江戸時代末期に開業し、営業を続ける写真館としては国内最古級とされる熊本市新町の「冨重写真所」が今年で開業145周年を迎える。
冨重写真所は、国内初の写真家(写真師)として知られる上野彦馬(1838-1904)に師事した福岡県柳川市出身の冨重利平(1837-1922)が、1866年に地元で開業し、1871年、明治政府からの招きを受けて熊本に移転(注1)した。
西南戦争(1877年)で焼失する前の熊本城の天守閣を撮影(注2)しており、熊本市が1960年に熊本城を再建する際に参考資料とした。 西南戦争で写真所は焼失したが、写真機材、ガラス原板を持ち出し、貴重な機材や記録はその後も代々大切に引き継がれてきた。 焼失した年に再建された木造2階建ての建物は、現在も店舗として使われており、2006年に国の登録有形文化財に指定された。
保管している写真には、89年の第五高等中学校(現在の熊本大)の正門、また、同中学校を前身とする旧制五高で教壇に立った小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)(注3)や夏目漱石(注4)、日露戦争の第三軍司令官・乃木希典将軍(1849-1912)ら数々の肖像写真も残されている。
開業145周年の記念展が9月9日(金)より熊本県伝統工芸館(熊本市)で開かれる。10月2日まで。
[参考:読売新聞、熊本県伝統工芸館HP]
(注1) 1870年熊本県玉名市で開業、同年熊本市新堀町で開業の後、翌1871年現在の熊本市新町で開業した。
(注2) 1871年(明治4年)にエドワード・モースが撮影したものも残っている。
(注3) 小泉八雲(1850-1904)は1891年(明治24年)11月、熊本市の旧制五高の英語教師として赴任し、1894年(明治27年)10月までの3年の間熊本に住んだ。 1891年1月にセツ夫人と結婚し、よく本の中に使用されているセツ夫人と揃って撮った写真が残っている。(1892年の撮影となっている。)
(注4) 夏目漱石(1867-1916)は1896年(明治29年)4月、熊本市の旧制五高の英語教師として赴任し、1900年(明治33年)5月、文部省より英語研究のため英国留学(10月から)を命ぜられ、7月に帰京するまでの、4年3ヶ月の間熊本に住んだ。
冨重写真所は、国内初の写真家(写真師)として知られる上野彦馬(1838-1904)に師事した福岡県柳川市出身の冨重利平(1837-1922)が、1866年に地元で開業し、1871年、明治政府からの招きを受けて熊本に移転(注1)した。
西南戦争(1877年)で焼失する前の熊本城の天守閣を撮影(注2)しており、熊本市が1960年に熊本城を再建する際に参考資料とした。 西南戦争で写真所は焼失したが、写真機材、ガラス原板を持ち出し、貴重な機材や記録はその後も代々大切に引き継がれてきた。 焼失した年に再建された木造2階建ての建物は、現在も店舗として使われており、2006年に国の登録有形文化財に指定された。
保管している写真には、89年の第五高等中学校(現在の熊本大)の正門、また、同中学校を前身とする旧制五高で教壇に立った小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)(注3)や夏目漱石(注4)、日露戦争の第三軍司令官・乃木希典将軍(1849-1912)ら数々の肖像写真も残されている。
開業145周年の記念展が9月9日(金)より熊本県伝統工芸館(熊本市)で開かれる。10月2日まで。
[参考:読売新聞、熊本県伝統工芸館HP]
(注1) 1870年熊本県玉名市で開業、同年熊本市新堀町で開業の後、翌1871年現在の熊本市新町で開業した。
(注2) 1871年(明治4年)にエドワード・モースが撮影したものも残っている。
(注3) 小泉八雲(1850-1904)は1891年(明治24年)11月、熊本市の旧制五高の英語教師として赴任し、1894年(明治27年)10月までの3年の間熊本に住んだ。 1891年1月にセツ夫人と結婚し、よく本の中に使用されているセツ夫人と揃って撮った写真が残っている。(1892年の撮影となっている。)
(注4) 夏目漱石(1867-1916)は1896年(明治29年)4月、熊本市の旧制五高の英語教師として赴任し、1900年(明治33年)5月、文部省より英語研究のため英国留学(10月から)を命ぜられ、7月に帰京するまでの、4年3ヶ月の間熊本に住んだ。