萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第59話 初嵐 side K2 act.5

2013-01-22 23:45:48 | side K2
「知」 過去、未来、繋がらす今に



第59話 初嵐 side K2 act.5

もう寮の自室は、素っ気ない。

卒業配置から住んだ青梅署単身寮は今、初めて入寮した時と同じ姿で佇む。
この4年半に壁は山の写真が並び、デスクの書架には本とテキストが満員だった。
抽斗には登山図を整理して充たし、デジタル一眼レフとレンズは鍵付に保管さす。
机上へ据えたノートパソコンは山のデータと写真、それから秘匿のファイルたち。
それら全ては今、トランクに納められるか御岳の実家へと戻されてある。

もう部屋には登山ザックとトランクと、スーツ一式しか置いていない。

「4年半がスッキリしちゃったね?」

からり笑ってデスクライトを点け、座りこむ。
湯上りに熱るシャツへ風を入れながら、狭い空間を眺め渡す。
どこか空洞のよう静かな部屋、けれど記憶がたくさん見えてしまう。

初めて山岳救助隊員として現場を駈けた日は、故郷の山を警察官として立つ感慨があった。
初めて行政見分をした後は食事が摂れず、3日ほどアーモンドチョコレートの味で過ごした。
遭難遺体の残像に吐いたこともある、凍死体を見た日は抉られた記憶にここで独り泣いた。
けれど救助の礼状や仲間の笑顔、そして「山」を護れる誇りに今日まで現場に立てた。
なによりも雅樹の遺志に少しでも添いたくて、泣いても吐いても逃げたくなかった。

「そういうの、英二が来てから楽になったよね…やっぱデカいね、」

ひとりごと笑った部屋、いつもより静かに響いて消える。

槍ヶ岳を英二と超えた3月、石尾根の雪中に凍死体を収容した。
あのとき雅樹と両親のフラッシュバックを起こしかけて、けれど英二のお蔭で無事に業務を終えた。
そして帰寮したこの部屋で独りになった時、マナスルと北鎌尾根の雪が石尾根に重なって涙あふれた。
けれど英二の部屋で藤岡も一緒に飲んで笑えた、それから英二のベッドで眠った目覚めは爽やかだった。

「あのときが最初だったよ、英二…おまえは知らないだろうけどね、」

あの夜、本当はなかなか寝つけなかった。

眠れないまま英二の寝息を聴いて、独り歌っていた。
開け放したカーテンの窓に夜空を見つめ、星ふる記憶に想い歌に変えていく。
そんな時を過ごした果に、ふと見た隣の唇へと記憶が重なって、そのままに唇を重ねていた。
それが英二と自分の、初めてのキスだった。

―雅樹さんに見えたんだ、あのときの寝顔が…だからキスしたかった、ね、

星と雪の灯に浮んだ白皙は、愛する永眠の微笑と同じだった。
あの秋の記憶が惹きこんだままキスをした、そしてふれた香に現実が微笑んだ。
いま隣に眠る男は誰なのか?そう吐息から知らされた瞬間なにか落着いて、そのまま眠りに墜ちこんだ。
英二のキスが導いた眠りは深く温かで、森の香と体温に包まれ迎えた朝は明るく穏やかだった。

―英二が一緒だったから俺は、雅樹さんのこと受け留められたね…オヤジとおふくろのことも、

なにより愛する「山」は、大切な人たちを永遠に眠らせた。
だから尚更に「山」が大切になって、自分の世界は山が全てになっていった。
そんな自分と同じ歩調の相手がいたらアンザイレンパートナーになれる、そう願いながら不可能とも思っていた。
けれど英二がここに来てくれた、この青梅警察署に赴任して同じ寮で生活する日々に信頼と想いは深く鮮やいだ。
同僚から友達になって、親友と呼びあいアンザイレンパートナーになり『血の契』を交わし、北壁の夜を抱きあった。

「…今夜行ったらどうするんだろね、英二は」

夜の静謐に独り言こぼれて、笑ってしまう。
もう恋人の夜を過ごしてしまったパートナーは、今夜ベッドに行けば求めてくる?
それとも前と同じように寛いで、温もりに寄添う眠りへと微睡めるだろうか?

―今夜の後はもう1ヶ月は独りだね、そして最期かもしれない、

もう今夜が最後かもしれない、ここは山岳レスキューの最前線だから。
この場所で山ヤの警察官として立つ以上「明日」なんて解からない、この1秒後すら解からない。
もしかしたら遭難救助の現場で落命するかもしれない、それは殉職という意味より自分には、雅樹と同じ道に逝ける喜びでいる。
その覚悟と喜びに4年半をここで過ごした、この想い微笑んでライトを消して立ち上がり、部屋の扉を開いた。

かちり、

施錠の音が響いた深夜、廊下は静まり返っている。
ゆっくり歩きだす足許かすかに音が起き、その先に扉の下から光が射す。
あの光は眠りにまだない標、あの部屋の主は起きて自分を待ってくれている?

―英二、おまえも今夜が最期かもしれないって、想ってる?

心に問いかけ扉の前に立ち、けれどドアノブに触れない。
いつもなら針金一本で勝手に開錠して入る、でも今夜は躊躇われてしまう。
もう友人の間垣を超えてしまった現実が今、かすかな怯えになって扉を自分で開けられない。
こんなふう自分が怖がるなんて他にないのに?この初めての逡巡に笑って静かにノックした。

コン、コン…

ノックの音に、鼓動が叩かれる。
この音が導く夜はどちらだろう?そう問いかけが心を強張らせ、けれど挑みたい。
ずっと16年間を逸らせ続けた視界を今夜、真直ぐ向きあうためには英二の援けがほしい。
そんな想い佇んだ5秒間、静かな開錠音に扉は開いて笑顔は現れた。

「どうぞ、光一、」

デスクライトを背にした笑顔に、記憶が涙する。
やっぱり似ている笑顔、どうしてと想うほど俤を探す自分が疎ましい。
こんな往生際の悪い自分に微笑んで踏み出し、静かに部屋へ入った背で扉を閉じる。
けれど施錠出来ないまま立ち竦んだ視界、綺麗な笑顔ふり向いて尋ねてくれた。

「光一?どうして今、自分で開けなかったんだ?いつも勝手に開けて入ってくるのに、」

そんなこと、察して解ってよ?

そう想ってすぐ気がつかされる、この男は雅樹じゃない。
雅樹なら察してくれたことも他人には解らない、この当たり前に今更気づいて困ってしまう。
こんなにも自分は「現実」を認めたがらず心を背けていた、その16年間に微笑んで答えた。

「前と今は違うよね、だから、」

だからベッドに座って良いのか解らない、もう親友だけじゃない今だから。
いつも指定席だった英二のベッド、あの場所に今の自分が座れば何を意味させる?
それが怖くて座れない、今夜の時間が友人なのか?恋人なのか?どちらを英二は選ぶだろう。
この選択を委ねきれないまま立ち竦んだ向こう、ザイルパートナーは微笑んで手を伸ばし、扉に施錠した。

カチリ、

ちいさな音が星明りの部屋に鳴り、静寂が小さく息を呑む。
もう扉は鍵を掛けられた、もう退路を断たれた感覚に怯えが肩ふるわせだす。
この閉じた扉の意味は何?その答え探して見つめた切長い目は、穏やかに笑ってくれた。

「そんなに怯えなくて良いよ、光一?光一が嫌なら俺、無理なことはしないから。ただ一緒に寝たいだけなんだろ?」

受けとめてくれた、解ってくれた。

ほっと溜息こぼれ微笑んでしまう、この男を信じたことは間違いじゃない。
信頼が受けとめられる幸せを英二に見つめながら、ベッドに腰を下ろすと光一は微笑んだ。

「ありがとね、俺の甘えん坊を察してくれてさ、」
「やっぱり甘えに来たんだ、どうぞ?」

綺麗な低い声が笑いながら隣に腰をおろしてくれる、この優しさが好きだ。
天使と魔王の両面を持つ英二、けれど2つとも優しい姿なのだと自分は知っている。
それは山の二面性とよく似ている、だから英二の香は森と似ているのだろうか?

―英二の優しさって、雅樹さんと似ているけど全然違うんだよね。雰囲気は似てるのに中身は違いすぎる、

独りごと想いながら笑いかけた先、切長い目がゆらいだ。
切ない、そう瞳が微笑んだ瞬間、長い腕が伸ばされて体温に抱きしめられた。

「…っ、」

心臓が掴まれる、その痛みに温もりふれていく。
この抱擁が伝える熱は優しさと愛惜、それから共鳴する鼓動。
そして気づかされる、なぜ自分が今この男と時間を過ごしたかったのか?

―不安だったんだね、俺…明日からの全部に不安で、縋りたいんだね?

踏み出していく明日は「組織の幹部」未知の世界で自分は指揮官の義務と権利に立つ。
その意味を自分は知っている、指揮官としてトップに立つのは孤独との共存だ。

―明日からは独りだね、知らない場所で独りになるんだ、ずっと一緒だった山も森も無い世界で、

明日からは、故郷を離れてしまう。
雅樹と見た風景から遠ざかる、森から山から離れて暮らす。
警察学校のときのよう期限付きじゃない、明日ここを発てば帰る日は解からない。
ようやく逢えた雅樹の墓からも離れていく、それでも心だけは傍に居ると信じて踏み出すしかない。
そう覚悟している、けれど肩ふるえて唯一のパートナーに縋りつく、いま温もりで抱きとめてくれるなら援けをねだりたい。

どうか縋らせてほしい、1ヶ月を超えたら「山」を映す男が来てくれると期待させて?

優しさも冷酷も大きく深い、山のような男に縋りたい。
いま抱きしめてくれる肩すら森の香をくれる、この男が居たら山は自分の傍にある。
最高峰の夢駈ける約束の男、逝ってしまった俤すら映す男、この男に泣きたいほど期待したい。
この男が共に世界を生きるなら、自分は孤独も笑って生きられる。この願いに綺麗な低い声は静かに微笑んだ。

「光一、1ヶ月経ったら俺も行くから。ちゃんと元気で笑ってろよ、電話も毎日するから俺には愚痴れ、いいな?」

1ヶ月経ったら来てくれる、そう約束してくれる?
告げるトーンの穏かな静謐に頬よせる、ふれる肌は静かに息づき微笑む。
ふれあわす頬は穏やかな動きに微笑んだまま、この心へと約束を響かせた。

「いつでも良い、話したくなったら電話しろよ?留守電とか着信履歴で必ず折り返すから、遠慮なく電話してこい。俺には何でも話せ、
貯め込むな。俺は光一のビレイヤーなんだ、おまえのセカンドでブレーキで、ブレインになるのが俺の役割りだろ?絶対に遠慮するな、いいな?」

抱きしめ言い聞かせてくれる、その温もりに祈り伝わらす。
この自分の孤独も寂寥も解かってくれている、その全てを話して分けろと言ってくれる。
この言葉を信じても良いのだろうか、そう見つめた先で切長い目は願うよう笑ってくれた。

「いいな、光一?俺を頼れ、俺に甘えろ、それが光一と俺が一緒に居る意味だろ?ちゃんと話せよ、いいな?」

どうか自分にだけは頼ってほしい、甘えて必要だと言ってほしい。
そんな願いを告げてくれる眼差しは、深く賢明な熱に自分を映す。
この言葉を信じても赦される?この言葉を雅樹も共に聴いている?
そんな問いかけごと微笑んで、生きたパートナーへと素直に頷いた。

「うん…ありがと、ね、」

微笑んだ唇に、深い森の香が温かい。
山は遠い都心、高級住宅街に生まれ育った英二。それなのに森の気配を纏っている。
ずっと山の世界を知らず生きてきた男、けれど山に生き続けた雅樹の俤と意志を抱いて今、ここに自分を抱いて微笑む。

―ね、雅樹さん、英二と雅樹さんってどういう関係があるんだろね…

出逢った瞬間から10ヶ月間、この問いは時経るごと深くなる。
英二と周太は血縁関係がある、だから周太の父と英二がどこか似ていることは当然だろう。
けれど、それ以上に英二は血縁が無い雅樹と、誰もが見間違うほど似ている。

なぜ?

疑問の答はわからない、ただ温もりと香を現実の鼓動に見つめている。
その視線に端正な唇が笑ってくれる、その吐息に常と違う香を感じて光一は尋ねた。

「おまえ、煙草の匂いするね?」
「うん、さっき後藤さんと一本だけ吸ったんだ、」

正直に告白して笑う、その言葉に切長い瞳を覗いてしまう。
美しい瞳に鎮まる冷酷の翳、それが前より穏やかな笑みで見つめ返してくれる。
この気配は後藤の温もりの欠片だろう、そう看取れた喜び愉快に微笑んで白皙の額を小突いた。

「後藤のおじさんと富士の約束、してくれたんだね?ありがとね、」

最高峰へ後藤が見つめる、叶わぬ夢への想い。
けれど英二なら叶えられる、もう諦めていた夢でも英二だけは後藤の現実に出来る。
そう自分は信じている、きっと後藤も信じたから共に煙草を吸い、富士へ登る約束をした。
この約束をきっと叶えてくれる、そう笑いかけた先でアンザイレンパートナーの貌は幸せな笑顔ほころんだ。

「こっちこそありがとな、俺がしたかったこと気付かせてくれてさ。これからも色々言ってくれな?」

笑って率直な気持ちを示してくれる、その笑顔が温かい。
こんなふう後藤なら英二の冷酷すら癒せる、そして英二は後藤の傷も塞ぐだろう。
それが嬉しくて笑ったまま抱き寄せられて、ベッドに横たわり懐に温められる。
その懐からまた森の香あらわれて、静かな山の気配が包んでいく。

―山が運命の男なんだね、英二も、

自分は奥多摩の山に生まれ、雅樹も同じよう森で生まれた。
そんな自分たちは「山」に全てを見つめ、お互いに世界の全てを懸けて想い合う。
それと同じよう英二も山に生まれたのだろう、たとえ都会のコンクリートに誕生しても山に運命は生を受けた。
この同じがあるから今この瞬間も抱きえる、明日からの1ヶ月に約束ごと体温で温め合える。
そんな温もりに寛いでいく信頼に願いを見つけて、隣の切長い目にねだった。

「あのさ、ちょっと屋上に行かない?おまえが煙草吸ってるトコ、俺にも見せてよ?」

雅樹は煙草を一切、吸わなかった。
だから英二の喫煙する姿を見てみたい、そして別人だと視界と香に認めたい。
もう生き返らないのだと今、自分に言い聞かせたい。この願い笑いかけた先で端正な貌は微笑んだ。

「いいよ、」

笑って起きあがり、財布と携帯電話を手にしてくれる。
その首筋から黒い革紐が覗いて解ってしまう、この男は「英二」だ。

―あの革紐は合鍵のだね、周太との家に帰るためのさ、

いつも肌身離さずに、英二は家の合鍵を抱いている。
あの鍵は周太の父である馨の遺品だと前に話してくれた、そんな想いごと英二は鍵を大切にしている。
この革紐にまた確認して現実が笑う、雅樹の体は雪と炎にこの世から消えた、今隣にいるのは別人で山に生きる男だ。

―もう雅樹さんは生き帰らない、ドリアードにも不可能なんだ…もう周太に願ったら、ダメだ

明日からは、周太と同じ寮で暮らすことになる。
明日からの1ヶ月は傍で過ごす時間が多いだろう、そのとき困らせたくない。
もう山桜の化身に縋ったらいけない、ただ護る約束だけを見つめながら傍にいたい。
それを言い聞かせたくて今、英二と雅樹は別人なのだと自分に知らせたくて、喫煙する姿を見たい。

「光一、自販機に寄らせて?」

綺麗な低い声に呼ばれて、意識が戻される。
この声も雅樹とは違う、そう認めながら光一は笑いかけた。

「コンビニじゃなくって良いワケ?ライターも無いだろ、」
「ライターはあるんだ、」

ちょっと羞んだよう笑って、長い指が抽斗を開く。
白皙の指に黒銀きらめいて、デスクライトを消すと英二は扉を開いた。

かたん…かちり、

施錠が響いて、足音を隠し歩きだす。
夜に鎮まる廊下は非常灯が碧い、ふたり並んで歩く足元は水底のよう光る。
こんなふう一緒に何度もう歩いたろう?その記憶を辿りながら自販機に着くと、英二は硬貨を入れた。
その長い指は迷わずボタンを押す、がたりと箱の落ちる音に見た銘柄は度数が高い。
これくらいは煙草を吸わなくても意味が解る、そっと笑い隣のこめかみを小突いた。

「コレってキツイやつだろ?おまえ、結構なヘビースモーカーだったね?」
「うん、3年間だけな、」

正直に笑って箱を取り、長身は階段へと歩きだす。
隣を歩きながら呼吸した空気かすかに甘く苦い、この香は英二のキスにもある。
森と似た香にも幽かに漂う苦さと甘さ、その正体が今、隣を歩く白皙の掌にある。

―煙草の名残だったんだね、英二の匂いが苦くって甘いのってさ、

雅樹のキスは穏やかに甘く香って、山桜の吐息だった。
あの香との違いに別人なのだと確かめてきた、それが喫煙なのだと納得できる。
どこか退廃的な空気が英二にはある、その陰翳が華になって人を魅了させてしまう。
この空気感を醸す香の根源が、雅樹には皆無の習慣だった。そんな現実に微笑んだ前に扉が開いた。

「星が多いな、」

綺麗な低い声に、ふっと山風が吹きこみ頬なでる。
ゆるやかな風に外へ連れられ視界が披く、その夜に銀砂が大らかに空を駈ける。
雄渾な青藍ひろがらす天の大河は白銀きらめいて、吹雪のよう天球を光に充たす。
星ふる川に愛しい記憶が映っていく、その想い綺麗に笑って光一は柵に凭れた。

「天の川だね、今夜はイイ感じだよ、」
「こんなに見えるんだな。俺、初めてだよ?」

愉しそうに低い声が笑って、紙箱を開く。
慣れたふう一本取りだし唇に咥え、ケースを仕舞ったポケットから黒銀が現れる。
軽やかな金属音が空に鳴り、闇へ生まれた朱と青の火を白い手が囲み、煙草は熱を灯す。
紫煙ゆるく昇らす咥え煙草の横顔は睫濃やかな翳に微笑んで、長い指しなやかにジッポライターを閉じる。
そんな動きもひとつずつ美しくて見惚れてしまう。

―綺麗だね、これが英二なんだ…煙草がサマになる男なんだね、雅樹さんと違って、

洗い髪を夜風に遊ばす横顔、広やかな肩にカットソーの白が闇へ華やぐ。
端麗な唇に咥えこんだ煙草くゆらす苦く甘い香は、その陰翳きらめく眼差しと似合う。
こんな全てが雅樹とは違う、あの透けるよう明るい大らかさは今、目の前に佇む男には無い。

―雅樹さん、もう雅樹さんの体には逢えないね?もう墓の下の骨だけなんだね…16年前に俺が拾ったあの骨は雅樹さんなんだね?

16年前の晩秋、白い布団で棺で見つめた美しい最期の微笑。
そして火葬場で拾いあげた熱を名残らす、あわい紅ふくんだ白い骨。
あの全ては雅樹のなきがらだった、そう認識が目の前の光景から目を覚ます。
16年背けた現実が瞳を滲ませ頬を濡らす、その涙に頬にそっと山風ふれて夜へ駈けていく。
ふれた風の香に微笑んで、静かに涙を指に拭い呼吸ひとつして、紫煙も美しい横顔に笑いかけた。

「馴れてるってカンジだね、おまえ。映画のワンシーンみたいだよ、」

笑いかけた向こう、星映す瞳ゆっくり一つ瞬いた。
その端正な眼差しこちら向けて、ふっと白皙の貌やわらかに微笑んだ。

―あ、表情が変わったね?

やわらかな微笑、その温度が前と違う。
ほんの数時間前はこんな貌を英二はしなかった、この変化に英二の心が解かる。
きっと後藤が英二を変えた、そんな確信の真中で長い指しなやかに煙草をはさむ。
艶深いしぐさに煙草を離した唇、吐息に紫煙くゆらせ綺麗な低い声が笑った。

「同じこと後藤さんにも言われたんだ、俺。煙草がサマになるってさ、なんか嬉しそうに笑ってくれたよ?」

そう笑った顔は、今までにない温もりが灯される。
この温度は今出た名前の主と似ているな?そんな共通点が嬉しくて笑いかけた。

「俺と同じコト、おじさんも思ったんだね。で、煙草でナニ語りあったワケ?」
「夏富士の約束だよ、その前は奥さんの話をしてくれた。すごく良い純愛小説って感じでさ、聴いてて俺も幸せだったよ、」

煙草の香と話してくれる、その笑顔が深く温かい。
こんな表情から解る、きっと英二と後藤は煙草をはさんで良い時間を過ごせた。
ふたりは血縁も無い、けれど「山」に繋がれた父と息子になっていく、そんな未来が英二の笑顔に見える。

―山にオヤジと息子がほしいんだ、二人とも。だから大丈夫だね、お互いに夢を叶えられるね、

きっと英二は1ヶ月間、自分の不在を後藤との富士登山で埋められる。
そして後藤も光一が去った空間を、山の息子と叶える夢で温めてくれるだろう。
これが後藤への報いになってほしい、諦めたはずの夢こそ叶えて笑ってほしい。

―後藤のおじさんが俺を大事にしてくれるのは、雅樹さんもオヤジたちも大切な友達って今も想ってくれるからだね…感謝してるよ?

この自分を友人の遺児だと護り、早逝した天才のザイルパートナーと認めて期待し、トップクライマーに育ててくれる。
雅樹が逝き、両親まで喪った自分の孤独に「山」の人生を示してくれた、あの大きな背中こそ幸せになってほしい。
もう唯一人しか生き残っていない自分とザイルを組んだ山ヤ、その人に最高のアンザイレンで登る幸福を贈りたい。
この願い託したいアンザイレンパートナーへと、信頼のまま笑いかけ光一は約束をねだった。

「夏富士に登ったらね、後藤のおじさんと一本また吸ってきてよ?携帯灰皿も忘れずにさ、」
「あ、副隊長ってそういう習慣?」

すぐ気づいて笑ってくれる、この反射が話して楽だ。
気づいてくれたままに頷いて、想う通りを言葉に変えた。

「だよ?デカい山に登った時とかはね、必ず一本吸いたいんだってさ。たぶんソレもね、息子との夢なんじゃない?」
「そっか、」

相槌を打って長い指を口許へよせ、端正な唇が煙草を咥えこむ。
くゆらす紫煙が山風に靡いて夜へ昇らす、苦く甘い軌跡は白く天球へ融けていく。
空ふる星を切長い目は仰いで唇は煙草に閉じる、濡れた髪を風遊ばせ白皙の貌は動かない。
けれど星映す瞳は穏やかに笑ってくれる。その表情に願い届いたことを知って、光一は星に笑った。







(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へにほんブログ村

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第59話 初嵐 side K2 act.4 | トップ | 手紙補記:凍らす季節、睦月 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

side K2」カテゴリの最新記事