前のみぶの姿』と題して、壬生町歴史民俗資料館君島利行文化財係長が講演を行う予定になっているので、既にこの時点では発見されている。
 青銅鏡の破片は、約3cmと2cmの2点であるが、材質、厚さから同一のものと考えられ、復元規模は直径8cm、厚さは1~3mmと推定される。 仿製鏡の一つ「珠文鏡」とされ、複数の丸い突起である珠文や鋸歯文、櫛歯文が施されており、県内では4例目の出土となる。 町内古墳からの青銅鏡出土は初めてという。
 さらに、後期に造られた円墳(直径24m)とされてきた同古墳は、一辺約20m、墳丘の高さ約1・6mの方墳だったことも新たに確認された。 埋葬施設である「礫郭」に使用された川原石などが見つかった。
 青銅鏡出土と合わせ、壬生の古墳群の始まりが、古墳時代中期までさかのぼることを裏付けたとしている。
[参考:下野新聞、壬生町HP]

過去の関連ニュース・情報
 壬生町の古墳関連
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奈良市・東大寺 法華堂の部材を年輪年代測定し729年伐採と判明、「東大寺要録」の733年創建を裏付け

2011年09月10日 | Weblog
 昨日9日、東京国立博物館・平成館大講堂で開催された講演会で、森本公誠東大寺長老が「聖武天皇と東大寺-東大寺ミュージアム オープンに寄せて-」と題して講演会を行い、その中で、奈良市の東大寺・法華堂(三月堂)で、本尊の不空羂索観音像が乗る基壇と法華堂に使われた木材が729~731年に伐採されたことが分かったことを明らかにした。
 本尊の不空羂索観音立像(国宝)が立つ八角須弥壇(幅6.9m)の修理を機に、総合地球環境学研究所(京都市)光谷拓実客員教授が年輪調査を実施し、部材の1本ヒノキ皮付きの木材を測ったところ729年伐採と判明した。ほかに、建物から採取した二つの木材の伐採年はそれぞれ730年と731年と判明。
 平安時代に編纂された「東大寺要録」は、法華堂は天平5年(733)に建てられ始めたと記すが、近年は屋根瓦の研究をもとに、740年代との見方が有力だった。 今回の発見は、信憑性が低いとされてきた東大寺要録の記録を裏付ける結果となった。
 森本長老は「観音像も729年以前に造られたものだろう。法華堂や観音像は728年に幼くして亡くなった聖武天皇の皇子・基王(727-728)のために造られた可能性が高い。」と話した。
[参考:産経新聞、毎日新聞、朝日新聞、東京国立博物館HP]
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高槻市・梶原寺 古代寺院の礎石が初めて見つかる

2011年09月10日 | Weblog
 高槻市教委は8日、7世紀半ばから平安時代頃まで存在したとされる高槻市内最古の寺院で、「正倉院文書」にも記述のある梶原寺の礎石が初めて見つかったと発表した。 市教委によると地域の豪族が建立したとしている。
 約8年前、神社に隣接する民家敷地内で見つかり、市が今年5月から調査。 礎石は花崗岩製で長辺1m、短辺75cm、高さ30cm、重さ600kg。 上面には直径50cm高さ約10cm、下面には同70cmの柱座があり、建て替え時にひっくり返して再利用したとしている。
 この他、34年前に付近で実施された発掘調査では、瓦や僧坊跡とみられる柱穴が確認されているが、本堂や講堂といった主要伽藍に直結する発見は初めて。
 古文書などによると、同寺は7世紀半ばに建立され、12世紀には廃寺になった。
 正倉院文書には、東大寺建立のため瓦6000枚を梶原寺に発注したとの記述がある。 中心建物があったとされる畑山神社付近からは、実際に奈良時代から平安時代にかけての瓦や瓦を焼く窯跡が出土している。
また、「今昔物語」には、10世紀後半に書写山圓教寺(姫路市)を開いた性空聖人が「摂津ノ国ノ梶原寺ノ僧房ニ宿シヌ」と記されている。
 礎石は畑山神社境内に保管し自由に見学できる。
[参考:読売新聞、毎日新聞、産経新聞、高槻市HP]

関連情報
 2008.8.16 圓教寺 性空上人坐像 頭部に瑠璃の骨壺 本人の遺骨か

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忠南公州市・公山城 百済王宮関連施設とみられる掘立柱建物跡と多量の鏃が出土

2011年09月09日 | Weblog
 公州大博物館は8日、熊津首都期百済(475~536)王城に指定されたりもする公州公山城(공주 공산성、公州市山城洞)の第4次発掘調査の結果、熊津遷都(475)直後に作ったとみられる掘立柱(壁柱式、벽주식)建物(굴립주 건물)跡をはじめとする熊津~泗沘時代百済建物跡、貯水池、盛土敷地と築台などを確認したと話した。
 同博物館は、今回確認した施設が「百済王宮関連付属施設」と説明している。
 多量の武器や中国製磁気などが出土した。
 熊津~泗沘期建物跡の上層では大規模な火災層が確認され、またその上では統一新羅時代文化層が現れた。 特に火災層では鏃が多量に出土した。
 このような掘立柱建物跡は、公山城頂上部、あるいは近隣の艇止山遺跡(정지산 유적)などの地で確認されたことがあるという。
[参考:聨合ニュース、大田日報]

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篠山市・ヤケヤノ坪遺跡 弥生時代中後期頃の方形周溝墓7基、鉄斧も見つかる

2011年09月09日 | Weblog
 県立考古博物館(播磨町)は7日、篠山市西岡屋のヤケヤノ坪遺跡で、弥生時代中期後半から後期(1世紀ごろ)の方形周溝墓7基以上が見つかったと発表した。
 一辺4~10m前後の溝から、県内の丹波地域で最も古い鉄斧(長さ約7cm)や死者の供養のために置かれたとされる壺や甕などの土器のかけらが数百点入っており、同館は装飾的な模様から土器の一部を瀬戸内産および播磨産とみている。

 また、同遺跡から南約100mの西岡屋遺跡では、奈良時代後半(8世紀)と鎌倉時代前半(12世紀ごろ)の建物跡計8棟の柱穴が出土した。 このうち奈良時代の5棟は、柱穴の並び方が整然としていることや、馬の形をした祭祀用の人形「土馬」が見つかっていることから、行政機関の倉庫として使われていた可能性があるという。
 両遺跡とも、奈良時代に多紀郡郡衙があったとされる場所に近い。
 現地説明会は、9月10日(土)午後1時半から開かれる。 同市西岡屋の岡野文化会館に集合。
[参考:神戸新聞、朝日新聞]

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伊達市・宮脇遺跡 建物跡の南西角に石の基壇が見つかる

2011年09月09日 | Weblog
 伊達市教委は7日、再建後の霊山寺跡とされる宮脇遺跡(同市霊山町大石)で、石で造られた基壇が見つかったと発表した。
 また、平瓦や棟瓦など総瓦葺きの建物に必要な複数の種類の瓦を確認した。
 伊達市教委は、本年度は仏堂に伴う基壇や池跡の調査を進めている。
 現地説明会が、10日午後1時30分から開かれる。
[参考:福島民有ニュース、福島県文化財センターHP]

過去の関連ニュース・情報 
 2010.11.26宮脇遺跡 室町時代に再建後、京都北山文化の影響を受けた池、庭園跡見つかる
 2009.12.20宮脇遺跡 室町期の霊山寺跡 建物跡を囲む溝と石組みが出土
 2008.10.29宮脇遺跡 室町期の霊山寺跡 発掘調査現地説明会開催案内
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徳島市・犬山天神山古墳 石棺から水銀朱で彩色された埋葬骨を発見

2011年09月08日 | Weblog
 徳島県埋蔵文化財センターは8日、徳島市八万町の犬山天神山古墳から新たに4基の箱式石棺と、うち1基から残り具合が良好な身長150cm程度の50代後半以上とみられる女性の埋葬人骨(5世紀後半)を発見したと発表した。 この女性の顔面から胸にかけてと、石棺の床面には赤色顔料の水銀朱が塗られていた。 祭祀を執り行ったシャーマンや女性家長とみられるとしている。
 石棺はいずれも全長約1・9m、幅約0・4mで阿波の青石を使った「阿波式石棺」。
 既に発見された石棺1基を含めて、5体の人骨が出土した。
 現地説明会は10日(土)午前10時~12時に開かれる。
[参考:産経新聞、読売新聞、毎日新聞、徳島新聞、徳島県埋蔵文化財センターHP]

過去の関連ニュース・情報
2011.6.24および6.26
 徳島県埋蔵文化財センターは、犬山天神山古墳から、箱式石棺2基を埋葬施設とする古墳時代中期(約1550~1500年前)の方墳(一辺が推定16m)が見つかったと発表した。
 石棺は阿波の眉山北側で産出されたとみられる青石を使った「阿波式石棺」で1基は全長2.2m、幅0.7m。もう1基は全長2.4m、幅0.7m。
 また、墳丘東側に幅2m、深さ1mのくびれた部分があり、一部に葺石が積まれていた。
 25日に現地説明会が開かれた。
[参考:徳島新聞]

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