萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第86話 建巳 act.10 another,side story「陽はまた昇る」

2020-09-07 22:12:00 | 陽はまた昇るanother,side story
A 5 ou 6 heures du soir 
kenshi―周太24歳3月末


第86話 建巳 act.10 another,side story「陽はまた昇る」

窓あわい朱色に染まるころ、母は帰ってきた。

「…あ、」

こつん、こつん、聞きなれた靴音かすかに響く。
飛石をパンプスやってくる、なつかしい音に周太は窓を見た。

「やっぱり、」

レースのカーテン透かす庭、華奢なコート姿が急いでくる。
夕暮やわらかな桜、そしてミモザゆらす黄色に靴音こつん近くなる。
予定より早かったな?ライティングデスクから立ちあがって、インターフォン響いた。

「はーい、」

インターンフォン2つ連打、そして長押し1つ。
ずっと暗号にしていた押し方に玄関ホール、かちり玄関扉が開いた。

「ただいま周、出張先から直帰しちゃった、」

やわらかな香にアルトが笑う、ウェーブゆるやかな黒髪かきあげ瞳が微笑む。
ぱたり玄関扉が閉じて、コート脱いだ母に周太は微笑んだ。

「ん…おかえりなさい、お母さん、」

おかえりなさい、と言えた。
再び言えた当り前の言葉、母の瞳ゆっくり瞬いた。

「ええ…ただいま、」

やさしいアルト微笑んで、黒目がちの瞳から光こぼれる。
あふれてステンドグラスの光ゆれて、スーツの腕そっと伸ばされた。

「…しゅうたっ、」

やわらかな香くるまれる、やさしい腕が肩を抱きしめる。
頬ふれる熱しずかに衿元こぼれて、ふるえるスーツの肩を抱きしめた。

「…、」

スーツの肩ちいさく震える、背中ふれる華奢な手。
こんなふう抱きしめられるほど、不安も哀しみも与えてしまった。

―ずっと我慢してくれてたんだ、おかあさん…

ただいま、
おかえりなさい、

何気ない出迎えワンシーン、ずっと繰り返してきた親子の日常。
あたりまえで、けれど消えてしまうかもしれなかった。

「ずっとごめんなさい、おかあさん…」

呼びかけて腕の中、母の肩ふるえてしまう。
声は無い、けれど泣いている震えまっすぐ鼓動に響く。
こんなふう泣いてしまうほど耐えて堪えて、母はずっと苦しんだ。

『そんなのやめて周太っ…お願いよ、』

警察官になると告げた夜、母は泣いた。
それでも自分は警察官になってしまった、どれほど母を苦しめたろう?

「ごめんなさい、心配いっぱいかけて…ごめんねおかあさん、」

呼びかける言葉ずっと言いたかった。
けれど言えないまま消えるかもしれなかった、あの長野の夜。

『あのひとが命懸けで信じたのっ、だから私も息子が警察になること頷いたのよっ、あなたが護ってくれると信じたから!それが何よその拳銃っ、』

母は知っていた、父を誰が殺したのか。
命懸けで信じた、頷いた、護ってくれると信じたから、そんな言葉たちに母の十四年を知ってしまった。
知って、知っているから信じて、そして独り毎夜あの書斎で抱きしめた涙、それから父への終わらない慟哭。
そんなふう生きた歳月ずっと、父が消えた桜の夜からずっと、堪えた肩が今ふるえる。

―もう泣かせたくない僕は…お父さんもそうでしょう?

ふるえる肩に面影ふれる、あの夜、父が消えた夜より細くなった肩。
背中すがる手も細くなった、こんなふう泣かせたくない。
この肩に手に、ふりつもった歳月に今日を告げた。

「お母さん、今日、退職届を出してきたよ、」

告げて、背中の手そっと緩められる。
スーツの肩すこし離れて、長い睫ゆっくり瞬いた。

「…周太が、自分で出しに行ったの?」
「ん、」

うなずいて笑いかけて、母の瞳ゆっくり瞬く。
ステンドグラスやわらかな黄昏の光、ふわり周太は笑った。

「警察官を辞めてきたよ、明日から大学院の受験勉強したいんだ、」

今日終わる、そして明日から始まる。
それが簡単に叶うのかなんて思っていない、それでも。

『俺が消えても次がいる、辞めた後も気をつけてくれ…おまえは生きろ、』

長野の夜、父の殺害犯が自分に言ったこと。
あの言葉は真実だった、そして贖罪で、そのためにも自分は生きる。
だから今日は自分で退職届を出したかった、それは父の願いでもあるから。

『あの日の翌日に辞表を出すつもりだったのよ…今も私が保管してあるわ、馨さんの絶筆だもの?』

長野の夜、母が叫んだ父の真実。

『雪崩の巣に送りこんで今度は拳銃ってどういうことよ!黙って死んだ馨さんを踏みにじってんじゃないよこの殺人鬼っ、』

病院の駐車場、雪を貫いた怒鳴り声。
雪ふる闇に白い手あがって、母は彼の頬ひっぱたいた。
あんなふうに怒鳴る母を初めて見た、それだけ堪えた理由は父の想いだ。

“辞表を出すつもりだったのよ…絶筆だもの”

警察官を辞めて、父は何を叶えたかったのか?
その想い解るのは父の世界たどった自分の時間、その涯に今、願いを抱いている。
そうして生きたい場所に自分は向かう、その願いに母の涙そっと笑った。

「そう…おめでとう周太、」
「ありがとう、でも、まだ合格するか分からないよ?」

わざと混ぜっ返して笑って、母も小首かしげ笑ってくれる。
頬こぼれる雫そっと細い指はぬぐって、やわらかなアルト微笑んだ。

「おかえりなさい、周太?」

おかえりなさい、そう母の声が自分を見あげてくれる。
ステンドグラスの黄昏やわらかな玄関、なつかしい日常に周太は笑った。

「ただいま…ごはん出来てるよ?」

※校正中
(to be continued)
【引用詩文:Jean Cocteau「Cannes」】

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第86話 建巳 act.9 another,side story「陽はまた昇る」

2020-09-03 22:50:13 | 陽はまた昇るanother,side story
A 5 ou 6 heures du soir 
kenshi―周太24歳3月末


第86話 建巳 act.9 another,side story「陽はまた昇る」

小鍋の火を止めて、醤油ふわり甘辛い。
こんな匂いすら懐かしい、僕が大好きな台所。

「…ただいま?」

ひとりごと微笑んで、馴染んだ時間が懐かしむ。
もう100年以上を使いこまれた台所、けれどタイルひとつも清潔に光る。
こんなふう星霜ずっと大切にしてきた、そんな空間で手紙なぞられる。

“お菓子も一緒に作りたいわ、スコンは君のお祖父さんもお気に入りです、君も私みたいに甘いものが大好きかしら。”

私の孫になる君へ、愛しい君へ。
そう宛て呼びかけて、書きのこしてくれた自分の祖母。
父の母で祖父の妻だったひと、そして、生きて会えなくても自分の祖母。

「おばあさん…ここでお菓子を作ったんだね?」

もう生きていない、それでも呼びかけてしまう。
だって彼女は確かに生きて、ここにいた。

「…明日はスコン焼こうかな、」

ひとりごと微笑んで、エプロン外して息ほっと吐く。
ずっと見慣れた家の台所、周太はスマートフォンの画面ひらいた。

「…、」

指先ふれて受信ボックス開ける。
昨日の日時ふたつ見つめて、最初の一つあらためて開いた。

……
From 湯原美幸
件名 出張になりました
本文 急にごめんね周太、今から大阪支社に出張なの。
   明日の夜、19時にはそちらに戻るはずよ。
   おばさまには出張のこと電話したわ、菫さんにもメールしてあります。
   奥多摩は雪だったのかしら、風邪なんてゼッタイにひいちゃだめよ?
   今日は話したいこと色々あったけど、今夜はおたがい一人が良いのかもしれないね?
……

綴られる電子文字に母の想いが温かい。
どうして息子の自分に電話しなかったのか?理由を告げない行間に微笑んだ。

「ひとりで考えるよ…おかあさん?」

昨夜から考え続けている、今も。
そうして話したいこと増えていく、きっと母も同じだろう。
昨日あの一日の後、そして今日の一日に訊きたいことも増えていく。

―お母さんも考えてる、昨日も今日も…美代さんのこと、英二のこと…おとうさんのこと、

昨日、あの二人にめぐる想いと約束。
その全て母は聴きたいだろう、そして今日のことも。
お互いに聴いて話して、そうして結論いくつか見つけなくてはいけない。

「…英二、」

ほら名前こぼれだす、零れて唇そっと熱い。
あの眼ざしに逢ってしまったら、僕はどうなるのだろう?

『うまい、すごく美味いよ?周太、』

この台所で、ダイニングで、あの笑顔ほころんだ。
きれいな切長い瞳ほころばせて、端整な口もと健やかに食べていく。
あの眼差しに見つめられたら、今、こうなってしまった今の僕はどうなるのだろう?

―でも美代さんが大事なんだ僕は…こんなに英二を思い出すのにどうして、

大きな瞳まっすぐ澄んだ、あの勇敢な女の子。
薔薇色の頬きれいに健やかで、どこまでも実直まぶしい努力のひと。

『だからもう帰るとこないの私、これで落ちてたら…ほんとバカだけど、泣くけど、でも…後悔しない、』

一昨日、合格発表前に彼女は泣いた。
桜咲くキャンパスかたすみ大きな瞳は揺れて、それでも決めていた。

“泣くけど、でも後悔しない”

そう言い切れる瞳が好きだ、泣いても強い勁い明るい瞳。
好きで、だから昨日も共に奥多摩へ彼女の実家へ行ってしまった。
彼女の分岐点を共に立ちたいと、肚底から願ってしまったから。

―好きなんだ僕は…どうしようもなく好きだから、一緒に行ったんだ、

強い勁い女の子、それは優しい強さ。
泣いても立ちあがる彼女が好きだ、泣いても笑って寄りそてくれる彼女が好きだ。
この好きは普通の好きじゃない、そんな自覚もうとっくにしている、それなのに今この瞬間もあなたを見ている。

『雪山はきれいだよ、周太、』

そう語ってくれたあなたの眼、きれいだった。
はるかな山の世界を駆けるひと、あなた今どこにいる?

「…訓練も気をつけてね?」

言葉そっと零れて鼓動せりあげる。
自分の言葉ひとつ思い出す、救助隊服まとう広い大きな、あなたの背中。
ずっと見つめていられたら?想い、そうして今日の真昼が映りこむ。

『宮田先生は最高検察庁の次長検事を務めた方です。退官されて弁護士事務所を開かれたのですが、事務所のバイトは勉強もみてもらえました、』

細い瞳おだやかな、冷静なくせ明るい視線。
あの青年は長野にも現れた。

―加田さんのことも…どうしようこれから、

検察官、そして大叔母を「私の先生の奥様」と呼ぶひと。
そんな人が同居を申し出た、それだけ大叔母の信頼があるのだろう。

―英二のことも知ってるよね、でも…僕と英二の関係は、

あの青年が「先生の奥様」の孫と、自分のことを知ったら?
なにか苦しくなる、けれど、それと同居は関係ない。

―おばあさまは英二と僕のこと解っていて、このこと提案してる…なぜ?

なぜ大叔母は、あの青年をこの家に住ませたいのだろう?
わからない、それに自分だけで決めることは違う。
この家の主はあくまで母だ。

「…ん、」

ひとり肯いてリビングの片隅、ライティングデスクにパソコン開く。
判断材料すこしでも揃えておきたい、考えにホームページひとつ開いた。

「ん、」

同居人を申し出る、その人を少しでも知りたい。
その職場を示す電子文字に、サイトページ開いた。

“検察の理念”

そう記されるタイトルに、自分も少し知れるだろうか?
まだ二度しか会っていない青年、その職が掲げる言葉を見つめた。
……
あたかも常に有罪そのものを目的とし、より重い処分の実現自体を成果とみなすかのごとき姿勢となってはならない。
…そのような処分、科刑を実現するためには、各々の判断が歪むことのないよう、公正な立場を堅持すべきである。
権限の行使に際し、いかなる誘引や圧力にも左右されないよう、どのような時にも、厳正公平、不偏不党を旨とすべきである。
また、自己の名誉や評価を目的として行動することを潔しとせず、時としてこれが傷つくことをもおそれない胆力が必要である。
……
綴られる言葉に、あの細い瞳が見つめられる。
それからもうひとつ、あなたの眼。

「そういう血なんだね…英二?」

いかなる誘引や圧力にも左右されない、まるであなただ?
自己の名誉や評価を目的として行動することを潔しとせず、あなたの言動そのままだ。
そして何より、

「…時としてこれが傷つくことをもおそれない胆力が必要である、」

傷つくことを恐れない、そういうひと。
そういうひとだから、この僕の、この家の連鎖に関わってしまった。

※加筆校正中
(to be continued)
【引用詩文:Jean Cocteau「Cannes」】

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第86話 建巳 act.8 another,side story「陽はまた昇る」

2020-09-01 23:32:02 | 陽はまた昇るanother,side story
A 5 ou 6 heures du soir 
kenshi―周太24歳3月末


第86話 建巳 act.8 another,side story「陽はまた昇る」

桜の窓かすかに甘い、ほろ苦い。
午後、陽だまり明るい僕の部屋。

「は…」

息ついて、肩の力そっと消える。
脱いだスーツかすかな風ゆらす、カーテン揺らせて春が匂う。
もう3月が終わる、そうして酣になる春の窓辺、周太は微笑んだ。

「春だね…」

カーテンゆらす窓、ガラスひらいて桜ほころぶ。
紅い葉やわらかな山桜、この桜を父は愛していた。

『紅い葉と白い花が清々しいだろ?山だともっときれいで…春の山はきれいなんだ、』

幼い日、口ずさむような幸せな声。
想うだけで幸せだと瞳は微笑んでいた、あの眼差しが愛した場所に自分も行く。

「山はひとりだと僕には難しいけど…ね、お父さん?」

山桜に微笑んで、窓かちり錠を閉じる。
戸締りは気をつけなくてはいけない、今日終わる3月その後も。

―退職しても終わるかなんて、わからないんだ…

観碕征治、元警察官僚だった男。
そして祖父の知人だった、でも「知人」だけじゃない。
そのために父は警察官にならされて、自分も今日まで同じ道、そして五十年を続いてしまった連鎖の行方は?

『 La chronique de la maison 』

フランス文学者だった祖父が、ただ一篇だけ遺した小説。          
パリ郊外の閑静な邸宅に響いた2発の銃声、隠匿される罪と真相、生まれていく嘘と涙と束縛のリンク。
そんな小説のなか「亡霊」はたしかに現れて「幻覚」は起きる、その全てが現実の事実だとしたら?

「…探しものを、君に」

声こぼれて記憶なぞる、祖父が贈った言葉の記憶。
父と大叔母と、二人に贈った本それぞれに詞書は記されていた。

“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る 
“Pour une infraction et punition, expiation” 罪と罰、贖罪の為に。

父に贈られた言葉ふたつ、棘のよう記憶に痛む。
それから大叔母に贈った言葉、ただ一言。

“Confession”告解

祖父は、妻の従妹に一言を贈った。
あの言葉が示すのは?

「…、」

ため息そっと窓を閉じて、部屋の扉を開く。
ぱたん、スリッパ鳴らす廊下なめらかにダークブラウン艶めく。
もう夕暮時、それでも春めいた陽に磨かれてきた木目の艶が深い。

―ここをお祖父さんも歩いていたんだ、ね…

ずっと幼い日から歩く廊下、見慣れた艶は懐かしい。
ここを祖父も祖母も歩いて、曾祖父も曾祖母も歩いていた。
同じ廊下たどる光、ステンドグラスやわらかな色彩に扉を開いた。

かたん、

重厚な香ほろ苦く甘い。
親しんだ書斎の空気おだやかに包んで、ふるい本たちの時間たたずんだ。

「…ただいま、お父さん?」

呼びかけて、書斎机の上で父が微笑む。
ちいさな写真立ての笑顔、それでも心くるまれて微笑んだ。

「お父さん、明日から大学に通うよ?お父さんたちの大学に…」

書斎机の上、おだやかな笑顔きれいに見つめてくれる。
この笑顔が輝いていた場所、そこへ自分も通う。
そこは自分にも楽園だろうか?

―お祖父さんの大学でもあるから…だから、あのひともいたんだ、ね?

観碕征治、あの男と祖父が出会った場所。
そんな過去の事実に、ことん、推測そっと零れた。

「読んだのかな…あのひとも、」

声こぼれて鼓動そっと軋む。
この痛みを、祖父の知人だった男も抱いているだろうか?

『 La chronique de la maison 』

祖父の還暦祝いに大学から記念出版された、あの一冊。
それを同窓生なら読んだかもしれない?
それなら、

―お祖父さんが贈ったとしたら…なんて書いたの?

父へ、大叔母へ、祖父が贈ったものには詞書がある。
祖父が愛用したブルーブラックの筆跡、小説の世界なぞるような言葉。
あの言葉たち何を示すのか、そして、彼には言葉どんなふうに贈るだろう?

「…知り合い、同級生…友だち?」

言葉ならべながら見あげる書棚、整然ならぶ背表紙が光る。
窓の陽やわらかに照らす書架、異国の文学書たち黙りこむ。

※加筆校正中
(to be continued)
【引用詩文:Jean Cocteau「Cannes」】

第86話 建巳act.7← →第86話 建巳act.9
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私の孫になる君へ―斗貴子の手紙 another,side story「陽はまた昇る」

2020-08-30 08:18:00 | 陽はまた昇るanother,side story
君に未来を、
harushizume―周太24歳3月下旬


私の孫になる君へ

愛しい君へ

はじめまして、未来に生まれている君へ。
私は君のお父さん、馨さんのお母さんで君にはお祖母さんになります。
名前は斗貴子「ときこ」と読むんですよ、旧姓は榊原といって世田谷にお家がありました。
その家は君がこの手紙を読むころには無いかもしれません、私は兄弟がいなくて一人っ子だから家を守る人がいないんです。

こんなふうに書くと分かってしまうかしれないけれど、私は君が生まれるよりずっと前にこの世から消えます。
私は喘息という病気で心臓も弱いの、長くは生きられません。君のお父さんが大人になる姿も見られず世を去るでしょう。
本当はもっと生きて馨さんが大人になったところも見たいです、入学式も遠足も一緒にしたいけれど叶いそうにありません。
でも、あなたに逢いたいです。

馨さんの子供である君に逢いたい、お祖母ちゃんですよと笑いかけて抱きしめたいわ。
どうしても君に逢いたいです、まだ生まれていない遠い未来の君に逢いたくて、つい馨さんの姿に想像します。
もしかして髪はくせ毛ですか、私がそうだから馨さんもくせ毛です。本は好きかしら、花を見るのも好きでしょうか。
こんなに想像するほど君に逢いたいです、だから手紙を書くことにしました。何年先になるか解からなくても必ず届く魔法で贈ります。
この魔法は叶っているはずです、何故って今こうして君は読んでいるでしょう?

君と一緒にしたい事はたくさんあります。
君と手をつないで庭を散歩したいです、私が好きな花を一緒に見たいわ、白い一重の薔薇ですよ。
本もたくさん読んであげたい、書斎はたくさん本があるでしょう?東側の飾棚は私が御嫁入りに連れてきた本です。
お菓子も一緒に作りたいわ、スコンは君のお祖父さんもお気に入りです、君も私みたいに甘いものが大好きかしら。
私の母校でも一緒に散歩したいわ、大きな図書館がとても素敵なのよ?君のお祖父さんの研究室も案内したいです。

お祖父さんの晉さんと私は大学の研究室で出逢ったの、フランス文学の研究室です。お互い本が大好きだから逢えました。
君のお祖父さんはフランス文学の学者です、戦争のあと独りでフランスに留学して一生懸命に勉強した立派な方です。
いろんなご苦労をされてきました、その苦労の分だけ濾過された心が本当に綺麗で瞳にも表れています。
私は君のお祖父さんの妻になれて本当に幸せです、そして教え子であることも誇りです。

私と君のお祖父さんは齢が十五歳も違います、でも共通点が恋になりました。
二人とも文学が大好きだという共通点です、フランス文学にイギリス文学、もちろん日本の文学も大好き。
私は体が弱くて学校に行けない日も多かったの、そんな私にとって本はいちばん傍にいる友達です。
それでも学校は好きだったのよ?だから尚更に学校へ行けない日もベッドで本を読み勉強しました。
そんな私だから君のお祖父さんが書いた本とも出逢えたの、彼の言葉たちは鼓動から響きました。
響いたから大学へ行きたいと夢を抱いたのよ、君のお祖父さんに逢いたくて。

君が生きる時代は女の子たちも大学に行きますか。
私の時代は女が四年制大学に行くことは珍しくて、合格も難しいと思われていました。
それでも私は大学へ行きました、君のお祖父さんと逢いたくて日本でいちばん難しい大学を受験したの。
病気がちで大学なんて無謀だとお医者さまにも叱られました、でも短い命ならばこそ夢を見に行きたいとお願いしたの。
どうしても君のお祖父さんに御礼を言いたくて、それには学生になって逢いに行くことが一番の恩返しだと想えて大学に進みました。

だって君、学問は受け継がれていくものです。
たとえば文学は文字を通して世界を伝えていくことができます、それを読んだとき人は希望を見つけることも出来るの。
病気でベッドにいる時間すらフランスの風景に連れていってくれた、この心の自由をくれたのは君のお祖父さんが紡いだ言葉です。
それは君のお祖父さんがこの世を去っても遺ります、文学が文字が世界にあり続ける限り、君のお祖父さんがつむいだ自由は生きています。
そして私も生かされました。

But thy eternal summer shall not fade,
Nor lose possession of that fair thou ow'st,
Nor shall Death brag thou wand'rest in his shade,
When in eternal lines to time thou grow'st.
 So long as men can breathe or eyes can see,
 So long lives this, and this gives life to thee.

私が好きな詩の一部です、シェイクスピアというイギリスの詩人が詠みました。
William Shakespeare「Shakespeare's Sonnet 18」ソネットという十四行詩です。
言葉は時間も空間も超えてゆく梯、想いつなぐ永遠の力があることを謳われています。
この詩は学問をあゆむ全ての人に贈られるものです、この通りに君のお祖父さんは生きています。
きっと君のお父さんも同じように生きるでしょう、そして私も詩のように生きたのだと自負しています。

君のお父さんの名前は馨ですが「空」でもあります。
馨、この「かおる」という音はラテン語の“ caelum ”カエルムを充てたのです。
若葉の佳い香がする5月の青空の日に君のお父さんは生まれました、だから“ caelum ”です。
馨という文字は言葉を伝える「声」が入っているでしょう?きっと文学を愛する人になると思います。
そうして君に本を読み聴かせてくれるのだと予想しています、お祖母さんの予想は当たっていますか?

君の名前はどんな願いの祈りに付くのでしょう。
考えるだけで幸せになります、そして逢いたくて祈ってしまいます。
馨さんが大人になって大切な恋をして、そして君が生まれてきてくれること。その全てが幸せであれと祈ります。

馨さんが結婚する相手は素敵な女性でしょうね、君のお母さんになってくれる人ですから。
きっと私はすこしだけ嫉妬してしまいます、なぜって今も手紙を書きながら馨さんを見ていて愛しいのです。
こんなに馨さんが愛しいもの、馨さんの子供である君も愛しくて宝物で、誰よりも幸せを願わずにいられません。
だからこそ君のお母さんが幸せである日々を祈ります、君が笑っていられるように。

君のお祖父さんに、新しい奥さんを迎えてとお願いしました。
私は君のお父さんのきょうだいは産めません、でも健康な新しいお母さんがきたら馨さんにきょうだいが出来るでしょう。
私はきょうだいが無いけれど仲良しの従妹がいます、顕子さんといって馨さんのことも可愛がってくれる頼もしい人です。
病気がちの私をいつも見舞ってくれたのも顕子さんです、彼女が従妹だから私はたくさん笑っていられました。
そういう信頼できる身内が馨さんにもいてほしくて晉さんに再婚を勧めています。

ですから私ではないお祖母さまが君にはいるかもしれません。
その方と君は血のつながらない家族です、でもどうか大切にして下さいね。
家族は血の繋がりだけではありません、心が結ばれたなら幸福な家族です。

私は本当に幸せに生きました。
君が今いるこの家で私は生きて笑っていました、屋根裏部屋が私の書斎で大好きな場所です。
鎧戸の小さな出窓があるでしょう、あの下は小さな隠し棚になっていることを君は知っていますか?
開け方のヒントは寄木細工です、板をずらすと開きます。そこに贈物をしまっておくので受けとって下さい。
それを見れば私は幸せだったことが解かるはずよ、そして君を愛していることも伝えられると信じています。

君は学問が好きですか?
たぶん大好きだろうと思います、学問に出逢った晉さんと私の孫ですから。
君のお父さん、馨さんも学問が大好きな人になると思います。今も絵本を見て笑っているわ。
まだ文字も読めないはずの赤ちゃんです、でも小さな指で文字をなぞりながら楽しく笑っています。
だから君も学問を愛する人になるかもしれない、そう想えるから学問にも役立つ贈物を選びました。

いつか時の涯に君と逢えるよう思えてなりません、そのときは笑顔で私を見つけてください。
そのためにも写真を同封しておきます、君のお父さんを、私の caelum を抱いている私です。
そこには君も抱きしめています、何故って君は馨さんを通して私の遺伝子と夢を継ぐのだから。

どうか君、幸せに生きてください。私は永遠に君を愛し護ります。

湯原斗貴子


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第86話 建巳 act.7 another,side story「陽はまた昇る」

2020-08-29 23:40:01 | 陽はまた昇るanother,side story
La Méditerranée en zinc; 
kenshi―周太24歳3月末


第86話 建巳 act.7 another,side story「陽はまた昇る」

ことん、

水桶に柄杓が鳴る、墓地そっと透って響く。
スーツの袖めくり一枚のさらし、濡らして絞って指そっと冷たい。
もう三月も終わる、それでも冷たい水ふれる桜の風、なつかしい墓碑に微笑んだ。

「お彼岸に来られなくてごめんなさい…お父さん、」

見つめる黒い石、刻まれた家紋に姓が鈍く光る。
花曇りやわらかな空の下、さらしで周太は墓石にふれた。

「…お祖父さんもお祖母さんもごめんなさい、なかなか来られなくて…ひいお祖父さんも、ひいお祖母さんもごめんなさい、」

呼びかけながら墓石を磨く、磨いた跡あざやかに艶めいて消える。
拭うごと白布ひとつずつ黒ずんで、来られなかった想い呼びかけた。

「休みがほとんど無かったんです、僕…でも学校は行きました、お祖父さんとお父さんの大学…お祖母さんもいたのでしょう?」

碑ぬぐって小さく声かける、話したくて。
話したい、でも本当は、生きていたとき話したかった。

「お祖父さんの本を読みました、論文どれもすてきで…お祖父さんの研究室、今は田嶋先生が守ってくれてるよ?」

語りかけて磨く墓、この下に祖父の遺骨は眠る。
生きてあったことはない、それでも瞳閉じて俤に微笑んだ。

「お祖父さん?夢で会いに来てくれたよね、お父さんと一緒に…銀河鉄道の夜の夢、」

熱で眠った夜、そんな夢に会えた。
家には写真すら遺されていなかった、それでも会えた面影に眼を開いた。

「お祖父さんは背が高かったんだね…僕はあまり大きくないけどお祖母さんに似たのでしょう?顕子おばあさまが教えてくれたよ、」

見つめる真中、墓碑の戒名が黒く光る。
刻まれた俗名、享年、そこにある時間さらしで拭う。

「おばあさまは二人のことね、たくさん話してくれるの…大学でのこと、イギリスのこと…二人が出会ったときのこと、」

声にして見つめる墓碑、祖父と祖母の名が寄り添う。
その刻まれる順番に、ことん、鼓動そっと疼いた。

「お祖母さんの手紙を見つけました、僕…すごく嬉しかった、」

声にした喉が疼く、見つめる名前そっと迫る。
あの手紙つづってくれたひと、その優しい手は今この下に眠る。

「おばあさん、僕ね…僕、おばあさんの孫で良かった、」

“私の孫になる君へ”

愛しい君へ、そう呼びかけ書きだしてくれたひと。
はじめまして未来に生まれている君へ、そんなふう自分を望んでくれたひと。

「おばあさん、僕、ちゃんと生まれて今ここにいるよ?」

微笑んで名前そっと拭う、刻まれた三文字なぞらせる。
このひとが自分を望んでくれた、生まれるずっと前から、その命を懸けて。
その想い綴られた言葉たち、ほら?見つめる墓碑の名前に映りだす。

“私は君のお父さん、馨さんのお母さんで君にはお祖母さんになります。名前は斗貴子「ときこ」と読むんですよ、”

斗貴子、墓碑にそう刻まれている。
この名前のひとが自分の命を望んでくれた、生まれるずっと前から、ずっと。

“馨さんの子供である君に逢いたい、お祖母ちゃんですよと笑いかけて抱きしめたいわ。どうしても君に逢いたいです、”

どうしても逢いたい、あいたい。
その想い僕だって同じだ、だから今日もここにいる。

「僕、おばあさんのおかげで今、生きているんだよ…顕子おばあさまが救けてくれたのは、おばあさんのおかげでしょう?」

この墓碑に眠るひと、その従妹が自分を救ってくれた。
その救い手を自分の元に連れてきたのは、眠るひとの遠い遠い、はるかな願いだ。

“何年先になるか解からなくても必ず届く魔法で贈ります。この魔法は叶っているはずです、何故って今こうして君は読んでいるでしょう?"

祖母が願って贈ってくれた、その想い自分に届いている。

「おばあさんの手紙とプレゼント、僕の宝物なんだよ…だからね、手紙も暗記しちゃってるくらいなの、」

固い墓碑さらし拭って、透ける温もり慕わしい。
ただ陽だまりに温まっただけ、そう解っていても微笑んだ。

「おばあさん、僕もくせっ毛でしょう?」

笑いかけて髪かきあげて、梳かれる指やわらかに絡む。
こんなふう祖母も髪をかきあげたろうか?

“もしかして髪はくせ毛ですか、私がそうだから馨さんもくせ毛です。本は好きかしら、花を見るのも好きでしょうか。”

本は大好き、花も庭いっぱい育てている。
あの花々いくつか祖母が植えたのだと大叔母は教えてくれた。

“私が好きな花を一緒に見たいわ、白い一重の薔薇ですよ。”

教えてくれた花は祖母が愛した花。
それが「同じ」だった幸せに、名前を見つめて笑いかけた。

「本も好きだよ、お花も好き…おばあさんが好きな花、僕もだいすき…同じだね?」

声ひそやかに呼びかけて、冷たい墓碑おだやかに温かい。
もう消えてしまったひと、それでも遺された想いは届いている。

“こんなに想像するほど君に逢いたいです、だから手紙を書くことにしました。”

想像してくれた、生まれるより前の時間から。
生きて会えなかったひと、それでも似てしまった共通点に微笑んだ。

「喘息も同じだね…病気は困るけど、でも、似てるから嬉しいってなれたよ?」

呼びかけてスーツの胸もと静かにふれる。
この病も遺伝に同じと、そう思えるから厭わしいだけじゃなくなった。

“私は喘息という病気で心臓も弱いの、長くは生きられません。でも、あなたに逢いたいです。”

長くは生きられない、そう書きのこした通り祖母は早逝した。
それでも願ってくれた祈りに周太は笑った。

「僕も会いたかったよ…だから手紙ほんとに、本当にうれしかったよ?」

“君と一緒にしたい事はたくさんあります。”

一緒にしたいと願ってくれた、生きては叶わなかった願い。
それでも同じに好きでいる、花も本も、他たくさん同じに好きがある。
そうして受け継がれていく想いと磨く墓碑、眠るひとの言葉が映りこむ。

“だって君、学問は受け継がれていくものです。たとえば文学は文字を通して世界を伝えていくことができます、それを読んだとき人は希望を見つけることも出来るの。”

学問を愛したひと、その想いが祖父と出逢い父を生んだ。
そうして自分が今ここにいる、生かされて。

「…そして私も生かされました。って、おばあさん書いてたね…」

声そっと手紙なぞらせて、そこに記されていた詩。
その詩を父も愛していた、そして綴られる祈りに笑いかけた。

「お父さんの論文を読んだよ?田嶋先生がくれたの…ワーズワースの詩のこと、すごいね…」

語りかけ拭う碑、木綿を透かして温かい。
こんなふう父の背中を流せたなら、どんなに幸せだろう?

「…おと、さん…」

声こぼれて瞳ゆらぐ、やわらかに視界にじんで零れだす。
泣いてしまう、でも、今はそれでいいのかもしれない。

「おとうさん…僕、今日、警察官を辞めてきたよ…」

辞めてきた、自分の意志で。
この自分の意志で退職した、この最涯に周太は笑った。

「僕もお父さんの場所にいてね、わかったんだ…お父さんはお父さんだったんだなって、わかって嬉しかった、」

父は父のまま生きて死んだ。
それを知りたくて同じ道に入った、そして終えて今日ここに生きている。
生きて今この墓碑にさしむかう、ここに眠る想いに笑いかけた。

「田嶋先生がお父さんの論文集を作ってくれたんだよ、扉はシェイクスピアの詩…お父さんが大好きで、お祖母さんも好きな詩だよ?」

But thy eternal summer shall not fade,
Nor lose possession of that fair thou ow'st,
Nor shall Death brag thou wand'rest in his shade,
When in eternal lines to time thou grow'st.
 So long as men can breathe or eyes can see,
 So long lives this, and this gives life to thee.

「この詩を選んでくれて…深い緑色の表紙なんだよ、銀色の文字で…お父さんが好きな山の色だからって田嶋先生がしてくれたの、」

笑いかけて視界そっと滲みだす、ゆるやかな熱が零れだす。
この詩こめられる父との記憶、そして祖母が綴ってくれた手紙の祈り。
そんな全てが父の論文集に掲げられたこと、それを選んだのは父が唯ひとり、ザイルを繋いだ相手。

「お父さん、ほんとうに田嶋先生は夏のような人だね?あの詩そのままで…お祖父さんもそう思うでしょう?」

祖父の教え子、そして父の友人でザイルパートナー。
その人が自分の明日に待っている、それは祖母の願いでもあるかもしれない。

“言葉は時間も空間も超えてゆく梯、想いつなぐ永遠の力があることを謳われています。この詩は学問をあゆむ全ての人に贈られるものです、”

遺してくれた手紙に祖母が遺した想い、そのままに想い繋がれる。
繋がれて見つめる自分の明日、もう近い選択に顔を上げた。

「僕も学問の世界に生きます、だから…いつか逢えるね?」

“いつか時の涯に君と逢えるよう思えてなりません、そのときは笑顔で私を見つけてください。”

そんなふうに祖母は願ってくれた、だから逢える。
きっと逢える日には返事をしたい、あの手紙の最後の言葉に。

“どうか君、幸せに生きてください。私は永遠に君を愛し護ります。”

あの言葉に笑って、自分は生きる。

※加筆校正中
(to be continued)
【引用詩文:Jean Cocteau「Cannes」】

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第86話 建巳 act.6 another,side story「陽はまた昇る」

2020-08-27 23:57:00 | 陽はまた昇るanother,side story
Petit oiseau, petite rose, 
kenshi―周太24歳3月末


第86話 建巳 act.6 another,side story「陽はまた昇る」

見慣れた入口、ここを潜るのは今が最後。

「おはようございます、」

あいさつの先、見慣れた制服姿かすかに硬くなる。
強張るまま空気はりつめて、硬い口調が呼びかけた。

「失礼します、ご用件は何ですか?」

硬いトーン突き放される。
いつも硬い、それでも言葉は違っていた。

―いつも挨拶だけだったのに…もう違うんだ、

親しいわけじゃない、けれど顔は憶えている。
そうでなくては務まらない、だから今、憶えているけれど「知らない」貌されている。

「お名前とご用件をお願いします、」

制服姿は無表情のまま訊いてくる。
あらためて名前と用件を訊く、もう自分は「消えている」のだろう。

―配属された時からファイルは消されるけど…もうここに僕はいないんだ、

今日まで自分が所属する部署、それは存在すら消える場所。
そうして今も消されている、この予想していた現実に周太は一礼した。

「今日付けで退職する湯原と申します、退職届の提出に参りました、」

だから今日、自分の意志でここに来た。
譲れない想いの最涯で、庁舎の番人が問いかけた。

「そちらの方は、ご用件は?」

硬い視線の先、隣でスーツ姿の青年が佇む。
その細い瞳おだやかに笑って、警察官に会釈した。

「東京地検の加田です、捜査のご協力をお願いしたく参りました、」

告げながら胸ポケットに指入れて、取りだした金属ちいさく光る。
金と白と、中心の紅色きらめくバッジに警官の眼かすかに揺れた。

「なぜ、検察官が同行を?」

退職する警察官と検察官が一緒に現れる。
こんなこと不審に思われて当然だろう?けれど若い検事は微笑んだ。

「偶然そこで会っただけですよ、問題ありますか?」

明るい、けれど冷静な声おだやかに応えてくれる。
何ひとつ動じない、そんな検事に警察官は告げた。

「確認します、こちらでお待ちください、」

かちり踵返して電話に向かう、その背は制服に皺がない。
こんなふう隙など許さない場所で、検察官は微笑んだ。

「湯原さんの退職届、私の仕事に関わることみたいですね?」

細い瞳ほがらかに笑ってくれながら、その指がスーツの衿にバッジ留める。
菊の白い花弁と金色の葉、その中央に紅色あざやぐ旭日。

“秋霜烈日のバッジ”

霜と日差しのような形がダークスーツの衿もと光る、それは刑罰や志操の厳正に喩えられる形。
そのままに職務と理想像が課される青年は、精悍な口もと柔らかに言った。

「このまま退職届の受理を見届けさせてください、そのあとも私は仕事していきます、」

おだやかで明るい口調、その眼差し冷静なくせ明るく温かい。
秋冴える霜と夏育む炎天、そんな形そのままに青年の瞳が燈る。

そして退職届は受理された。

※加筆校正中
(to be continued)
【引用詩文:Jean Cocteau「Cannes」】

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第86話 建巳 act.5 another,side story「陽はまた昇る」

2020-08-25 21:24:00 | 陽はまた昇るanother,side story
Le tram traȋnait ses mélodies 
kenshi―周太24歳3月末


第86話 建巳 act.5 another,side story「陽はまた昇る」

僕が今から行くところは、道だろうか、線路だろうか?
けれど目的地の今日はそこだから。

「…ひさしぶり、」

声そっと微笑んで、見あげる窓は聳え立つ。
ここに来るのは今日で最後、想いに穏やかな声が言った。

「なるほど、湯原さんも大胆ですね?」
「加田さんも、大胆だと思いますか?」

訊き返した隣、細い瞳やわらかに笑ってくれる。
今日で二度め、まだそれしか知らない青年が周太を見た。

「ここに来ると知ったら、周りに止められるのではありませんか?」

冷静な言葉、そのくせ穏やかな朗らかな視線が訊いてくる。
精悍なくせ優しい笑顔にジャケットの藍色が深い、白いシャツ端正に映える。
冷静だけれど明るくて穏やかな誠実、このひとが今日、自分の元に来た理由わかるようで微笑んだ。

「加田さんが今日いらしたのは、大叔母は今日のこと気づいたからですか?」

あの大叔母なら気づくかもしれない。

―長野にも駆けつけた人だもの、ね…お父さんのことあるからなおさら、

大叔母は後悔している、今も。
14年前に従甥を亡くした過去を悔やみ怒り、哀しんでいる。

『十四年前こうするべきだったわ!あなたを引っ叩けてたら喪わないですんだのに、あなたも私も大事なものをっ!』

長野の山麓、夜の雪ふる駐車場で叫んだ瞳。
あのとき傍にいた黒いコート姿は、今はジャケット姿やわらかに微笑んだ。

「大事なひとは大事にしたいと、誰もが願うのではありませんか?」

それでも行くのか?
こんな問いかけ当り前な入口、周太は青年を見あげた。

「だから僕は今日ここに来たんです。今日のために僕は、警察官になったんです、」

今日のため、唯それだけが理由だった。
唯ひとつ知りたいと願っていた、だから警察官になって今日ここにいる。

「今日のため、湯原さんは警察官になったんですか?」

静かな声が尋ねてくれる。
この場所に今、こうして隣に立つ人に周太は微笑んだ。

「はい、警察官であることを自分で終わりにするために、警察官になりました、」
「ご自分で、終わりにするために?」

明るい静かな視線が訊いてくれる。
否定はしない、ただ受けとめてくれる声に笑いかけた。

「自分の意志で辞めることが僕には大切なんです。父もしたかったことだから、僕は叶えます、」

この想い、大叔母も解っているのかもしれない。

「お父さまも、したかったことなのですか?」
「はい、」

肯いて見あげる先、職場だった窓が遠く高い。
あの場所もっと遠くへ自分は行く、願う隣からテノール静かに言った。

「湯原さんの退職は体調不良が理由です、退職手続きもご本人は来られないはずですよ?」

言われて、記憶そっと敲かれる。

『湯原の退職は体調不良を表向きの理由にする、だから退職手続も本人は来られない、』
『あのひとのサシガネだよ、もう二度と警察とは関わらせたくないそうだ、緊急措置も辞さないとな?』

たった数日前、上司でパートナーだった男が告げた現実。
すべては自分を守るため、そう納得しても譲れないまま問いかけた。

「加田さんが伊達さんと話したんですね?大叔母の指図でしょうか、」

自分を守ろうとしてくれる、その想いは温かい。
けれど自分で立ちたい願いの隣、明るい静かな瞳が微笑んだ。

「今日のためだから、黒いスーツで今日ここに来たんですか?」

黒いスーツ、白シャツに紺色のネクタイを締めてきた。
それを指摘してきた視線は穏やかに朗らかで、そのくせ冷静な瞳に告げた。

「はい、だから行ってきます…僕は自分で知りたいんです、」

誰に肩代わりもしてほしくない、父のこと。
だから14年ずっと追いかけて、願い続けた歳月に静かな眼が笑った。

「私もご一緒します、いいですね?」
「…え?」

どうして?
差しだされた提案の途惑いに、冷静な瞳が笑った。

「今回の事件、私の仕事に無関係ではありません。職権乱用ではないから心配しないでください、」

告げられる言葉に現実が覗きこむ。
そうして解かれる疑問に、声そっと低めた。

「…だから長野に来られたんですね?あの夜、あのタイミングで、」

ずっと疑問だった、なぜ、この青年と大叔母が現れたのか?
そして与えられたヒントに雪夜の声が響く。

『早く銃を引きなさい、ここにいる加田さんも起訴を保証してくれます』

数週間前あの夜、雪降る病院の駐車場、銃声と硝煙あわい鋭い香。
雪の駐車場で大叔母が呼んだ名前、その細い瞳ただ微笑んだ。

「公私混同でもありませんよ?」

微笑んで衿元、ネクタイさらり締めていく。
ジャケットのボタン2つとめて、髪かきあげると加田は笑った。

「さあ、行きましょうか?」

五秒前は物静かな青年、今はスーツ姿の検事。
こういう人だから今日ここに来たのだろうか?

(to be continued)
【引用詩文:Jean Cocteau「Cannes」】

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第86話 建巳 act.4 another,side story「陽はまた昇る」

2018-11-09 23:27:19 | 陽はまた昇るanother,side story
In process of the seasons have I seen, 
kenshi―周太24歳3月末


第86話 建巳 act.4 another,side story「陽はまた昇る」

外は、明るい。

―桜が青く見える、ね…、

青空あおいで花が咲く、あの春にも見た花が。
あの春、どの春を想う?

「桜、お好きですか?」

桜並木の道、やわらかなテノール問いかける。
その声に今ひきもどされて、周太は微笑んだ。

「すき…だと思います、」

答えながらレザーソールにアスファルト鳴る。
こつん、こつん、規則正しい足音ならぶ青年が笑った。

「私も好きです、どこか複雑な感じですが、」

かすかな馥郁あまく声が響く。
桜やさしい並木道、隣のジャケット姿を見あげた。

「加田さん、あの…どこに行くって訊かないんですか?」

応接室、問いかけられたまま家を出た。
そのまま隣ならんで行く人は、細い瞳やわらかに笑った。

「訊いてもいいんですか?」

やわらかな視線が尋ねてくれる。
その声まっすぐ率直で、とまどい俯いた。

「あの…気を悪くされました?」
「それはないです、湯原さんこそ気を悪くしていませんか?」

返答さわやかに細い瞳が笑う。
穏やかで静かなくせ朗らかな笑顔、その空気に口ひらいた。

「とまどっています…」

途惑う、この青年に何もかも。

『奥様にはよく面倒を見てもらいました、母親みたいに?』

大叔母のことを「奥様」と呼んで「母親みたい」と微笑んだ。
そんな彼との初対面あの場所だった事実を、そして今朝の来訪を、どう受けとめたらいい?

「そうですね、私も途惑います、」

青年がまた微笑む、細い瞳やわらかに明るい。
穏やかで朗らかなくせ冷静な視線、自分より何歳上だろう?
想い見あげる真中、若々しいようで沈着な笑顔は首そっと傾げた。

「湯原さんも私に訊かなかったので、訊いたら悪いかと?」

あなたに合わせたんですよ?
そんなふう笑ってくれる瞳の空、桜が高い。

「…僕が訊かないから、何も訊かないんですか?」
「訊かれたくないってあるかなと、」

問いかけて答えてくれる、その声やわらかに深い。
どんな時もこんな声なのだろうか?静かで明るい口もとに問いかけた。

「あの、下宿できますかって、どういう意味ですか?」

応接室の質問に桜が明るい。
さっき訊けなかった質問に細い瞳が微笑んだ。

「私が湯原さんのお宅に下宿できるかどうか、ってことです。」

あ、そっちだったんだ?

「…僕が葉山のお家になのかと思いました、」
「ああ、普通そう思いますよね?」

こぼれた言葉に応えてくれる声、静かなくせ明るい。
その空気感なにか安堵して、けれど言われた提案に瞬いた。

「あの、加田さんが、うちに住むってことですか?」

声にして言われた内容に止められる。
どうしてこんな話になっているのだろう?疑問に青年が笑った。

「フランスから帰国した親戚だということにしてください、ウソにはなりません、」
「ふらんすって?」

追いつけないまま声が出る、途惑ってしまう。
このひと何を考えているのだろう?

「一ヶ月前まで大使館に出向していました、だからウソになりません、」

静かに穏やかに笑いかけてくる、細い瞳やわらかに明るい。
嘘吐く貌とは思えなくて、けれど途惑うまま声になる。

「たいしかんって、」
「フランスの日本大使館にいたんですよ、」

おだやかなトーン静かな声は隔てなにもない。
けれど言葉かすかな引掛り見つめて、隠して尋ねた。

「外交官ってことですか?」
「留学です、人事交流でもあります、」
「…じんじこうりゅう、」
「違う部署で仕事すると人脈を作れますし、お互い理解した方がいいこともあるでしょう?」

途惑う問いかけに応えてくれる、声やわらかに深く明るい。
誤魔化すつもりはない?その空気と言葉に問いかけた。

「ちがう部署って…検察官なんですね、加田さんも?」

法律の現実を教えてくれた先生です、そう応接室で彼が言った「先生」は次長検事だった。
それなら彼も同じだろう?推定に細い瞳は微笑んだ。

「はい、」

静かに穏やかに瞳も声も明るい。
どこまでも落ち着いている、そんな青年にタメ息そっと訊いた。

「あの…どうして僕の家に下宿を?」

訊くまでもないことかもしれない。
それでも確かめた現実に青年は微笑んだ。

「あの方から提案されたんです、川崎なら新橋まですぐでしょう?」

新橋、その駅名に彼の勤務先はかられる。
だからこそ不思議で見あげた先、細い瞳やわらかに笑った。

「あなたと、あなたのお母さまのお邪魔することは心苦しいのですが。今は一番良いかなとも思います、どうですか?」

問いかけ見つめてくる声は穏やかに明るい。
どこまでも静かで優しい誠実、そんな青年に口ひらいた。

「時間をもらえますか?僕だけでは決められません、」
「ああ、それはそうですね、」

肯定して細い瞳やわらかい。
このひとは素直なのだろう、けれど?

―おばあさまが選んだ人だもの、こんな…危険に耐えられるだけの、

危険、だから大叔母が選んだこと。
だから彼もそう言った。

『あなたと、あなたのお母さまを二人にする危険をご心配です、』

自分と母ふたりだけは「危険」だから彼は訪れた。
そこにある現実の未知へ問いかけた。

「加田さん、僕が今から行くところは…あなたの言う危険と同じでしょうか?」

※校正中

(to be continued)
【引用詩文:Jean Cocteau「Cannes」】

第86話 建巳act.3← →第86話 建巳act.5

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第86話 建巳 act.3 another,side story「陽はまた昇る」

2018-10-24 13:14:02 | 陽はまた昇るanother,side story
shall not fade 
kenshi―周太24歳3月末


第86話 建巳 act.3 another,side story「陽はまた昇る」

こととっ、湯が鳴って芳香ゆれる。

ほろ苦い甘い馥郁にダークブラウンきらめく。
深い漆黒ガラスに波紋ゆらす、艶めく香あまく苦い。
こうしてコーヒー淹れる記憶すこし軋んで、吐息ひとつ周太は微笑んだ。

―また考えてる僕は…どうして、

どうして、どうして僕は考えてしまうのだろう?
こんなに囚われてまた廻る、こんな自分どうしたらいいのだろう?

「でも…今それじゃない、ね、」

言葉ひそやかに呼吸して、肩越し気配を見る。
扉むこう応接間に座るひと、彼の来意にコーヒーカップ注ぐ。

―どうして来たんだろう…ここに、こんな時間に、

時計は9時11分、社会ようやく動く時間。
平日こんな朝ここに彼は来た、その理由はかりながらトレイ抱えた。

ぱたん、

ダイニングから廊下ひらいて、応接室が遠い。
人がいる、けれど静かな空気をコーヒー香った。

「…お待たせしてすみません、」

声かけ応接室に踏みこんで、窓際の背中が振りかえる。
ジャケット姿の影が高い、その長身に記憶なぞられる。

このシルエット、やっぱりあのひとだ?

「こちらこそすみません、急にお邪魔して。」

長身の影おだやかに微笑む、その声やわらかに低い。
あの人とは違う声、けれど知っている声が笑った。

「いい香ですね、」

やわらかな低い声が穏やかに笑う。
優しい冷静な人柄なのだろう、そんな笑顔に声かけた。

「どうぞ…さめないうちに、」
「ありがとうございます、」

やわらかなテノール笑って、ソファに腰下す。
大きな手きれいにコーヒーカップふれて、凛とした口もと微笑んだ。

「…うまい、」

ほろ甘い湯気のむこう、細い瞳やわらかい。
精悍だけれど笑顔やわらかで、吐息ひとつ周太は口ひらいた。

「あの…加田さん、ですよね?」

数週間前あの夜、雪の駐車場で大叔母は言った。

『早く銃を引きなさい、ここにいる加田さんも起訴を保証してくれます』

雪降る病院の駐車場、銃声と硝煙あわい鋭い香。
あの夜に聞いた声が穏やかに笑った。

「よくわかりましたね、夜の雪で顔も見えなかったでしょう?」
「声と、シルエットで…」

答えながらマグカップ抱えて、芳香ほろ苦い。
掌くるむ温かな湯気の先、細い瞳やわらかに笑った。

「すごいですね、」

凛とした唇ほがらかに笑って、コーヒーカップ口つける。
精悍な顔立ち、そのくせ優しい細い瞳に尋ねた。

「あの、大叔母から頼まれていらしたんですか?」

あの夜あの場所、大叔母と現れた男。
どんな関係あるのだろう?解らないままに青年は微笑んだ。

「ある意味そうです、」
「…ある意味?」

言葉なぞって見つめる先、ほろ甘い湯気から視線やわらかい。
おだやかな静かな、けれど明るい微笑は口ひらいた。

「私の判断に任せると言われました、」

だから「頼まれて」ではないよ?
言外そう告げてくる瞳は周太を見つめて、カップことりテーブルに置いた。

「あなたと、あなたのお母さまを二人にする危険をご心配です。」

テーブルくゆらす馥郁やわらかに白く昇る。
昇る香ゆれすテーブル、静かな瞳に問いかけた。

「加田さんは…大叔母と、どういうご関係ですか?」

このひとは誰?

まだ何も知らない、唯ひとつ「あの夜あの場所にいた」ことだけ。
あの時「いた」そして援けてくれた青年は、おだやかに口ひらいた。

「私の先生の奥様です、」
「…先生?」

言葉に問いかけた先、静かな瞳が笑ってくれる。
物静かなくせ朗らかな眼は続けてくれた。

「法律の現実を教えてくれた先生です、」

法律の「現実」を教えてくれた先生。
その意味に見つめた先、柔らかな低い声が問いかけた。

「奥様の夫が何をしていた人か、聞いていますか?」
「…検察官だったと聞いています、」

答えながら記憶たどる、大叔母から聞いたこと。
大叔父に直接の血縁はない、それでも連なる人を青年は微笑んだ。

「宮田先生は最高検察庁の次長検事を務めた方です。退官されて弁護士事務所を開かれたのですが、事務所のバイトは勉強もみてもらえました、」

話してくれる声は低くやわらかに笑っている。
きっと良い思い出あるのだろう、そんな瞳に尋ねた。

「そこで加田さんは、アルバイトしてたということですか?」
「大学生のときお世話になりました、」

細い瞳やわらかに答えて、コーヒーカップ口つける。
その紡がれる時間に不思議で口ひらいた。

「あの…アルバイトしていたご縁で、ここまでするものですか?…長野までいらしたり、」

あの夜あの場所に彼はいた、それは「普通」じゃない。
それも「先生」の妻といた瞳はやわらかに笑った。

「普通はしないと思います、」
「普通…とは違うということですか?」

問いかけながら掌、コーヒーカップ温かい。
ほろ苦い香くゆるテーブル、やわらかな低い声は言った。

「奥様にはよく面倒を見てもらいました、母親みたいに?」

大叔母の過去を低い声やわらかに紡ぐ。
その時間たどる瞳は細く優しくて、過去かいま見える。

『母親みたいに?』

疑問形の口調、そこに彼の現実が匂う。
どうして「?」なのか、その言葉そっと呑みこみ訊いた。

「加田さんは…どこまで聞いているんですか、僕のこと、」

大叔母に母親なぞらえる青年。
彼はどこまで知らされたのだろう?その信頼が微笑んだ。

「従妹さんのお孫さんだと伺いました、警察を辞めて東大の研究室に入られるそうですね?」

必要なことだけ答える、そんな声の眼は静かに明るい。
こういう人に自分も無駄は訊きたくない、ただ確認を口にした。

「僕の祖父と父のことも訊いていますか?…警察官になった理由と、」

祖父のこと、父のこと、もう大叔母は知っている。
だから長野まで追いかけてくれた。

『十四年前こうするべきだったわ!あなたを引っ叩けてたら喪わないですんだのに、あなたも私も大事なものをっ!』

夜の雪ふる駐車場、叫んだ瞳の涙。
あのとき傍にいた青年は穏やかに言った。

「長野に向かう車で、」

短い言葉、けれど細い瞳は温かい。
この眼あのとき何を想っていたのだろう?見つめるまま彼は言った。

「下宿はできますか?」

どういう意味?

※校正中

(to be continued)
【引用詩文:Jean Cocteau「Cannes」】

第86話 建巳act.2← →第86話 建巳act.4

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第86話 建巳 act.2 another,side story「陽はまた昇る」

2018-10-17 21:28:11 | 陽はまた昇るanother,side story
shall not fade 
kenshi―周太24歳3月末


第86話 建巳 act.2 another,side story「陽はまた昇る」

鎧戸からガラス透る、やさしい冷たい甘い香。

「は…、」

息そっと冷たく清々しい、それから甘い馥郁。
開け放った朝の深呼吸、やわらかな風に周太は微笑んだ。

「うちの匂いだ、ね…」

遠く鉄道かすかな音、涼やかに樹木が香る。
古い木枠ふれる掌そっと冷たい、まだ静かな街の片隅に頬杖ついた。

屋根ならぶ住宅街、街燈と電柱、アスファルト黒い道。
家々の庭木やわらかな緑に花ときおり白い、染井吉野が咲きだしている。
青い麗らかな空まどろむ朝、閑静な街並ゆれる香かすかに甘くて、春に微笑んだ。

「春だね…」

春がきた、この街に家に。
また廻る時に記憶たどる、もう、あの日が近い。

『本を選んでおいてね、周…帰ったらお花見しながら、一緒に読もう?』

そう父は笑って玄関を出て、そして帰ってきた父は花を見なかった。
もう二度と開いてくれない父の瞳、その骸ふきよせた花の夜の記憶。

「…おとうさん」

唇こぼれて呼びかける、あの春の夜が青い空うつす。
あの春の朝も晴れていた、もう戻らない幸福に手もと雑巾うごかした。

きゅっ、きゅっ…

雑巾こすれて桟が鳴る。
磨きぬかれた古材ダークブラウン艶めかす、時たどる想い映りこむ。
この家に自分は生まれて育まれて、そうして積もった想いの時たどらせる。

『この屋根裏部屋を周にあげるよ…子どもの僕が好きだった部屋だから、』

やさしい深い声うかぶ、磨く艶から想い燈りだす。
ただ手もと動かして部屋を磨いてゆく、こんなふう父も掃除したのだろう?

―お父さんは家事も好きだったね、お休みの日は家のことして…山に連れて行ってくれて、

父の休日いつも、一緒に過ごした幸福。
その時間いつも笑っていた、幸せだった、あの温かい瞬間たち。
だから理由を知りたかった、なぜ失わなくてはいけないのか?

―だから僕も警察官になったんだ、知りたくて…僕は、

あの笑顔を幸福を失った、その理由を自分は知りたい。
そうして辿りついた父の居た場所は、ただ苦しみだけじゃなかった。
そうして見つけた過去と事実いくつかある、まだ全てじゃない、それでも「場所」もう退く。

『ちゃんとしたいんです、退職のことも、家のことも…自分のことは自分でしたくて、』

そう告げて大叔母の家を出た、そんな自分に涙の瞳は微笑んだ。
その眼ざし父と似ていて、繋がる血縁に花が香った。

「オレンジ…ミモザ、」

柑橘かすかな香ふれる唇、咲きそめた黄金から香る。
オレンジと似て違う春かすかな匂い、去年あの日も咲いていた。

『なぜ英二が君と、この家を選んだのか。解かったように思います』

きれいな低い声は微笑んで、切長い瞳は自分を映した。
あの眼ざし父と似ていると今は解る、けれど声は君と同じだった。

『息子の性格は私に似ています、だから私には解るんですよ。』

ミモザ咲く庭、端正な男性は微笑んだ。
父と似た瞳、けれど声も表情も違う父の血縁者。

―またいとこなんだ、お父さんと…英二と僕も、

四月の初め春そめる庭、面影あわく香うつろう。
ミモザ香る時間の想い、大叔母の庭でも咲いた花。

Le mimosa du souvenir
Sui ton chapeau se reposa,
Petit oiseau, petite rose,

想い出のミモザが
君の帽子の上に安らぐ、
ちいさな鳥、ちいさな薔薇、

“Le mimosa du souvenir”

異国の詩が綴る花、この詞きっと祖父は知っていた。
きっと父も知っていただろう、でも香の時間は知っていたろうか?

「ずっと香るならいいのに…ね、」

ひとりごと柑橘あわく香る。
この香は永遠じゃない、うつろう変化を知っている。
そんなふうに自分の時間も変わって、唯ひとつの想いも見えない。

『奥多摩にいるんだ、俺…星と雪山、きれいだよ?』

夜の電話つながった声、あの声に何を願う?

こんなこと考え続けて夜は明けて、ここに帰ることを決めた。
この場所から始めたい、ただ願い手もと動かして家中を磨いた。


艶めくダークブラウン、清々しい。

床、階段、窓枠、古材やわらかな艶ふかく澄む。
磨いた家やさしい光ほがらかで、息ほっと笑った。

「ん…すっきりした、」

家中どこも磨く、こんな時間どれくらいぶりだろう?
ただ考えても何も見えない、体を動かして明晰になることもある。
だからたぶんずっと、こんな時間が好きだ。

―家の掃除ばかりしちゃうのかな…英二といるかぎり、僕は、

ほら、また君の名前うかぶ。
こんな自分を3年前は知らない、でも今の自分だ。

「ん、」

肯いて階段を見あげて、ステンドグラスの光ふる。
やわらかな色彩あわく照らして、かたん、一段に踏みだし響いた。

「あ、」

インターフォンが鳴る。

「…、」

玄関の時計ふりむいて9時、荷物でも届く?
けれど自分も母も留守続きだった、誰が注文などするだろう?

―誰が来るはずもない、のに…誰?

インターフォンまた響く、誰かいる。
玄関扉ひとつ隔てた向こう、誰がいるというのだろう?

―インターフォン出たら居留守も使えない…玄関から見えない窓は、

一息ひそやかに唇とじて、スリッパから足を抜く。
靴下すべらす床は音も無い、沈黙またインターフォン響く。

誰?

―三度め…

声も音もなく階段たどる、踊場の窓に息ひそむ。
太陽の角度たしかめ壁に身をよせて、ガラスごし梢の向こう見た。

―男のひと…誰?

黄金ふる梢の先、玄関ひとりジャケット姿たたずむ。
その長身ゆっくり踵返して、ミモザの花枝ゆれた。

「…え?」

黄金の花翳ひらめく、その横顔が記憶ノックする。
敲かれた記憶が窓を開けた。

「待って!」

※校正中

(to be continued)
【引用詩文:Jean Cocteau「Cannes」William Shakespeare「Shakespeare's Sonnet 18」】

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