Of thine only worthy blood 血統よりも
英二24歳3月
第84話 整音 act.26-side story「陽はまた昇る」
ふっと頬なでる風、冷たいくせ甘い。
「桜がもう咲きますね、」
仰いだ夜の庭、頭上の梢を月が照る。
蕾やわらぐ三月の夜、春浅い風に客人が微笑んだ。
「そうだな、でも宮田くんはコート着ないで寒くないのか?」
「これくらいならマフラーで、」
答えた先、コート姿の笑顔が目を細める。
艶やかに飛石あかるむ月の庭、帰る客人へ頭を下げた。
「輪倉さん、今夜はありがとうございました、」
頭ゆっくり下げて光がうつる。
苔石やわらかな光沢の庭、穏やかな声が言った。
「礼を言うのはこちらだ。宮田くん、ほんとうにありがとう、」
半白の頭きちんと下げてくる。
その立場と年齢に、自身わきまえて笑った。
「輪倉さんに頭を下げられたら困ります、立場を大切にしてください、」
三年目ノンキャリアの警察官、それが自分だ。
それなのに頭下げる官僚は口もとの陰翳やわらげた。
「同じ山ヤ仲間として頭を下げたいんだ、さっき宮田くん言ってくれたろう?同じ山ヤ仲間として隣に座るって、」
凛と冴えた月光、静かな声は低く澄む。
スーツ姿は銀色うつる髪かきあげて瞳そっと笑った。
「でも土下座なんか君には必要なかったはずだ、堀内検事長は宮田次長検事の書生だったそうだね?」
静かな微笑に声低く透る。
しんと佇んだ静謐の庭、穏やかな声は続けた。
「堀内さんは温厚で誠実だと有名だよ、恩人の孫を土下座させたりしない人だ。そういう君が私と座ってくれたから、私は卑屈にならず済んだ、」
わかっている。
そんなトーン響く苔の庭で英二は微笑んだ。
「輪倉さん、最高峰はどうでしょう?」
「うん?」
問いかけ向けてくる目は皺の陰翳あわい。
月光やわらかな玄関先、この先へ笑いかけた。
「冤罪の方は裁判所が破棄にすると思います。でも渡部さんは逮捕・監禁罪が事実な以上、保釈されても登山はルートが限られると思います、」
いわゆる逃走や隠匿の危険がないと認められるとき、保釈は許可される。
そうした事情の発言に客人も小さく笑った。
「そうか、富士山なら逃げも隠れもできないな?」
「はい、それに最高峰です、」
うなずいて去年の冬が映りだす。
『ほら宮田、日本一の最高に気持ちイイことの初体験、ちゃんと感じてる?』
からり笑った色白の友人、あの瞳はサングラス越しにも明るかった。
あの初登頂どれだけ幸福だったのか?いまさらの感懐と微笑んだ。
「富士山の登頂はこの国で誰より高い所にいるってことです。エベレストよりは低いですが、自分の生まれた国の最高峰は特別に想えます、」
あの高みへ、もう一度あんなふうに立てるだろうか?
『ピッケルを雪面に立てろ、風が来るぞ!』
豪風、氷の礫それから雪崩。
押しよせた白い風、籠められる視界、切り裂いてゆく冷気の刃。
斬られた傷は頬に名残る、普段は見えなくても火照れば浮びだす。
そうして想いだしてしまう、あの白魔に叫んだ零の視界。
『俺は絶対に飛ばされない、支えきってやる!絶対に一緒に帰るんだっ!』
地響き登山靴の底を湧きあがる、アイゼンのブレード震わせ山が叫びだす。
ホワイトアウト吼える轟音、激しい風圧、叩きつける雪と氷、圧縮された空気の塊その重み。
氷割れる音、奔らす雪音、高らかに昇る山の咆哮、刺される冷厳、全身ゆさぶる鳴動それから風圧。
冬の富士を「魔の山」と呼ぶ、その咆哮に揺すられた肚底から笑った。
「雪の富士は生き直すには良い場所だと思うんです、輪倉さんは他に候補の山ありますか?」
「いいや、現実的な問題からいっても一択だろう、」
うなずいてコート姿ゆっくり歩きだす。
苔やわらかな月の庭、芽ぶきの梢に穏やかな声が言った。
「生き直すには良い場所か、あの二人にはすこし酷かもしれない言葉だ、」
しずかに響く声、雪の病室が映りこむ。
数日前に聞いた事実、そのままを輪倉はなぞった。
「余命一年の時間を冤罪で潰されたんだ、残り少ない命に生き直すほどの時間はあるだろうか?だからザイルパートナーの渡部は焦って罪を犯した、」
生き直す、それは残酷かもしれない言葉。
確かにそうだろう、あの二人には残酷に響くかもしれない。
それでも願いたい想い声にした。
「そうですね、だけど余命一年だからこそ生き直す時だと俺は想います。明日がわからないからこそ、」
明日なんてわからない。
何度そう想ったろう、この自分こそ幾度も何度も。
だからこそ見つめる願いに笑いかけた。
「輪倉さん、俺も明日がわからないんですよ?警察官としても山岳救助隊としても、」
危険にこそ立つ、それが自分の立場だ。
そこに選んだ今をそのまま笑った。
「明日がわからないから今を後悔したくありません、最期の一瞬に幸せだったと笑いたいから今すぐ生き直すんです、」
だからこそ自分は自分を生きられる。
そうして選んだ道の途次、初老の微笑しずかに言った。
「そうだったな、そうか…私よりずっと二人の気持ちが解かるだろうな、君は、」
月の光やわらかな庭、花の匂いかすかに甘い。
春また近づいてゆく夜の底、英二はきれいに笑った。
「輪倉さんも同じ山ヤです、そうでしょう?」
山、そのひとつに繋がれる。
そこに見る夢のまま穏やかな瞳が笑った。
「そうか、ありがとう、」
陰翳あわい目もと一滴、光かすかに翻る。
この瞳どれだけ何を見たのだろう、そんな時間たち見つめて微笑んだ。
「こちらこそ今夜はありがとうございました、」
(to be continued)
【引用詩文:John Donne「HOLY SONNETS:DIVINE MEDITATIONS】
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