萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第39話 春陣act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2012-04-11 23:16:13 | 陽はまた昇るanother,side story
文字盤の空に、



第39話 春陣act.2―another,side story「陽はまた昇る」

朝一で術科センターでの射撃訓練を終わらせて、新宿署に周太は戻った。
携行品の保管に拳銃だけ返却すると、活動服からスーツに着替えてロビーに降りていく。
すぐに同期の瀬尾の姿を見つけて、周太は笑いかけた。

「瀬尾、おつかれさま…待たせたかな?」
「お疲れさま、湯原くん。そんなに待っていないよ、大丈夫」

いつもの優しい笑顔で瀬尾が答えてくれる。
どこか和ませるものを持っている瀬尾は、教場でも同じ班で話しやすかった。
いまも一緒に手話講習を受講しているけれど、いつも親切にさり気なく気遣ってくれる。
そんな瀬尾はいつものように、優しく笑って提案してくれた。

「喉、渇いているとかある?まだ時間あるから、飲み物くらいなら飲めるよ?」
「ん、平気だよ。ありがとう、瀬尾、」

話しながら並んでロビーから出口に行きかけて、ふと周太は視線を感じてふり向いた。
その視線の先には、こちらに歩いてくる50歳位の身なり良い姿が映りこんだ。

…このひと、苦手だ、

心の呟きに周太は、そっとため息を吐いた。
なんとなく苦手な感じがする相手、けれど無視するわけにもいかない。
仕方なく周太は向きを変えて、男に端正な敬礼を送った。

「署長、おつかれさまです」

新宿署長は、周太の上司になる。けれど周太は、なにか苦手であまり話したくはない。
どうも父のことを知っているらしい、それでも、あまり彼から聴きたいとは思えない。
まだ彼の立位置は明確には解らない、けれど、あまり関わりたくない。そんな周太に署長は丁寧だけれど、どこか尊大に答えた。

「うむ。ごくろうだね、湯原君。これから研修かな?」
「はい、行ってまいります、」

短く答えて周太は、微笑みながら踵をかえそうとした。
早く切り上げて外へ出てしまいたい、そう思ったけれど署長は笑顔で周太を呼びとめた。

「湯原君、君には、お兄さんがいるのかな?」

なぜ、こんなことを訊くのだろう?
怪訝に思いながらも周太は、端正に微笑んだ。

「いえ、おりません、」
「では、ご親戚に従兄がおられる?」

ぱっと見は気さくな雰囲気で、重ねて訊いてくる。
この意図は何だろう?考えながらも周太はきちんと答えた。

「おりません、」

真直ぐに目を見つめて周太は微笑んだ。
微笑ながらも見つめた先、どこか怯えたよう男の目に影が射していく。
ふっと影を見つめた周太の視線を、はぐらかすよう署長は笑うと軽く手を振った。

「そうか。いや、変なことを訊いて済まない。さっき、君のお父上に似た人を見かけたのでね…ひきとめて済まなかった、」

そう言って署長はエレベーターへと踵を返した。
その背中がどこか、なにかに怯える雰囲気にすこし焦っている。
そして扉が閉じられたエレベーターを見送って、周太は瀬尾に笑いかけた。

「ごめん、瀬尾。時間とらせて…行こう?」
「うん、」

すこし急いで歩きながら周太は心裡で疑問を見つめた。
なぜ、署長は周太に「兄か従兄はいるか?」と質問したのだろう?
署長の立場にあれば人事ファイルの閲覧ができる、だから身辺書を見れば済むことだろう。
それなのになぜ、敢えて周太自身に質問してきたのだろうか?

『君のお父上に似た人を見かけた』

父に似ている人。
そして「兄か従兄」と言われるような年恰好の人。
この2つの条件を充たす人で、周太が知っているのは1人しかいない。

… 英二?

英二と父は顔の造りはそんなに似ていない。
けれど切長い目がすこし似ていて、笑った顔の雰囲気がどこか似ている。
そして、憂い顔で微笑むときは、父の面影が重なってしまう。

―…英二くん、お父さんとそっくりな時があるね?顔はそんなに似ていないのに、不思議ね

そんなふうに母も不思議だと言っている。
それは周太も時おり感じている、父の面影を英二に見るたび切なさと安堵がこみあげてしまう。
そのたびに自分は「英二が自分の運命」だと確信を見つめている。

きっと署長が見た「父と似た人」は英二。
それ以外に周太には考えられない。

… 署長が、英二を、見かけた…いつ、どこで?

この機会は周太が知る限り、1度だけあっただろうと思う。
クリスマスの朝、周太を迎えに来た英二は、新宿署のロビーでコーヒーを飲んで待っていた。
あのときなら、署長が直接に英二を見かけることが出来る。

いま『さっき』と言っていたけれど、きっと嘘。

きっと本当は、クリスマスに英二を見かけた。
おそらく署長は気になって、周太の人事ファイルを閲覧しただろう。
けれど周太の身辺書には、親族欄に母と「亡父」としか書かれていない。
それで多分『見かけた』以来「父に似た人物」について考え込んでいたのではないだろうか。

…けれど、あれから3ヶ月近く過ぎている…なのに、なぜ今、訊いてくる?

たとえば誰か、他の人間が「父に似た人物=英二」を見かけた?
そのことを署長が、最近その誰かに聞いたのだとしたら?

…そうしたら確認したくなる。さっき訊いてきたことも、頷ける

ここ最近に、英二を見た「誰か」と署長が接触をした。
そして2人が見た人物が、同一人物ではないだろうか、そんな話し合いをした。
この「父に似た人物」が誰なのか?それを周太に直接確認しよう、そんなふうに決めた。
そして今、確認をしてきた。

そう考えれば訊いてきたのが「今」だと頷ける。
では、もう1人の「誰か」は、いったい誰だろう?

この「誰か」は周太の父を知るからこそ「父に似た人物」を知りたがっている。
けれど、周太の父について知る関係者が、英二を見る機会は少ないだろう。
いつも英二は奥多摩の山中にいる、そんな英二を警視庁の人間が見る機会は殆どない。
それでも英二は周太の父を知る人物と、2名は確実に面識がある。

山岳救助隊副隊長・後藤邦俊。警視庁山岳会で父の先輩だった。
武蔵野署射撃指導員・安本正明。警察学校からの父の同期。

この2人とは卒配直後から英二は面識がある。
そして英二のことを、父と似ている時があると言って懐かしむ。
だから今更、新宿署長と「父に似た人物」について話しあう必然がない。
この2人だったら英二についてよく知っている、だから署長に指示して周太に質問させる必要はない。

…だから、英二とは親しくない「誰か」だと、言うことになる…

警視庁の人間が英二を見る機会。
いちばん最近であったのは、2月の拳銃射撃競技大会になる。
署長は射撃大会には来ていない。けれど誰かが射撃大会で「父に似た人物」を見かけたのだろう。
そして署長に、周太に確認するよう指示したのかもしれない。

では、2月の射撃大会で「父に似た人物=英二」を見かけて、周太に確認する指示をする人物は?
周太と父に関係する人物を知りたがる、そんな可能性のある人物だろう。
そういう人物なら周太のことも直接見たがる、だから射撃大会を見に来ているはずだ。
そして射撃大会のとき、11月も2月も周太を見ていた男が、確かにいる。

身長170cm、闘志型体型をした40代くらいの鋭い目つきをした、憔悴した顔の男。
彼は2つの射撃大会とも「周太を」凝視していた「観察」するかのように。
そんな彼は2月の大会では光一の存在に苛立っていた。
周太を凌駕する能力を備えながら体格が規定外で惹きこめない、そんな歯痒さに苛立っていた。
あの苛立った雰囲気から確信できる、彼は父がいた世界の住人だろう。
だから彼は、父を知っている可能性が高い。

…だから、署長と、あの男は、仲間だ

背筋を冷たい手が撫でた。
この新宿署に卒配された時から自分は「監視」されていた。
そういう意味なのだとの認識が、冷たい運命の手を形作る。

…やっぱり、監視されていたんだ、ずっと

この新宿署でも自分を監視している視線がある、そう思っていた。
最初から解かってはいたこと、この視線が誰なのか何となく予想していた。
理由のない「苦手」意識もこの予想から出ていると、ほんとうはずっと知っていた。
けれど現実に推理し、実感すると息苦しさが現れてしまう。

卒業配置後すぐに、周太は新宿署の射撃特練に抜擢された。
そのとき新宿署長は、挨拶に行った周太を眺めてこう言った。

『湯原君の成績に期待しているよ…お父上にやはり似ているね』

このセリフから周太は気がついた。

「この男は父の顔の特徴を『よく』知っている」

普通に知っているのではない『観察するほど見ていた』だろう。
何故なら、周太の顔は基本が母親似の童顔で、ほとんど父と似ていない。
僅かに似ているのは眉、それから口許と視線の表情は父親に似てきたと母は言う。
けれど、こんな些細な特徴は「父と周太の両方を熟知」しなければ解からない。
そして些細な特徴の共通点を見つけられるには、2つの方向しかないだろう。

 1、親しくてよく顔を見ていた
 2、必要があって顔を観察していた

もし1に該当するならば、父の通夜か葬式に参列しているだろう。
けれど記憶のファイルから署長の顔は現れてこない。
このことを自分の記憶喪失の所為かなと周太は思っていた。
けれど光一に目覚めさせられた14年前の記憶から、もう記憶の大半は甦っている。

それに、もし親しければ母も名前くらいは知っているはず、けれど母は彼を知らない。
まして署長が当時「父のいた世界」の現場にいたのなら、決して父は彼の名前を出さないだろう。
あの世界に所属すれば、その事実を秘匿する義務を負わされる。当然、同僚の名前も一切出せない。
だから母が彼を知らないことと、父と周太の顔の共通点が解かることは2つの根拠を教えてくれる。

…署長は「2」そして、あの世界に関わる。そしてたぶん彼は、父のこと…

彼にまつわる「真実」は、まだ周太には見えない。
けれど、いつか曝されて見つめる日が来るだろう。
そのとき自分は真直ぐに、この真実に籠る父の想いを見つめたい。
あのとき父の殺害犯、ラーメン屋の主人に英二が向き合って見つめたように。

…でも、なぜ今、英二の素性を探ろうとして…?

彼らは今「父に似た人物」の素性を探ろうとしている。
父によく似た人物が、新宿署に現れ、拳銃射撃大会に現れた。
このどちらも父にまつわる場所、そして父の息子である周太がいる。
そこへ現れた「父に似た人物」に彼らは驚いただろう。

似ている。
ゆかりある場所に現れる。
この2つが揃ったら誰もが考えるだろう「血縁者」だろうと。

英二なら年恰好から、息子か甥が相応しい。
けれど父の人事ファイルには息子は周太しかいない、親戚欄も空欄だろう。
だから父の「公的登録された唯一の息子」である周太に訊いてきたのだろう。

「明かしていない息子、または甥はいないか?」

周太から「兄も従兄もいない」と聴かされたとき、署長の目は怯えた。
そして何かから逃げるよう、どこか慌てたようにエレベーターに乗り込んだ。
あのときも署長の目が、素早くあたりを見回すよう動いたのを周太は見た。

…「父に似た人物」の実在が確認できなかった、から…亡霊だと思った、かな?

英二を、父の亡霊のように感じた。
それだけ後ろめたい何かがある、だからこそ探しているのだろう。
きっと1人が見ただけなら「他人の空似」か「見間違い」で済んだ。
けれど2人が見た、だから確実に「父に似た存在」があるのだと確信したのだろう。
父と周太にまつわる場所に現れる「父に似た存在」この意図と素性を、彼らは探し始めた。

英二に、類が及ぶのだろうか?

そんな考えが心に背筋に冷たい手になってふれる。
もし、英二に何かあったら?そんな恐怖が心ごと心臓を竦ませる。
けれど信じられる、英二は、彼らには掴まえることは出来ない。

いまの英二はもう、山ヤの誇らかな自由に生きている。
警察官の枠組みに関係のない世界を基盤に定めて、最高の山ヤである光一のパートナーとして生きている。
あの光一がパートナーに選んだ以上、英二のことを必ず光一は守り抜くだろう。
光一は周太を14年間ずっと想い待ってくれた、それだけの強靭な精神力と意志を持つ光一だから信じられる。
そして英二自身も、光一に選ばれるだけの精神力と能力を持っている。
あの2人は大丈夫、彼らの手には掴まらない。

それに普段の英二を見ても、たぶん「父に似た人物」と同一人物だと解らない。
いつもの英二は笑顔が華やかで、憂い顔の笑顔と印象が全く違って彼らには解らないだろう。

…だから「父と似た憂い顔」を英二は、彼らに意図的に見せた、ってこと、だよね?

ふっと気がついたことに一瞬、歩く足が止まりそうになる。
なぜ英二が「彼ら」を選んで、意図的に父と似た笑顔を見せつけたのか?
きっと英二は安本とラーメン屋の主人を調べたように、署長たちも調べて何かを掴んだのだろう。
ではなぜ「父と似た存在」があることを、わざわざ彼らに見せつけたのだろう?

英二は、自身を囮にして、彼らを追いつめるつもり?

意図に、心が掴まれて息が止まる。
英二は父の真実を見つけるために、英二自身を父の形代に使い始めている。
それがどんな危険を招くのか?まだ予測出来ない恐怖に、心が竦んでいく。

お願い英二、そんな危険を冒さないで?

いますぐに、そう言って泣いて縋りたい、こんなのは嫌だと怒りたい。
けれどいま英二は谷川岳にいる、きっと携帯電話も高度と低温の為に電源を切っているだろう。
いま英二は自分の意志で雪壁の危険を超えて、雪と氷の荘厳な世界に立っている。
こんなふうに英二は、危険すら超えていく強靭な意志がある。

…英二には、強い意志がある。だから…縋るのなら、電話は無理、

電話だと、目が見えない。
きっと電話だと声だけで、きれいな低い声は「わかったよ?」と嘘を上手に微笑んでしまう。
だから向き合って目を見て話せる時、そういう時に泣いて縋らないと意味がない。
こんど、向き合って話せるのは、いつだろう?

そんな想いで見たクライマーウォッチは10:08を示していた。
今頃は、ふたり並んで頂上に立って、愉快に笑ってくれているだろうか?
きっと無事に踏破したと信じている、冬富士にも負けなかった強い2人だから。
いま眺める文字盤に元の持主を想いながら、ふっと周太は微笑んだ。

…そして、俺もね、負けない

自分を監視する彼らは、自分を罠の網におちた獲物だと思っている。
きっと父と同じ任務に就かせて、利用しようと考えているだろう。
それを自分も望んでここに来た、けれど、

…けれど、あなた達の思惑どおりには、ならない。お父さんと俺は、違う

父は、暗部へと捕えられ堕とされ、殉職した。
けれど自分が自ら望んでその場に立つのは、堕とされる為じゃない。
1つには父の真実を見つめるため、そして新たに見つけた1つは彼らの意図に反するだろう。

…もう1つの意図、「あの世界で生命と尊厳を守る」このために。

この為に自分は父のいた場所に立ちに行く。
だから自分は、父のようには任務に従順にはならない。
自分は自分の意志と意図のもとに、あの世界に立ちに行く。
あの世界で「任務」の名の下に壊されていく「生命と尊厳」を自分が守ってみせたい。
どこまで出来るか解らない、けれど何もしないで逃げたくない。

…自分にしか出来ない、闘い方がある。だから、大丈夫、出来る

この掌に贈られた「竜の涙」は、生命と尊厳の守り手を約束してくれる。
この「竜の涙」を贈ってくれた光一は山に愛される山っ子、その祈りも受けている。
そして愛するひとがいる、この想いが希望になって「生命と尊厳の守り手」になる決意を自分にくれた。
いつも英二が見せてくれる頼もしい背中、あの背中が立つ世界が希望になって勇気をくれる。

愛するひとの誇りを重ねて、父が闘った世界に立ちに行く。
そして自分は父の軌跡で、生命と尊厳をレスキューしてみせる。
いま父の軌跡に生きる人達を少しでも援けて、父に鎮魂を贈りたい。
そうして自分は喩え絶望の底からも、愛するひとの世界を見つめて想い繋いでみせる。

…愛して、愛された記憶と想いは、たくさん貰ってるから。だから、きっと大丈夫

温かな自信に、そっと微笑んで周太は新宿駅改札を通った。
そうして電車に乗り込むと、瀬尾が笑いかけてくれた。

「湯原くん、いま、宮田くんのこと考えたでしょ?」

いきなり図星を指されて周太は頬が熱くなった。
ずっと新宿駅まで歩く道を、周太は黙り込んで考え事に沈んでいた。
そんな周太を瀬尾は、ただ一緒に歩きながら静かに見守ってくれていたのだろう。
図星も恥ずかしいけれど、友達を放っておいた子供っぽさも恥ずかしい。
きっともう赤くなってるな?思いながら周太は素直に頷いた。

「ん、…どうして?」
「だって湯原くん、すごく優しい顔で微笑んでたよ?そういう貌って、大好きな人にするものでしょ?」

優しいバリトンの声で明晰な分析を披露してくれる。
瀬尾は優しげで繊細な雰囲気だけれど、こんなふうに鋭敏なところがある。
またいつも通りに見抜かれて、周太は気恥ずかしくても微笑んだ。

「ん、そうだね?…だいすきだよ、」
「あ、良い顔だね。湯原くんの絵、また描きたいな。今度、関根くんと宮田くんも誘って飲まない?そのとき描かせてよ、」

楽しそうに瀬尾が提案してくれる。
瀬尾は絵が上手で、警察学校の時から似顔絵捜査官を目指したいと話していた。
それでよく学習室でも「動いていて良いよ」と笑って短時間で描きあげては相手にあげていた。
きっとまた上達しただろう、絵は見たみたい。けれど自分なのは恥ずかしいな?すこし困りながら周太は笑った。

「みんなで、いいね、楽しそうだな。…でも絵を描いてもらうの、ちょっと気恥ずかしいよ?」
「湯原くん、ほんとは内気だよね。真面目で向こうっ気も強いけど、恥ずかしがり。そういうとこ、かわいいって言われるでしょ?」
「ん、恥ずかしいんだけど、そうだね。…変かな?」
「変とかじゃないよ、そういうギャップって魅力になると思うな、」

優しい笑顔でも瀬尾は率直に言ってくれる。
瀬尾は一見優しげだけれど、なにげなく看破しては笑顔でさらり言ってしまう。
こういうとき瀬尾は、肚の据わった貫禄があって本当は強いのだろうと思わされる。
これは警察学校の時から周太は感じていた、けれど最近は特にその印象が深まったように思う。

…やっぱり瀬尾、どこか雰囲気、変わったかな?

卒業配置後、様々な現場にそれぞれ立って誰もが経験を積んでいく。当然雰囲気も変わるだろう。
英二は随分と変わった、この変化は本来の性質が表面化したのだと周太は知っている。
だから瀬尾も、元来持っている性格が現れたのかもしれない。
英二は山岳救助隊の厳しい経験に本来の素顔を見せていく、瀬尾も転機のような経験があったのだろうか?
これは2月にも感じたことだった。英二と美代のデートに落ちこんだことを看破されて、瀬尾の深い鋭敏さに「変わった?」と思った。
久しぶりに瀬尾の話を聴いてみたいな?思いながら周太は聴いてみた。

「今日は講習会の後、瀬尾は非番?」
「うん、今日は午後からフリーなんだ。だから新宿の本屋に寄って帰るよ、」

それなら都合が良いだろうな?
そんなふうに思いながら周太は提案してみた。

「昼ごはん、一緒に食べようよ?俺は当番勤務だから、2時に寮へ戻ればいいんだ、」
「うん、いいよ、」

気軽に瀬尾は頷いてくれる。
今日の瀬尾はスーツ姿だから、たぶんすぐに勤務ではないだろうと推測していた。
久しぶりに瀬尾と話せる時間が嬉しい、微笑んだ周太に瀬尾が訊いてくれた。

「湯原くん、なに食べたい?場所は新宿がいいよね、お勧めある?」

訊かれて、周太は困った。
自分が案内できるところは2つしかない、誘っておきながらこれは困るだろう。
それでも正直に周太は口を開いた。

「俺ね、店とかあんまり知らないんだ…ラーメン屋とカフェ、あとはパン屋くらいで、」

なんだか申し訳なくて周太は少し反省をした。
どれも英二と行ったところばかり、しかも同じ店しか周太は行かない。

…こんど、新しいお店、英二に連れて行ってもらおうかな、

つい自分は引っ込む癖があるから、食事ひとつも新しい所に行き難い。
これでは大人として困るだろうし、こういう所からでも新しいことに馴染む努力が出来たら良い。
そんな小さな決心をした周太に、瀬尾が優しく笑いかけてくれた。

「充分だよ?それだけ知ってたら。でも湯原くん、新しいお店に行きたかったら、俺が知ってる店に行ってみる?」

考えていたことを言われて、周太はすこし目を大きくした。
どうして瀬尾って解るのだろう?驚きながらも周太は感謝に微笑んだ。

「ん、行ってみたいな?」
「じゃあね、何が食べたいとかリクエスト教えてね?…あ、もう着いたね、」

気さくに笑いながら瀬尾が本庁の入口を見あげた。
その横顔は相変わらず優しげだけれど、やっぱりどこか頼もしい。
なにか経験を潜ってきた、そんな強靭さが大人の男の空気になっている。
どんな経験を瀬尾はしたのだろう?思いながら周太は本庁のゲートをくぐった。


落着いた雰囲気のレストランに瀬尾は案内してくれた。
適度な広さと明るさが居心地がいい、接客の雰囲気もゆとりがあって寛げる。
コーナーには花がさらり活けられ、奥に覗く書棚のスペースがゆっくり過ごせる雰囲気を醸していた。
こんなお店が新宿にあったんだな?感心している周太に瀬尾が笑いかけてくれた。

「このお店だったら、女の子でも喜ぶと思うよ?」

花や本があるのは喜びそうだな?
訊いてみて良かったと思いながら周太は素直に頷いた。

「ん、ありがとう、瀬尾」

周太のリクエストは「花が好きな女の子が喜んでくれそうな店」だった。
この3月末に周太は、美代と一緒に大学の公開講座を受講する予定をしている。
そのとき新宿御苑も行くから新宿で食事をする、それで美代が喜びそうな店とリクエストさせて貰った。
ここなら花も本もあるから、きっと美代は喜ぶだろうな?そう見ていると瀬尾が訊いてくれた。

「このあいだ言っていた、宮田くんを好きって言う女の子、連れてくるんでしょ?」
「あ、…やっぱり、わかる?」

2月に瀬尾には美代と英二のことを看破されている、それを覚えていたのだろう。
やっぱり瀬尾には解るんだな?気恥ずかしく想いながら周太は、パスタをフォークに巻きこんだ。
そんな周太に瀬尾は可笑しそうに笑いかけてくれた。

「うん、解かるよ。だって湯原くんがね、女の子の友達で一緒に出掛けたいなんて、よほど気が合う子でしょ?
このあいだの話だとね、ほんとに仲好さそうだったから。こんど会うってことは、彼女と宮田くんのこと、落ち着いたんだ?」

「ん、落ち着いた…ごめん、相談するだけして、俺、なにも言ってなくて、」

この1か月間は考えることも用事も多くて、瀬尾にきちんと話す時間をとれなかった。
それでも本当は解決した時点で、電話でもいいから礼を伝える方が良かったのかもしれない。
謝りながら周太は自分の要領の悪さを反省した、そんな周太に瀬尾は軽やかに笑ってくれた。

「そんな気にしないでよ?話したいこと聴かせて貰う方が、俺は好きだし。落着いたなら、良かったね、」
「ん、ありがとう、」

優しい目で「ほんとに気にしないでね」と笑ってくれる。
大らかな瀬尾は優しい貫禄がどこか大人っぽい、感心しながら周太は自分にため息を吐いた。
こんなふうに自分は人付き合いに馴れていない、こういう子供っぽさが恥ずかしい。

…こんなに子供っぽくて、英二の妻が務まるのかな…あ、だめ、はずかしくなってきた?

今朝、深堀から聴かされた英二の評判は高いものだった。
この評判は英二に告げられた「光一の公認アンザイレンパートナー」としての責務に添って行っている。
きっと英二は山岳会のNo.2として相応しい人望を得ていける、そして昇進もしていくのだろう。
そういう英二と籍を入れて妻になるなら、自分は支えていく立場になっていく。

…それに男同士だから、世間にも受け入れられ難い

この覚悟は卒業式の夜に、初めて英二を受入れたときにもした。
この危惧の通りに英二の母親には拒絶されている、それも無理ない事だと周太は思う。
こんなふうに非難される可能性が高いのに、自分が子供じみていては余計に足を引っ張ってしまう。
すこし沈んだ気持ちになりかけた周太に、瀬尾が愉しげに訊いてくれた。

「この腕時計って、宮田くんとお揃い?」

訊かれて周太は、自分の左手首を見た。
このクライマーウォッチは元が英二のものだった、警察学校時代も英二は嵌めていたから瀬尾は覚えていたのだろう。
これを貰った時の幸せな気持ちが温かに思い出されて、どこか前向きな気持ちが戻ってくる。
この時計を貰ったのだから、何があっても自分は英二を支えよう。ちいさな決意と一緒に周太は微笑んだ。

「ん、英二のを、貰ったんだ、」
「あ、湯原くん、すごく良い笑顔だね?貰えて幸せだ、って顔してる。良かったね、」

ごく自然に瀬尾は受けとめて笑ってくれている。
瀬尾は、周太と英二のことを「一緒だと良い顔になるね」と警察学校の時も言ってくれていた。
描く絵にも表れているように瀬尾の観察眼は繊細で鋭敏だろう、そんな瀬尾には自分はどう映っているだろうか。
訊いてみたいけれど何だか気恥ずかしい、微笑んで周太は何気なく口を開いた。

「ん、ありがとう。この店、瀬尾はよく来るの?」

ウェイター達と話す雰囲気が瀬尾は慣れていた。
ここの常連なのかな?そう思っていると瀬尾はさらり教えてくれた。

「うん、よく来る方だね。彼女がこの店、好きなんだ」
「あ、…幼馴染で、大学生、って言ってた?」

警察学校の卒業旅行で恋愛談義になったとき、瀬尾はそう話していた。
思い出して訊いた周太に瀬尾は笑って頷いてくれる。

「そう、その彼女だよ?でもね、ほんとう言うと、許嫁なんだ」
「…いいなずけ?」

結婚の約束を家同士で決めている相手、そんな意味の言葉。
今の日本でもあるんだな?すこし驚いている周太に瀬尾は気軽に笑ってくれた。

「いまどき、って思うよね?俺もそう思うよ、でも本当なんだ。親同士が決めた、許嫁なんだよ」

そう言って笑う瀬尾は相変わらずのバリトンヴォイスなのに大人の貫禄がある。
警察学校の頃から落着いている雰囲気はあったけれど、貫禄までは感じなかった。
そういえば一人称も学校時代は「僕」だったけれど「俺」に瀬尾は変化している。
この変化は許嫁がいる事情と関わっているのだろうか?すこし考えながら周太は微笑んだ。

「許嫁さんのこと、大切なんだね。瀬尾、幸せそうだよ?」
「うん、大切だよ。親同士が決めたけど、好きなんだ。彼女が卒業したら結婚するからね、来年の今ごろは結婚準備してるよ、」

親同士が決めたこと、それでも瀬尾は心から幸せに笑っている。
こういうのは良いな?まぶしい想いで見つめながら周太は率直に褒めた。

「そうなんだ?家庭を持つなんて、すごいな…だから瀬尾、なんか貫禄がついたのかな?」
「貫禄?」

周太の言葉に瀬尾がすこし首を傾げこんだ。
素直に頷いて周太は、感じたままを口にした。

「ん、雰囲気変わったな、って。頼もしい感じがする、大人の男っていうか…英二にも、よくそう思うんだけど、」

最後にすこし惚気たことに気がついて周太は首筋が熱くなった。
こんなこと今は言うつもりなかったのに?赤くなりそうで困りながらも周太は瀬尾の目を見た。
見つめた先で瀬尾の目が優しく笑って、穏やかな声が言ってくれた。

「うん、雰囲気変わったかもね?俺、ひとつ状況が変わったから、」
「…状況?」

どういう意味だろう?
食べ終えた皿をすこし寄せながら、周太は首を傾げた。
瀬尾もフォークを置きながら目配せをウェイターに送ると、席から立ち上がった。

「コーヒーはね、向こうで飲めるんだ。行こう?」

奥の書棚のスペースを指さして誘ってくれる。
言われるまま周太も立ちあがって、奥の安楽椅子に落ち着いた。
サイドテーブルに運ばれたコーヒーに口をつけると、静かに瀬尾が微笑んだ。

「俺のね、叔父が亡くなったんだ。父の末の弟で、まだ30代だったんだけどね、」

まだ若い生命の終わり。
父もまだ30代で亡くなった、その時の哀しみと瀬尾の静かな表情に胸が痛い。
そっと周太は口を開いた。

「そう…お若かったんだね、…急だったの?」
「うん、事故でね。年明けて間もなくだった、」

穏かな優しい笑顔のまま、瀬尾は座っている。
その穏やかさが腰を据えた落着きがあって、以前より貫禄あると思わされてしまう。
この若い叔父の死が瀬尾に変化をもたらしたのだろうか?
見つめる周太の前で瀬尾は、ゆっくりコーヒーをひとくち飲むと微笑んだ。

「俺の家ってね、会社の経営をしているんだ。今は父が代表なんだけど、その叔父が後継者だったんだ」

瀬尾は英二と同じ世田谷の出身でいる。
最寄駅も同じ成城だと言っていた、店の趣味も英二とは共通するらしい。
だから瀬尾も英二のように裕福な家だろうとは思っていた、けれど経営者なのは知らなかった。
きっと責任なども大変だろう、そっと周太は頷いた。

「そうだったんだ、…お父さん、ショックだったでしょう?」
「うん、歳の離れた弟だからね、すごく父も可愛がっていたんだ。…そしてね、叔父は未婚だった、」

周太の言葉に頷きながら瀬尾は、穏かに微笑んでいる。
けれど、いま最後に告げた言葉の意味が重たい。

…まさか、瀬尾、

まさか、と思いたい。
もしかして哀しいことを聴かされる?そんな予感が瀬尾の目から伺えてしまう。
けれど現実ならば受けとめたい、警察学校で一緒に過ごした同期の想いを聴かせてほしい。
そんな想いで見つめる先で、静かに瀬尾が笑ってくれた。

「叔父の代わりの後継者が、俺に決まったんだ。だから俺、5年後には退官する」

ずっと瀬尾は警察官に憧れて、似顔絵捜査官の道に努力してきた。
その夢と憧れが、あと5年の期限付きになった?
こんな哀しい期限付きは嫌だ、周太は口を開いた。

「でも、瀬尾…警察官にずっと憧れて、」
「うん、俺、警察官に憧れてたから今、毎日が楽しいよ?」

心から楽しそうに瀬尾は笑っている。
どこか突き抜けたような、肚の決まった笑顔はきれいだった。
それでも言いようのない哀しさに、周太の唇から想いがこぼれ出した。

「だったら、どうして?…瀬尾、似顔絵捜査官の努力して、研修でも褒められてるって…辞められるのか?」
「うん、辞めたくないよ?でも、仕方ない、」

はっきりと言い切りながら瀬尾は微笑んでいる。
けれど優しい笑顔のまま瀬尾は、静かに話してくれた。

「他は皆、女の子ばかりなんだ、俺の家。きょうだいは妹だし、いとこ達も全員女の人。皆、経営なんて知らない。
だからもう、俺しかいないんだ。従業員の人達と家族の生活を、誰かが背負う必要がある。求めてくれるなら俺が背負いたいんだ」

「…そんな、」

選択肢は他に無いのだろうか?
こういう痛切は理不尽な想いがしてしまう。
やさしい瀬尾は決して実家も会社も投げ出せない、それが解かってしまう。
瀬尾は優しい分だけ責任感が強い、だから「求めてくれるなら」と笑って背負えてしまう。
それでも、子供の頃から抱いた夢を終わらせる覚悟は、どんなに哀しいだろう辛いだろう?
なにを言ってもいいのか解らない、哀しみと見つめる先で瀬尾は潔い幸せに笑った。

「でも俺、あと5年は警察官でいられるよ?だから湯原くん、そんな顔しないで?」

家の事情は仕方ない、けれど自分は瀬尾の努力を知っている。
自分も努力してここまで来たから、瀬尾の努力の苦しみも喜びも解かってしまう。
理解できてしまう哀しみに、ゆっくり瞬いて涙を鎮めると周太は微笑んだ。

「ん、…やっぱり瀬尾、頼もしくなったね?そうだね、5年あるね、」
「そうだよ、湯原くん。5年あるんだ、俺には」

優しい笑顔が頷いてくれる。
そしてバリトンの声が落着いたトーンで、穏かな覚悟を告げてくれた。

「あと5年ある。この警察官の5年はね、きっと俺の一生の宝物になると思う。だから5年間を精一杯、俺は夢に努力したいんだ、」

警察学校で最初、瀬尾はランニング中に倒れるほど弱かった。
それでも瀬尾は半年間で軽く走れるほどになった、それだけ努力している姿を自分は見てきた。
だから瀬尾の微笑にこもる覚悟も哀しみも、痛いほどに解かってしまう。
だからこそ、瀬尾の貫禄と頼もしさが備わった想いが、周太には解ると思えた。



当番勤務が明けて、風呂と朝食を済ませると周太は公園に行った。
いつものパン屋でクロワッサンとオレンジデニッシュを買って、歩いていく街路樹にはやわらかい芽ぶきが見える
もう3月の2週目、あと2週間もすると桜が咲くだろう。

…春を、喜びたいな?

おだやかな陽ざしのなかを歩いて、いつものベンチに周太は座りこんだ。
ココアのペットボトルを開いて一口飲むと、ほっと吐いた息が甘い。
温かい甘さの香に微笑んで、周太はipodをセットすると携帯を開いた。

From :宮田英二
subject:谷川岳より
添 付:黄昏染まる稜線
本 文:いま谷川岳の肩の小屋近くにいます、もう雪洞を掘ったよ。
    かまくらの大きいのって感じだ、周太にも見せてあげたいよ。
    ここはロープウェイでくれば登りやすいから、いつか一緒に来よう。
    明日の夜は電話するから、声を聴かせて?いまも周太に逢いたい。

「…明日の夜は、今夜だね?」

今夜は英二の声を聴かせてもらえる。
ささやかでも幸せが温かい、そして昨日のことを思い出してしまう。
英二が父の形代として囮になろうとしている、この事実が哀しい。
この話は直接逢って話した方が良い、けれど今度はいつ逢えるだろう?

それから、瀬尾のこと。
あんなに努力してきた瀬尾が、5年後には警察官を辞して実家の会社を継がなくてはいけない。
このことが周太は哀しかった、周太も努力型だから瀬尾の気持ちが解ってしまう。

「宮田くんには話しても良いよ。飲むとき話そうって思ってたし。でも、他にはまだ内緒にしてね」

初任総合のときに気を遣われたくないから。
そう言って瀬尾は笑っていた、その笑顔は責任と覚悟を背負う男の逞しさが眩しかった。
このことも英二に聴いてほしい。

…いろいろ、逢って話したいな、

ipodから流れる英二のくれた曲は、アルトヴォイスが優しい。
穏かな歌声を聴きながら、周太はもう1通のメールを開いた。

From :国村光一
subject:無題
添 付:白銀の尾根
本 文:竜がここにもいる。けれど君の掌が最強だよ、最高峰の竜と山っ子のキスだから

短い文、けれど想いをこめてくれている。
いつもながらの温かい励ましと想いに周太は微笑んだ。

「…光一、ありがとう、」

―…唯ひとり恋して愛している。14年間ずっと君だけ想ってた
  俺の大切な山桜のドリアード。ずっとずっと愛している、ずっと笑顔を守ってみせる
  そしてこの先もきっと君に片想いする。俺の命と誇りを懸けて君に話して接するよ。

光一は14年前に雪の森で結んだ「山の秘密」を周太の記憶ごと目覚めさせた。
あれから光一は周太に真直ぐ想いを示してくれている。
そして毎日、電話とメールを必ずおくってくれるようになった。

―…すこしでも両想いなんだね?だったら電話もメールも遠慮しない、逢いたかったら逢いに行く

「…すこしでも、両想い…」

記憶の言葉が静かにこぼれおちた。
たしかに光一に惹かれている、幼い日に恋した想いは甦った記憶のまま温かい。
けれど英二の想いのようには、受け入れきれない想いがある。

…卒業式の夜は、迷わなかったのに…

あの夜に周太は初めて英二の想いを体ごと受入れた。
あのときが、周太にとって初めての「大人の恋愛」だった。
ほんとうは不安な想いもあった、けれど英二の笑顔を見ていたくて一緒にいたくて。
唯その想いだけで、されるがままに英二を受入れた自分だった。

いま、光一も周太に「体ごと」の受け入れを本当は求めている。
このことは逢うたびに光を濃くしていく、その切ない想いが響いてしまう。
このあいだ川崎の実家で光一は周太を抱きしめた、あのときも光一の求めは鮮烈だった。

―…俺は確信犯なんだ。偶然のように起きたことも俺は全部、利用する。そして君を掴まえてるよ
 君を愛している、君の笑顔が見れるなら何だってするよ?だから、君から離れろと言う願いだけは聴かない
 もう忘れられたくない。たとえ独占め出来ないと解っていても、俺はもう君から離れない。
 あの14年間の孤独は繰り返さない

素肌の光一は背中から、服を着た周太を抱きこんでいた。
言葉の通りに光一は周太を離すつもりがない、公私とも光一は英二を通して周太を掴む。
雪白の肌から昇る清澄な香が甘くて、抱き締める腕の力が強くて、息が止まりそうだった。
息詰りそうで苦しくて、美しい雪白の素肌が気恥ずかしくて「離して」とお願いした。
けれど、光一は「嫌だね」と言って直ぐには離してくれなかった。

―…俺の体にも周太、惹かれてくれるんだ?…期待したくなっちゃうね、

あのとき言われた「期待」は「体ごとの受け入れ」のこと。
あのときよく解らなかった、けれど後になって意味が解かってきた。
そして英二も、ほんとうは周太に光一を一度は受け入れてほしいと願っている。

俺の嫁さんになって。そう英二は言ってくれる。
いつか奥多摩に実家を移築してふたりの故郷を作ろう、そう約束してくれる。
そんな1つずつが幸せで温かい、ずっと傍にいたい想いを受けとめられる安堵が嬉しい。
そして英二の全ては周太のものだと言ってくれる。
けれど、あの1月から英二は「周太は英二のもの」だと光一に言わなくなった。
川崎の実家で光一も交えて3人過ごした夜も、英二は周太のベッドには入ってくれなかった。

そんな英二の態度と言葉の端々から解ってしまう。
ほんとうは英二は「光一から周太との恋愛を奪った」と考えている。
そして英二は願っている「せめて一夜は、光一に周太との恋人の時間を返したい」そんな痛みを抱えている。
初恋を大切にしたい周太の想いを尊重したい、そう思ってくれているとも解かっている。けれど英二の願いが哀しい。
だって自分が毎日一緒にいたいのは英二、この想いを何度も英二に伝えて自分から体まで晒してもみせた。
桃の節句の前夜には、自分は純白の浴衣を選んでまとった、ミモザの酒に願いを伝えた。それを英二は笑顔で受け留めてくれた。
それなのに英二は光一に周太を抱かせたいと願っている「周太は英二のもの」と言ってはくれない。
それが英二の優しさだと知っている、けれど「婚約までしているのになぜ?」と疑問が哀しい。

だから昨日、瀬尾が許嫁の彼女との将来を幸せに話す姿が、まぶしくて心から祝福の想いが温かかった。
いま自分も婚約している、けれど自分は瀬尾たちのようには互いだけを見つめるわけにいかない。
それでも前は、英二だけを見つめている幸せな時が自分にもあった。
あの頃の幸福が懐かしくて愛しい、だから瀬尾にはあの幸福のまま幸せに生きてほしい。
あと5年で瀬尾は、子供の頃からの夢を終えなくてはいけない。それなら、せめて大切な許嫁との幸福は永遠に続いてほしい。

もう、自分は英二だけを見つめて生きることは出来ない。
このことが不幸だとは想わない、哀しみがあっても決して不幸ではない。
それでも裂かれるような心の痛みをどうしていいのか、まだ解らない。

― もう忘れられたくない。たとえ独占め出来ないと解っていても、俺はもう君から離れない。あの14年間の孤独は繰り返さない

痛切なほど澄明なテノールの聲はときおり、こうして甦る。
そして自分の弱さの罪を思い知らされる、14年間ずっと記憶ごと眠らせた想いへの贖罪が胸に痛い。
もう自分はワガママでも正直に生きようと決めている、だからこの痛みにも正直であればいい。
ならば、贖罪を終わらせて痛みも終わらせればいいのかもしれない。
大好きな切長い目が告げてくる「せめて一夜は、光一に周太との恋人の時間を返したい」あの願いを叶えればいい?

けれど、

…でも、英二の時のようには、思えない…

光一のことは大好き、そう想う。
けれど大好きなだけ、光一に惹かれるだけ、哀しいコンプレックスが起きあがる。
このコンプレックスが体ごとの受け入れを認められない。美しい光一に竦んだ心では、心ごと体で繋がるなど出来ない。
なによりも、今の英二に抱きしめられる時が幸せで離れられない。
大らかな優しさが頼もしい、どんな自分でも抱きとめてくれる安堵と信頼が温かい。
だからもし光一に体を晒してもコンプレックスの不安から、英二の腕を求めて泣きそうな自分がいる。
これでは到底のこと光一が望むような時間は贈れない、それを光一に気付かせることが怖い。
このことに光一が気づいたら深く傷つけてしまう、14年の想いの深さだけ酷い傷になる。

「ごめんね、…」

ぽつんと零れたつぶやきに、涙ひとしずく零れおちた。
泣いても仕方ないこと、けれど涙は零れ落ちてしまう。
それでも周太は微笑んで、持って来た本を開いた。

英二が選んでくれた、登山の入門書。
もう1冊の選んでくれた救急法の本は、昨日の朝と当番勤務の休憩で一通り読み終えた。
このベンチで今日は、この本を読んでしまいたい。

…きちんと山に必要なこと勉強して、連れて行ってもらうんだ、

また英二と山に登ってみたい、英二の見る世界に自分も佇みたい。
だからこの本を読んでしまいたい、そして今夜電話が来たら「山に連れて行って」とねだりたい。
そしてこれを読み終えたら、また青木樹医に贈られた青い本の続きを読む。

たくさん読みたい世界があるな?
おだやかな楽しみに微笑んで、周太はページに広がる世界を開いた。



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