萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第39話 春陣act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2012-04-10 23:57:39 | 陽はまた昇るanother,side story
共にあるなら、きっと



第39話 春陣act.1―another,side story「陽はまた昇る」

開いた窓の隙間から、微かな排気ガスと冷たい夜気の名残が吹きこんだ。
眠る街からは喧騒は聴こえない、見上げる空は摩天楼の隙間に明け星がひとつ、瞬いていた。

「…ん。谷川岳の、天気はどうかな?」

ちいさくこぼれた呟きに周太は携帯を開いた。
Bookmarkから操作して天気情報サイトを開いていく、もう幾度このサイトを見ただろう?
けれど今日見るのはいつもの奥多摩ではなく「天神平スキー場」のページになる。

曇り、気温マイナス8℃

「…高曇りで寒いのがいい、って言ってたよね?」

ひとりごと確認する登攀条件に周太は微笑んだ。
きっとこの天候なら大丈夫、嬉しい想いで携帯を閉じると空を見あげた。
ようやく白む狭い空は、朝の訪れを告げてくる。
起きてすぐ左手首に嵌めたクライマーウォッチはam6:03を表示した。
今頃はどのくらい登っているのだろう?

いま英二と光一は谷川岳を登っている。
まだ昏い時刻から登攀すると言っていたから、随分と登っただろう。
英二と光一は、ふたりで共に蒼い雪と氷の世界に向き合っている。
そこには、周太は行けない。

「…でも、一緒に行けるところだって、あるな?」

ひとりごとに微笑んで周太は窓を閉めた。
デスクライトを点けて座ると、先週末に買ったばかりの2冊を手にとった。
1冊は救急法のテキスト、1冊は登山の入門書になる。

「登山のは後藤副隊長の推薦で、救急法は吉村先生が教えてくれたんだ」

そんなふうに言って英二が選んでくれた2冊。
先週末に桃の節句を実家で過ごした帰り、いつもの新宿の書店で英二が探してくれた。
英二の世界を知りたいから本がほしい、そう言った周太に英二は喜んでくれた。

「俺のやっていることに、興味持ってくれるんだ?…ちょっと幸せすぎるよ、俺?」

英二の立っている世界を知りたい。
この望みを全て叶えることは、本当は周太には難しいだろう。
英二の世界は「山」がベースになっていく、けれど周太はクライマーの適性が低い。
どうしても周太は1つに集中すると周囲が見えなくなる、この性格は山ではアクシデントを招きやすく不適格になる。
だから高難度の山には当然付いていけない、それでも一緒に行ける山もある。

…だから、きちんと山のこと勉強して、連れて行ってもらうんだ

幼い頃は父といくつかの山に登った。
子ども連れのコースだから難しい山には登れない、それでも父は楽しく笑っていた。
そして昨秋は英二が雲取山に連れて行ってくれた、ふたりで過ごす山の時間は本当に幸せだった。
あんなふうに英二と一緒に、ふたりで時を共にする幸せな記憶がほしい。
だから山に必要な知識と技術を自分も勉強して、英二の足手纏いにならないようにしたい。
そうしたら胸張って「連れて行って」とおねだりできるから。

「それにね?…山の木に会いに行くのにも、必要だし」

青木樹医から贈られた専門書は、山の自然樹についての記述が多い。
あの本に描かれていた巨樹たちに会いに行ってみたい、それには山に登れないといけない。
そう考えて周太は、英二に2冊の本を選んでもらった。

「救急法から、勉強しようかな?」

ひとりごと微笑んで周太は右掌にチェックペンを持った。
付箋メモと鉛筆も準備する、これで質問したいことをまとめておく。
訊きたい場所のページに付箋でまとめておけば、英二に尋ねるとき教えて貰いやすくなる。
きっと、質問して教えて貰うのも楽しいだろうな?楽しい想像に周太は微笑んだ。

「…吉村先生にも、教えてもらえたらいいな。でも、悪いかな…」

英二の救急法と鑑識は、卒配後からは青梅署警察医の吉村医師が先生になっている。
元が大学病院のER担当教授だった吉村医師は、オールマイティに医療をこなす。
こうした幅広い吉村医師の能力は懐の深さにもなっている、この温かい人柄の医師は周太も大好きだった。
そんな吉村医師は周太の記憶喪失についても、いつのまにかカウンセラーをしてくれている。
いつも気さくに茶飲み話をしながら吉村は、周太の心をほぐして傷を1つずつ癒してしまう。

…でも吉村先生、ほんとうはERでトップに立つような、すごいお医者さんなんだよね?

確かに今の吉村医師は青梅署で警察医を務めている、けれど一流の医師として著名な人だと最近解かってきた。
この新宿にある大学病院に勤務していた吉村医師を、今も覚えている人間が新宿署にも沢山いる。
だから1月の弾道実験での出張許可も、吉村医師の依頼だからと速やかに措置がとられたらしい。

篤実な人柄と卓越した救急医療、そして法医学研究室にも在籍した経験からの鑑識の理解。
それらを兼備した吉村医師が、奥多摩で開業医と警察医を兼務したことを惜しむ人も多かったと聴く。
けれど吉村医師は自身の経験と知識を活用して、警察医の諸問題に取組むことに決めた。
この吉村医師の転身は、次男の雅樹が医大4回生で山に遭難死したことが切欠だった。

心から愛した次男の死を吉村医師は悼み続けてきた、けれど英二に出会ったことで吉村は変わった。
どこか次男雅樹と面影の似た英二に、救命救急法と鑑識を教えることが吉村医師の安らぎになっている。
そんな吉村医師に応えて英二は、山岳救助隊では応急処置を頼りにされる程になった。
光一の話にも英二の処置と姿勢は、消防の救命救急士にまで信頼を得ていると聴く。

まだ卒配6ヶ月目の新人警察官を、そこまでに教育できるほど吉村医師は優れている。
今は開業医院は吉村医師の長男が診ていると聴いている、けれど往診は警察医業務と両立して続けている。
それだけでも忙しいだろうに、救急法講習や警察医研修などの依頼も多いと英二が話してくれた。
こんなにも多忙で優秀な吉村医師だけれど、いつも周太にも気さくに優しい。

…でも、そんなお医者さんだったら。本当は、紹介状を携えて予約をしないと、診て貰えないよね?

大学病院の教授に診て貰うことは大変だと聴く、それ以上のレベルに吉村医師はいる。
そんな一流の医師に自分は予約も無く訪れて、いつも何となく診て貰っていることになっている。
これは、よく考えたら申し訳ない事なのではないだろうか?

…どうしよう、

けれど吉村医師は、あくまで善意で診てくれているのが解かる。
そんな吉村医師に謝礼を渡すのは逆に失礼だろう、それに他人行儀なことを吉村医師にしたくない。
けれど、これ以上また甘えて、お邪魔するのは図々しいのかもしれない?

『またコーヒー、淹れに来てくださいね』

いつも吉村医師は別れ際にそう言ってくれる。
そんなふうに遠慮なく遊びに来てほしいと、いつも伝えてくれている。
この言葉に甘えて素直に会いに行けば良いのかもしれない?ふっと素直な想いに周太は微笑んだ。

「…ん、コーヒー淹れに行こう。そして、質問もさせて貰いたいな?」

話したいことが幾つか今もある。
英二への想い、光一と英二の違い、それから青木樹医の本のこと。
今度会いに行くときは、美味しい茶菓子も用意してコーヒーを淹れさせてもらおう。
そして、英二と同レベルの救急法を身につけるには、どうしたら良いか教えて貰いたい。

…救急法は自分にとって、きっと役に立つ。だから真剣に学びたい、

もし周太が救急法を正しく身に付けたなら、負傷者を助けられる。
この技能はきっと、この先に立つ父の軌跡のなかで役立ってくれるはずだった。

この先の進路は「任務」の名のもとに違法行為すら正当化される危険な道になる。
そこでは隣の同僚が負傷に斃れ、自分自身も受傷する可能性が否めない。
そのとき救命救急の技能を持っていれば、同僚も自分も助けることが出来る。
こうした世界に、警察組織の暗部とも言われる場所に自分は向かっていく。

ほんとうは怖い。
けれど、父の居た世界なら見届けに行きたい。
けれど、そこは生命どころか、精神すら危険に晒される世界だと調べるごとに解ってきた。

生命の危機と精神破綻

この現実が蹲る暗部の世界。
その世界に父は立っていた、それでも父はいつも自分と母に幸福な笑顔を贈ってくれた。
優しい父は誰よりも強い男だった、そんな父を誇りに想う。
だからこそ、息子の自分が父の真実を見届けに行きたい。

それでも本当は、怖い。
この自分の性格では、命を落とす危険が高いと解っているから。
それでも生きて必ず帰りたい。そして願えるなら、その世界に立つ人も助けたい。
きっと志を持って父と同じ世界に立つ人々だろう、その手助けを少しでもしたい。

…お父さんのこと、助けたかったから、ね?

本当は父を助けたかった、その世界に立つ父の苦しみを自分が援けたかった。
けれどその願いは叶わない、それなら今その世界に立つ人を援けたい。
この自分の掌で、どこまで出来るか解らない。
自分は父ほど強靭ではない、英二のようには人柄も能力も優れてはいない。
それでも自分に出来る精一杯をしてみたい、この自分でも援けられる人がいるなら援けたい。
あのとき青木樹医を援けることが出来たように、自分が援けられるかもしれない。
ふっと青木樹医の言葉を想いだして周太は微笑んだ。

「…君が、掌を救った事実には、生命の一環を救った、真実があります」

青木樹医が表紙裏に記してくれた、詞書の一節。
この言葉の通りに自分は生命の一環を救う道に立ちたいと思った。
けれど父の軌跡は、これと真逆の任務に生きる道になってしまう。
それでも自分は「生命の一環を救う」ことを父の道でも行っていくことが出来る。

…この掌は「竜の涙」がこめられている。だから、きっと出来る

周太の掌には富士山の風花が浸みこんでいる。
この風花を「最高峰の竜の涙」と告げて、光一が周太の掌に贈ってくれた。
この涙が浸みこんだ掌はどうなるのだろう?そう訊いた周太に光一は寿いだ。

『不可侵の純粋。それから、生命と尊厳の守り手になる』

この言葉の意味を周太は、この1ヶ月ほど考えてきた。
そして気がついたことは「父のいた世界でレスキューをする」ことだった。
きっと自分は父と全く同じ任務に就くだろう、それは普通なら救命救急など不要な任務になる。
けれど自分は「警察官」として任務に就くならば、警察官として人命救助と尊厳を守ることは当然の任務のはずだ。
だから自分は警察官としての誇りを持って、あの場所で救命救急を行いレスキューを務めようと決めた。

…お父さんのいた場所で、命と尊厳を、守ってみせたい

きっと、この決意は「馬鹿だ」と言われる。
確かに、あの世界で他人に構えば自身が危険に晒される。だから「馬鹿だ」ろう。
こんなふうに「任務」の名のもとに、あの世界では生命と尊厳が軽んじられている。
それでも自分は放り出せない。

きっと倒れた人を見た瞬間、自分の意識はそこへ集中してしまう。
そして他の事は何も考えられず目の前のことで頭は一杯になる、それが自分の心癖だから。
あの警察学校での山岳訓練でもそうだった、滑落しかけた同期を見て頭が一杯になってしまった。
そして判断ミスをして、自分が滑落し遭難してしまった。

けれどもし、あのとき自分が正しい救助技能を身に付けていたなら?
きっと無意識でも正しい判断をして、相手も自分も無事に助けることが出来たはずだった。
だから今から自分は、正しい救命救急の技能を身につけていこうと決めた。
きちんと救命救急の技能が身についていれば、傷ついた人を助けることが出来る。
そうして助けられたら自分も我に返って、周囲に意識をむけて危険から逃れられるだろう。

「…ん、きっと、出来る、」

この救急法の道は「英二の世界を知りたい」から学ぼうと望んだ。
いつも救命救急具をザックに納めて英二は山を駆けていく、そして山に斃れた人を受けとめていく。
あの美しい白い掌を血に塗れさせ、応急処置に人命を救い、山に眠った遭難者の想いを遺族に帰している。
そうして山に廻る生も死も英二は真直ぐ見つめ、向き合い抱きとめて尊厳を援け守っていく。
その背中が頼もしい、同じ男として憧れて恋人として惹かれ愛している。
そんな英二の世界を少しでも理解したくて、学ぼうと思った。

そして気がついた。
父のいた世界でも「英二」は必要とされている。
任務に負傷した人の応急処置を施し、斃れた人の想いを伝える存在が必要だと気がついた。
立つ現場は全く違う、けれど同じように救急法で生命を援け、想いを受けとめることは出来る。
だから自分は父の世界で「英二」になろうと決めた。

英二の世界と自分を重ねられる。
この想いが、きっと一番の自分の援けになってくれるだろう。
きっと「精神破綻」から自分を守ってくれる盾になる。

父の軌跡に起きている「精神破綻」の可能性。
この事実と現実を知ったとき、弱虫の自分に耐えられるのかと怖くなった。
自分は父の殉職で記憶を眠らせたほど心が弱い、そんな自分に耐えられるのか?
いま既に、本当は怖い。父の道に立つことが怖くて、英二の懐へと逃げ込みたい。

けれどこの軌跡の歯車は、自分自身が動かした。
選んで自分が始めたこと。ならば潔く貫き通したい。
なによりも「逃げれば生涯後悔する」と自分でいちばん解っている。

きっと逃げれば間違いなく自分は、自責と自信喪失に心を病んでしまう。
この14年間ずっと「父の軌跡を辿り、父の真実を見つめる」この誇りを支えに生きてきた。
この支えを自ら折ってしまえばきっと、心の支柱まで折り砕いてしまう。
そして生涯後悔しながら自分の弱さを呪うだろう。

前に進んでも、後ろに下がっても。
この自分の性格では、どちらも精神を壊す可能性が高い。
いまある「継続・前に進む」「中止・逃げる」この2択ともに無傷は望めない。

…それなら、前に進む方を選べばいい

あの世界での精神破綻は、100%の可能性ではない。
無事に任期を終えた人もいる、そして無事に天寿を全うした人もいる。
自分がそうなれるかもしれない可能性が0.1%でもあるのなら、そこに懸けて前に進みたい。
あの世界で自分は絶望も見るかもしれない、けれど「英二」として生きるなら希望を見つけられる。
そうして無事に生きて通れたら、胸張れるほどの強靭な心が自分にも備わるかもしれない。
もう自分は前に進むしかない、ならば希望を真直ぐ見つめたい。

…ね、英二?あなたの世界を見つめられるなら、俺は強くなれそうなんだ

精神を壊すほど苦しい任務の世界。
そこで父は生きていた、だから息子の誇りを抱いて自分は見届けに行く。
その世界の苦しみには「英二」が必要とされている、それなら自分がなればいい。
たとえ違う現場でも役割が同じなら、きっと英二の世界を自分は見つめることが出来るはず。
だから、信じて懸けてみたい。

愛するひとの世界を見つめ、同じ道に共に立っている。

きっと、この想いが自分を救ってくれる。
そして無事に父の軌跡を見届けて、ひとつ強くなって自分は帰ってこられる。
きっと愛する想いが強いほど「英二の世界を見つめる」喜びが大きいだろう。

…愛して、愛された記憶はね…もう、たくさん貰っているから、大丈夫

あと4ヶ月で本配属になる、あの世界に立つことになる。
それでも、あの世界に立つさなかでも自分は、愛し愛される記憶を積めるだろう。
いま抱く以上に幸せな記憶が増えていく。ならば、きっと自分は大丈夫。
ちいさく笑って周太は、救急法のテキストにラインを引いた。


7時になって周太は活動服に着替えて食堂へ行った。
今日は当番勤務だから交番へ出勤するのは15時でいい、けれどその前に朝一で射撃練習と手話講習会がある。
いつも周太は術科センターに行くときは活動服で行くから、今朝も紺青色の制服に袖を通した。
朝食のトレイを受けとって席を見ると、同期の深堀が手を挙げて呼んでくれた。

「おはよう、深堀、」

微笑んで周太はトレイをテーブルに置いた。
茶碗と箸を持って深堀も周太に笑いかけてくれる。

「おはよう、湯原。今日は手話講習、行く?」
「ん、行くよ?…深堀は今日は日勤だよね、」

いただきますをして箸をとりながら周太は訊いてみた。
鰆の西京漬けをほぐしていた深堀は少し困ったように微笑んだ。

「そうなんだよね。だから俺、今日は手話講習いけないんだ。プリント受けとってきて貰ってもいいかな?」
「ん、もちろん良いよ」

ほうれん草のおひたしに箸つけながら頷いて周太は微笑んだ。
笑った周太の顔を見て深堀が、人の好い顔で笑いかけてくれた。

「湯原、やっぱり雰囲気かわったね?男にこんなこと言うの、失礼かもしれないけど。きれいになったね、」

こんなこと言われるのは気恥ずかしい。
けれど英二と想い交してから、よく言われることだった。
そして自分でも最近は想う時がある、気恥ずかしい想いに周太は微笑んだ。

「そうかな?…ありがとう、褒めてくれて、」

礼を言いながらも恥ずかしくて、けれど深堀に笑いかけた。
深堀も笑って、率直に口を開いてくれた。

「ほら、その素直なとことか変わったね?今の方が良いよ。でも、警察学校の頃だったら、きっと怒られてたよね、俺、」
「ん、そうだね?…前なら怒ってたと思う」

素直に認めて周太は笑った。
深堀が言う通り、以前だったら「きれい」とか「かわいい」と言われるのは嫌だった。
基本的に周太は母親似で、小さい頃は女の子に間違われること珍しくなかった。
だから光一が周太を女の子だと思いこんでいたと聴いた時も、無理は無いと思った。
けれど、警察学校に入ると決めたときから「女の子みたい」と言われるのは嫌になった。
それで入校前に英二と校門で出逢った時も「かわいい」と言われて腹が立って、ばっさり髪を短く切った。

…でも今はね、英二のお蔭で素直になれたから

前髪おろした方が似合う、そう英二に言われてから髪も元通りに伸ばし始めた。
もちろん警察官だからサイドや後ろは短く切ってある、けれど前髪は元通りすこし長い。
この方が似合うと母にも言われて、素直に似合う格好をする方が良いと思えるようになった。
元から童顔だから前髪をおろすと尚更に幼くはなる、それでも前髪をあげると幾らか貫禄が出来る。
きっとこの髪型の所為もあって「きれい」と言われるのだろうな?
なんだか面映ゆくて困りながら生卵に醤油を入れていると、深堀が笑いかけてくれた。

「そういえばさ、宮田が正式に専門枠で任官したって噂を聴いたよ?湯原、知ってるんだろ?」
「あ、…どこから聴いた?」

すこし息を呑んで周太は卵をかき混ぜた。
もう英二の噂がここにも来たんだな?思いながら深堀を見ると、箸を運びながら教えてくれた。

「俺の百人町交番ってさ、所長が山岳会の会員なんだよ。それで教えてくれたんだ、おまえの同期だよな、って」
「そうだったんだ、」

それなら噂も聞くだろうな?
周太は納得しながら訊いてみた。

「じゃあ元は、奥多摩か山岳救助レンジャー?」
「うん、七機で山岳だったらしいよ。それで、青梅署管轄の駐在所長に同期がいるらしくてさ。すごい新人だって聴いたらしいよ?」

楽しそうに話しながら深堀も生卵を混ぜはじめた。
どんなふうに英二は評価されているのかな、やっぱり訊いてみたくて周太は口を開いた。

「どんなふうに、すごいって?」
「まず、応急処置がすごいって言ってたよ?宮田、学校の時も救急法の成績良かったよね。講義の時も真面目だったし、」

救急法の講義の時に英二は、賑やかになりかけた教場を鎮めたこともあった。
あの頃には随分と、本来の真面目な性質が英二は顕れだしている。
懐かしいなと思いながら周太は相槌を打った。

「ん、真面目だったね。…英二、本当は、すごく生真面目だから、」

「うん、そのことも聴いたよ?青梅署では『いまどき珍しいくらい真面目でストイック』って言われてるって。
休みの日も警察医の先生を手伝ったり、訓練か勉強している事が多いから、もう少し遊べばいいのに、って言われてるらしいね?」

いつも英二は周太と逢う以外は、光一か後藤副隊長と訓練しているか、吉村医師の手伝いをしている。
そして周太と英二はシフトが違うから、会えるのは月に2、3度くらいしかない。
確かに英二は全くと言って良いほど遊んでいない、素直に周太は頷いた。

「すこし時間があると訓練するみたい。藤岡もそうらしい…救助隊の人は、すこしの合間でも訓練するって言ってた」

「うん、所長も言ってた。救助隊は、本当に山が好きじゃないと務まらないって。
そういう人達から宮田は『ストイック』って言われてるんだろ?だからさ、すごい努力してるんだろうなって思った」

人の好い笑顔で深堀が褒めてくれる。
こんなふうに他の人から英二が褒められると嬉しい、けれど面映ゆさも感じてしまう。

…うれしいけど、気恥ずかしいな?だって、婚約者だから…あ、だめ、よけいきはずかしくなる

首筋が熱くなってきた。
きっとまた赤くなる、朝からこんなのは何だか困ってしまう。
どうしよう?困っていると深堀が続けてくれた。

「それでね。宮田のパートナーって、山岳会でもエースって言われている人なんだって聴いたよ。最高のクライマーだって。
 宮田って山の経験ほとんど無かったよね、それなのに選ばれたから最初はね?山岳会の人たちも、納得してなかったらしい」

それはそうだろうと、周太も想う。
なによりも、山岳経験の浅い英二が、よくぞ卒配で奥多摩管轄に配属されたと思う。
だから山岳会の経験豊富な山ヤ達に言われても仕方ない、周太は素直に頷いた。

「ん、それは当然だと思うな…英二自身がね、いちばんそれは解ってるよ?経験の浅い自分が配属されたのが、幸運だって」
「そっか。宮田は自分でも、そう想えるんだね?いいね、そういう謙虚なヤツって俺、好きだな」

率直に深堀が褒めて笑ってくれる。
こういう所を認めてくれるのは嬉しい、嬉しくて周太は微笑んだ。

「英二は謙虚だよ?だから真面目に勉強や訓練してるんだ…そういうとこがね、認められたのかな、って思うけど…」

「うん、そうなんだって言ってたよ?それにさ、宮田の山の技術って、進歩の仕方がすごいんだってね。
 エースだって人に宮田、ちゃんと付いて行けること驚かれているんだって。普通より倍以上の速さで山を登って行くって。
それでさ?そのエースの人は、すごく優秀なんだって言ってたよ。首席卒業で、2月の大会で湯原と優勝した人なんだってね?」

光一が首席卒業なことは、周太は知らなかった。
けれど光一なら首席卒業も当然だろうと納得が出来る、あれだけ怜悧で身体能力も優れていれば抜群だったろう。
たぶん自分と光一が同期だったら、周太は首席では無かったかもしれない。
そんな実感にすこし寂しい想いをしかけた周太に、深堀が話を続けてくれた。

「宮田、その人と1月に富士山に登ったんだってね。冬の富士山はすごく難しいんだ、って所長が教えてくれたよ。
エベレストに登る人でも遭難するって。そこに無事に登って、しかも遭難救助までしてきたから皆、びっくりしたらしい」

「…え、救助のこと…」

言いかけて周太は言葉を呑みこんだ。
たしか英二と光一は遭難救助をした事を隠したがっていたし、後藤副隊長たちも黙秘している。
けれど警視庁山岳会では話題になっている?事情を知りたいなと思っていると深堀が教えてくれた。

「うん、宮田たちは黙ってたらしいね?でもね、助けてもらった人から事情を聴いた山梨県警が、当たりをつけたらしい。
山小屋の人も言わなかったけど、登山計画書?ってヤツでさ、そのとき富士山にいたのが宮田たちだって解ったんだって。
それで、全国の警察山岳救助隊が集まるっていう講習会でね、山梨県警の人が『警視庁の人じゃないか?』って聴いてきたらしい」

「そうなんだ、」

天網恢恢とはよく言ったものだな?
ちょっと呆れながらも感心して周太は頷いた。
たぶん英二たちが黙秘したがるのは、あのとき雪崩で光一が受傷したことだろう。
だから救助した事実は広まっても差し支えないのかもしれない。
そう考えている周太に深堀は笑いかけてくれた。

「宮田ってさ。まだ卒配期間なのに、ちゃんと認められてるんだね?すごいな、だから任官のこと、俺は納得だな。
卒配後に俺も、ここで会ってるけどさ、あいつ背中が頼もしくなってるよね。きっと宮田、またカッコよくなったんだろね、湯原?」

急に自分に振られて周太は、すこしだけ途惑った。
けれど深堀の目を見て素直に頷くと、きれいに笑いかけた。

「ん、かっこよくなったよ?…きっと、驚くと思うな、」

気恥ずかしいけれど堂々と周太は言った。
そんな周太に深堀は人の好い笑顔で笑ってくれた。

「きれいな笑顔してるよ、湯原?この顔を見たら、さぞ宮田もカッコよくなったんだろうな、って解るな」
「ん、かっこいいよ、英二、」

こんなふうに人に言うのは気恥ずかしい。
けれど自分も堂々と「惚気」というのをしてみたかった。
してみて、ちょっと気持ちが良いと思うし、なんだか英二にすこしだけ胸を張れる。
でも首筋が熱くなってくるな?困りながらも周太は、きれいに微笑んで食事の箸を運んだ。



(to be continued)

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