萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第40話 凛厳act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2012-04-17 23:53:05 | 陽はまた昇るanother,side story
凛冽の暁、おだやかな微睡




第40話 凛厳act.3―another,side story「陽はまた昇る」

仄明るい診療所の廊下で、ひとつの怒りが目を覚ます。
真白いマウンテンコートまとう長身が、睥睨するよう見おろしながら桜貝の爪光る手首を掴んでいた。
誇らかに明るい目が怒りに笑っている、こんな目の光一は心底から怒りだす。
何者にも触れられない、大らかな怒り充たしながら山っ子は問いかけた。

「あんた、何しに来たのさ?」

低くテノールの声が、桜貝の爪の主に問いかける。
問われて、彼女は掴まれた手首を振りほどこうとしながら睨みつけた。

「決まっているじゃない?息子は私の物、返してもらいに来たのよ。さあ、手を離しなさい!」
「はあ?あいつ、物なのかよ?」

呆れたように光一が訊きかえした。
そんな問いに答えて彼女は、せせら笑うよう細い目を睨みつけた。

「生んだのは私よ、私の物でしょう?せっかく綺麗に生めて自慢なのに、台無しにされたくないの。元通りに返してもらうわ」

…どうして、わかってくれないの?

心の深くに哀しみが起きて、ちいさな溜息が周太の唇こぼれた。
英二は「物」じゃない。それが解かってほしくて英二は、ずっと苦しんでいる。
この初めて会った女性の言葉と表情に、かつて英二の心が固く凍りついていた理由が解かってしまう。
こんな姿が自分の母親だとしたら、どんなに哀しいだろう?
この哀しみに英二が、周太と、周太の母と家に求めてくれる想いが切なく痛い。

…けれど、このひとが英二のお母さんなんだ、他の誰でも無くて。だから、解かってあげてほしい、

解かってほしい、英二の哀しみと苦しみを。
実の母から無条件に愛されない心の空洞を、このひと自身が埋めてくれたら一番、英二は幸せになれる。
どうしたら気づいてくれるのだろう?祈る想いに見つめる先で、光一が口を開いた。

「ふん、聴いていた通りなんだ?へえ、解っちゃいないねえ、マジで」

低いテノールが嗤って、細い目が彼女の目を見つめていく。
見つめられ、どきりとしたよう彼女の手が止まった。止まった手をさらり見遣って光一は唇の端をあげ微笑んだ。

「あいつは、あんたのモノじゃない。ソンナこと、あんたが決めることじゃないね」

真直ぐ見据えられ、彼女の視線は光一の眼差しに捕捉されていく。
視線に抑え込まれるよう、彼女の力が抜けていくのを見澄まして、光一は手を離した。
けれど視線は離さずに真直ぐ言葉を投げかけた。

「誰に縛られたいとか、繋がりたいとかさあ?本人と運命で決めることだろが、母親だって縛れないね。
だいたいさ?あんたに束縛されるの嫌で、あいつ自身よく考えて、家を出たんだろが?で、あいつが自分で選んだのが、このひとだ」

言葉と一緒に底抜けに明るい目が、ふっと温かに笑んで周太を見つめてくれる。
その視線に誘われるよう英二の母の目が、周太の顔へと動いていく。
その美しい目が冷たくて、けれど底に眠る哀しみを周太は見た。

…たぶん、この人は?

彼女の目の底ふれている想いに、周太の心が締めつけられる。
この人は、求めているのかもしれない?そんな想いと見つめた傍で、テノールの声が言ってくれた。

「あいつはね、イイ顔する時が3つある。ひとつめ、救助の現場で『ありがとう』って遭難者が笑った時。
ふたつめ、山の美しさ不思議さにふれた瞬間。そして、3つめ、このひとの幸せな笑顔が見られた瞬間だよ。
この3つめの時が最高の顔をする、そのときの笑顔ときたらね?桜が満開の時よりも、ずっと幸せで別嬪だ。さあ、考えな?」

透明なテノールは低く穏やかに告げてくれる。
底抜けに明るい目は真直ぐ彼女を見、重ねるよう問いかけをおくった。

「あいつ、ホントはね?死んでも不思議じゃなかったんだ。でも、帰って来た。その理由はね、このひとに逢いたかったからだ。
あいつ、意識を失う寸前にさ、このひとの名前を呼んで、幸せに笑ったんだよ。あいつ、このひとだけを考えて、生き延びたんだ。
それくらい、あいつにとって大切なんだよ?本来なら死んでいる、それすら乗り越えられるくらい、このひとが何より大切なんだ。
さあ、考えな?あいつから、このひと引き離したら、どうなる?山と警察官を取り上げたらさ、どうなっちゃうかな、あいつはさ?」

彼女の目は光一を見据えている。
けれど睨む視線はどこか弱くなって、縋るような目に変わっていた。
それでも彼女は、鋭さは消えても刺すよう口を開いた。

「でも、その全てが、私が生んであげたから、でしょう?…だったら、私の好きにして、何がいけないの?
私の理想通りに居てほしいのよ。傍にいて、普通に可愛いお嫁さんと結婚して、可愛い孫を見せてほしいの。それのどこが悪いのよ?」

自分の「理想」通りにしてほしい。
そんな彼女の理想と、英二の夢の場所は大きく違ってしまった。
この擦違いが哀しい、それ以上に彼女の底深く眠る想いが痛々しく哀しい。

…このひとの英二への愛情は、無償の母の愛とは違う…絶対に譲れない、けれど、哀しみは受けとめられたら、

生きる誇りと夢に輝く英二の笑顔を、自分は見ていたい。
だから彼女の願いどおりには周太は出来ない、それでも受けとめたい心がある。
どうか、すこしでも彼女に安らいでほしい、そんな想いに周太は、そっと口を開いた。

「あなたの理想通りに生きることが、正しいとは思いません…でも英二さんが今、夢を叶えて生きているのは、あなたのお蔭です」

真直ぐ見つめる先で冷たい目がすこし揺れた。
この冷たい目の底に、すこしでも届いてほしい想いがある、そして受け留めたい。
どうか、きちんとすべてを伝えられますように。祈る想いに微かな1つ息呑んで周太は続けた。

「あなたが与えてくれた体のお蔭で、誇りに生きる道を英二さんは選べています。そして、周りを笑顔にしてくれているんです。
僕も、そんな英二さんに救われた1人です…僕の笑顔を取戻してくれたんです。だから僕は、あなたに、ずっと言いたかったんです」

どこか縋るよう哀しげで、けれど険を湛えたままの目を周太は見つめた。
この目の雰囲気が懐かしい、大嫌いだった英二の仮面と似た眼差しが、今はもう愛しいとすら思える。
この愛しさに周太は、叩かれた頬できれいに笑いかけた。

「あなたに憎まれていると、解っています。でも僕は、あなたを嫌うなんて出来ません。僕の幸福を生んでくれたのは、あなただから」

どんなに嫌われても、自分の愛するひとを生んでくれた存在を、どうして憎める?
どんなに憎まれても、自分を幸せにしてくれるひとの母、どうしたら怨めるだろう?
素直な想いに微笑んで、周太は言葉を続けた。

「英二さんに逢えなかったら僕は、笑うことすら出来ませんでした。あのままだったら、生きることを投げ出したかもしれない。
英二さんが笑顔も幸せも、僕にくれたんです。英二さんがいたから僕は今、生きることが出来ています。だから、言わせて下さい、」

見つめてくれる哀しい目から、険がすこしずつ消えていく。
ずっと凍えていた孤独を崩してくれた唯一人、そのひとを生んでくれたのは、この人。
この人へずっと抱いていた想いを今、言える。今、縋るような目を見つめながら、心からの想いと一緒に周太は微笑んだ。

「英二を生んでくださって、ありがとうございます」

ずっと、伝えたかった。
いつか出会うことがあれば、きっと頬を叩かれると解っていた。
それでも会って伝えたかった「ありがとう」を伝えて、心からの感謝を捧げたかった。
そして出来るなら、彼女に素顔の英二を誇りに想ってほしい、そう願ってきた。
そうして彼女がありのままの英二を、すこしでも真直ぐ見つめて、愛してくれたなら。

…どうか、英二を愛してください、素顔のままで、今の英二を

ほんとうに英二が求めたいのは「母の無条件の愛」だから与えてあげてほしい。
英二の母親は唯1人このひとだけ。この願いは彼女しか叶えることは出来ない、いくら愛していても自分には叶えられない。
ほんの僅かでも良い、どうか今の英二を認めてほしい。祈るよう願いを込めて、周太はひとつずつ言葉を告げた。

「英二さんが選んだ、山と救助の世界は、素晴らしいです。だから、すこしでも誇りを持って頂けませんか?
きっと、あなたが誇りを持つのに相応しい、それくらい素晴らしい世界です。だから、どうか、英二さんを認めてあげて下さい。
僕のことは認めなくていいんです。でも、英二さんの選んだ世界は、否定しないで下さい。あなたにこそ、認めて頂きたいんです」

瞳の奥へと熱が昇りかけてしまう。
それでも周太は微笑んで、端正に頭を下げた。

「どうか、お願いします。英二さんを認めて下さい。いま、ここで誇りを持って生きている姿を、褒めてあげて下さい。
そのために、気が済むのなら何度でも、僕を叩いてくれて構いません。だから、どうか、素顔の英二を受けとめてあげて下さい」

静かに頭をあげて、周太は真直ぐ彼女を見つめた。
どこか哀しい彼女の目が、かすかに明るいものを充たし始めている。
この明るさがなにか嬉しい。嬉しくて微笑んだ周太に、不意に懐かしい声が掛けられた。

「周太くん、」

声に視線を動かすと、英二に良く似た快活な微笑が笑いかけてくれる。
好きな人との再会が嬉しくて、素直に周太は微笑んだ。

「お姉さん、…来て下さったんですね、」
「来たわよ?周太くんに会いたかったもの。馬鹿な弟が心配かけて、ごめんね?」

仕事帰りに急いできてくれた、そんな雰囲気の端正なスーツ姿が笑ってくれる。
変わらない優しい笑顔の英理は、小さな旅行鞄を提げて周太の隣へと来てくれた。
そして、ふと周太の前に立つ姿に視線を移して、切長い目が大きくなった。

「お母さん?どうして…行かないって言ったのに?お花の社中で、パーティーがあるって、」

娘の登場に英二の母は、バツが悪そうに顔をうつむけた。
その姿を眺めていた光一が、細い目を笑ませて英理に会釈すると微笑んだ。

「宮田のお姉さんですね、初めまして。国村です、宮田とパートナーを組ませて頂いています」
「初めまして、国村くん。姉の英理です。英二からお話は聞いています。すごい山ヤさんで、大好きな友達だって、ね?」

きれいに笑って英理も会釈を返している。
そんな英理の笑顔を見て、光一は愉しげに笑った。

「うん、やっぱり宮田と似ていますね?すごい別嬪だ、お姉さんの方が知的で上品ですけどね。
さて、コンナ廊下でも何です。ちょっと場所を変えましょう、俺から状況説明をさせて頂きます。お泊りは決めていますか?」

「ありがとう、国村くん。一応、青梅駅のビジネスホテルは取ってあるんだけど、ここからって遠いのね?お母さんは?」

快活な笑顔で母親の顔を覗きこんで、優しく英理が訊いている。
訊かれて英二の母は、すこし驚いて困ったように首を振った。

「そこまで、考えていなかったわ…」

咄嗟に動いて、電車に乗ってしまった。
そんな雰囲気が彼女の表情に見られて、周太は嬉しかった。
そんなふうに駆けつけてくれたのなら、きっと彼女には息子を愛する真直ぐな想いがあるはず。
ならば彼女には、ありのまま息子を愛する想いが眠っているだろう、そう信じたい。

…どうか、その気持ちを見つめて、英二を受け留めて下さい

祈りの想いに周太は彼女の顔を見つめた。
その隣で光一が軽く頷いて、母娘に提案してくれた。

「じゃ、近くの旅館にご案内します。俺の親戚なので、すぐに部屋を準備してもらえますから。
そして。後藤からお話した通り、今回の事は秘密です、大勢で病室に詰めることは難しい。ですから今夜は顔見たら、旅館に行きましょう」

「はい、お願いします」

落着いて英理は頷くと、母親にも「それでいいわね?」と頷かせた。
そして周太に優しく笑いかけて、英理は言ってくれた。

「周太くん。英二のこと、お願いさせてね?きっと、周太くんの付添が、いちばんの励ましになると思うから、ね?」
「はい、付添います。ありがとうございます、」

変わらない英理の率直な優しさと、信頼が温かい。
嬉しい想いに頷いた周太に「頼りにさせてね、」と英理は笑いかけてくれた。
そのまま光一が2人を案内して病室へ向かうのを見送ると、周太は給湯室へ氷を取りに入った。

「…っ、」

薄暗い空間で1人になった途端、涙がこぼれおちた。
漏れそうな声を片掌で押さえこみながら、氷ボックスを台に置く。
そうして空いた両掌に顔をうずめて、周太は静かに泣いた。

…言えた、ちゃんと、全部

ずっと英二の母に伝えたかった想いたち。
その全てを、きちんと伝えることが出来た。その安堵感と、ほどけた緊張とが肩の力を抜いていく。
そしてやはり向けられていた、憎悪への哀しみが堪えていた涙に変わる。
それでも自分が言えたことが嬉しい、涙に覆う掌のなか周太は微笑んだ。

英二の誇りを、彼女に教えたかった。
ありのままの英二が素敵だと、彼女に見つめて貰う切欠を作りたかった。
そして出来ることならば、素顔の英二を誇りを持って愛してほしい。
そうした願いの数々を、すこしでも伝えられたことが嬉しい。
そして感謝を彼女に伝えたかった。
この自分は、彼女の理想には刃向ってしまう。
けれど彼女への感謝と謝りたい気持ちは本当で、それを伝えておきたかった。
そして彼女の怒りを受けとめて、彼女の懲罰を受けておきたかった。

ほんとうは、怖かった。
泣き虫で弱虫の自分が、泣き出さないで向き合えるのか不安だった。
それでも今夜、彼女の前では泣き出さずに立つことが出来た。

…お父さん、すこしは、出来たかな?…すこしは俺でも、胸張れる、かな?

愛するひとを守りたい。
愛するひとの願いも望みも、叶えられるなら叶えたい。
だから今も英二の母に伝えたかった、ずっと英二が望んでいる想いを叶えたかった。
こんな弱虫の自分でも英二の為なら強くなれる、そう信じて口を開きたかった。
それが少しでも、出来たのなら嬉しい。

…英二、あなたの願いなら、なんでも叶える努力するよ?だから、帰ってきて

どうか帰ってきてほしい。
この今の切なる願いに周太は、ひとつ深呼吸に涙を押さえた。
そのまま給湯室の蛇口をひねって、顔を洗うとハンカチできちんと拭いとる。
そして見た、戸棚に映る自分の顔は、また少し変わっていた。

「ん、だいじょうぶ、だね?」

自分の顔に覚悟と勇気を見て、周太は微笑んだ。
そして氷ボックスを手にとると、冷凍庫を開いて氷を移していく。
いっぱいに箱が満ちたとき、周太の携帯電話が振動した。

「ん…お母さん、」

着信名につぶやいて周太はボックスを台に置いた。
急いで通話を繋げると、おだやかな母の声が微笑んだ。

「周、おつかれさま。ごはん食べた?」
「おつかれさま、お母さん。夕飯、そういえばまだ、食べてない…お母さんは食べた?」

大好きな母の声が嬉しい、ほっと心が寛いで周太は微笑んだ。
微笑んだ心がゆるんで、瞳から涙ひとしずく、ぽとんと零れ落ちた。

「周が置いて行ってくれた煮物で食べたわ。おいしかった、ありがとう」
「そう、よかった…お休み、どうなりそう?」

またひとつ、ぽとんと涙こぼれた台を見つめながら周太は微笑んだ。
問いかけに微笑んだ声が、優しく答えてくれる。

「うん、土曜日は1日、お休みです。日曜は午後から出勤すれば大丈夫。周は土曜日のお昼前まで、そっちにいるのね?」
「そう、土曜日は当番勤務だから、1時までに新宿に戻ればいいんだ…じゃあ、土曜の午前中に、お母さん来る?」
「そうなるかな?でも、その前に英二くん、元気になるかもよ?」

明るい声で母が励ましてくれる。
いつも母はこんなふうに、周太の心を明るい方に向けて微笑む。
さっき対面したばかりの英二の母との差が、何か哀しくなってしまう。それでも周太は笑って母に頷いた。

「ん、げんきになるかも…っ、」

ぽとん、涙ひとつまた零れて氷ボックスに落ちる、
思わず、しゃくりあげてしまった。口許を右掌で覆って声が漏れないよう、周太は息を呑んだ。
けれど、電話の向こうで母は、おだやかに微笑んでくれた。

「周、英二くんのお母さんに、お会いしたのね?」
「…っ、ん、…そうなんだ…どうして、わかるの?」

かすかな嗚咽が零れてしまう。
それでも母の声が嬉しくて微笑んだ周太に、やわらかに母は言ってくれた。

「周のことはね、解かるかな?お母さんだから、」
「ん、そう…ありがとう、お母さん、」

母の優しさに、すっと心が落ち着いていく。
ほっと息を吐いて周太は、電話むこうの母に笑いかけた。

「きれいな人だったよ?お姉さんも来てくれて、今ね、光一が病室に案内してくれてる」
「そう、英二くんの様子はどうかな?」
「まだ熱が下がってないんだ、怪我のショックで熱が出てるって、吉村先生が教えてくれて…」

すこし母に今の状況を説明した。
ひとつずつ母は頷いてくれる、そうして聴き終えると母は教えてくれた。

「周、さっきね?後藤さんから、お電話いただいたの。今後の事ですけど、って」
「今後のこと?」

ひとつ心臓が、とくん、と心ごと打った。
英二の今後のことだろう、小さな不安を打ち消すよう呼吸して、周太は母の言葉を聴いた。

「そう、英二くんの意識が戻ったらね、4、5日は静養させたいって。でも内緒のことでしょう?
奥多摩だと英二くんの怪我、解かってしまうからね、川崎の湯原の家で静養させたいですが、ってお話だったの」

川崎に英二が暫くいてくれる?
そんなの嬉しい、すこし笑って周太は母に訊いた。

「うれしいな、そう出来たら…でも、休暇の理由ってどうするの?」

「英二くん、お休みが溜まってるんですって。週休も後藤さんと訓練しているから。だからね、休暇を消化させるって事にするの。
青梅署でも言っていたみたい、いつも週休や非番も訓練かお手伝いで休まないから、英二くんに休暇をとらせないといけない、って」

それなら誰にも気取られず、英二は静養できるだろう。
こんなふうに英二の真面目さが役立つ。きっと英二が真面目な山ヤだから、山の神様が援けてくれたのかもしれない?
そんな考えに周太は、英二の頬の傷痕を心に見つめた。

…最高峰の竜がつけた爪痕の「山の御守り」が、ほんとうに英二を守っている?

もしそうなら、英二は喜ぶだろうな?
愛するひとの喜びを想いながら、すこし母と今後の取り決めをしてから電話を切った。
念のためボックスを開けてみると、入れた氷はきちんと保冷されている。
ほっとして蓋を戻すと携えて、周太は廊下を歩き出した。

病室に戻ると、吉村医師が付添ってくれていた。
戻ってきた周太に振り返って、温かく吉村医師は微笑んだ。

「お帰りなさい、湯原くん。さっき、お母さんたちは、旅館に行かれました」
「先生も、お会いしたんですか?」

氷ボックスを洗面台に置きながら周太は訊いてみた。
吉村医師は英二の頭から上手に氷枕を抜きとってくれる、そして周太に渡してくれながら穏やかに微笑んだ。

「はい、お会いしました。きれいな方達ですね?宮田くんと、似ている」
「先生も、そう思いますか?」

氷枕の水を洗面台に流しながら周太は吉村医師に笑いかけた。
頷きながら微笑んで、吉村医師は教えてくれた。

「はい、思いました。特に、お姉さんと宮田くんは、よく似ていますね。聡明な、立派な女性という印象でした」
「英二のお姉さん、素敵ですよね?俺、大好きなんです…いつも、優しくしてくれて」

氷を枕に詰め終えてタオルを巻くと、周太は英二の許に戻った。
静かに吉村医師が英二の頭を抱え上げてくれる、そっと氷枕を差し入れて周太は英二に微笑んだ。

…ね、英二?待ってるよ、みんなが英二のこと…

すこし赤みがひいた顔が嬉しい、呼吸もすこし楽になった様子でいる。
すこしずつ回復しているのだろうか?そう見つめた周太に吉村医師は笑いかけてくれた。

「さあ、湯原くん。今度は君の手当てです、ここに座ってください」
「え、…」

意外な言葉に周太は首傾げこんだ。
そんな周太に吉村医師は、すこし悪戯っぽく笑いながら軟膏を示してくれた。

「お姑さんと、闘っちゃったんでしょう?国村くんに伺いました、頬の腫れを早く治しましょう、」
「あ、…すみません、病院の廊下なのに、」

大きな声で彼女は話していた。
もし英二のことが知れたらどうしよう?心配に眉を寄せた周太に吉村医師は教えてくれた。

「大丈夫です、2階の病室は今日は、宮田くんしかいません。みなさん別棟にいますから、大丈夫。
宮田くんのことも、もちろん知りません。私と、息子と妻だけしか知りません。息子はここの責任者で、妻は協力者なのでね」

言いながら、周太の頬に軟膏を塗ってくれる。
色々と吉村医師は配慮をしてくれた、そう気がついて周太は頭を下げた。

「お気遣い、ご迷惑を本当にすみません。ありがとうございます、」
「うん?いいんだよ、湯原くん、」

洗面台で軟膏を洗い落しながら笑ってくれる。
きちんと手を拭きながら吉村医師は、おだやかに言葉を続けた。

「前にも話したけどね、宮田くんは亡くなった息子を想わせてくれます。それ以上にね、今はもう息子と同じように彼が可愛い。
だから私にとっては、家族を守ることと一緒です。当然のことをしているだけです、だからね?君も、なんの遠慮もいらないんだ」

やさしい笑顔が温かい、この笑顔にきっと英二は何度も安らいできただろう。
温かな感謝に微笑んで、周太は素直に頷いた。

「はい、ありがとうございます…先生、俺ね?先生のこと、やっぱり大好きです」
「うれしいですね、私も君のことが大好きです。さっきも、とても立派だったと国村くんが言ってましたよ?」
「…あ、英二の、お母さんのことですか?…はずかしいですとても」

話していくと、すこし心がまた解れてくれる。
こんなふうに吉村医師は、周太の緊張を楽にしようと気遣いが優しい。
ありがたさに微笑んで静かに会話していると、そっと病室の扉がノックされた。

「失礼しますね?こんばんは、湯原くん?」

やさしい声と一緒に、やわらかな雰囲気の端正な女性が現れた。
60歳くらいだろうか?その年恰好に周太は、彼女が誰か気がついた。

「あの、初めまして。湯原です、…吉村先生の、奥さまですね?」

椅子から立って周太は、きちんとお辞儀をした。
そんな周太に彼女は楽しげに笑いかけて、やさしい声で言ってくれた。

「はい、吉村の妻です。ほんとうに礼儀正しい、きちんとした方なのね?主人からお話は、聴いています」

話しかけてくれながら、小さなテーブルにトレイを据えてくれる。
トレイに掛けた綺麗な布巾を外して、彼女は周太に勧めてくれた。

「遅くなったけれど、お夕飯です。どうぞ、召し上がってください」

トレイには、おにぎりと汁椀に、惣菜がきちんと収められていた。
まだ湯気が温かいトレイから、彼女の優しい気持ちが伝わってくる。
やさしい想いが嬉しくて、周太は微笑んだ。

「ありがとうございます、…、」

ふっと涙がひとつ零れて、周太は指で瞳を拭った。
拭う指先を見つめながら彼女は、やわらかに微笑んで静かに周太の肩を抱いてくれた。

「大丈夫、すこし力を抜きなさいな?いま、私と主人しかいません。気を楽にしていいんです、
今、すこし心を休めましょう?そうしてね、宮田くんが目が覚めたとき、笑ってあげれる様になりましょう…ね?」

やわらかな声と、花のような優しい香が心ごと包んでくれる。
彼女の腕のむこうでは、吉村医師がおだやかに頷いてくれた。

『英二が目が覚めたとき、笑えるように』

やわらかな彼女の言葉は希望の灯をくれる。
だから素直に頷きたい、微笑んで周太は涙をひとつ落とした。

「…っ、はい、…ありがと、うござい、ま…」

肩にふれる温もりが優しい、温かな優しさに周太は瞳を閉じた。
閉じた瞳から、受けとめられる安心感に涙が静かにあふれていった。



食事が済んだ周太を見届けると、吉村の妻は熱い茶を淹れてくれた。
茶の香が清々しい、実家で点てる茶を想って心が落ち着いてくれる。
飲みほして周太が落ち着くと、吉村の妻は静かに英二を見舞ってくれた。

「すこし、熱が落着いてきたかしら?…あなた、検温はされましたか?」
「はい、22時に計った時は39度2分でした。3分ほど下がっています、」

おだやかに2人で英二を見守ってくれる。
寄添いあってベッドを見つめる横顔が、どこか切ない慈愛に満ちて綺麗だった。
いつも吉村医師は英二に、亡くなった次男の雅樹を見つめると言う。
吉村の妻も今、亡くした息子の面影を見つめているのだろうか?
そんな想いで見つめる先で、ふっと微笑んで彼女は口を開いた。

「ほんとうね?雅樹と、どこか似ているわ。…この方も、山でレスキューをしているのでしょう?」
「そうです、いつも話している通りにね?とても真面目で、優しい青年なんだ…そうですよね、湯原くん、」

急に吉村医師に名前を呼ばれて、周太は少し驚いた。
それでも素直に頷いて周太はきれいに微笑んだ。

「はい、とても真面目で優しいです、英二は。いつも、俺にも優しくて…あ、」

言いかけて周太はすこし頬を赤らめた。
またこれでは惚気になってしまう、こんな非常事態なのに?
なんだか呑気な自分に呆れながら、周太はそっと頬に掌を当てた。
さっき英二の母に叩かれた頬は、まだ腫れている。
けれど頬の痛みより、英二を受け留めてくれるのかが気に懸ってしまう。

…どうか、認めて貰えますように、

そっと祈りながら周太は、眠る英二の顔に微笑んだ。
そんな周太に吉村の妻は、やさしい笑顔を向けると「いつでも声を掛けてね?」と告げて戻っていった。
クライマーウォッチを見ると時刻は23時に懸ろうとしている、遅い時刻に周太は吉村医師へと尋ねた。

「先生は、明日も普段通りにお仕事ですよね?」
「はい、いつも通りに青梅署の診察室に出ます。その間は、長男がここを診てくれますから、」

穏かな笑顔で吉村は答えてくれる。
その笑顔はいつもどおり温かで、けれど憔悴の疲れが見えてしまう。
いつも吉村医師は多忙だと英二からも聴いている、それなのに今夜、眠らなかったら体が辛いだろう。
心配で、僭越かなと思いながらも周太は提案をしてみた。

「先生、俺は明日は休みなんです、今夜は寝ないで付添えます。だから先生、俺一人でも大丈夫です、」

少しでも吉村医師に体を休めてほしい。
そして明日も元気でいてほしい、そんな想いで見つめた周太に吉村医師は微笑んだ。

「ありがとう、湯原くん…そうですね、もうじき国村くんも戻るでしょうしね?
お言葉に甘えます。何かあったらすぐ、私の携帯に電話をしてくださいね?個室は携帯も使って大丈夫なので、」

そう言って立ち上がった吉村医師は、どこか疲れた雰囲気でいる。
やっぱり提案させて貰って良かった、思いながら周太は素直に頷いた。

「はい、すぐに連絡させて頂きます。本当に先生、ありがとうございます、」
「いいんだよ、礼なんて。ほんとうにね、私がしたくてやっているんだから」

笑顔で応えてくれながらクロゼットから毛布を出してくれる。
毛布をソファに置くと、吉村医師は簡易ベッドの使い方を教えてくれた。

「このソファが付添用のベッドになります、すこしでも寝て下さいね?君まで体を壊したら、いけません、」
「はい、ありがとうございます」

優しい吉村医師の気遣いに周太は微笑んだ。
そして戻っていく吉村医師を見送って、ひとり周太は英二の枕辺に座った。
白いベッドに英二は眠っている、呼吸がすこし落ち着いてきた様子が嬉しい。
そっと手を伸ばすと、熱の赤い頬を周太はくるみこんだ。その頬には熱に透けて、細い傷痕がふわり浮かび上がっていた。

「…最高峰の、竜の爪痕は。竜の涙の許に帰りたがる。そう、言ってくれたね?英二…だから、帰ってきて?」

傷痕が浮ぶ頬を、やわらかに掌ふれていく。
この掌には富士の風花がしみこんでいる、この風花を光一は「最高峰の竜の涙」と言寄せ贈ってくれた。
そして英二は「涙は心から生まれるから、爪痕は心の許に帰りたがる」と言ってくれている。
だから今も、帰ってきて?祈り見つめながら見守っていると、背後で扉が静かに開いた。

「遅くなって、ごめんね?」

透明なテノールが笑いかけて、底抜けに明るい目が温かに笑んだ。
真白なマウンテンコートを脱いでハンガーに掛けると、光一もベッド脇の椅子に座ってくれる。
そして英二の顔を覗きこんで、嬉しそうに笑いかけた。

「まさに、眠れる森の美女だね?もし朝まで起きなかったらさ、俺がキスで起こしてあげるからね、」

そう言って光一は、ベッドに頬杖ついて愉しげに笑った。
そんなこと勝手にされたら困る、すこし拗ねた気持ちになって周太は訴えた。

「だめ、光一。そんなこと、勝手にしないで?英二は、俺に全部くれるって言ったんだから、」
「そうだったね、周太。でも俺ってね、コトによっちゃあ忘れっぽいからさ?もし忘れてキスしちゃったら、ごめんね」

からり笑いながら光一は、頬杖ついたままで投げキスを英二の口元へ遣った。
思わず周太はむくれながら、投げられたキスを手で払った。そんな周太に光一は愉快に微笑んだ。

「へえ、払いのけるなんてさ?可愛いコトしちゃうんだね、周太。でも残念、もう唇に届いちゃってるね、」
「もう、光一のばか。こんなときにまで、えっちなんだから…ばか、」

言いながら何だか可笑しくて、周太は少し笑った。
笑った周太に光一は、嬉しげに目を細めると愉快に微笑んだ。

「うん、やっぱり笑顔がイイよ。可愛い、周太。だからさ、笑ってやんな、こいつが喜んで帰ってくるようにさ、」

言われて周太は英二の顔を見つめた。
深い眠りに入ったままの顔は、高い熱に苦しげでも端正でいる。
もし自分が笑っていたら、本当に帰ってきてくれる?そう見つめた周太に光一が温かに笑んだ。

「頬、まだ腫れてるね…痛いよな?」

そっと白い掌が叩かれた頬にふれてくる、その掌が温かい。
優しい温もりに微笑みながら、周太は小さく頭を振った。

「平気、痛くないよ?大丈夫、」
「うん?…優しいからね、君はさ」

テノールの声が低く微笑んで、静かに白い掌は頬から離れた。
底抜けに明るい目が切なそうに見つめて、けれどすぐ愉しげに笑ってくれた。

「さっき、宮田のおふくろさんを諭した周太。凛と佇んでね、ほんと綺麗だった。俺、惚れ直しちゃったよ?」
「あ、…はずかしいなそのことは…」

ずっと英二の母に伝えたかった事ばかり、でも気恥ずかしい。
そんな想いに俯きかけた周太に、透明なテノールが微笑んだ。

「やっぱり君は、誰よりも純粋で綺麗だね?愛してるよ、ドリアード。……さて、」

さらり告白をして光一は立ち上がった。
ひとつ伸びをして、それからソファを簡易ベッドへと手早く作り変えていく。
そして靴を脱ぐと、ころんとベッドに横になって周太に笑いかけた。

「ちょっと休ませてもらうよ?交替はさ、いつでも起こして良いからね」

今日の光一は英二の救助に行ってくれている。
そのあとも英二の母と姉の相手をしたりと、疲れもたまっているだろう。
たくさんの感謝に微笑んで周太は頷きながら、ふと訊きたいことを思い出した。

「ん、ありがとう、光一。…あの、今夜、外泊しても大丈夫なの?」
「うん?ああ、外泊申請のコト?」

いったん起きあがると光一はクロゼットを明けて覗きこんだ。
ブランケットを1枚取り出すと周太に渡してくれながら、外泊の答えを教えてくれた。

「今夜はね、吉村先生のトコで俺と宮田は、救急法の個別講習なんだよ。で、そのあと打上げ飲みで泊まりってワケ」
「あ、なるほど…」

普段から英二は吉村医師の講習を個人的に受けている。
だから今夜、泊まりこみの講習をしても誰も不自然に想わないだろう。
いつも真面目に取り組んでいる英二の習慣が、こんなふうに英二を援けてくれている。
よかったと安堵した周太に、細い目が温かに笑んだ。

「さ、ちゃんとブランケットかけておきな?夜はまだ冷えこむからね。で、眠くなったら、俺を起こすんだよ?いいね、」
「ん、ありがとう。光一、今日はお疲れさま、おやすみなさい、」

周太の言葉に光一は、ちょっと首傾げて周太を見つめた。
なんだろうなと見つめ返すと光一は、ふっと動いて素早く周太の耳元にキスをした。

「…っ、」

驚いて、キスふれた場所に手をやると熱い。
こんな時に、こんなことは途惑ってしまう、困ってしまう。
途惑いながら見上げた周太に、からり光一は笑ってベッドにさっさと転がった。

「お休みのキスだよ、ドリアード?じゃ、またあとでね、」

きれいに笑って光一は目を閉じると、すぐに安らかな寝息に眠りこんで行った。
ほっとため息を吐いて、どこまでも健やかな初恋相手に周太は微笑んだ。
いつもこんなふうに光一は、驚かせながらも笑わせて励まそうとしてくれる。
この大らかな優しさが嬉しい、けれど光一の望みに応えられない罪悪感が痛い。

…ごめんなさい、光一。あなたが大好き、でも、どうしても…心から一緒に眠りたいのは、英二だけ、

これが自分の正直な今の想い、求める想いに嘘は吐けない。
ほんとうに光一も大切な存在。けれど英二は片時も離れたくなくて、この心の半身のよう。
この今も、英二の顔に視線を戻せばどうしても、この眠る顔が愛しいと想ってしまう。
愛しい想いと一緒に英二の掌をとると、やわらかく両掌にくるみこんだ。
握りしめる掌は熱の気配がいくぶん減っている。掌から伝わる回復が嬉しい、英二の掌に頬寄せて周太は笑いかけた。

「すこし、熱が下がったかな?…がんばって、帰ってきてね?待ってるから…」

ひたむきと愛しさに笑いかけた寝顔のむこう、窓に白く雪が凍っていた。
凍れる窓には美しい雪の結晶が、夜沈むガラスから白銀にうかびあがっている。
きれいだな?六花の結晶に笑いかけて、周太は雪の夜に愛するひとを見つめた。

ふっと目を覚ましたのは、英二のベッドにうつ伏せる眠りからだった。
英二の掌を握りしめたままで、白いリネンに頬埋めて周太は眠り込んだらしい。
静かに身を起こすと、窓からは暁の光がゆるやかに射し込み始めている。
明けたばかりの陽光に微笑んで、周太は英二の顔を覗きこんだ。

…熱、下がったかな?

なめらかな頬は普段の白皙を取り戻している。
呼吸も今は、穏やかな眠りの規則正しさに安らいでいく。
気持ちよさそうな眠りの様子が嬉しい、微笑んで周太は静かに顔を近寄せた。
寄せた口許に、おだやかな吐息がふれてくれる。

英二、帰ってきて?

祈りの想いにそっと、周太はキスをした。
ふれるだけの穏かに優しいキス、けれど温もりの幸せが愛おしい。
こうして温かなキスが出来る。そんな細やかでも優しい幸せに、きれいに笑って周太は静かに離れた。
そして見つめた想いの真ん中で、華やかに濃い睫がゆっくりと披きだした。

「…あ、」

目を覚ましてくれるの?
祈りに見守るなか、きれいな切長い目が瞠かれて周太に微笑んだ。

「周太?…おはよう、俺の花嫁さん、」

帰ってきてくれた。
開いてくれた瞳と、きれいな低い声が嬉しい。
嬉しいままに周太は、心から言いたかった言葉を愛するひとに贈った。

「おはよう、英二?帰ってきてくれて、ありがとう…愛してるよ?」

きれいな笑顔に愛するひとを見つめて、幸せな涙ひとつ零した。


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