「命の救援電車」を読んでいて副産物として得たのが「御堂筋が完成する前の大阪のメインストリートはどこだったのか」ということだった。
このこと、あまり考えてこなかった。
大阪といえば地元大阪人の私達にとっても御堂筋であり、これは不動のポジションである。
ちなみその不動の御堂筋は府道ではなく国道である。
しかし御堂筋は私の父母が生まれた頃の昭和8年完成で、それ以前は存在していなかった。
いや、存在はしていたが幅の狭い路地のような筋(大阪では南北の通りを筋といい東西の通りを通りという。私はこれをAvenueとStreetの違いみたいなもんと外国人には説明するようにしている)はあったが、間違ってもメインストリートではなかった。
どちらかというとそのあたりは心斎橋筋がメインであったはずだ。
ではいったいどこがメインストリートだったのか。
その回答がこの本に記されていたのだ。
しかもごく自然に。
御堂筋の一本東の大通りと言えば堺筋。
この堺筋が元々の大阪のメインストリートなのであった。
ここは北方向一方通行の大通りでその下を地下鉄堺筋線が走っている。
私はこのことを知るに及び、多くの謎が氷解するのを感じたのであった。
それは何かというと、なぜ大阪の大企業の多くがその本社を堺筋とその近辺にもっているのか、あるいは持っていたのかということだ。
例えば重要文化財になっている野村證券やコニシボンドの本社建物、オフィス家具のイトーキなどの本社は堺筋にあったし、今もおいているところがある。
三井グループの総元である三越の大阪本店も堺筋にあったし、高島屋は今も堺筋に店を持っている。
それに大企業よりもなによりも大阪証券取引所は堺筋と土佐堀通りが交差する北浜の交差点にある。
そういうことでこういう重要拠点がなぜこの通り沿いには多いのかという謎が一気に氷解したのであった。
さらに追加すると大川(旧淀川)にかかる橋の名前が御堂筋は淀屋橋(中之島の南側)と大江橋(中之島の北側)なのに堺筋は「難波橋」。
名前だけから考えると難波橋のほうがランク上のような感じがしていた。
欄干にライオンの彫像があることからライオン橋などという別名があるのもこの橋だけだし、中之島で北側と南側の名前が分断されていないのもこの橋だけだ。
千日前通りより南側の堺筋は大阪の秋葉原ともいえる日本橋の電気街があっていささか品位に欠けるところがあるものの、なぜ千日前通りより北側が威厳に満ちていたのか。
しかも道頓堀も堺筋より東側に劇場が存在したのに、なぜ御堂筋から西側に劇場が存在しないのか、という理由もよくわかったのであった。
ということで堺筋の謎が少しばかり溶けたということで、街歩きの楽しさが少しく増すかもしれないとと思っている副産物なのであった。