風の行方に、
英二24歳4月
第86話 花残 act.16 side story「陽はまた昇る」
書架つらなる香、かすかに渋く甘く懐かしい。
この空気どこか、君の家。
「いらっしゃいませ、」
書店員にこやかな声に会釈ほほ笑んで、薄化粧の瞳かすかに羞む。
こんな視線も前は愉しんでいた、そんな過去に英二はエスカレーター進んだ。
―ちやほやされるゲームだったな、2年前の俺にとって、
心裡ひとりごと、まだ近い過去に懐かしい。
全てが「ゲーム」ただ遊んだ、いつも誰も通りすがりだった。
”きれいな人形。虚栄心を満たす道具、都合よく使える便利な存在、”
それが自分、そんなふう見られていれば楽だと思いこんだ。
だって本音で生きることは自分には難しかった、直情的すぎて、率直にしか言えない自分だから。
“そんなの、どうでもいいよ?”
どうでもいい、そんな言葉ひとつ拒絶される。
いつも人は自分の外見だけで近づいて、そしてギャップに失望させる。
こんな自分を誰も受けとめない、その孤独が苦しくて、だから仮面をつくった。
―ずっと要領よく生きようって思ってたな、俺はそれで良いって、
ことん、ことん、昇るエスカレーターに時がたどる。
こんなふう書店に通う自分で、けれど「要領よく」周りには見せなかった。
―あの大学で読書好きなんて言えなかったな、小難しいヤツってめんどくさがられそうでさ?
ただ綺麗、それ相応に優しくてお洒落で、なんでも都合よく合わせてくれる男。
難しいことなんか言わない、ただ楽しいことしか言わない、気楽で、ただ綺麗な男。
そんなふうにしていれば誰かにいつも囲まれて、ただ何も考えず、ただ愉しめばよかった。
けれど底にあるのは「全てが他人事だから関係ない」そんな無感覚の無責任で、気づいたときには冷酷な自分がいた。
―俺には勉強するための場所じゃなかったな、ただ嫌なヤツになっただけ…司法試験は受かっても、
嫌なヤツになった、でも割り切ってしまえば楽だった。
だって何も感じなければ良い、無感覚なら痛みも無い、それも当り前だと今なら解る。
だって母に「強制」された大学だった、そして「きれいな人形」であることを望んだのも母だ。
『人に迷惑さえ掛けなければ良いの、』
そんなふう母はよく言った。
それは息子を否定しない言葉に見えて、けれど本当は違う。
「…母さんが“正しい”基準なんだもんな?」
ひとりごと零れた唇ほろ苦い、あの母の「基準」どれだけ自分を歪めたろう?
そんなふうに思ってしまうほど「迷惑さえ」の意味は強制的で「きれいな人形」でしかなかった。
そうじゃなかったらなぜ、どうして、自分の意志は無視されて、あの大学へ内部進学が決まってしまったのだろう?
―お祖父さんが亡くなってから余計に酷くなったんだよな、母さんの人形計画はさ?
父方の祖父はいつも、母の自己中心的な考えを諫めてくれた。
だから祖父と同じ道を選びたくて同じ大学を選んで、けれど高校2年の冬に祖父は亡くなった。
―もし、お祖父さんが生きていたら京大に行けたろうな。実家から離れて、自由で、
本当は祖父と父の母校に進みたかった、けれど母に受験自体を潰された。
そんな扱いは「子ども」じゃない、ただ「きれいな人形」道具でしかない、そして自分は仮面をつくった。
―でも本屋だけは来てたんだよな、ひとりでいつも、
ことん、エスカレーター降りて本が香る。
かすかな渋い甘い懐かしい匂い、この空気にひとり素のまま寛いだ。
それ以外はただ「きれいな人形」だった自分、そしてまだ「山」を知らなかった自分。
けれど君に出逢った。
『気が済むまで、ここに居ていいから…いいから、泣けよ、』
騙されて裏切られた、その痛みごと抱きしめてくれた。
自分より小さな体で、けれど深く温かだった君のふところ。
―オレンジの匂いがしたな…本の匂いと、
あまい爽やかな香、あれは「はちみつオレンジのど飴」いつも君が含んでいた。
それから懐かしい温かな香、かすかな本の匂い、たぶんきっと君の家の書斎の香。
―昨日付で警察を辞めたんだよな、周太…いまごろ書斎にいる?
ほら君をたどりだす、思いだす、想いだす。
この書店の香に君が映る、クセっ毛やわらかな黒髪と真摯な眼ざし。
あの黒目がちの瞳に本が映る、まっすぐ澄んで逸らさない君の視線。
「…あいたいな、」
唇こぼれる、逢いたい。
『無言でいても居心地の良い、そういう相手なんだ、』
ほら記憶たどりだす、あの朝、母に告げた言葉。
あの夜に君へ想いを告げた、その翌朝に自分が意志こめた聲。
『あいつの笑顔のために何かしたい、生きていてよかったと思えたんだ、』
母に敲かれた頬のまま、自分は笑って言った。
あんなふうに本音を母へ告げたのは、初めてだった。
『初めて、誰かのために、何かしたいと、出来るかもしれないって思えたんだ、』
初めてだった、あの想いは。
誰にも何にも強制されたんじゃない、ただ自分の底から迸った。
この鼓動ふくらんで熱はらんで、響いて、奔りだす願い迷わなかった。
「お客様?どうされましたか、」
かけられた声に振りむいて、制服のエプロン姿が自分を見あげる。
まだ30歳くらい、けれど肩書ある名札した女性に尋ねた。
「いえ、なんでしょうか?」
なぜ声かけられたのだろう?
不思議で見つめた真中、書店員はまとめ髪すこし傾げた。
「あの、泣いてらっしゃるので…おかげんお悪いのかと、」
困ったような戸惑うような眼で教えてくれる。
その言葉に目元ふれて、指さき一滴に微笑んだ。
「コンタクトがずれたんです、ご心配かけてすみません、」
嘘だ、コンタクトレンズなどしていない。
それでも綺麗に笑いかけた先、彼女は一息ほっと微笑んだ。
「そうでしたか、よろしかったらお手洗いでコンタクト洗われてくださいね?あちらの角の向こうです、」
「ありがとうございます、」
礼と笑いかけて、書店員も微笑んで踵を返す。
遠ざかる足音に背を向けて、また見つめた書架へ手を伸ばした。
※校正中
(to be continued)
七機=警視庁第七機動隊・山岳救助レンジャー部隊の所属部隊
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