歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

熊本市・冨重写真所 国内最古級、開業145周年を迎える

2011年09月08日 | 小泉八雲
 江戸時代末期に開業し、営業を続ける写真館としては国内最古級とされる熊本市新町の「冨重写真所」が今年で開業145周年を迎える。
 冨重写真所は、国内初の写真家(写真師)として知られる上野彦馬(1838-1904)に師事した福岡県柳川市出身の冨重利平(1837-1922)が、1866年に地元で開業し、1871年、明治政府からの招きを受けて熊本に移転(注1)した。
 西南戦争(1877年)で焼失する前の熊本城の天守閣を撮影(注2)しており、熊本市が1960年に熊本城を再建する際に参考資料とした。 西南戦争で写真所は焼失したが、写真機材、ガラス原板を持ち出し、貴重な機材や記録はその後も代々大切に引き継がれてきた。 焼失した年に再建された木造2階建ての建物は、現在も店舗として使われており、2006年に国の登録有形文化財に指定された。
 保管している写真には、89年の第五高等中学校(現在の熊本大)の正門、また、同中学校を前身とする旧制五高で教壇に立った小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)(注3)や夏目漱石(注4)、日露戦争の第三軍司令官・乃木希典将軍(1849-1912)ら数々の肖像写真も残されている。
 開業145周年の記念展が9月9日(金)より熊本県伝統工芸館(熊本市)で開かれる。10月2日まで。
[参考:読売新聞、熊本県伝統工芸館HP]

(注1) 1870年熊本県玉名市で開業、同年熊本市新堀町で開業の後、翌1871年現在の熊本市新町で開業した。
(注2) 1871年(明治4年)にエドワード・モースが撮影したものも残っている。
(注3) 小泉八雲(1850-1904)は1891年(明治24年)11月、熊本市の旧制五高の英語教師として赴任し、1894年(明治27年)10月までの3年の間熊本に住んだ。 1891年1月にセツ夫人と結婚し、よく本の中に使用されているセツ夫人と揃って撮った写真が残っている。(1892年の撮影となっている。)
(注4) 夏目漱石(1867-1916)は1896年(明治29年)4月、熊本市の旧制五高の英語教師として赴任し、1900年(明治33年)5月、文部省より英語研究のため英国留学(10月から)を命ぜられ、7月に帰京するまでの、4年3ヶ月の間熊本に住んだ。
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全北全州・ウォンジャン洞遺跡 紀元前3~2世紀頃の初期鉄器時代土壙墓5基を確認

2011年09月07日 | Weblog
 全北文化財研究院は6日、6月から全州徳津区ウォンジャン洞遺跡(전주 덕진구 원장동 유적)を発掘調査した結果、紀元前3~2世紀頃の初期鉄器時代土壙墓5基を確認したと発表した。
 1号土壙墓では、木棺跡が見つかった。
 出土遺物は、銅剣、細形銅剣銅戈、銅斧(青銅斧)、銅鉈、銅鏡などの多量の青銅器のほか、剣把頭飾、管玉、丸玉、三角形石鏃、黒陶長頚壺、円形粘土帯土器などが収集された。
 当遺跡の半径1km内には完州葛洞遺跡と新豊遺跡をはじめとする類似の遺跡があり、当時この地域を拠点として活動した勢力集団が存在したとみている。
 現地説明会が、9月7日(水)16:00に開かれる。
[参考:聨合ニュース、NewsWireほか]

過去の関連ニュース・情報
 2010.8.10 全北全州・完州新豊遺跡 初期鉄器時代の土壙墓70基以上と青銅鏡が出土

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小浜市・丸山城址古墳 片袖式の横穴式石室で、玄室へ向かう通路がスロープ状に下降、朝鮮半島の影響

2011年09月06日 | Weblog
 小浜市教委と花園大学考古学研究室は5日、同市の丸山山頂(標高110m)にある前方後円墳・丸山城址古墳の発掘調査結果を発表した。
 8月下旬~9月初め、3カ所のトレンチを掘って調べた。 一昨年の測量調査と同じく、全長約30m、500年頃(5世紀末~6世紀初め)の築造と確認された。前方部の横穴式石室を調べた結果、棺を納めた玄室へ向かう通路がスロープ状に下降しており、本州で一般的な水平構造とは異なっていた。 朝鮮半島、その文化が伝わった北部九州の影響を示しており、同様の例として若狭町の向山1号墳(全長約49mの前方後円墳、5世紀半ば築造)がある。 玄室は、「片袖式」で、本州では「両袖式」が一般的とされるのに対して、朝鮮半島と北部九州に見られる構造としている。(注: 向山1号墳は両袖式である。)
 同古墳は、後円部にも石室を持ち、若狭では、十善の森古墳(全長67mの前方後円墳、5世紀末から6世紀前葉築造)にのみ例ある。この両古墳はほぼ同時期に築造されているが、円筒埴輪の型式比較から、十善の森古墳の方が、より有力な首長墓とみられる。
[参考:中日新聞、朝日新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.9.11 小浜市・九花峰古墳 若狭地方で最古4世紀の前方後円墳
 2009.8.25 若狭町・糠塚古墳 全長約60mの前方後円墳と判明

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大分市・古国府遺跡群 第15次調査 居館跡?の遺構などが出土

2011年09月06日 | Weblog
 大分市教委は、現在「古国府遺跡群」第15次調査として南大分小校舎建て替えに伴う発掘調査を実施している。
 4世紀末~5世紀初頭(古墳時代中期)の祭祀施設あるいは有力者の居館跡とみられる一辺が約30mの方形区画の遺構、
 6世紀末~7世紀初頭(古墳時代後期)の大型掘立柱建物跡(長辺約18m、幅約3m)や柱の破片、
 幼児を葬った土器の棺、その横に供えられていた矢尻、水鳥の頭の形をした土製品など、
が出土した。
 古国府遺跡群の周囲には、弘法穴古墳(円墳、6世紀後半)や蓬莱山古墳(全長57mの前方後円墳、4世紀)をはじめとする大型古墳が多数あり、今回発見された遺構群は、古墳時代に大分を治めた豪族たちの居住区だった可能性があるという。
 9月4日(日)に現地説明会が行われた。 調査は9月末に終了し、埋め戻された後、体育館が建つ予定。
[参考:2011.9.5読売新聞、大分市HP]

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富岡市・上高田社宮子原遺跡および上高田熊野上遺跡 現地説明会9/11

2011年09月06日 | Weblog
 富岡市教委は同市妙義町上高田(かみたかた)の上高田社宮子原(しゃぐじはら)遺跡と上高田熊野上遺跡で行っている発掘調査の現地説明会を9月11日に開催する。 同遺跡は松義中部地区遺跡群の一つ。
 発掘は10年度から実施しており、8世紀の住居跡や古代の牧場の南端とみられる区画整理のために掘削した大溝跡、大溝に架かる土橋(どばし)、道路跡などが出土した。
 今回の調査で出土した大溝は両遺跡合わせて延長約370m。断面はU字形で幅約2・9m、深さ約1・3~0・9m。 水を流した形跡は見つかっておらず、空堀とみられる。 土橋は大溝の両岸の道路を結んでおり幅は約2m。
 住居跡は、竪穴住居跡10軒、掘立柱跡7軒が見つかり、土師器や須恵器などのかけらも多数出土している。
 現地説明会は9月11日(土) 午前9、10、11時の3回開かれる。 妙義庁舎近くの発掘調査事務所前に集合。 (小雨決行)
[参考:2011.8.31毎日新聞、2011.9.6産経新聞、富岡市HP]

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鹿児島県姶良市・市頭C遺跡 出土品から黒釉剥地牡丹文梅瓶の破片が見つかる

2011年09月05日 | Weblog
 姶良市教委は2日、同市加治木町木田の市頭C遺跡の出土品から、黒釉剥地牡丹文梅瓶(こくゆうはぎじぼたんもんめいぴん)の破片が見つかったと発表した。 推定復元高さ28cm、最大径15cmという。
 日本国内では初出土。 朝鮮半島西南部沖で沈没した14世紀の日元貿易船の積み荷から、同種・同形のものが引き揚げられているとしている。
[参考:南日本新聞]

備考:
黒釉剥地牡丹文梅瓶は、中国語名では「釉剔花牡丹纹梅瓶」となるだろうか?。
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広島県府中市・ツジ遺跡 舘や曹司?3棟の柱穴が東西一直線に並ぶ 緑釉陶器片も出土

2011年09月02日 | Weblog
 府中市教委は1日、古代の備後国府跡と推定されている、「ツジ遺跡」(同市元町)で、国司・郡司などの「舘(たち)」や、「曹司(ぞうし)」のものとみられる奈良~平安時代の建物の柱穴や、緑釉陶器の破片が見つかったと発表した。
 建物の柱穴(直径約0・5~1m)が10か所(3棟分)確認された。 各棟の柱穴が東西に一直線に並んでいた。 ほかに、約0.5m幅の溝跡も見つかった。
 食器や香炉などとみられる緑釉陶器の破片が数十個見つかった。 愛知県や京都府などの窯で焼かれたのではないかとみている。
 現地説明会は4日午後1時30分から開かれる。
[参考:読売新聞、中国新聞]

過去の関連ニュース・情報
 ツジ遺跡
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京都市山科区・山科本願寺跡 坪庭の一部とみられる石組みの溝が見つかる

2011年09月02日 | Weblog
 同市埋蔵文化財研究所が1日、浄土真宗中興の祖、蓮如(1415-1499)が室町時代に築いた山科本願寺跡(京都市山科区西野山階町30-1)で、坪庭の一部とみられる石組みの溝(長さ14m、幅1m)が見つかったと発表した。
 山科本願寺は蓮如の日記で、北から御影堂、阿弥陀堂が並んでいたことが明らかになっている。
 蓮如により、文明15年(1483)に建立されたが、1532年に法華宗や延暦寺、六角氏の攻撃で焼け討ちされた。
 現地説明会は10日(土)午前10時から開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞]
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群馬県太田市・向矢部遺跡 9世紀後半の滑石製紡錘車に「米」と「毛」の文字

2011年09月01日 | Weblog
 太田市只上(ただかり)町の向矢部遺跡(むかいやべいせき)で、2005年初めに出土した9世紀後半(平安時代前期)の石製紡錘車から、「米」と「毛」の文字が刻まれていたことが確認された。 「毛」には農作物の意味もあり、「米」と合わせて豊作を祈願した可能性がある。
 群馬県埋蔵文化財調査事業団が平成16年度に発掘調査を行い、平安時代の竪穴住居を主とした集落を見つけた。 その中の竪穴住居(長辺3.05m、短辺2.37m)から、平安時代の須恵器の坏・碗や土師器の甕と共に滑石製の紡錘車が出土した。 紡錘車は竪穴住居の中のかまどの右脇で、深さ約70cmから出土した。 直径は上部約4.5cm、下部約3.5cm、厚さ約1.4cm、重さ約49gで、中央に直径約1cmの穴が開いている。 「米」と「毛」の二文字は上部に刻まれていた。
[参考:東京新聞、群馬県埋蔵文化財調査事業団HP]
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