初任校(初担任をした学校)は、現在の言い方をすれば問題多発校と思う。‘80年代当時、世間のある層の学校は、なんだか「荒れて」「すさんで」いた。おかしな言い方かも知れないが、「どたどた」していたように思う。
僕は「オープンキャパス広告 ’13-4(続)」(’13-08-09)にこんなことを書いている。
埼玉県の高校は30年ほど前、大増設期を迎えた。「十五の春は泣かせない」という政治スローガンのもと、公立高校が大増設された。学校数は増え、入学者数も増えた。学校数が増えればそれだけ、「きっちり」とした成績ランキングによる順位もできてくる。歴史のない学校が全部とは言わないが、いわゆる「教育困難校、問題多発校」が誕生(拡大、顕在化)した。
勉強が嫌いだけど、みんなが高校に行く、親も高校に行かないことを許してくれない。受験をしたら合格した。だから学校生活に魅力を感じない。そんな生徒が多い学校、多くは「困難校」と見なされた学校では、問題が多発、退学者も増えた。これらに共通ということではないが、問題多発の時期、荒れ期を過ぎると、数年後、不思議とどんよりした雰囲気が目立つようになった。「別にぃ...」そんな感情への回答を、高校は模索せざるを得なくなった。
高校は勉強以外の何かを、勉強が苦手な生徒、学校になじめない生徒たちに提示しようとした。学校生活への目的意識、学校への帰属意識が持てず、学校を止めていく生徒たち。無気力な生徒たち。その対応策として、部活動や運動会、文化祭等々の行事、委員会活動等、授業以外で活躍の場をたくさん設定し、生徒を引き留めることを考えた。これらのアプローチは、生徒に「何か面白いこと」「学校は楽しい」ということを提示していることになる。
親世代ならば普通科高校に進学できない学力層の生徒も進学できた。別の言い方をすれば、そのような生徒が入学してきた学校では、急激な学習困難生徒の増加への対応に追われた。それらはもっぱら新設高校の場合が多いものの、既設の学校でも同様のことが起きた。
英語という教科のことしかいえないが、教科書は現在ほどにはヴァリエーションはなかったし、教授方(対処法)手探り状態。1学年と3学年で学力レベルが同じ学校とは思えないほど、低下した高校が存在した。教科書、教材は前年に決まる。激変する生徒のニーズ、困難、フラストレーション。どれも学校の先生の対応が得意とはいえない分野だろう。
先生の自分がこんなことを書くのはどうかなと思うけど、先生は基本的に真面目で、生徒のことを思い、よかれと考えることを実践する集団だと思う。しかし、その「よかれ」自体が、生徒たちのそれらと違うことに気づけない。理解できない。それを教えてくれた生徒が、初担任のクラスにいた。その生徒は僕に言った。
「先生たちに、バカの気持ちはわからない。
小学校の途中から、どの授業の内容もわからず、お客さん状態。各校種の段階で、先生たちがよかれと思う教え方を実践しても、それを処理できない。そんな生徒たちがいる。よく、「努力は平等」のような言い方があるが、違うのだ。高校生になるまで、1日に決められた時間(予習などに必要な時間)、机に向かう習慣のない15歳が一定数いる。努力は平等ではない。置かれた物理的、経済的環境により、努力と呼ばれる行為ができない生徒が存在するのだ。その結果の学習困難。そのことを教えてくれたことばである。
先生が教科学習について困難のある生徒を「理解しよう」「支援しよう」と思うのは自然のこと。しかし「理解できる」「支援できる」と思うのは間違いの可能性がある。自分が成功した学習プロセスは、あくまでも自分のもの。いやな言い方だが、一歩引いて対処することも大切である。それを思い知らせてくれたことばである。
先生として「理解する」をめざすことは当然だが、「理解できる」とは思わない。僕の立ち位置である。
自分の経験を一般化できるとも、しようとも思わない。あくまでも、個人的な経験(談)である。特記する。